A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

10月30日(木)のつぶやき

2014年10月31日 01時31分21秒 | 既刊本

よく映画などでナイフで一突きして人を殺す描写があるが、あれは現実にはほとんどありえない。ましてや素手で首の頸椎を折るのは古武術の中でも特殊な枠組みに入り、各国の特殊部隊ぐらいしかその方法を知らないであろう。けれどもコツを覚えればなんなく素手で首の頸椎を折れるようにはなる。


ハンセン病文学全集を読んで思ったが、いくら凡庸な人でも死ぬ直前になって最期の灯を灯そうと思えば灯せると云うことである。この全集の内容は衝撃的であるが、それが現実にあった以上それから目を背けるのは如何ともしがたい。いつも現実世界の奥は残酷だが目は背けたくないものである。



10月29日(水)のつぶやき

2014年10月30日 01時34分17秒 | 既刊本

我々は何事についても理由を求めたがる癖がある。そしてある出来事の理由を訊ねられ、それをすぐさま理解し説明する人物を人は頭の回転が速い、機転が良いなどと云う。しかしその様な人物にあるのは理由を求めることを常に頭の中で行ない、それを咀嚼していることである。


人間は何も考えることを放棄する必要はない。体が動いていることばかりが動いていると云う意味には当てはまらない。思考することも当然動いていると云うことになる。ただし体を動かすのとは違うことがある。それは傍目から観て活動しているのが解からないからである。



10月27日(月)のつぶやき

2014年10月28日 01時34分07秒 | 既刊本

多様化する価値観念、例えば文学や芸術を本能の書さと云うことで一括りにしてしまうのは軽率である。文学や芸術は二人の才能の違う人が描いた二つの作品では全く違う場合が多々ある。ここで作品自体の魅力に見る人が引き込まれるのならそれは本能ではなく、描いた人の感受性の所作であろう。


存在理由と云うものをやたら説きたがる人が居るが、そんなものは存在しない。存在理由は意識の為す業で、意識がなければそんなことは意味がない。例えば意識が全くなくなる熟睡時にそんなことを考えている人はいないであろう。また生まれたばかりの意識が薄命な赤ん坊も考えてはいないだろう。

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10月26日(日)のつぶやき

2014年10月27日 01時37分06秒 | 既刊本

我々人間には葛藤と云うものがある。葛藤とはまず二つに分けられる。物質的な葛藤と精神的葛藤である。前者は金銭に困っているなどの葛藤である。そして後者は自信の喪失によっておこる自己評価の低下などの心的な問題である。我々はこの二つを合わせて現実の会話で葛藤と云う言葉を遣っているのである


文章を書いていると命が削られている感覚に陥る。けれどもそれほど熱情を込めないと良い作品は書けないのである。しかし何も考えずに文章を書く人は多い。そういう人に云いたいのが「作品を自分の子供と思え」と云うことである。因みに私の作風はニーチェとカフカに似ているそうである。

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10月25日(土)のつぶやき

2014年10月26日 01時34分32秒 | 既刊本

普通一定の学問に傾注していて臨界点を超えると他の学問にも波及してゆき、見識が広がるものである。私の場合は理論物理学、哲学、精神医学と云うように大雑把に変遷してきた。無論、経済学も天文学も細菌学ですら勉強しているが、そんな私から見て専門バカ、特定の学問しかできない人は滑稽に見える


我々は神を全知全能とするが、そんな神は想起できない。なぜなら我々の誰もが全知全能ではないからである。人間とは自分を基準に物事を図る。だから常人に天才を理解するのは不可能だし、ましてや神なぞは無理難題である。だから神は概念的なものではなく、観念的なものなのである。


人生に無駄はないと云う人が居るが、実際に殆どの人々が無駄な時間を過ごしている。無駄でない人生、時間を生きようとすると云うなら常に過去を振り返って内省、思惟しなければならない。ここではいみじくも物理学者のポアンカレが言った言葉があてはまるだろう「我々は時に立ちどまなければならない」