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第760話.多分合っていると思われる事 - 人間の本質(神の子&神の一部)へのリスペクトはしつつも、能力差、実力差とそれへの評価の差も同時に受入れる

2022-05-29 11:33:23 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

仕事をしていると実力差と言うものが出て来ますね。

ある人は、より付加価値の高い仕事をし、その方へは評価は高くなり、結果、報酬も多めになりますね。
一方で、能力的に、実力的にそこまで及ぼない方々も多数おられます。なので、それらの方々への評価はそれなりとなり、報酬もそれなりに差が出て来ますね。

でもそれは、致し方ありませんね。実力差があるのに同じ扱い、と言う訳には行きません。

でも、だからと言って、そうした方々も、軽く見られたり、バカにされたり、人格を否定されるような事はあってはなりませんね。

所詮、仕事ですから、その実力差、能力差は、報酬差や役職の差で反映されるべきではありますが、でも、それら能力的に劣ると言うだけでもって、軽んじられたり、人格を否定されるべきではありません。

得手不得手はあるし、別の仕事なら別の結果が出るかもしれないし、または、単にその仕事に合わないだけかもしれない。それだけかもしれない。そんな仕事上の適性でバカにされたり、人格を否定されるようなことがあってはなりませんね。

何故なら、人間は神の子達であるからです。

過去、このブログで何度も書いて来た通り、様々な世界の思想や宗教の最大公約数的な真理として見てみると、人間は、本質的には神の子なんであり、霊的な存在であり、転生輪廻の中、何度もこの世に生を受けては、個人においてはカルマを解消し、良い所を伸ばし、経験を積み、そうした経験を通してより神近き存在になる事が期待されている存在で、一方、修行の場としてのこの世を、より良い場にする為に、この世のユートピア化のお手伝いを各人がする事も期待されている存在でもある、それが我々人間であり、我々が何度もこの世に生まれてくる意味なのだ、この世の存在意義もそこにあるのだ、と、過去何度も述べて来ました。

また、別の言い方では、神の光を分光して出来たのが我々、とも聞く事があります。その意味で我々は神の分け御魂、"神の一部"とも言える存在かとも思いますね。

ただ、神の"一部"とは言え、我々は神そのものではない事も事実なので、その点をしっかりわきまえておく必要がありますね。
例えば、神と言う巨大な体を持つ存在がいるとして、その神の体を構成する60兆個もある細胞の一個が、自分、てなもんです。例えば、右手の甲の、その皮膚細胞の一個が自分、みたいなもんでして、そんな皮膚の細胞一個(自分)としては、神と言う巨体の全貌を認識できるはずもないし、神と言う全体がこれから成さんとする事も、どこに向かおうとしているかも、全く分からないはずなのです。なので我々は神ではありませんね。
それに、神なら知っているであろう、この世界がどう始まったか、とか、いつ始まったか、いつ終わるのか?この世界の存在意義は何か?なんて言う究極の問いに答えられませんし、自分がいつ死ぬかすら知りません。神なら出来るであろう、無から何かを生み出す創造の力もありません。ちょっとした自己実現位はできてもね。宇宙の創造、生命の創造なんて出来る訳がないのです。なので、我々は神の一部であっても、神、そのものではないのです。

なので、我々は、神そのものではない。神の様な力はないけど、神の一部として同じ神の体の一部の構成員であり、同じ血液で生きており、同じ遺伝子を内包している、それは事実。なので、そこに誇りを感じてもいいけど、神そのものではない事も認識し、謙虚でないといけない訳です。

神と話す能力もないので確実に"その考えが絶対に正しい!"と断定はできませんが、多分合っていると思います。と言う事で、我々は人間は神の子であり、神の一部ではありますので、我々は神性、神の性質を内に宿す、尊い存在、と言えるかと思います。

であれば、たかだかその仕事への適正が不十分だからと言って人格まで否定されるようなことがあってはなりませんね。実力の如何にかかわらず、その対象の方への最低限のリスペクトがそこにはあるべきです、ね。なので、仮に人格まで否定されるような場面があれば、その否定自体が否定されるべきですね。
軽くキレても宜しいかと思います。

でも、そうした本質論はあるにしても、一方で、歴然とした実力差、能力差と言うものも、残念ながらありますね。そしてそれに伴い報酬や役職に差が出ざるを得ないですね。でも、それは仕方がありませんね。そこは受け入れざるを得ません。

一度の人生だけで見ると、若くてもとても才能のある人もおり、逆にある程度年を取っていても、実力的に若手に劣る場合もあり、その持って生まれた才能の様な差に、ある種の不公平感を感じる場合があるかもしれません。

でも短い一度の人生の、若年の期間だけを取ってみても、

ある人は目的性を持ったしっかりとした努力を数年掛けて積み重ねており、結果、プロと呼べる領域にまで達しており、何となく生きて来た人達と大きな差が出ている場合はありますね。

一方で、普通の人達は同じ時間を過ごしても、練習や鍛錬に時間を費やしている風でも、目的性が曖昧で、一体何を向上させたいか?というテーマすら曖昧で、何となく時間を過ごしてしまっている場合もありますね。その二人の間には埋められない大きな差が数年間であっても出て来たりします。たった一度の人生の、若い時期だけをとっても、努力の質と量で、大きな差が生まれて来る訳です。

大谷君や井上尚弥選手の様に、何を伸ばしたいか明確な課題を持って鍛錬を積み重ね、一つ一つ課題の能力を身に着けて来て、超人の様な域にまで及ぶ方々もおりますね。

そうした若年の時期だけでも差が出て来るのに、例えば、転生単位で100転生、1000転生とその差を重ねた場合、そこには埋めがたいとてつもなく大きな大きな能力差、実力差が生まれてくるはずです。大谷君など、不公平なほどの才能があり、凡人の我々とは同じ人間とは思えませんが、仮に彼が過去の転生で似たような競技、または武術等に携わって来たとして、彼がそこで正しい努力を数十年もそれぞれの人生で重ね、そうした転生を10回、100回と重ねていたとすれば、現状の彼と我々の実力差は納得がいくかと思うのです。

なので、持って生まれた能力に関して、他者と圧倒的な差を感じる場合には、または"神様は不公平"なんて思えるような場面に出くわしたなら、転生の中での努力の差を疑ってみると良いと思います。高品質な努力を、それぞれの人生で何十年も続け、そうした人生を数百回、数千回重ねて行けば、そこには、埋めがたい差が出て来る事も理解できるはずです。

なので、仮に不公平感を覚えるほどの実力差を見せつけられたとしても、それに余りガッカリなどせず、"転生の中で大変な努力をされて来たんだろう…立派だね。おめでとうございます。"位に思うとなんか気が楽になりますし、その方の転生を超えた努力に対し、素直に称賛する気持ちも沸いてきますね。

もしそうした場面に出くわしたなら、是非そう言う見方で見る事もお試しください。

そして、次の転生でのご自身の活躍に期待を掛けて、今世の残りの人生で来世に繋がる質の高い努力をされる事もお勧めします。LIFE GOES ON。人生は今世だけじゃないしね。

では。

湖畔人

第673話.カジスピ(カジュアルスピリチュアリズム)ライト④ 我々がこの世に生まれてくる意味のおさらい

2022-01-02 23:16:17 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

正月ですので、我々がどういった存在で、この世に生まれてくる意味は何なのか、それらについて、ちょっと簡単ですが、再度お浚いをしてみたいと思います。

●我々人間は一体どういった存在か?

まず、我々人間は一体どういった存在か?と言う事ですが、

我々は皆、神の子、仏の子供と言われていますね。これは、全員そうでして、一人の例外もなく全員そうなのです。神と同じく霊的な存在で、神の子として、神に似て行く事が期待されている存在なのです。なので、神の様な霊性の獲得、神の様な良き性質、良きリーダーになる事が期待されている存在です。一度の人生では神に1㎜も近づけないので、幸い転生輪廻があり、何度も生まれ変わっては、生まれる度にちょっとずつ神様に近いづいている、それが我々、人間です。

●業(カルマ)と償い(カルマの解消)と輪廻

一方、その事実を知らず、神の子と言う事実とかけ離れたひどい事、例えば、殺人事件や犯罪を犯す人たちも多数おります。でも彼らもまた神の子達なのです。

誰かを傷つけた場合、被害を与えた相手も神の子なので、相手の神性(仏性)と自分の内なる神性(仏性)に対し心からのお詫びと償いが要りますね。その相手を傷つけてしまった事はカルマ、業として記録されます。

その償い、業の解消は、死後の地獄の反省業もそうだし、来世、来来世でその償いをするような出来事が起きる事で解消されます。きっとその人物には理解出来ない形で、迷惑を掛けた相手に人知れず罪を償うような状況が現れて来るのではないかと思うのです。そうして生きていく中で作ってしまった悪しき業は輪廻の中で解消してまいります。

なので、大量殺戮をした人は大変ですね。短い償いの為だけの人生を何度も過ごすのかもしれませんね。想像ですがね。

でも本来なら、そんな来世のカルマの解消など待たずに、他人を傷つけたなら、直ぐにその相手に対し心から直接、言葉で詫びるべきだし、それが無理でも直ぐに心の中で詫びるべきですよね。それが大事な事です。罪を犯さない人など一人もおりませんから、間違いを犯したなら、直ぐにでも詫びる事です。

一方、イイことをした場合は良き業(カルマ)が付きますね。その場合、幸運、人気と言う形で今世、または来世、来来世にその人物に良きカルマが返って来て、良き境遇に出会う事になりますね。多分ね。

それが業(カルマ)と償い(カルマの解消)と輪廻ですね。

●神に近づくと言う事

では、この世に生まれる意味の一つ、神に近づくとは一体どういうことか?と言う事ですが、

簡単に言えば、神に似る、と言う事です。

では、神は一体どういったご存在か?と言う事ですが、神は優しく、強く、勤勉で、賢く、正しく、道徳的で、善なる存在で、正邪を分かつ存在で、偉大な創造者で、芸術家で、美を愛する存在で、科学者で、全てを知る存在で、多くの存在を産み出し育む生命の親ですね。太陽の様な命の元であり太陽のように明るく積極的なご存在で、時々怒ると怖い存在、でもあります。また、霊的なご存在でもあります。ただ、根本は優しい、愛の存在、と言う事ですね。

愛を教えるイエスが神の独り子と言われた理由も、そこにあります。(実際には独り子ではなく全員神の子ですがね)神は愛の存在なので、我々も優しい人間をまず目指すべきです。

優しい、とは言っても相手が何をしてもイイよ、イイよ、ではどうしようもないので、人として正しさとは何か、霊的人生観から見て何が正しい行いかを知る人間にまずなる必要がありますね。そして、その霊的真相、人が持つべき霊的人生観に合致した行いは褒め、称え、一方で、それに反した悪しき行いに対しては愛を持って叱る人間が真に優しい人です。

ですから、宗教や道徳や哲学も学び、霊的人生観から何が正しい生き方か学ぶ必要があります。お薦めは毎年ベストセラーを連発する現存する日本の宗教家の教えです。

そしてその正邪を人に言うにはこちら側にも説得力が要るので、自分もイイ人であろうと日々努める必要があるし、必要に応じて他人にそうした生き方を伝える勇気も必要なのです。言い方は技術なので他人に反発心を抱かせずうまく言える技術を学ぶ必要があります。

その上で、何より嘘が無いことが重要です。出来る事は出来る、出来ないことは出来ない、分かる事は分かる、分からない事は分からない、と、嘘が無いことが重要です。

そして霊的な存在としての神に近づくとの事ですが、霊的な事柄は宗教書で学ぶ必要がありますが、霊的な世界観を知識として学ぶ事も大事ですが、同時に、霊的な性質、例えば、念いの強さとか、祈りの強さとか、信じる力を強めるとか、愛の力を強めるとか、勇気を強めるとか、迫力をつける、即ち真剣に生きる、とか、色々な精神的修行要素もあるかと思いますので、そうした事も学んで強化して行く必要がありますね。

でも簡単言えば、

日々神仏に感謝しながら、日々神仏と共に生きんとし、日々言動も仕事の質も、ちょっとずつ良くなるよう努め、周りに笑顔で接する感じのイイ人になる事をまず目指すべきかと思いますね。で、時折必要に応じて他人も叱れる勇気を持つ人間になる事が重要です。そして各自の専門分野のプロを目指すべきですね。

そんな感じでしょうか?

●あの世とこの世の意味

でも、何故、霊性の獲得の為に霊的には盲目なこの物質世界、3次元世界に生まれて来る必要があるのか?と言えば、それは、
あの世は波長導通の世界なので、自分と似通った人々が集まる、ある意味居心地の良い世界なのですが、同時にそれは、似た者同士ばかり周りにいて、全く成長も無い世界なのです。なので、霊的にはブラインドな状態ではあるが、様々な考え方や、様々なキャラクターの人々が集まるこの世に生まれては、違う考え方に触れて、葛藤を覚えつつも己の足りていない点に気付き、新たな側面を己に付加して、より神に近づいて行くことがこの世の意味かと思います。ですので、葛藤は成長のサインと捉えるべきです。ツライですが、成長のチャンス到来と受け取るべきなのです。なので葛藤を感じたならば、"ああ、今、自分は、この世に生まれて来た理由である所の、違った考え方に直面し、学びを得んとしているのだ"、と思うべきなのです。(もちろん相手が異常なだけの場合もあるので、その時はツッコミを入れるか、その場を離れるべきですが、相手に一理あるなと思えば、その時は、取り入れるべきなのです。)

後は、この世に生まれて来る意味は、前述の悪しきカルマの解消の為と、

後は、修行の場であるこの世がより良き場になるよう、各自それぞれの場で最善を尽くす為に生まれている、とも言えます。今の世は神や仏への関心が不十分なので、そうした点は改善が要るし、イルミナティの陰謀の通りにならないよう抗う事も大事です。言い方を変えれば、ユートピアの実現を目指す、と言う事になります。

今年も神に1㎜でも近づけるよう頑張らんとイカンですね。ハイ。

では、共に頑張って参りましょう。

湖畔人

(2022年1月3日改訂)



第594話.カジスピ(カジュアルスピリチュアリズム)ライト③ 神と人間 幾ら神の一部とはいえ a)プライドの根拠,b)罪の償いの仕組みと罪の意味,c)神の一部として役割の違い,わきまえるべき神との違い

2021-07-17 17:08:07 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

今日もカジスピを少し。

まずは、今回は前提として、神が在り、人類が神の作られた霊的存在と仮定した場合、それを前提とします。無神論者は今回は相手にはしません。

その場合、人間の定義として、人類を、神の創造物、神の子達、神の光の分光された光の一粒、神の一部と言う言い方がされる事が多いかと思いますが、今回はその視点でお話をします。

人間を罪の子と定義したい宗教もありますし、人間が不完全で間違いを犯す存在と言うもの事実ではありますが、神の視点から見れば、神が愛と慈悲に溢れた方、と想定した場合には、自分の造りしこの世界も人類も動物も、神はそれらの存在を肯定されると思いますし、彼らの幸福と調和と成長を常に願われているご存在なはずなので、そうした人間罪の子思想は、その慈愛に満ちた神の視点にそぐわない考えとして、今回は脇に置きます。今回はアジア的な、人間神の子達と言う思想、人間を神の一部と見る思想が、より神の本意に近いと仮定し、話を進めたいと思います。

その前提で、先に申した、人類を、神の創造物、神の子達、神の光の分光された光線の一つ(または光の粒の一つ)、神の一部と定義をする事が多いかと思いますが、全て当たっているかと思います。

a)プライドの根拠

我々は神の子であり、神の一部でもあり、故に尊い存在なのです。だって神の子供で神の一部なのです。これ以上ないのです。もうサイコーな存在なのです。一人一人全員がです。例外なくね。これが各人の持つプライドの理由なんだろうなと思っています。だって、神の子で一部ですから、鼻も高くなるし気位も高くなるはずなのです。当然の事です。でも後で話しますが我々は神そのもののではないのです。そこはわきまえる必要があります。でも多分その霊的真実が我々の高すぎるプライドの理由なんだろうと推察します。

b)罪の償いの仕組みと罪の意味

勿論、その事実に目覚めず、それにふさわしくない生き方をしている人達が多いのも事実ですが、でも霊的な真実として、そうした前提があるかと思います。

でも、各自がその神の子、神の一部としてふさわしくない生き方をした場合には、因果の理法、作用&反作用の法則、カルマの法則の中で、その間違いの報い、反作用を受けて、必ずその間違いを修正する事になる仕組みになっているようなのです。逆もしかりで、良いことをすればそれが尊敬や人気や徳や運となって本人に返ってくる仕組みがあるようなのです。なので、フェアーな仕組みです。しかも人生は一度だけでなく、死後の世界でもその調整作業は必ずあるし、来世、来来世でも、その修正と調整は入ります。なので、必ずフェアーに本人に返ってくる仕組みなのです。ですから、本来それを知っていたら、周りに意地悪なんて出来ないのです。だって後で必ず自分に返ってくるからね。相手に親切にすれば親切にされるのです。よって、良いことを、親切を、沢山、沢山すべきなのです。だって全て自分に返ってきますからね。

我々が他人に対し何か悪さや否定やいじめや虐待をする場合、それはその個人に対する罪とも言えますが、ある意味、神に対し罪を犯している、とも言えるかと思うのです。だって、各人の心の奥底には神と繋がった部分、神性、所謂、神の一部としての部分があって、ある人を傷つけ否定した場合、そこ(神性)を傷付けているのと同じことになるからです。だから、罪深いし、誤魔化せないのです。それがカルマの修正がいる理由、罪の本当の意味なのではないのか?と思います。まぁ私の想像ですが、結構イイ線行ってるのではないか?と思います。

c)神の一部として役割の違い,わきまえるべき神との違い

人間は神の一部とは言いましたが、とは言え、やはり我々は神そのものではありません。

神であれば、この宇宙と人類の創造が可能な方であり、この宇宙や人類の存在の意味と目的をご存じな方であり、全てを知っている方なはずなのです。でも各自が、自分の胸に手を当ててみれば、我々が宇宙や人類の創造が出来るか?と言えば、そんな事出来るはずもありませんし、宇宙や人類の存在の意味と目的を知っているか?と言えば、そんな事はまったく判っていません。なので、我々は神ではありませんね。当然のことです。そこをわきまえる必要があります。

神と人間の関係性を例えてみれば、

仮に、神が一人の人間の体だとして、我々がその神と言う体の皮膚の表面の細胞の一個だとします。私が神の右手の手の甲の皮膚の細胞の一つだとして、私のすべき事は、手の甲の皮膚の細胞として、私は、ばい菌の流入を防ぎ、神経を張り巡らせ、熱い物が近づけば危険と信号を発し、尖ったものが当たる感覚があれば、それも危険と信号を発して体全体に危機を知らしたりします。それが私の役割であり、仕事です。でも手の甲の細胞として私は自分の体全体(神)を認識したり、自分の体全体として思考したり、判断したり、指示できるか?と言えばそれは出来ませんね。だって単なる皮膚の一細胞ですから体全体(神)の事は分かる訳ないのです。我々人間は、仕事の範囲と責任範囲が限定されているのです。でも神は体全体に責任を持つご存在なのです。それが神と人間の違いですね。敢えて例えて言えばね。

でも、間違いなく我々は神の体の一部であり、尊い存在なのです。そうした尊い存在が我々人間だけど、神そのものとは違うのでそこはわきまえ、自惚れないでね。と言うことです。

神と同じ血が流れ、神と同じDNAを持つ存在として、自信と誇り、絶対の安心、そして感謝の心をもって、各自の役割を全うすべく努力すべきなのです。

我々は神の一部なのです。最強で最高なのです。でも周りの人も同様に神の一部です。互いに大切にし、尊敬しあいましょうね。と言うことです。

ある人は髪の毛として頭部を守る役割です。ある人は爪として、指を守る役目です。見た目も機能も硬さも色も別、でも、自分と同じでないからと言って違和感を感じる必要はないのです。役割と目的が違うだけだからです。そう思い多様性への理解が必要です。みんなで神と言う体全体の一部を担っている尊い仲間達なのです。大切にしあいましょうね。

では。

湖畔人

第591話.カジスピ(カジュアルスピリチュアリズム)ライト② 自分が悪いかも?位がちょうど良いかも

2021-07-10 14:54:37 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

今日は、個人的な感覚と言うか、直感的な話で恐縮なのですが、"自分が悪いかも?位がちょうど良いかも"と言う話です。

色々仕事でも私生活でも、この方向で行くべき、反対意見はあるかもしれんが、心をロックして、押し通すべし、なんて思って、その決意に迷いが出そうな反対意見があればそれを振り払うか、無視するか、視界から外すか、心に蓋をするかして、迷いを振り払って断断固突き進むべし、なんて思って断行する事が多々あるかと思うのですが、もちろん、その実施中にはそう思ってやるべき、とは思うし、自分の弱い心を叱咤して、強い心で臨むべき、とは思うのですが、後から、客観的に見れる程時間が過ぎて、リラックスして見てみると、どうも、意見が合わず、敵対していた人達にも一理も二理もあったかな?と思えたりすることがあります。

そして、当時は心を固めていたので、嫌ったり嫌がっていたけど、今思うと自分の方にも大分問題はあったし、何か悪いことをしたな、気分を害してしまっていたならごめんなさい、と心の中で思う事があります。そう思うと、何故か心も体もポカポカします。何故かね。

何となく思う事ではありますが、各自全員が心の奥底に持っている神様と繋がるパイプがあるかとおもうのですが、自分の非を認め、心で詫びることで、何かそのパイプに詰まっていた垢がとれて、神様から降り注ぐ光が注がれやすくなり、それで暖かさを感じやすくなるのかもしれませんね。

これがいわゆる反省というものなのかもしれず、よく、反省業をして心を浄化することが大切な修行の柱の一つ、なんて言う宗教が多々あるかと思いますが、確かに、反省と言うか点検をしてみると、心も体もポカポカしてさっぱりした気分になり、なんか軽い気分になるのは本当の話です。

最近思うのですが、かつて自分がしでかしたちょっとした悪さや、極端な出来事を思い返すと、その時は、”だってあの時はこう言う環境だったんだから、自分は悪くないし、仕方がなかったんだ”、なんて思って心に蓋をして封印をして、あまり考えたり、後悔をしたりしないようにしていたのですが、でもちょっと客観的に見れる程、心に余裕が出てきて、リラックスして嘗ての状況を見返してみると、ほとんどのケースで、自分に非があった事に気づきます。ほとんど全部、自分に問題があり、論外だった、と言う判定が出てしまうのです。これには驚きました。もう、迷惑ばかり掛けて、ホント生きててすいません、なんてレベルになってしまうのです。これにはビックリしました。なので、こうした振り返りは、自分に自信も余裕もないと結構厳しい作業かも、なんて一方では思います。

でも事実として、今、冷静にそれらの引っかかる出来事を振り返ると、ほとんどのケースで、自分に都合の良い、自分に甘い解釈ばかりして来ていて、殆どのケースで、正直OUTだったよな、自分が自分の上司だったら相当辛い点数を付けてペケ判定を出していただろうな、十分すべき事をしていなかったな、と思えるのです。残念ながら。それこそ、出会った人達全員に”ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした”って謝らないといけない感じなのです。もうアチラに帰った時、”まずは地獄で反省し、自分を見つめ直し、深く反省してしてから100年後に上に戻りなさい!"なんてガイド役に言われそうなレベルの出来の悪さでした。もしそんな事言われたら、そん時は素直に受け入れるしかないなと正直思いましたね。残念ですが、その位の出来の悪さでした。

でも、そう思ったら、また、心も体もポカポカして来てなんかさっぱりした気分になって来るのです。これがまた不思議な感覚なのです。でも、これマジな話です。ハイ。

湖畔人


第562話.カジスピ(カジュアルスピリチュアリズム)ライト① 神と霊的世界の実在の可能性その確率は5割

2021-05-09 16:13:08 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

以前、348話で”カジスピ(カジュアルスピリチュアリズム)の薦め ~命取りになる無神論への対応~”と言うのをやりましたが、これから、このカジスピ括りで、もうちょっと短く、項目ごと、切り口ごとに、コメントを重ねて行きたいと思います。

この手の人生観系、宗教観系のをやるとどうしてもいろいろ詰め込みたくなって長くなりがちなのですが、今後はテーマごと、切り口ごとで超短く行きたいと思います。

まぁ、そもそも、こうした事をしている目的は、”神様がいるのかもしれないけど、よくわからないし、あまり考えたくもないし、宗教にも抵抗があるし”、なんて言う方に対し、”とは言え、答えは、神がいるかいないか、どっちかだし、いるなら求められる生き方もあるだろうし、ある程度それを意識した生き方をした方がいいのでは?”と言いたいからやっています。

今回は、”神と霊的世界の実在の可能性その確率は5割” と言う切口で行きたいと思います。

神様がいれば、霊的世界も自動的に存在することになります。古今東西色んな宗教がそう説いて来ましたね。人間は霊的存在で、この物質世界に生まれ生きて行く中で、霊的な事柄、霊性、即ち愛とか優しさとか、勇気とか正義感とかそうした精神的な美徳を身に付ける。他に霊的知識を増やすとか、集中力を増すとか、念の実現力を増すとか、知識&知性全般を増やしこの世界への理解を増すとか、コミュニケーション能力全般を向上させるとか、他、神が持っている様々な精神的な美徳を、神の創造物、神の子供達として学び身に付けることが期待されているのが私たち人間でして、その方向での努力が期待されている訳です。同時に全ての人が神の子供達ですので、同じ神の子供達でもある他人を傷付ける事も、暴力もレイプも窃盗もウソも悪口(愛の無い)も許されないし、やるとマイナスポイントが付くと言う事になりますね。逆に、同じ神の子供達である他人に対し、親切にし、大切にし、助けあい、正しい方向での自己実現をし社会貢献すればプラスのポイントが付き、神様や神近き方々からお褒めいただく事になります。そして人生を終えた時にマイナスポイントが多いと地獄に行き、プラスポイントが多いと天国に行くと言う事になりますね。仮に人生の終盤でマイナスポイントが多かったとしても、ちゃんと反省をすれば罪(マイナスポイント)も軽減されマイナスポイントが消え許され地獄行きが免れる、そう言う考え方ですね。仮に地獄に行くことになってもしっかり魂の間違った傾向性を正し、やはりこんな考えじゃだめだ、と思えれば天国に戻れるようになる、と、これが多くの宗教に共有する霊的世界観かと思います。神様がおり霊的世界があればそうなります。ここからユダヤ系とアジアの宗教では違いがあって、ユダヤ系の方は人生は一度切りで地獄も天国も永遠となり、一方、アジアの宗教では転生輪廻があって地獄に行っても罪を償えば天国に戻り、またこの世に何度も生まれ経験を重ね、失敗を重ねながら段々と目標である神近き存在になって行くと言うのがアジア的思想です。個人的には、一度の人生で永遠の業火に焼かれるなんて人生観では余りに不公平なので、アジア的輪廻の世界観の方が正しいと思っています。西洋でもニューエイジやエドガーケイシーなどが現れて輪廻を広めており、ユダヤ的世界観への限界への修正が入って来ていますね。と言う事でアジア的な世界観の方が正しいと思うし、今後これが世界の常識になって行くかと思います。いずれにせよ、我々人間は神の子供達として神の望む方向性で生きて行く必要があります。神の持つ精神的要素を出来るだけ多く身に付け、愛とか優しさとか、勇気とか正義感とかを強めより神近くなり、神の子供達どうし、周りの人達に優しく接して生きて行く事が期待されているのは間違いなさそうです。

皆さん、この価値観から見て天国に行けるような人生を生きてますでしょうか?

生きていなかったとしても反省があれば、罪は軽減しますので今からでも遅くはありません。行いも心の中も神々や霊人達が見ていると思って嘘をつかず人に優しく一生懸命働いて生きる。ただそれだけでOKです。そして出来れば毎日、あなたを見守っている神々や守護霊や指導霊達に感謝をする事です。そして必ず間違いはおかすし失敗もするので、ちょくちょく反省する事が大事ですね。

神がいる=霊的世界が存在する=霊人達が常に我々の心も行いも見ている=死後天国か地獄に行く事になる=よって普段から他に優しく嘘をつかず正しく勤勉に生きようと努力すべし、そしてちょくちょく反省すべき、となりますね。

そして神が存在し霊的的世界が存在する確率は低く見ても50%です。個人的には100%神様も霊的世界も存在すると思います。(霊能力も無いのになぜか確信しています)なので、確率は半分なので、神も霊界もあると思って生きていた方がよいかと思いますね。だって後で死後に神も霊界もあると分っても困りますでしょう?もしなかったら、その時はどうせ考えることもできないはずなので、その時の事はあまり心配しなくてもよいです。
それに、どっちが良いかと言う事です。神も霊もいる、いつも霊人達に心を見られていると思って正しく生きようとする人たちが多く住んでいる世界と、神などおらん、死んだら終わり、何もない、なので、心で何を思おうが何をしようが警察に見つかりさえしなければ何をしても良い、と言う無神論者が多い世界とどっちが良いかと言う事です。私は神を信じる人の多い世界に身を置きたいです。なぜなら、その方が信じられるからです。自分の子供達には神を信じる人が多い世界で育ってほしいと思いますね。皆さんもそうでしょう?だって他人が見てなきゃどんな悪い事をしてもいいなんて思っている人がいる世界は荒むでしょうからね?ドラッグも流行り犯罪も多い事でしょう?だから、神も霊界もあると思って生きる人が多い方がいいのです。
そう思いません?

これまでも、同様の事は何度も言ってきましたが、今回と同じ事をより細かく下記で言ってますので、時間がある方はどうぞご参照ください。

第348話.カジスピ(カジュアルスピリチュアリズム)の薦め ~命取りになる無神論への対応~
第259話. 社会主義が神々に嫌われる理由
第257話. 何故唯物論がダメなのか
第50話. そもそもの動機① 共産主義について
第42話. 唯物論か 唯霊論(唯神論)か、考えを定めて生きる(2) 
第37話. 唯物論か 唯霊論(唯神論)か、考えを定めて生きる(1) 
第10話. 最も重要な事 = 親である究極神を喜ばせようとする事 
第5話. 一度きりの人生を大切に生きる為に【3】 霊的人生観の設定方法
第4話. 一度きりの人生を大切に生きる為に【2】 -世界をどう見るか-
第3話. 一度きりの人生を大切に生きる為に【1】 目標、モットーを決める 

本当は日本にスゴイ宗教家が出ているので、その方の本を手にすれば一番良いのです。ただ、抵抗があると言う人は、まずはこの場末のブログでざっくりと正解を掴んでいただいて心を決めて残りの人生を霊的な人生観を持って生きて頂ければいいなと思います。

では。
またちょくちょくやります。

湖畔人