昨日と今日は、今月唯一の連休でした。
今朝は、8時くらいに起きました。
10時からあるミサに与るのにはもちろん充分なんだけれど、どうも心身ともダルく、「さぼっちゃおうかな…」という悪心が過ぎります。
でも、せっかくの日曜ミサに与れる機会を放棄したら、きっと良くないことが起こるに違いない…。
そういうマイナスな了見でミサに与るのはよくないことだとは思うのですが、それが実際のところでした。
9時40分くらいにいつものようにチャリンコで教会に向うと、途中の横断歩道で信号待ちになりました。
と、私より先に信号待ちをしていたオジサンが、しきりに何かをブツブツとつぶやいている。
そのオジサンは小柄だけど、小太りでガッチリした体格でした。紺のスーツを着ています。
つぶやいている内容はよくわかりませんが、芳しいものでないことは確かです。日曜の朝からスーツを着て、このおっちゃんは何をそんなに追い込まれているのだろう…。
信号が青になって歩き始めても、オジサンのつぶやきは止まりませんでした。
さて、今日の福音朗読は、ルカの6章が読まれました。
貧しい人々は、幸いである。神の国は、あなたがたのものである。
今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
今、泣いている人々は、幸いである。あなたがたは、笑うようになる。…。
これは、とても有名な聖句ですね。このあとには「富んでいるものは不幸である」と、とかれます。
なぜ、貧しい人が幸福なのか。笑っている人より泣いている人の方が幸福なのか…。
そんなことを考えたこともありましたが、今日は、ただボンヤリと朗読を聞き、神父さんの説教に耳を傾けていました。
私の通っている教会の神父さんは、まだ四十ちょっとの若さで、とても元気がいい人です。
今日も持ち前の元気のよさで、
「今、笑っていられ、暖かいものを食べられていたとしても、それはけっして自分の力によるものではないでしょう。ほとんどが、神の恵みによるものだと思います。また逆に、誰でも、つらいとき、泣きたいときがくる。そのときには、今日の言葉は励ましのメッセージにもなります」…。
というふうに、明快に語ってくれました。
その元気なお説教が、なぜか不思議と、このところクサクサしがちな私の「気分」に合ったのでした。
(そうだ、そうだ。もっとヒドイときが、いくらもあったじゃないか。こんなにたくさんの人とミサに与れて、お酒が飲めて、映画も観れる。ぜんぜん不幸なんかじゃないよ…)
一瞬、そんな気持ちになれたのです。
その気持ちのイキオイを大事にしようと、いつもはミサが終ると真っ直ぐ帰るところを、改装になったばかりの信徒会館をのぞき、コーヒーも飲んできました。
さて、帰ってすこし調べると、この聖句が、祝福の呼びかけらしいことを知りました。
原語を直訳すると、
『幸せなんだよ、貧しいってことは。だって、あなたたちのものなんだよ、天国は!』
というふうになるようなのです。
つまり、今、目の前にいる「貧しい人」や「飢えている人」や「泣いている人」に対して、
「大丈夫、大丈夫!あなたたちこそ天国に行けるんだよ!」
と、三十二、三歳の、元気でカリスマ性ある青年イエスが、文字通り励ましている光景が頭に浮かんできて、何だか嬉しくなりました。
そんな人がそばにいてくれたら、こんなに心強いことはないでしょうネ。
今朝の、ブツブツつぶやいていたおっちゃんにも、こんな福音が聞こえるといいナ…と、思ったことでした。
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今朝は、8時くらいに起きました。
10時からあるミサに与るのにはもちろん充分なんだけれど、どうも心身ともダルく、「さぼっちゃおうかな…」という悪心が過ぎります。
でも、せっかくの日曜ミサに与れる機会を放棄したら、きっと良くないことが起こるに違いない…。
そういうマイナスな了見でミサに与るのはよくないことだとは思うのですが、それが実際のところでした。
9時40分くらいにいつものようにチャリンコで教会に向うと、途中の横断歩道で信号待ちになりました。
と、私より先に信号待ちをしていたオジサンが、しきりに何かをブツブツとつぶやいている。
そのオジサンは小柄だけど、小太りでガッチリした体格でした。紺のスーツを着ています。
つぶやいている内容はよくわかりませんが、芳しいものでないことは確かです。日曜の朝からスーツを着て、このおっちゃんは何をそんなに追い込まれているのだろう…。
信号が青になって歩き始めても、オジサンのつぶやきは止まりませんでした。
さて、今日の福音朗読は、ルカの6章が読まれました。
貧しい人々は、幸いである。神の国は、あなたがたのものである。
今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
今、泣いている人々は、幸いである。あなたがたは、笑うようになる。…。
これは、とても有名な聖句ですね。このあとには「富んでいるものは不幸である」と、とかれます。
なぜ、貧しい人が幸福なのか。笑っている人より泣いている人の方が幸福なのか…。
そんなことを考えたこともありましたが、今日は、ただボンヤリと朗読を聞き、神父さんの説教に耳を傾けていました。
私の通っている教会の神父さんは、まだ四十ちょっとの若さで、とても元気がいい人です。
今日も持ち前の元気のよさで、
「今、笑っていられ、暖かいものを食べられていたとしても、それはけっして自分の力によるものではないでしょう。ほとんどが、神の恵みによるものだと思います。また逆に、誰でも、つらいとき、泣きたいときがくる。そのときには、今日の言葉は励ましのメッセージにもなります」…。
というふうに、明快に語ってくれました。
その元気なお説教が、なぜか不思議と、このところクサクサしがちな私の「気分」に合ったのでした。
(そうだ、そうだ。もっとヒドイときが、いくらもあったじゃないか。こんなにたくさんの人とミサに与れて、お酒が飲めて、映画も観れる。ぜんぜん不幸なんかじゃないよ…)
一瞬、そんな気持ちになれたのです。
その気持ちのイキオイを大事にしようと、いつもはミサが終ると真っ直ぐ帰るところを、改装になったばかりの信徒会館をのぞき、コーヒーも飲んできました。
さて、帰ってすこし調べると、この聖句が、祝福の呼びかけらしいことを知りました。
原語を直訳すると、
『幸せなんだよ、貧しいってことは。だって、あなたたちのものなんだよ、天国は!』
というふうになるようなのです。
つまり、今、目の前にいる「貧しい人」や「飢えている人」や「泣いている人」に対して、
「大丈夫、大丈夫!あなたたちこそ天国に行けるんだよ!」
と、三十二、三歳の、元気でカリスマ性ある青年イエスが、文字通り励ましている光景が頭に浮かんできて、何だか嬉しくなりました。
そんな人がそばにいてくれたら、こんなに心強いことはないでしょうネ。
今朝の、ブツブツつぶやいていたおっちゃんにも、こんな福音が聞こえるといいナ…と、思ったことでした。
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