A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」1続

2009年02月17日 15時02分11秒 | 哲学
 まず、表象としての世界は、自然科学の諸法則を定めている。自然科学はいくら行っても、途中で、頓挫する。なぜなら、表象としての世界しかとらえていないからである。表象という言葉を分かりやすく言えば、それは現前する世界であり、そこらへんに転がっている石や、木、さらには荘厳な建物や太陽や銀河系なども含まられる。これらを研究するのがもっぱら自然科学である。だけども、注意してほしいことがある。自然科学とは、倫理や理性については教えてくれない。もちろん、私の記憶が正しければ、第一巻の第八節でショーペンハウアーは理性について触れている。そして、何といっても彼の文体は分かりやすい。同時代のカントやヘーゲルに比べてはるかに明快に書かれているのである。
 表象としての世界では、もっぱら自然科学は証明を必要とする、と書かれている。それは確かにそうである。さらには、図解入りで詳しく論理学や化学などのことが説明されている。これは、哲学入門者にも分かりやすいであろう。
 それから、第二巻に移り、意志の説明が始まる。これは、端的に述べれば、盲目的に生きることを意志と述べているのが、第二巻の内容である。しかし、第三巻の意志の捉え方は違う。このことは、次回に繰り越すことにしよう。

ショーペンハウアー著「意志と表象としての世界」1

2009年01月11日 20時34分15秒 | 哲学
 ショーペンハウアーの主書の第一巻について書くことにしよう。まず、彼は表象としての世界と意志を分けて考察した。最初に、表象としての世界のことが書かれている。私は、初めてこの本を手に取った時に驚いた。ちょうど、ライプニッツの本が隣にあったのであるが、私はライプニッツの本をすぐに駄作だと思い、ショーペンハウアーの本に手を伸ばしたのである。ホテルに帰って、ショーペンハウアーの本を読んで、すぐさま彼は天才だ、と分かった。
 では、内容はどうであったろうか? 表象としての世界だけを語れば、彼は厳密に自然科学のカテゴリーを区分けし、それについての所見を述べていた。私は、それにもっとも惹かれた。なぜなら、私自身、十歳の時、アインシュタインの「特殊相対性理論」についての論文を書いたからである。
 実際、天才とは凡人とは明らかに違う人生航路をたどる。激しく紆余曲折した人生経路がまさにそうである。幼い時から、普通の人より一歩前に出て、様々なことを考えているのである。

論理学

2007年12月30日 22時23分31秒 | 哲学
 論理的な思考の要素
1、論理的思考とはそもそも昔の詭弁者たちが使っていた手法であります。論理的解釈とはもっぱら概念の問題であり、そこに実際の事象が関わる必要はありません。例えば花についての話題で、花という一つの概念を決め、そこに白い花や黒い花などの細かな概念を花という大きな概念の中に吸収させていきます。そういう情報が集まれば集まるほど花の概念の整合性は高まります。しかしこれはあくまで概念についての記述であって、根本的な事象よりは不確かなものになります。もしここで精密や議論を行う場合は、常に事象の正確なデータを提示しながら行う必要があります。もしこれを行わない場合は事象についての根本的誤謬がおきても気付かないのです。これが頭の中だけ、すなわち抽象的解釈しか行わない論理的思考の欠点です。
2、ではシステム思考はどうかというと、これも欠点が往々にあるといわざるを得ません。例を出して説明しますと、まずブレーンストーミングのルール①について言えば、相手のアイデアがどこから出てきたのか?が問題となります。相手が実際の事象の正確なデータを述べているのならばそれは当然批判ではなく、実際の事象を確かめればいいのです。これは意見ではなく、明証を伴った見解です。しかしそれが仮説ならばこれは反対の見解となります。相手のこの仮説とはもちろん前提条件として事象の直観的解釈を必要としますが、これが一定の仮説となって出てきている以上は、当然それは抽象的な解釈に移行しています。このような概念の問題になった時点から、そこには概念の整合性を高める批判が必要になってきます。これはアインシュタインとニールス・ボーアが行った量子力学の根本的解釈についての論争でも見られることです。どちらにしても事象のデータを示す見解か?それとも仮説か?によって大きく対応が変わるといえます。全体を通して相補的見解から見ればこの種の論争においては批判や事象そのものについての直観的見解、双方が必要になってくるといえます。これが正しい論争です。
3、 最後にこの論争を満たす諸条件を言いたいと思います。まず論争を行うときには同じレベルの人たちでやる必要があります。このレベルとは知識や論証法、もちろんそれに伴う熟慮であります。もしこれを行わない場合はそこには嫉妬や虚栄心が紛れ込み、意見についての論争ではなく、相手に対しての誹謗、中傷になる恐れがあります。このことは一般人たちの中にしばしば見られることであります。
さらに一番重要な点でありますが、批判というのは相手の意見についての見解であり、その人に直接向けられたものではありません。この解釈をなおざりにした人たちと論争をすれば、そこは誹謗、中傷、言い訳の場所になります。人はこのことを誤って解釈しがちですが、これは馬鹿な人に頻繁に見られる批判と非難の混同であります。よってこのような論争における根本的解釈を自らのうちで行っていない者は、話し合う権利を有しないのであります。

参考文献
[1]
ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」 中公クラシックス 
(2004)
          「随感録」 白水社 (1998)
          「孤独と人生」 白水社 (1996)
[2]
ベルクソン     「哲学的直観ほか」 中公クラシックス (2002)
[3]
キケロー      「キケロー弁論集」 岩波文庫 (2005)
[4]
プラトン      「ソクラテスの弁明ほか」 中公クラシックス(2001)
          「国家」上、下 岩波文庫 (1979)
[5]
ニールス・ボーア  「因果性と相補性」 岩波文庫 (1999)
[6]
R・ミルン R・ブル 「取調べの心理学」 北大路書房 (2003)
[7]
フロイト      「性愛と自我」   白水社 (1995)

先入観

2007年10月19日 23時26分03秒 | 哲学
第五章 先入観について

 まず先入観とは記憶の客観ともいえるもので、表象から体が受けとる動因である。動因とは体が感覚によって得る客観の認識である。先入観とは記憶と感情が組み合わさって起こる。私の言う客観とは表象からの感受である。初めてこのような客観を受け取るときは、それはむしろ感情的というより、肉体的刺戟である。だからより広い意味の言葉、感覚を用いたのである。客観がなければ何も人は先入観など持つ必要がない。客観があり、そこから刺戟が来る限りにおいて人はそれに反応を示すのである。よってこのことからも分かるように最終的な感情表現として、人は肉体的刺戟を求める。これは原点回帰を示す。この根本型を考慮に入れると、そのあとにはもうひとつの型が現れる。それは概念に呼応した感情が生み出す先見的観念である。人が知らない人のことを悪いうわさで知り、その人を嫌悪するようになるのはこの先入観が限定的に作用しているからである。概念に対する感情、これがこの先入観の全てであり、そこに実在的本性は無い。だからこの先入観とは直接にその人に逢えば、まったく塗り替えられる場合が多いのである。ここで遺伝とこの関係を述べれば、これらどちらの先入観にしても有機的進化の考慮に入らないといえる。なぜなら先入観というものは全て個々人の記憶によるものであり、その記憶的連関を持たない遺伝とはなんらのかかわりも無いのである。
ここで先入観と類似する点の多い後悔について述べたいと思う。私が先に述べたように、先入観とは記憶と感情が合わさったものである。これは客観に対して作用する。後悔も記憶と感情が合わさったものである。しかしこちらは主に主観に作用する。このことから先入観と後悔は同じ性質を持つため決定的な相違は無いといえる。後悔の念が後ろめたさを作り、特定の人物を避けることや、先入観によって人を嫌悪して避けることにもそれほどの違いは無い。また後悔の念は思慮を誘発し、それが長期的に続けば彼には道徳的資質が備わってくるであろう。これは形而上学に到達するためのプロセスである。一般の人に比べて多くの罪人が罪を犯した後に、道徳に目覚めるのはなぜであろうか?この問いの答えには罪悪感が絡んでくる。その後悔が彼らを形而上学に目覚めさせるのである。全体的に見て数は少ないが、その事実は確かにある。この形而上学に繋がる後悔については後述することにする。



先入観とは前に述べたとおり、体が表象から受け取る動因である。これが曖昧な記憶に影響を与え強く刻印を残す。これは感情によってという意味である。さっそく説明するとそれは字のごとく見た表象が自分に与えた影響を先入観として記憶するのである。これはアプリオリに表象があり、そこから受け取った印象をもっぱら先見的観念とするという意味である。もちろんこのときに人は意識的にその行動をし、それを自らに刻印する。この問いは少しわかりにくいので、日常よく話す男女関係の趣向を例に説明したいと思う。まず人によって趣向というものはまちまちである。「誰かがかわいいと言った女の子を他の人からすればそんなことはない。」といわれる場合などからもそれはわかる。この趣向は人が幼少期に最も接する女性、母親から受け取った先入観から出来ている。私の手元の資料を見て、推測する限り母親がいないで育った子供はなかなか女性に対しての趣向などがどうやら湧きにくいようである。これは母親がいなく、孤児院にも入っていなかった子供たちをさす。孤児院にいれば母親代わりになる女性がいる場合が多いので彼の趣向はその方向に傾く。
この場合の相補的限定解釈を立てれば、ある一面母親のいない子供というのは、先入観によって成人した場合も女性に対して憎しみを抱きやすいことになる。またこの子が女性と肉体的に触れ合うとそこには小児的愛情に近い行為が生まれる。これは感情に根ざした肉体的愛情である。実際彼の内在的認識には女性に対しての憎しみと愛情が混在しているのである。だからそのような人は女性のことをこう解釈する。「彼女は憎むべき存在であり、また愛すべき存在である。」と。      
しかしこれは私のあくまでも推測であり、真理ではない。また孤児院にいる場合でも子供ながらに母親に捨てられたことを知っている場合にその子は、女性全体に対して憎しみを抱き、女性への趣向すら持たない場合もある。その子がもし人を好きになった場合に彼はその感情に戸惑い一般の人より苦悩することになるだろう。なぜなら一般の人々はアプリオリに与えられた趣向から好みの女性を選び出せ、その後は単に告白するかOrしないかなどの些細な外的要因に苦悩するぐらいのことでしかないからである。他方彼らの場合それは認識の段階にある憎しみと愛情との葛藤に悩まされるのである。これらにどれほどの違いがあるかは実際に体験してみればわかると思う。これに該当する人物として、殺人鬼「エドムンド・エミール・ケイパー」またガリバー旅行記著者「スウィフト」などが挙げられる。これを読んで、後者はともかく前者は例として悪いように見えるという人もいるかもしれないのでそのことについて多少の説明をさせていただきたいと思う。私はこの目で見たこととして、人が俗に言う悪い部分と善い部分を共有しているのを知っている。世間で悪い人といわれるやくざなど、冷徹で非常だと思われている人たちの中で身内に対してどこまでも寛容で親身な者たちがいるのも私は知っている。また世間的に人当たりもよく、善人面している人の中で好んで私利私欲のために不正を行う者たちも何人か見てきた。昔私はそのような人々を実際に見、そして自分の知識と照らし合わせてみると、なんと現実は違うことか!と驚いたものである。(実際にはそのとおりの人たちもいる。)このことを鑑みて見ると、そこには無秩序ではなく、平然と真理が横たわっているのが見えた。そう真理が私に、「世の善悪は、ひとつであり、決して目の前に同時に現れることはない」と、語りかけていたのである。だいぶこの説明は詩風のものになってしまったが、ひとつの真理をここに掲げることによって私は、この考察をお終いにしたいと思う。すなわちそれは、「人は自分のうちにうまれたときから善と悪を持っており、それが現れるのは唯周りの環境如何にかかる」ということである。そう人が憎しみに駆られて人を殺害するのも、異国に流れ着き一時の情に干されて愛を求めるのも、結局は同じことなのである。だが私はこのような不和な感情が持続するのも認めざるを得ない。そのときに私は言葉によって人にこう啓示するにとどまるしかない。「人々よ、大きな憎しみに駆られて、人を恨むこと日常の如し。人々よ、愛に飢えて、情に飢える獣になること性にあらず。人々よ、その混沌の中、絶壁の断崖に吹き寄せる荒波に身は朽ち果て、その立脚は枯葉の如く。人々よ、そのとき初めて、他人にすがるがいい。そこに残るは、唯万物みな同一にしての真理のみなり。」
これは仮説ではなく、真理である。だから本当に他人を殺そうとしている人も、我々の呼びかけにこたえて、刀を収めるときがあるのである。彼の中にはその行動に相反する鏡のようなもう一人の自分がある。しかし私がそうできたのは概念では決して言い表せない心の衝動にたまたま私の言葉が調和しただけなのかもしれない。たった一句のこの言葉からも人が他人の行動に対して非難を好んで行う由縁がわかる。人は他人の行動の中に矛盾を見出すや否やその人を非難する。この行動の原理は単純なものである。人は自分の中に有る矛盾に気がつかない振りをして、それを他人のうちに見出す時、彼らは自分の中のもう一人の人物に非難を加えるのである。これはもっぱら理性的でない人々をさすが、言い換えればこのことはこうも言える。「人は自分の素顔が醜いのを尻目に、他人の素顔を盗み見る。」


直観と意識

2007年08月17日 18時42分32秒 | 哲学
直観と意識

 大部分の神経科医、脳科学者が間違いを犯している。それは意識と直観の混同である。あくまで直観とは目でとらえたもの、また触角に触れ、喚起される現象の事を言う。そして意識とはいったん、直観から得た情報を脳内で分析する事を言う。現在の科学者たちはこの区別をはっきりとおこなっていない。彼らは意識や自我を重んじるあまりに直観の重要性を忘却してしまっている。これは由々しき事態である。哲学の勉強をせずに、やみくもに自我や意識を取り出してもしょうがないのである。
 ではこれから仔細に一つ、一つの定義を見ていくことにしよう。
 まず自我の問題から、始めよう。自我とは生まれてから、次第に発達してくるものである。幼少期には自我が未発達のため、周囲の人間を同一視する。これは子供の自由奔放な動き方を仔細に眺めれば分かる。彼らは自我の境界を持たないがために、周りにそう振舞うのである。しかしそれも時を経るにつれて、暫時減少してゆく。いわゆる自我の発達とは段階的に行われるものであり、そこに異論はない。そして成人すれば、自我は完璧になり、周囲との調和もはかれるようになる。そもそも自我とは自己認識であり、そこには様々な要素が絡んでくる。自尊心や虚栄心などもそうである。もちろんこの根本的な原因は性格にある。性格とは将来を通じて、ほとんど変わる事はない。これはショーペン・ハウアーの叡知的性格に由来するものでもある。自我は生まれてから、発達するものであり、性格は生来上のものである。自我の歩みは遅くとも次第に自分の中に蓄積される。それから先天的な障害も自我の発育を遅らせる働きをする。思春期遅滞、自閉症やアスペルガー症候群などはその良い例である。彼らは外界との接触を嫌い、さらには周りと調和が取れない。これこそが自我の未発達の良い例である。だがここで一つの疑問がわきあがる。はたして外界との調和は自我の未発達なのであろうか、と言う疑問である。私は断固として、この疑問を払拭する。アインシュタイン、ニールス・ボーア、ゲーテ、クレッチュマー、ショーペン・ハウアー、カントらも人間関係がうまくなかった。彼らは時に激情的に民衆を罵倒し、孤立していた。しかしそれでも彼らの自我は未発達ではなかった。彼らは人生の荒波を人より苦労しながら、生き抜いた。そこに自我の未発達という陳腐な言葉は当てはまらない。あくまで自我とは自己認識、自己洞察をへて、感得されるものであり、決して生まれもったものではないのである。一般の人々は天才を人々の記念碑として見ている。人類の稀有な変種である天才に一般の人々の見解は通用しない。巷に出回っている、天才たちと一般の凡人たちを比較する事には憤りを覚える。もしエジソンが発達障害ならば、いかにして彼の非凡な研究の数々、透徹した判断力はどこから生まれてきたのであろうか?これだけでも十分な論拠になる。自閉症の子供はヒステリーをしばしば起こす。彼らには社会に適応する能力がかけている。そして自我とは社会や周りの人々、いわゆる主観と客観の統合を行う事によって形成されてくるのである。
 次に性格を見てみよう。昔の哲学者から言わせれば、性格とは普遍なものらしい。だがそれは違う。ラマルク、ダーウィンの本を読めば、分かるとおりに生物は少しならずとも性格を変遷しているのである。もしそれがなければ、人間は進化しないであろう。長い年月をかけて、性格とは形作られる。これは遺伝学的な見解である。人は青春期に能力のほとんどを使いはたしてしまう。そしてその後に結婚し、子供にその能力が受け継がれるのである。むろん、メンデルが述べた、優性遺伝、劣性遺伝も考慮しなければならない。(優性遺伝とは子供に親の能力が遺伝する事を言う。また劣性遺伝は祖父母の遺伝が顕現する事を言う。)たとえ、自分の子供に親の優秀さが伝わらなくても、それが後の子孫に現れる事がしばしばある。シラーやショーペン・ハウアーはその良い例である。そして性格とは人の根源に根をはり、知らないうちにその人の行動を規定している。これがショーペン・ハウアーの述べた叡知的性格の源である。だが前に述べたとおり、性格とは変化しないものではない。しかしそうやすやすと変化するものでもないのも事実である。人は何かと自由を主張するが、実はその自由を妨げているのが、自己の性格である事に気がつかないのである。
もし他人の性格の変化の兆しを見たとしても、それは単なる幻想でしかない。その幻想は生来上のものであるが、実際にはそれが隠れている場合が多い。そしてその幻想は本人の下層知性から導き出されるのである。また性格と能力を混同する人もいる。これは有名なアードラーが行った手法である。彼は「過剰保障」という言葉を用い、ことごとく天才や非凡なる者の虚栄心の強さを過剰保障のせいにした。しかしこれは大いなる間違いであった。一般の人々にも虚栄心が強い人はたくさんいる。だがはたしてその中に天才を見出そうとするのは困難を極める。確かにニーチェは虚栄心が強い人物であった。けれども彼の能力と性格は別個に考える必要があったのである。アードラーは過剰保障を虚栄心の強い人々に用いた。アードラーの見解によれば、「弱い生き物だという自覚があるからこそ、自分を強く見せたがる」という事である。また彼はこうも言った、「自らの弱さを隠すために彼らは努力をするのである。」と。しかしこれらの諸見解ははなはだしく間違っている。遺伝学者ゴットシャルトの報告によれば、遺伝素因は環境素因のそれより二倍半大きい。また努力に関しては、六・三倍環境素因のそれより遺伝素因がたち勝っている。したがってここに一つの命題の帰結が生じる。性格と能力は別個に考える必要がある。ただし性格が能力にどれほど寄与するかも研究しなければならない。
今までの研究ではクレッペリンを中心とするチュービンゲン学派、ロシアのパブロフ、さらにはアメリカのライトなどの学者らによって複雑な神経系統、脳の事がわかってきている。例えとして、私がここにひとつの仮説をたてることにしよう。それは記憶に関することである。これは意識とも密接に連関しているため、はぶく事はできない。まず異常な記憶力を持つアメリカ人を例にとることにしよう。彼の記憶力はおよそ九千冊の本に値する。彼の脳には脳梁がない。さらには感情のこもらない表象と概念のみを記憶している。クレッチュマーがその著書で「感情のこもらない概念は存在しない。」と、述べた。だが現にそのような人がいる事を鑑みれば、クレッチュマーの意見は現実には適わない事になる。そして感情のこもらない原因として挙げられるのは、脳側頭葉と海馬が連関していない事である。人とはなにかしらの強い情動作用を引き起こす表象や概念に出会ったときにそれを記憶する。だが先ほど私が述べた人物は記憶力に特化しているが、それを情味豊かに表現する、いわゆる芸術的感覚が欠如している。誤解をまねかないために一つ述べるが、私の述べた芸術的感覚とはゴッホやレンブランドなどの独創的な思考が欠如している事を言う。また性格に関して、もう一つ例がある。ある男性が発破工事中に事故にあった。鉄の棒が頭に刺さってはいたが、一命はとりとめた。しかしその後の男性の性格は一変し、粗暴な振る舞いなどを常習的に行うようになった。だがそれも暫時収まっていった。臨床結果を述べれば、脳前頭葉の損傷がその男性には著しく見られた。そのため、彼の性格をつかさどる部分は損傷し、代償として側頭葉、脳幹が働いていたと思われる。普通、理性によって人々の欲望はある程度押さえ込まれている。しかしいったんそれがなくなれば、欲望の赴くままに行動する事になるのである。また男性の自然治癒力を哲学で言い表すならば、「意志」になる。盲目的に生を求める意志。それこそが万物の基礎であり、なおかつ人々が驚嘆の念を持って、推奨する、生への問題にもつながってくる。ともかく性格とは遺伝と外傷によって変わるものである。むろん、遺伝の影響は脳外傷の影響より大きい。いったん、脳に障害をおった人でも、治癒すると本来の性格に戻るのである。
さて次は意識の問題に入りたいと思う。フロイトが提唱した「無意識」の問題を中心に議論を進めたいと思う。彼は無意識や夢分析に没頭していた。けれども最後まで明確な無意識の定義を決めることはできなかった。そもそも無意識とは下層知性に通ずるものである。クレッチュマーがフロイトの無意識の曖昧さを指摘したのは、正鵠を得ている。無意識とはいかなるもの?無意識とは何を意味するのか?そのような見解をクレッチュマーは提起している。次にまず無意識とは認識されていない意識である。自己を見つめる事でおのずと無意識の意味が分かってくる。ユングの言葉を借りれば、「無意識は意識に昇った時点で意識的になる。」そしてユングのこの言葉がフロイトの曖昧な無意識を廃絶したのである。しかし無意識の問題はなおも残っている。人とは視覚や聴覚を使った直観を用いて、論理を始める。あくまで無意識とは下層知性に属するもので、様々な情報を蓄える部位と密接に連関されている。やはり、その無意識も直観を基に機能している。何気ない風景の中で、突如として湧き上がる思想は下層知性が働いているおかげである。ルソーやショーペン・ハウアーも適度な運動をする事によって、考えが浮かびやすくなると述べている。それはその通りである。人とは一つの問題を考え続ける事はできない。だから身体的な運動をし、脳を活性化させる必要があるのである。私は無意識の定義をこう述べる。「下層知性の所産で、無意識の活動は行われる。したがって無意識とは下層知性の謂いである。また象徴化理論にもこれは当てはまる。象徴化は個人、個人特有の見識で定められる。もちろん、それは万人に当てはまる。国が違えば、象徴の意味合いも違ってくるのである。」
さて、話を戻すことにしよう。無意識はこの世には存在しない。なぜならそれは単なる戯言であるからだ。確かに精神分析は世界に貢献した。だがその中のいくつかの部位は間違っているのである。まずここで直観と意識の問題が出てくる。人や動物は直観によって、得た情報を基に概念、想像を構築する。意識的な問題に入る前に絶対的な権威を振るうのは直観である。直観なくして生物は存在しない。この存在しないとは、主観的に存在しない、という意味である。意識を構成するのは、直観である。自分自身、感じるものを得る事によって人は初めて自我の芽生えをむかえる。そしてそれに貢献するのが、直観なのである。人は経験した表象なくして、何ものも構築できない。例えば、スフィンクスは様々な動物によって構成されている。しかしその中には何一つ目新しいものはない。様々な表象が組み合わさり、スフィンクスはできているのである。もちろん、先験的な空間は別個に考える必要がある。なぜなら空間は意識の中においても消し去る事ができないからである。反対に時間は観念的なものであり、意識の中で除外できる。
我々は先験的な問題に直面した時に、それは明証されているという。しかしこれあくまで言葉の謂いであり、我々は意識的な問題をさかのぼって考える事により、初めて先験的なものを見出すのである。これは様々な意識過程を通じて、連想される、種々様々な問題に対してもそうである。私が前に述べた空間とは先験的である、という命題は思考実験を繰り返す物理学者には周知の通りである。まず我々は自我を確立し、主観を会得する。そしてそこから様々な個性や世界が見えてくるのである。「主観によって、客観は規定される」これは十九世紀の終わりから二十世紀の半ばまでの研究で分かったものである。ほんの些細な事に気がつくのもこの能力のおかげである。セネカがその哲学的著作や科学的著作の中で述べているのはまさにこの事である。彼は些細な事にも用心を怠らず、あらゆる天賦の才をその著作の中でいかんなく発揮している。
 ともあれ、直観と意識の関係は根強い。意識過程とはアンリ・ベルクソンが述べたように、流動的で捉えないようなものである。直観の前提として、意識があることはここまでの叙述で明白に分かったはずである。そして最後に我々は直観過程から今度は意識過程に逆戻りをして、より明白な概念を得る事を臨むしだいである。
 直観とはある意味無意識の動作である。目に映る景色を見ているときも直観と言う言葉は使われる。その流れる風景に心打たれる人もいれば、他方無関心な人もいる。したがって、直観とは個人の主観的意識を基にして、成り立っていると言える。脳科学的にいえば、水晶体、網膜を媒介して視床下部に電気信号が伝わる。その時にでるパルスの強弱がその人の目の感受性となる。そしてこれを意識まで昇らせるのである。この意識下に置かれる状態とは海馬と前頭葉、間脳、側頭葉、そしてそれらをつなぐ脳梁が関係している。もっと深くいえば、天才的な人物とは脳のあらゆる部分が連関し、常人よりはるかに脳を酷使しているものである。直観とは主に視床下部からでたパルスが海馬に至らない間に前頭葉に行ったときに起こるものである。この事から記憶媒体のない生物にも直観は存在する事になる。また、直観に必要な材料は目と脳ということになる。前頭葉と言う高度に発達した機関を持たない生物は替わりのものとして、脳幹を使用する。これはたこやいかが捕食する際に見せる行為から容易に導き出せる。そしてその使用が連続的に行われ、生物界ではその手法が妥当しなくなった時に対応するために進化とは存在するのである。
 次に意識と進化の過程を見ると、その隔たりがあまりに大きいのに気づく。意識とは高度に進化した生物の思考過程の初期の段階の事を言う。まず意識とは直観の前提にはなり得ない。さらに意識は進化の代価にもなりえないのである。先立って進化があり、直観が生まれる。この順序は高度な生命体に変貌し続けると、次第に逆転してくる。そして最後に意識が残るのである。