A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

新田章先生のすごいところ2

2010年04月12日 05時37分12秒 | 思想、警句
 私は、今現在ドイツ語を新田先生から学んでいるのであるが、かなりのハイペースでドイツ語が進んでいる。始めて一年もしないうちに、カントの「純粋理性批判」を原典で読んだりしている。ところで、話は変わるが新田先生は煙草ではなくパイプを好んで吸う。それに面白い出来事があって、パイプの葉っぱが切れたのであるなじみの煙草の女主人に「おい! ばばあ、早くしろ。」と言い、一人一袋限定の葉っぱを「前もうまかったから、それもくれ」と交渉していた。でも、「お一人様、一袋限定なんですけどね。」と言われると「ばばあ! そんなこと言うんなら二度と買ってやらねぇぞ!」と短気な新田先生は述べていました。

新田章先生のすごさ1

2010年04月11日 19時14分14秒 | 思想、警句
 今、私は早稲田大学講師の新田章先生からドイツ語を教えてもらっている。最終的には古代ラテン語、古代ギリシャ語を習得するつもりである。しかし、何にせよすごいのが一対一の授業で罵倒されることである。けれど、新田先生曰く「俺にお世辞を言われる奴はもう俺の眼中にはないよ」というこらしい。

海外の治安と日本の治安の違い

2008年01月08日 23時09分03秒 | 思想、警句
 私は、どういってもボディガードの端くれではある。そこで、実際にあった警護記録を公表したいと思う。私は、南フランス地方で要人の警護にあたっていた。そこで、気づくのが日本人の治安への認識の甘さである。不用意に財布などを公衆の目の前で出す。これは、一番危険なことだ。南フランス地方では、すりなどの犯罪が多い。しかも、彼らはそれを職業としている。そのため、ある意味彼らは人のものを盗むプロといえるであろう。ついうっかりしていると、さすがの私でも財布を
取られてしまう可能性がある。一番やってはいけないのが、腹巻のようなポケットに厳重に貴重品をしまうことである。この行為をすれば、すぐにすりにはパスポートや財布の位置が分かってしまう。それで、私の部下であったボディガードはまんまとすりに貴重品を奪われてしまった。
 そのため、駅などの場所ではなるべく貴重品を露見させないようにしなければならない。フランス語の分かるボディガードの話では、ニースの駅の八割はすりらしい。後は、裏街なども危ない。日本ではさほど気にされない場所ではあるが、フランスの場合では事情がまったく違う。要人が興味本位で裏街を散歩したいと言った時に、私も同行したが、とてもじゃないが、生きている心地はしなかった。ナイフを振り回している連中が無数にいたのである。早朝には、救急車が頻繁に出入りし、人々を治療していた。
 次に話したいのが、要人をさらわれた場合である。これは遭ったら、ならない場合であるが、シークレットサービスでもその訓練が行われているので、かいつまんで話そう。まず、さらわれた要人の位置を特定し、突入の作戦を練る。はっきり言って、日本のSATやSITのように何も考えずに、突入するのは馬鹿である。こういう場合は、戦略が八割がたを占める。残りの二割が突入の技量だけの話である。戦略はだいたい決まっている。建物の周辺に狙撃者を配置し、犯人の動向を見守る。この時に、気をつけなければいけないのが、太陽の反射光である。不用意にスコープを開くと、太陽の光が反射して、位置がばれてしまう。これを踏まえて、次に行うのが、シークレットエントリーとダイナミックエントリーである。シークレットエントリーとは、その名前の通りに犯人に悟られないように近寄り、強襲するというものである。これは、犯人が興奮している場合に使う。なぜなら、犯人は人質の確保に熱中しているために、案外接近が容易だからである。ダイナミックエントリーとは、一挙に突入を敢行し、犯人の盲点を突くやり方である。これは、比較的犯人が冷静な時に行う。最後に、注意してもらいたいのが、銃口は通常、何もない所では上に向ける。近くにソファーなどの柔らかいものがある時には、そちらに銃口を向けながら、突入する。後は、銃の特徴を熟知し、距離を測って、正確に犯人に向けて、発砲する必要がある。もし、犯人が人質をはがいじめにしていた場合には、正確無比な狙撃が必要になる。要は、犯人を投降させるか、その場で頭を打ち抜くかを即座に決定する判断力が必要だということである。

不眠

2008年01月03日 06時52分39秒 | 思想、警句
不眠と意識との因果関係

 これは私自身の身体に起きた生理的現象、すなわち不眠の考察である。
 初めに不眠と関わりがあると思われる事柄をいくつか箇条書きで述べる。しかしこのことはあくまで思われるのであって断定的見解ではない。

1、不眠と躁状態 私の遺伝的気質、及び環境的素因から構成された性質に突発的に起きる躁状態がある。この状態が起きるのは主に夜中である。深夜十二時から明け方にかけてこの状態は続く。その結果、極度の創作意欲と引き換えに体の不調が起こる。それが一週間以上続く場合に情緒不安定、感情的になりやすくなる。それと共に体には冷や汗が出る。これはおそらく自律神経が関わっているものと思われる。しかしその状態が昼間に起きることは皆無に等しいといってよい。反対に昼間は創作意欲が鈍く、主に考え事などをする。これと対を成すものにうつ状態がある。私の場合も一般の例に漏れず、その状態が必ずといっていいほど躁状態の直後に起きる。これはある一定の期間躁状態が継続されているときの合間、合間に起こる現象である。これとは別に季節的なものもある。それは主に冬場、十二月から二月にかけて起こる。
2、 不眠と先入観 この言葉の意味は私が極度に寝ることを嫌うと言うことである。そこには昔の体験が、(これはその体験に類似した出来事が悪夢となって再現されるということである。)関係しているのであろう。ある次期を境に私の中には寝ることを嫌う先入観が構成された。これには寝ることと死が同一視されていた観念が関係している。過去に私は睡眠薬による投与を受け続けた。その結果悲観的な観念が形成され、それが今日まで影響を及ぼしているのである。現在においてそこに不安は感じ取れない。しかしそれは偏見に形を変え、私の中に今なお根強く残っている。そのおかげで私はしばしば理由もなく、寝ることを拒否したがる。これは自らの発言をつぶさに分析すれば分かる。
3、 不眠と意欲 私は意欲の活発な人間である。それは遺伝的なものであろう。思春期のときそれは暴力行為、すなわち物を支配すると言う征服欲の形となって現れた。その素因が現在まで残っていることは疑う余地のない事実である。今、私はそれを創作に昇華しているだけの話である。それが活発化するのはある程度決まった周期がある。それが初めて見られたのはおよそ十歳のときである。それは十二歳まで続いた。しかしこの見解は正確ではない。なぜなら経験とは思い出すときには、不確かなものに成っているからである。次にそれが見られたのはおよそ十九歳のときからである。それは二十歳終わりまで続いた。

脳楽と古武術

2007年09月27日 22時26分01秒 | 思想、警句
 私が、この場所を訪れて、感じたことは、様々であった。歌舞伎に、昔の江戸の雰囲気等々、それらがかもしだす空気が、私に、新鮮な印象を与えた。昔から、歌舞伎や脳楽には、興味があった。ここで、脳楽について、話すことにする。もっとも、感慨深いのは、能楽とは、日本固有の文化であり、独特のものであるということだ。ゆったりとした、動きには、考えられないほどの力を消費する。私自身、古武術をしていて、分かることだが、動きをゆっくりとし、いかにも、きれいに演舞するということは、実際、大変なことである。人間とは、もともとゆっくりとした動きをする動物ではない。それをさも楽々と、見せるところに脳楽のすばらしさはあるのである。熟練した動きを見せる脳楽とは、いかにすごいものであるだろうか!私は、その動きの一つ一つに釘付けになった。ゆったりとした舞、それはそれだけですばらしいものである。しかし、もっともすばらしいのは、彼らの風体である。まるで、風が何もないところを、通り抜けるように、彼らは演舞をする。これは、古武術と相通じるところがある。古武術では、その基本は脱力にある。脱力したまま、拳を上げれば、それは通常の筋力をこめた拳より、早く動く。もちろん、当たる瞬間には、力をこめる必要がある。これは、怪我防止の為に行うことである。この動きは、脳楽と通ずるところがある。たしかに、彼らも脱力し、演舞を行う。これは、そのような動作をしっかりと習得しているものには、すぐ分かる。そして、舞だ。空中を、飛ぶように彼らは舞う。それは、一見、常人離れしているような巧みな技に見える。だが、これも身体操作の基本を知っているものに、とっては実にたやすく身につく。体の力を抜き、脱力したままで、地面を強く蹴る。そうすると、すぐに舞いが完成するのが分かる。
私の所見としては、脳楽と古武術は、同じ道筋をたどってきたと思う。「風姿花伝」を書いた世阿弥は、七歳の頃から、脳楽にはげんでいる。また、古武術も日々の鍛錬なしには、進歩しない。まず、もっとも厄介なのは、先ほど述べた、脱力である。人とは、どうしても力任せに、動作を行おうとする。けれども、それは間違いだ。私も、柔道の黒帯の人に、一本背負いをかけてもらったことがある。力をこめていれば、まともに地面に叩きつけられる。しかし、脱力していると、不思議なことにまったく相手の技がかからないのである。反対に、相手のほうが、地面に叩きつけられてしまうくらいである。もっと言えば、脱力とは、日本語独特の言葉である。私は、英語と少しフランス語ができるが、いまだかつて、外来語に脱力という言葉を聞いたことはない。最初に、脱力とは、肩の力を抜くことから、始まる。次には、体重移動が始まる。どちらか、片方の足に重心を置き、そこから一気に片方の足に、体重を移す。すると、自然に足の力が直接、手に加わり、相手をいともたやすく屈服させることができるのである。そして、結局は脳楽もこの動作を、舞いなどに応用しているに過ぎない。空中を舞う、天使のように、彼らは演舞する。これもまた、古武術と同じである。沖縄琉球空手も、同じ動作を用い、信じがたいことだが、八十歳の老人が、若者五人を相手取り、楽々と彼らをのしてしまうのである。これが、武芸、演舞に必要な脱力の重要性である。それから、私は、こう言いたい。脳楽が用いる言葉の音調、これは一種独特の雰囲気をかもしだす。静かに、低音調で流れる言葉の数々は、まことに感慨深い印象を与える。これは、人間本姓に根ざした感官を刺激するために、起こる現象であろう。かつてヒトラーが、演説をする時に、用いた低音調の音楽機器は、脳楽と通じる部分がある。もちろん、彼の場合は、それを洗脳に用いたために、悪行になったのであるが、それでも音調に対する考え方としては、客観的に見て、正しいと言える。人々は、あまりに、音調の重要さを軽視する。言葉を変えれば、脳楽とは、民衆を一種の催眠状態に導くものである。だから、民衆は、すがすがしい顔をして、舞台を後にするのである。
最後に、私は、こう思う。脳楽とは、今だ、完成されえない文化である。紆余曲折しながら、古代より伝わってきたものであるが、それでもなお完成はされてはいないのである。私は、ここに進言したい。外国の戯曲や、オーケストラの演奏を聞いて、より幅広い見識を、脳楽をやる人には、持ってもらいたいと。