A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

殺人者の心理1

2007年05月17日 12時38分52秒 | 精神医学
 犯罪を犯したものの心理学的解釈は今なお曖昧なものである。その理由として挙げられるのが、認識の限界、精神性優劣感などである。まず認識の限界から話す事にしよう。ショーペンハウアーが「根拠律と四つの根について」で述べている認識の根拠律が適応される。この認識の根拠律とはこう言う意味である。自らの考え、感じている事は認知できるが、他人の考えているや感じている事は行動からしか推察できず、それを完全に認識する事はできない、という意味である。言われてみれば簡単だが、この問題に深い洞察を加えたものはごく小数なのである。しかもこの法則は人間相互間の意思疎通の問題にも連関しているので、見逃すわけにはいかない。したがって、この法則を鑑み、殺人者の行動を追うわけになる。それは行動心理学に近いものになるであろう。

エジプトにて

2007年05月14日 21時54分18秒 | 回想録
 昨年の九月にエジプトに行った時の事を思い出すと、かなり危険な状況下に身をおいていた。まず日本を発つ前にエジプト大使館と観光局に行き、情報を集めた。それによると、エジプトの治安機関はほとんど機能していない、という話であった。私はその事は先刻承知であった。発展途上国において、治安が維持されていないのは当然の事である。したがって、私はなんらの同様も覚えずにエジプトに赴いた。現地についてみるとさほど治安の悪さは目に付かなかった。首都のカイロでは政府機関が多く、さらには商店が一晩中営業しているために治安の劇的な変化を目にする事はなかった。
 次に私はルクソールを経由し、アスワンに向かった。地方都市になればなるほど、路上の整備や物乞いの人が増えていった。だがそれでも治安の悪化はさほど見られなかった。私はルクソールの宿で、「かわいいエジプト人はいないか?」と、聞いた。するとすぐさまそこの宿主は一生懸命になって、女の子を捜し始めた。結果から述べれば、女の子は見つからなかったが、そこの従業員とは関係をもった。宿主はもともと悪い人ではなく、たくさんの子供がいるためにやむを得ず、そういう行動に出たのである。エジプトでは女の子の斡旋は法律上禁止されている。私は宿主に冗談まじりに、「この事を他人に言ってもいいか?」と、聞いた。するとすぐさま宿主は、「それはだめです」と、応答してきた。もちろん、この会話は英語でなされたものである。そして宿主に私はチップを渡し、彼はカイロの良い場所を教えてくれた。
 私はカイロに戻り、前に知り合ったエジプト人に電話をかけた。これが不幸をもたらすとは思いも知れず、私は電話をかけたのである。私は三人のエジプト人と待ち合わせ、女の子と知り合う段取りを決めた。しかし彼らがあまりに法外な金額を請求したので、私は憤慨し、すぐさまルクソールの宿主に教えてもらった場所に向かった。だが私はここで初歩的な間違いを犯した。私は尾行されているのに気がつかなかったのである。それでも私はボディガードである。店に着いたときに一番見通しのつく場所に座り、あたりを警戒した。案の定、彼らは十分後に店の中に入ってきた。私はその状況に危険を感じ、いったんホールに出た。それから三十分もしないうちにマフィアが大勢、押し寄せてきた。しかし私もプロである。その光景にまったく動じず、前もって買収しておいた店の用心棒の助けもあって、六時間ほどその場所に居座った。これこそが「獅子身中の虫」である。たくみにマフィアと親しくなり、店の中でも自然な風体を装った。そして無事にその危険な状況を抜け出したのである。もちろん、手元にはいくつかの武器を用意していた。ナイフやフラッシュライトである。もしその時に襲われたら、私はマフィアの何人かを殺害しようとまで考えた。それほどの度胸がなければ、修羅場は潜り抜けられないのである。
 私は店を出た後にすぐさま警察署に行った。だが観光局の言うとおりに警察は機能していなかった。私は事前に用意しておいたメモを取り出し、大使館に連絡を取った。そして明朝には大使館に着き、事のあらましを説明した。知り合ったエジプト人の携帯の番号と違法な事を行っている店の住所を大使館に報告した。それから、滞在していたホテルを引き払い、別のホテルに移った。これは様々な事を憂慮して行った行為である。私はその後、ホテルの外には出ず、ひたすら耐え忍んだのである。
 

論理学

2007年05月14日 15時11分20秒 | 哲学
 人々は往々にして、論理学を知らないうちに用いている。これは人間性の一つの特徴であり、なおかつ理性のなしうる技である。まず理性とは概念をつかさどる。この概念の相違が論理学の出発点となる。概念のいくつもの可能性が論理学の根本的な意味である。人々によって、概念の持つ意味合いは多少違う。それが暫時、組み合わさっていき、論理が成り立ってゆくのである。例えば、旅行という概念を見てみよう。ある人にとって、それは楽しい事である。またほかの人にとっては面倒くさい事である。すでにここから概念の相違が見られる。そしてこの概念の相違を吟味し、統合してゆく事で、論理は成り立ってゆくのである。もしここにかくかくを証明しろなどという愚かな事を述べるのは、精神的な盲者のみである。なぜなら、概念という代物はそれが形成された時点ですでに論証不可能なものになっているからである。私が前に述べた旅行の概念にしてもそうである。だが論証可能なものも存在する。それは現実世界の表象である。木や水などがそうである。これは感覚が直接に感じ取る一種の複合体である。この部分についてはすでに過去の哲学者が詳しく述べている。それをかいつまんで述べるとこうなる。
 「我々が同じ表象を感じ取るのは、そこに直覚的な機構が関与しているためである。我々は常日頃、意識せずにそれを行っているが、そこにこそ人間同士の深いつながりの根底がある。我々がそこに物理的な論証を用いる事は可能であろう。しかし我々はそこに直覚的な論証を行う事はできないのである。」