A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

12月19日(金)のつぶやき

2014年12月20日 01時47分28秒 | 既刊本

@PhilosophyOR まあ、ソシュールもマルクスも間違っている部分がありますね。ソシュールの言っていることを咀嚼すれば、「心のうちで言語化して」と云うことでしょうし、マルクスの言っていることはナンセンスですね


親友に云われて印象に残っているのが「こいつは今まで生きてきて楽しいことなんて一度もなかったんだぞ!お前らにこいつの気持ちが解かるのかよ!」と云う一言であった。これは無頼漢な奴に親友が云った言葉である。確かにその通りであった十数年前までは


文章には感情がこもる。文章を書くときに熱情的であれば、熱情的な文章に。憂いがあれば憂いがこもった文章が出来上がる。しかしそれを看取するのは読み手であるため、文章に籠った感情に作者は往々にして気付かない。ちなみに私は熱情的な文章を書くらしい。


集団化された人々の個とは画一化された凡庸の集まりである。純粋に優れた個とは集団化された人々の上に立つ。しかしその時にあまりに自分が優れているのを凡庸な人々に見せてはならない。それを見せるのは側近にだけで十分である。そして優秀な個の集団が世界に君臨するのである。


イーグルトンは文学に対して「緊張が必要だ」と述べている。なるほど単調な文章では読者に緊張を与えず、物語の先に読者を誘導できない。緊張があると読者は胸を躍らせ、次は何が起こるのだろうと云う緊張感の下、ページをめくっていく。こうして考えると文学論とは中々面白いものである


よく学のない人は色々な物事に対して「色々な考えや見方がある」と云うが真理は一つであるのだから一つである。二律背反があり真理は二つであると云う人もいるかもしれないが、物事には絶対二律背反が存在すると云う命題から真理は一つであると導かれるのである。物を考えることに妥協は許されない。


精神科医の先生に「相貌学」は勉強しておいた方が良いですかと訊ねたら「直接精神医学には関わってこないけれども、学問の基礎だからやっておいて損はないよ。」と云われた。けれども相貌学の本が少なすぎるし、読んでも独りよがりな意見が多い様な気がする。