@PhilosophyOR 生産物によって自分を認知できることはおかしい。結論から言えば我々は生まれて明瞭な意識を手に入れることによって自己を認識する。例えば鏡を見て自分の存在に気付く様に生産物以前に意識が重要視される。要するに「我思うゆえにわれは存在する。」と云うだけ
@PhilosophyOR 後は助言するとすれば、高名な学者と云ったからと云ってそれを真理だと思ってはいけない。学者だって人間なのだから間違えることもある。哲学をやり続ければ判るが、ハイデガーやヤスパースは凡人。アインシュタインも凡人。でもカントは凄いなども判ってきますよ
@PhilosophyOR カント以外ならばアリストテレス、プラトー、キルケゴール、ショーペンハウアー、ベルクソン、メルロ=ポンティ等です。哲学にしても自然科学においても自ら思索して自力で審理に辿り着いた人は凄いです。
@PhilosophyOR 続きとして書けば自然科学者で特に優れているのは、ハイゼンベルク、ニールスボーア、シュレーディンガー、ガロワ、クレぺリン、ジャネ、ヒポクラテス、オイゲン・ブロイラー等です。
@PhilosophyOR 凄さに優劣をつける最初の基準は、この学者は広く深く学問をしているだろうか、と云うことです。自分の分野は勿論他の学問も深く探求しなくてはなりません。要するに本当の学者を気取るならば万能学者でならなければならないと云うことです
@PhilosophyOR ショーペンハウアーが若き日のニーチェに相当の影響を与えたのは知っているが、晩年のニーチェは違う。哲学と詩人のどっちつかずで浅慮で読んでいて見識が狭いのが解かる。したがってニーチェを我々は高く評価していません。
@PhilosophyOR ベンサムとヴィトゲンシュタインはやめておいた方が良い。ヴィトゲンシュタインが最初に出した本の内容はショーペンハウアーの本の剽窃が殆どだし、ベンサムに至っては私の記憶にすら残っていない。エラスムスとかトマス・アクィナス、聖アウグスティヌスなんかも良い
@PhilosophyOR また哲学を知りたいのならば勿論文芸書も読まなくてはならない。なぜなら読まないとその作家の書いた内奥の精神世界が把握できないからである。また文芸を研究する時にも必要だからである。
@PhilosophyOR ベンサムよりデュルケームを読んだ方が良いかな。もっと詳しく政治や経済の問題を知りたいなら、リップマン「世論」をお勧めします。またヴィトゲンシュタインは過剰評価されすぎです。まあ、程度が低い人々が多いこの世の中でその人たちの能力に近いから支持されている
@PhilosophyOR 読んだ方が良いですね。私が呼んだのはかなり昔なので参考になりませんが、サルトルの本は哲学的推敲を要するので面白いですよ。他にはクレッチマーの「天才の心理学」は秀逸ですよ。話は逸れますが英の経済学者ミルは神童ともてはやされていたが、天才の本を読んだ時
@PhilosophyOR 絶望したそうです。なぜなら自分は天才ではないと悟ったからです。これはミルの自伝に書いてありました。
@PhilosophyOR 読むべき本はポールヴァレリー、キルケゴール等ですね。沢山ありすぎて書ききれません。ミルが驚いたのは冷静に天才の書いた書物を読んで圧倒されてしまったからでしょうね。因みに私は落ちこぼれでしたが、19歳の頃から猛勉強を始めましたよ。
@PhilosophyOR いや、程度の低い話ではありません。東大の大学院で哲学を専攻している学生と何回も話したことはありますが、20歳そこそこの私に全く反論できずに終わりましたよ。まあ、普通の会社員や公務員になりたいなら東大は有利でしょう。でも私は大半の東大生は馬鹿だと思います
@PhilosophyOR 悩めるだけ悩んだ方が良いでしょう。私の場合は高校卒業後、すぐに特殊訓練学校に行きましたが、後悔はしていません。自分が後悔しないような選択肢をした方が良いと思いますよ
@PhilosophyOR 絶望から抜け出す道を教えますね
私達は自分が存在しているのをどうやって確かめるのだろうか。確かに自我を以て自分の実在を確かめることはできるが、その自我自体が不可思議なものである。自我判簡単に他人の甘言によって揺り動かされるし、また夢と現実の区別がつかない時点で自分の存在のあやふやさを知るのである。
@PhilosophyOR 夢の中で「その認識」があるとは限らない。実際に夢と現実の区別が解からなくなるように「その認識」とは極めて曖昧である。認識だけが存在する場合はある。ショーペンハウアーの純粋主観にそのことは論じられている。人は芸術や音楽を鑑賞する時認識を放棄する。
@PhilosophyOR 要するに忘我の境地に陥り、主観と客観が融合することをショーペンハウアーは純粋主観と述べた。芸術を鑑賞している人物は自分が認識していると云う形態ですらないのである
@PhilosophyOR 詰まる所、純粋主観とは忘我の境地に立った認識のみのことを云うのである。
@PhilosophyOR 認識とは明白意識を伴わないと認識とは呼べない。大塚さんの言っている認識は認識ではなく、直観のことです。認識とは正当性の上に成り立っています。なぜなら自分の意識が鮮明であればあるほど認識の度合いが増すからです。それを突き詰めた先が直観です。
@PhilosophyOR 直観の定義は複雑を極めるので直観について書かれた本を何冊も読んで下さい
@PhilosophyOR 「直感」ではありません。「直観」です。全然意味が違います
@PhilosophyOR 直観とは肉体が前提です。私が述べた直観についてだけでも原稿用紙200枚以上あるのでここでは説明は無理です。