goo blog サービス終了のお知らせ 

A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

ヘルマン・ヘッセ著「車輪の下」

2008年01月12日 16時30分02秒 | 読書録
 これは、ヘッセ初期の作品である。彼はこの本が切欠で、いち早くドイツ文学界に陽光を当てた。あまり認められなかったリルケとは正反対である。しかし、ヘッセの人生をそのまま鏡に、映し出したような、この書は青春を思い浮かばせる。私も若い時分色々としてきたものだ。その中には、自殺衝動と殺人衝動が交錯する恐ろしい思春期危機があった。それをヘッセは巧みに描いている。ここに彼のすばらしさがある。主に非凡なものから天才にかけて、思春期に激しい葛藤を起こす。その時の戦慄間は忘れられない。世界すべてが、暗黒に包まれ、万物が自分に迫ってくるような気がする。そして、白闇の中を一人、手探りで歩いていかねばならないのである。
 では、早速この本の内容を説明しよう。まず、主人公は優等生として出てくる。彼は、天賦の才を持っており、それを教師たちに認められる。その後に、教師たちから、詰め込み教育が行われる。ここでだ。ここが問題だ。現代社会で行われている詰め込み教育の悪しき風潮がここで感じ取られる。彼は、一人、青春を喪失してしまった。その茫漠とした心境の中、彼は優秀な成績で神学校に入学する。そして、それからも彼は、勉強に没頭する。でも、彼には救いの道があった。それは、非凡な少年との出会いであった。学寮の中で、喧嘩や討論を繰り返すうちに主人公は、自己の存在価値を見出そうとし始める。それが切欠で、鬱積していた感情が爆発し、彼はとうとう神学校から逃亡してしまう。それから、彼は職を見つけるが、その慣れない仕事、親の不堪忍によって、絶望の淵に立たされてしまう。そして、仲間と酒をあおって、帰り道に池に落ちて、その青年はこの世を去った。
 これがだいたいの概要である。もし、子供を育てている人がいるならば、この本を読んで、しっかりと教育の意味を掴み取ってほしいものである。

キケロー「弁論集」

2008年01月11日 18時49分42秒 | 読書録
 この本は、主にカティリーナ弾劾についての資料である。どうやら、キケローがしゃべったことを誰かが速記したようである。所々に欠落した部分があるのは、残念だが、それでもキケローの雄弁さが分かる(彼が自分のことを雄弁家と述べたことはない)。それでも、彼の能力はすばらしい。犯罪に走っていた諸々の人を弾劾し、人民の心をいとも簡単に掌握してゆく。そこにはヒトラー以上の才覚が容易に見て取れる。否、ムッソリーニすら、足元に及ばないであろう。
 ところで、日本には修辞学はあるらしいが、弁論術はない。これは由々しき事態である。古代ギリシャ時代のように、互いの弁論を練磨し、相手の弁論能力を推し量る。まさに、これが現代には存在していないのである。
 さて、キケローの話に戻ろう。キケローは何よりも、私生活と公の場合の話し方を分けていた。これは、キケローの全書物を通観してみれば分かる。これがいかに重要かをお話しよう。まず、個人間の話し合いで公の場で話すように、話すとただ単に相手を威嚇するだけである。それは、強圧的で、客観的に見れば、単に横暴を
振るっているいるとしか見えない。その反対に、個人間での話し方を公の場で使ってはならない。なぜなら、民衆とは素朴な話し合いを公の場で使っている人に対して、猛烈に反発するからである。公の場で話す時には、いかにも圧政的で重圧感を加える話し方をしなければならない。所詮、弁論の意味とは、民衆を洗脳し、誘導することに目的がある訳だ。それが、良い方向にいくか、悪い方向にいくかは、指導者の思想如何に関わっている。

プラトン著「国家」

2008年01月10日 07時04分08秒 | 読書録
 この本は、原初時代に登場した一時の閃光であった。プラトンいわく「人間たちは、鎖につながれ、外に出ることを許されない。ある男が外に出て行って、陽光を見たと、皆に伝えると、彼らは首を横に振った。所詮、人間は他人の影を見るだけで、決して外の陽光を見ることができないのである。」。
 これがイデアの発端である。主に彼の著作のほとんどは、対話式で書かれていて、ソクラテスを引き合いに出す場合が多い。饗宴にしても、ソクラテスの弁明にしても、現実描写がしっかりとなされている。確かに、ソクラテスが書いた著作は残されていない。その代わり弟子のプラトンが書いた著作は多数残されている。私から言わせれば、紀元前に書かれたとは思えないほどの明晰な真理が多数残されている。だが、プラトンの弟子たちの意見はまちまちでプラトンは椅子にもイデアが存在したといっていたらしい。これはおかしなことだ。絶対普遍のイデアが、消え去る椅子に存在するはずはない。プラトン自身も明確にイデアの本性を捉えてなかったことが、弟子たちの意見からうかがえる。そして、中世に入るまで彼の真理は不可解なものとして扱われた。マルクス・アウレーリスは別として、プラントンの述べる「哲学者が政治の実権を握るべきだ」という意見は、実行されていない。彼の真意は、こうであったろう。「あらゆる学問を修めた哲学者が国王になれば、善政がしかれ、人々を啓蒙する。」と。
 さてはて、今の時代にそれを履行するほどの人物がいるのであろうか?いくら政治学を修めても、それは役に立たない。なぜなら、政治学とはソフィスト(詭弁者)のことであり、人心掌握を主な仕事とするからである。それに比べて、哲学者は徹頭徹尾、真理を求め、理想主義に堕さない。ジャン・ジャック・ルソーの理想論を掲げて、民衆を道徳に目覚めさせようとしたマクシミリアン・ロベス・ピエールは別問題として、本当の哲学者は現実主義者なのである。バークリーやアリストテレスは政治に関心がなかった。ショーペン・ハウアーもそうである。どうやら、文学者には野心を持った人々が多いようである。エミール・ゾラやサルトルも政治活動に積極的に参加している。サルトルは、第二次世界大戦の時に政治論文を書き、ナチスを非難した。これと同様のことをキケロも行っている。それは「キケロ弁論集」に出ている。私はここではっきり述べたい。プラトンは理想主義者ではなく、現実主義者であったということを。
 かくいう私も現実主義者である。クレッチュマーの「体格と性格」で言えば、循環型である。循環型とは自然科学者に多い。その反対に哲学者はやせている場合が多い。シェリング以来の哲学者はだいたいやせている。これは、分裂病気質を示している。分裂病気質とは、内向的、自閉的、理想主義的な人のことを言う。私はプラトンの多弁な性格から、彼を循環型と推測する。キケロも同じである。旅行好きで、方々を歩き回っている。
 私事になるが、私は第三の政治哲学者としての道を切り開きたいと思っている。皆様はどだいそんなことは、無理だろうと思われるであろう。だが、神々しいイエス・キリストのようなヴェールをはおえば、それは無理ではない。絶対的に不可侵な領域を作り、永遠の玉座を作る。圧制者たりゆえんに、私は支配者である。

ショーペンハウアー著「意志と表象としての世界」について

2008年01月09日 23時47分02秒 | 読書録
 まず、私がこの本と出会った経緯を話そう。十九歳の時、水戸の駅前の本屋でたまたま中公クラシックスの本を見ていた。ライプニッツの本を買おうかと、迷っていたが、彼のあまりにも神に寄りかかった姿勢を見て、買う気がうせた。そして、次に手に取ったのが「意志と表象としての世界」であった。私は、その真理の明瞭さを見抜き、興奮しながら、ホテルでその本を熟読した。私はその当時、哲学を始めたばかりでまったくの無知であった。しかし、ショーペン・ハウアーの本にはてらった箇所がない。そこに私は惹かれた。ヘーゲルや数学者への罵倒をのぞいて、私はその本に夢中になった。特に、世界は苦悩に満ちているなどの真理は激しく私の心を揺さぶった。
 表象としての世界では、主観が存在しなければ、客観は存在しないと言うことが重要視されていた。この解釈は、ユングの言葉を借りれば、内的直観タイプの特性である。さらには、概念の意味などを論じていた。これをフランスの神学者アルノーが見れば、さぞかし狼狽したことであろう。それほど、彼の論理的な考えは正鵠を得ているのである。これが、意志と表象としての世界第一巻のだいたいの概要である。
 次に、第二章では、意志について論じられている。意志を簡単に言うと、盲目的に生を求めるものである。盲目的に生を求めるとは、原初の未開人によく見られる。レヴィストロースの著作を読めば、意志についてのよりよい理解が得られるであろう。この章で彼はなんと、無機物にすら意志は存在すると言っているのである。これは、理解しにくいことかもしれない。この意味を最後まで理解できなかった哲学者、物理学者のボルツマンは形而下に意志をおき、これこれは実験で証明できると言っている。だが、彼の意見は的外れである。形而上学を真に理解すれば、石に意志が宿っていることが分かる。これは、スピノザの自由意志にも繋がる考えである。盲目的に動くものは何も生物だけではない。それはまさに無機物にも当てはまるのである。氷の結晶は、盲目的に働く。しかし、ここでショーペン・ハウアーは重大な誤りを犯した。それは、目的論を取り入れなかったことである。無機物の特徴は盲目性と目的論的な働きにある。これは、私がアンリ・ベルクソンの本を読んで、気づいたことである。ここまでが、一応の意志の概要である。
 第三巻では、芸術に触れている。もっともほとんどの大衆は下賤で、芸術の価値を分かっていない。盲目的な意志から、解脱する方法の一つに芸術が挙げられている。純粋主観、いわゆる天才にまでなれば、完全な意志からの解脱が行われる。けれども、それは長くは続かない。純粋主観になれるのは一時のことであり、それが永久に続く訳ではない。もう一つ、第三巻で重要な部分は叡知的性格と経験的性格の違いである。叡知的性格とはプラトンのイデアを基にして、構築されたもので、絶対的に普遍である。しかし、私は不思議に思う。ショーペンーハウアーがラマルクの考えを考慮に入れなかったことである。叡知的性格も変化する。そうしなければ、進化などありえないからである。この反対に経験的性格は現代の精神療法にぴったり当てはまる。患者自身に自分のことを分析するように促し、じょじょに叡知的性格を把握できるようになる。さらに、彼はまくしたてるように音楽はイデアそのものだといっている。音楽は、我々を別世界に誘い込み、恍惚とさせる。その韻やテンポが音楽の深みである。イデアそのものの世界に私たちを引きずり込み、快感にひたらせる。ショーペン・ハウアーが述べるに「音楽とは芸術の中でも最高峰のものである。」らしい。確かに、クラシック音楽を聞いていると、自分の居場所が分からなくなる。これこそが、実存を持たないイデアの性質なのである。
 第四巻では、主に倫理観が述べられている。私の頭にこびりついて、離れない名言がある。「哲学者は倫理は説くが、賢者になる必要はない。」と。ショーペン・ハウアーは徹頭徹尾、倫理を説く。それも、現実的な視点から説くから、たまったもんじゃない。世界の終焉や悪人が善人になると言う精神医学を先取りした意見を述べている。世界は苦悩に満ちている。それを看破するのは仏教であると彼は述べる。ストア派のような極端な禁欲主義は別として、仏教には救いの道があると述べている。涅槃にたどり着くために仏教徒たちは厳しい自己抑制をする。その悟りから、マーヤーのヴェールに包まれたこの世が見えてくるのである。これは、決して
自己犠牲ではない。あるのは、真の悟りを得た人々が死をも厭わずそれに果敢に向かっていく姿勢である。彼は、最後に自殺についての省察を書いているが、それは的外れであり、後年になった彼もそれとは反対のことを述べているぐらいだ。私がもっとも支持したいのは、作家ヘルマン・ヘッセの態度である。彼は、首尾一貫して、自殺の問題に関して、終生中立的な立場に立っている。まあ、何事も人間には解けない問題があるということである。