A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

先入観

2007年10月19日 23時26分03秒 | 哲学
第五章 先入観について

 まず先入観とは記憶の客観ともいえるもので、表象から体が受けとる動因である。動因とは体が感覚によって得る客観の認識である。先入観とは記憶と感情が組み合わさって起こる。私の言う客観とは表象からの感受である。初めてこのような客観を受け取るときは、それはむしろ感情的というより、肉体的刺戟である。だからより広い意味の言葉、感覚を用いたのである。客観がなければ何も人は先入観など持つ必要がない。客観があり、そこから刺戟が来る限りにおいて人はそれに反応を示すのである。よってこのことからも分かるように最終的な感情表現として、人は肉体的刺戟を求める。これは原点回帰を示す。この根本型を考慮に入れると、そのあとにはもうひとつの型が現れる。それは概念に呼応した感情が生み出す先見的観念である。人が知らない人のことを悪いうわさで知り、その人を嫌悪するようになるのはこの先入観が限定的に作用しているからである。概念に対する感情、これがこの先入観の全てであり、そこに実在的本性は無い。だからこの先入観とは直接にその人に逢えば、まったく塗り替えられる場合が多いのである。ここで遺伝とこの関係を述べれば、これらどちらの先入観にしても有機的進化の考慮に入らないといえる。なぜなら先入観というものは全て個々人の記憶によるものであり、その記憶的連関を持たない遺伝とはなんらのかかわりも無いのである。
ここで先入観と類似する点の多い後悔について述べたいと思う。私が先に述べたように、先入観とは記憶と感情が合わさったものである。これは客観に対して作用する。後悔も記憶と感情が合わさったものである。しかしこちらは主に主観に作用する。このことから先入観と後悔は同じ性質を持つため決定的な相違は無いといえる。後悔の念が後ろめたさを作り、特定の人物を避けることや、先入観によって人を嫌悪して避けることにもそれほどの違いは無い。また後悔の念は思慮を誘発し、それが長期的に続けば彼には道徳的資質が備わってくるであろう。これは形而上学に到達するためのプロセスである。一般の人に比べて多くの罪人が罪を犯した後に、道徳に目覚めるのはなぜであろうか?この問いの答えには罪悪感が絡んでくる。その後悔が彼らを形而上学に目覚めさせるのである。全体的に見て数は少ないが、その事実は確かにある。この形而上学に繋がる後悔については後述することにする。



先入観とは前に述べたとおり、体が表象から受け取る動因である。これが曖昧な記憶に影響を与え強く刻印を残す。これは感情によってという意味である。さっそく説明するとそれは字のごとく見た表象が自分に与えた影響を先入観として記憶するのである。これはアプリオリに表象があり、そこから受け取った印象をもっぱら先見的観念とするという意味である。もちろんこのときに人は意識的にその行動をし、それを自らに刻印する。この問いは少しわかりにくいので、日常よく話す男女関係の趣向を例に説明したいと思う。まず人によって趣向というものはまちまちである。「誰かがかわいいと言った女の子を他の人からすればそんなことはない。」といわれる場合などからもそれはわかる。この趣向は人が幼少期に最も接する女性、母親から受け取った先入観から出来ている。私の手元の資料を見て、推測する限り母親がいないで育った子供はなかなか女性に対しての趣向などがどうやら湧きにくいようである。これは母親がいなく、孤児院にも入っていなかった子供たちをさす。孤児院にいれば母親代わりになる女性がいる場合が多いので彼の趣向はその方向に傾く。
この場合の相補的限定解釈を立てれば、ある一面母親のいない子供というのは、先入観によって成人した場合も女性に対して憎しみを抱きやすいことになる。またこの子が女性と肉体的に触れ合うとそこには小児的愛情に近い行為が生まれる。これは感情に根ざした肉体的愛情である。実際彼の内在的認識には女性に対しての憎しみと愛情が混在しているのである。だからそのような人は女性のことをこう解釈する。「彼女は憎むべき存在であり、また愛すべき存在である。」と。      
しかしこれは私のあくまでも推測であり、真理ではない。また孤児院にいる場合でも子供ながらに母親に捨てられたことを知っている場合にその子は、女性全体に対して憎しみを抱き、女性への趣向すら持たない場合もある。その子がもし人を好きになった場合に彼はその感情に戸惑い一般の人より苦悩することになるだろう。なぜなら一般の人々はアプリオリに与えられた趣向から好みの女性を選び出せ、その後は単に告白するかOrしないかなどの些細な外的要因に苦悩するぐらいのことでしかないからである。他方彼らの場合それは認識の段階にある憎しみと愛情との葛藤に悩まされるのである。これらにどれほどの違いがあるかは実際に体験してみればわかると思う。これに該当する人物として、殺人鬼「エドムンド・エミール・ケイパー」またガリバー旅行記著者「スウィフト」などが挙げられる。これを読んで、後者はともかく前者は例として悪いように見えるという人もいるかもしれないのでそのことについて多少の説明をさせていただきたいと思う。私はこの目で見たこととして、人が俗に言う悪い部分と善い部分を共有しているのを知っている。世間で悪い人といわれるやくざなど、冷徹で非常だと思われている人たちの中で身内に対してどこまでも寛容で親身な者たちがいるのも私は知っている。また世間的に人当たりもよく、善人面している人の中で好んで私利私欲のために不正を行う者たちも何人か見てきた。昔私はそのような人々を実際に見、そして自分の知識と照らし合わせてみると、なんと現実は違うことか!と驚いたものである。(実際にはそのとおりの人たちもいる。)このことを鑑みて見ると、そこには無秩序ではなく、平然と真理が横たわっているのが見えた。そう真理が私に、「世の善悪は、ひとつであり、決して目の前に同時に現れることはない」と、語りかけていたのである。だいぶこの説明は詩風のものになってしまったが、ひとつの真理をここに掲げることによって私は、この考察をお終いにしたいと思う。すなわちそれは、「人は自分のうちにうまれたときから善と悪を持っており、それが現れるのは唯周りの環境如何にかかる」ということである。そう人が憎しみに駆られて人を殺害するのも、異国に流れ着き一時の情に干されて愛を求めるのも、結局は同じことなのである。だが私はこのような不和な感情が持続するのも認めざるを得ない。そのときに私は言葉によって人にこう啓示するにとどまるしかない。「人々よ、大きな憎しみに駆られて、人を恨むこと日常の如し。人々よ、愛に飢えて、情に飢える獣になること性にあらず。人々よ、その混沌の中、絶壁の断崖に吹き寄せる荒波に身は朽ち果て、その立脚は枯葉の如く。人々よ、そのとき初めて、他人にすがるがいい。そこに残るは、唯万物みな同一にしての真理のみなり。」
これは仮説ではなく、真理である。だから本当に他人を殺そうとしている人も、我々の呼びかけにこたえて、刀を収めるときがあるのである。彼の中にはその行動に相反する鏡のようなもう一人の自分がある。しかし私がそうできたのは概念では決して言い表せない心の衝動にたまたま私の言葉が調和しただけなのかもしれない。たった一句のこの言葉からも人が他人の行動に対して非難を好んで行う由縁がわかる。人は他人の行動の中に矛盾を見出すや否やその人を非難する。この行動の原理は単純なものである。人は自分の中に有る矛盾に気がつかない振りをして、それを他人のうちに見出す時、彼らは自分の中のもう一人の人物に非難を加えるのである。これはもっぱら理性的でない人々をさすが、言い換えればこのことはこうも言える。「人は自分の素顔が醜いのを尻目に、他人の素顔を盗み見る。」