A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

日本語表記の病名を変えて、偏見をなくすのは重要か?3

2009年01月08日 23時33分36秒 | 精神医学
愚昧なる大衆が、偏見を持つ限り、とめどめのない要求が生じるであろう。いくら、精神疾患の名前を変えても、すぐさま大衆は精神疾患を抱えたものを非難する。なぜなら、ほとんどの大衆は、自分に自信がなく、常に自分より劣等な人々を見つけ、彼らを嘲笑するのである。実際、苦しんでいるのは精神疾患を抱えた人々なのに、大衆は優越感に浸るため、彼らを非難するのである。実にこれは由々しき事態である。だが、もともと人間は、優越感に浸りたい生き物である。けれども、その優越感を克服してこそ、精神疾患を抱えた人々を優越感をもった目で見るのではなく、一人の人間としてみることができるのである。最終的に、私が人々に訴えたいのは、その傲慢さ是正し、人間として精神疾患を抱える人々を見ることである。

日本語表記の病名を変えて、偏見をなくすのは重要か?2

2008年12月25日 17時19分38秒 | 精神医学
 いくら、精神疾患を抱えたものが大声で叫ぼうとも、世間は見向きもしない。これは、日本人特有の先入観によるものである。日本人は、島国に住んでいるだけあって、外界からの呼びかけをまったく聞こうとしない。自分たちだけで、独断的に決め付けた固有名詞を使用し、それを声高らかに叫んでいるだけである。はっきりいって、私は日本が嫌いだ。鎖国状態が今だ続くこの島国にはほとほと愛想がつきる。はっきりいって、ゲーテの述べるとおり政治家は、どたばた騒ぎを繰り返しているだけである。国民が、政治家を非難したら、それにそってすぐ政治家連中は動き出す。日本語表記の病名を変えたのも、この無知な政治家と愚昧な国民のせいである。国民の述べることに、すぐに従って、まるで操り人形のように動く。これが、現在の日本の実情である。

日本語表記の病名を変えて、偏見をなくすのは重要か?1

2008年12月18日 20時20分32秒 | 精神医学
 今日、巷で騒がれている精神疾患の病名変更などは唾棄すべきことだ。例えば、分裂病は統合失調症、躁鬱病は気分変調、痴呆は認知症などこれらの変更例がどれほど精神医学の発展に災いをもたらすかを日本はまともに考えていない。このままでは、過去の偉大なる精神医学者たちの用語の使用もままならないほどである。例えを出せば、分裂病は分裂病質という語句と深く結び付いている。それに躁鬱病は循環病質という語句と殊に深い結びつきがある。痴呆はクレッぺリンの提唱した早発性痴呆(現代では統合失調症と呼ばれている。)と、連関している。なぜ、クレッぺリンの提唱した早発性痴呆が現代の痴呆と結びつくかといえば、それは統合失調症の症例がある一部分、認知症の事例と酷似しているからである。だが、現代では早発性痴呆という言葉のカテゴリーは範囲が広すぎて、その概念が指し示す明確な指針を持たない。したがって、現代の精神医学ではこの言葉はめったに使われない。でも、だからといってクレッぺリンの業績が汚されるわけではない。その後のクレッチマーの精微な研究によって、早発性痴呆は分裂病という名を勝ち得たのである。けれども、もっと時代をさかのぼってみると、医学の祖ヒポクラテスが述べた神聖病の記述は分裂病患者のそれと一致する部分が多い。もちろん、躁鬱病の痕跡もあるが、過去の歴史から察するに躁鬱病とは病の名を勝ち得ていなかったようである。そして、現代にいたって分裂病、躁鬱病、痴呆の月桂樹の冠は汚されようとしている。いつの世にも偏見は存在するものであり、それが一個人の人格から発生されるものでは、決してないことがどうやら日本政府には分かっていないようである。
 いくら、偏見をなくそうとしても、それは竜の血を浴びたジークフリートのように何度でも蘇ってくるものなのである。そもそも、偏見の基を作ったのは大衆ではないか!官僚も首相も天皇も、皆そろって大衆に過ぎない。その中に一筋の光が見えると、最初は近づくが次第に光が鮮明になってくるとその眩しさに耐えられず、大衆はその光を封じ込めようとする。私が述べている光とはまさしく天才、非凡なものたちのことである。「平均以上の知性は狂気に近い。」この言葉が示すとおりに、天才、非凡なものたちは狂気に近いものを所有しているのである。しかし、天才と馬鹿は紙一重なのである。そして、判断力を持たぬ大衆はそこで天才と馬鹿の区別ができずに安易な方法を選ぶ。すなわち、それが偏見なのである。ああ、なんたることであろうか!偏見の基を作っている自分たちが偏見をなくそうとするなど本末転倒である。それが全く分かっていない愚かな政府は精神疾患を抱えた人々の偏見を払しょくしようと躍起になっている。いや、やむにやまれず、精神疾患を有した人々、その家族からの要請をのんで、体面を保つためにそのような行動に出ているにすぎないのである。したがって、政府はすぐさま精神科医を召集し、議論の場を設けるべきである。もともと、このちっぽけな島国の日本国民が馬鹿で愚かなことは確かなことであり、その中で優秀なものなどほんの一握りしかいないのであるから、即刻政府は有識者を選別できるほどの人材を確保し、有識者会議を開くべきである。だが、それでも偏見は払しょくされないであろう。この日本国民に根ざした愚かな国民性がそう訴えかけるのである。

日本における迷信の解釈

2007年09月23日 02時24分10秒 | 精神医学
 私がここに提示する問題は、何も新しいものではない。それは、どこの国にでもある神話的な寓話を、分析心理学的側面から、捉えようとする試みである。
 まず、餅なし正月、という言語がある。この言葉は、昔の人々にとって、神話的な意味合いを帯びたものであった。しかも、それは、今もなお、影響を与えているかもしれないのである。餅なし正月という語句の、語源には様々な憶測が飛びかっている。これを、心理学的側面から述べると、こうなる。例えば、先祖が餅を搗いていたところへ、戦争が起きたとか、先祖自身が落人の身であったために、今も餅を搗かない、とある。これは、まさしくファウスト的な解釈を要求する問題である。かかる問題を解くためには、心理学的な深い洞察を必要とする。この問題に対して、利用できる、精神分析用語及び精神医学用語は、退行と先祖返りである。
最初に退行の意味から、説明すると、退行とは、原初的な世界に住む人々、いわゆる未開人に見られる現象である。それは、ものものしい儀式や、自然への畏敬の念から、産出される原初的行為から、説明がつく。参考文献を引用すれば、旧約聖書「ヨブ記」が妥当であろう。ヨブが敵対者に対して、神ヤハウェの前で執った姿勢、それは、苦悶と仏陀の瞑想が入り混じったような奇妙なものであるが、そこから、見て取れる行為に、重要な場面がある。自分の息子や、娘が天災や、他国からの侵略者に殺されようとも、彼は堅忍不抜の態度で、それは神が行った業であり、決して神に対して、非難を試みない、彼の姿勢。それは、まことに神話的なものごとに、傾倒する人間が行った御業ではない。彼は、その時に、退行していたのである。旧約聖書中、際立った存在であるこの書は、神話的なモチーフと人間本性の見事なまでの退行を示している。退行とは、幼児期に、舞い戻る、という意味ではない。退行とは、無意識の段階にまで、さかのぼり、自らの、贖罪を贖うことを言う。例えて言うなら、こうなる。ここに敬虔なカトリック教徒の女性がいたとしよう。彼女は、毎晩、不安夢にうなされていた。その中で、彼女は、イエス・キリストが、死に臨む光景などを見た。翌日、彼女が起きると、キリストが杭を打たれた場所に、鈍痛が走っているのを感じた。この場合、彼女の内的葛藤から、植物神経系の異常が生じ、それが、生理学的なものにまでなっている。これは、彼女の義務感や、敬虔さを示している。そう、これが退行なのである。無意識の内に、次第に肉体を侵食してゆく、魂。それこそが、退行の意味なのである。もちろん、このことは、程度の差はあれ、餅なし正月の迷信にも見られる。
次に先祖返りの意味を見ることにしよう。これも前者に劣らず、神話的な要素と深く関わりあっている。先祖返りとは、突然、一個人が、感情的な動揺に対して、古代の人々が行ったような行為を遂行するという意味である。ヒステリーとは、精神医学の観点から、述べれば、一種の先祖返りである。日本のアイヌ民族では、このヒステリーは、一種独特の信奉をうけ、畏敬されていた。イムという言葉で、彼らはこの現象を、言い表していた。感情的な、要因を伴った現象を介して、ヒステリーやヒポクラテスの言葉を借りれば、神聖病などは、この先祖返りの範疇に入る。
この二つの用語を持って、餅なし正月の問題は氷解する。迷信を信奉するものは、一種の退行と先祖返りを起こしており、そのため、しばしば、暗礁に乗り上げるのである。餅を搗けば、人が死亡するや、餅が血の色に変化するなどの迷信は、かっこうの精神医学の問題であろう。ユングが、述べるとおりに、我々は、時に、神に対する信仰を強くすることによって、精神的危機から逃れる。しかし、それでは、問題の解決にならないのである。我々は、フィヒテがドイツ国民に要求したようなことを、決して民俗学に持ち込んではならない。自我と非我の境目にこそ、神話を解く鍵は、存在するのである。分析心理学が、近年成し遂げたような、めざましい発展の事績は、無意識にある。人とは、常に意識的に、動いているものではない。フロイトが「夢分析」で述べているように、一人一人の人間によって、例証は様々ある。したがって、私が述べられる限界は、ここまでである。各国、各地に伝わる迷信や神話は、その意味合いから見て、単なる空想ではなく、そこには深い無意識の対立が存在している。民俗学とは、決して、個々の国によって分かたれるものでもない。いみじくも、民俗学者ホイジンガが述べたように、「自分の国の話になると、我々は中庸を欠くことを常とする。」のである。
ただし、それが心理学的な妥当性を示唆しているのであれば、話は別である。我々は、いかなる先入観を伴って、物事を見ているか?我々は、いかにして、その神話を信奉するに至ったのか?等々、問題は山積みである。だが、我々はここで、単なる民俗学とは、決別しなければならない。民俗学は、その根底に無意識の媒体を持っており、それは深く精神医学と関わりあう。よって、我々は、餅なし正月の例題を、軽んじてはいけないのである。我々は、真摯な態度を以って、民俗学に接しなければいけない。我々は、鼻から迷信などという、思い込みを持って、この問題に挑んではいけないのである。なぜなら、その迷信や神話を作り出したのは、紛れもなく、我々、人類であり、そこには、何らかの具体的要素が含まれているからである。

殺人者の心理1

2007年05月17日 12時38分52秒 | 精神医学
 犯罪を犯したものの心理学的解釈は今なお曖昧なものである。その理由として挙げられるのが、認識の限界、精神性優劣感などである。まず認識の限界から話す事にしよう。ショーペンハウアーが「根拠律と四つの根について」で述べている認識の根拠律が適応される。この認識の根拠律とはこう言う意味である。自らの考え、感じている事は認知できるが、他人の考えているや感じている事は行動からしか推察できず、それを完全に認識する事はできない、という意味である。言われてみれば簡単だが、この問題に深い洞察を加えたものはごく小数なのである。しかもこの法則は人間相互間の意思疎通の問題にも連関しているので、見逃すわけにはいかない。したがって、この法則を鑑み、殺人者の行動を追うわけになる。それは行動心理学に近いものになるであろう。