第594話.カジスピ(カジュアルスピリチュアリズム)ライト③ 神と人間 幾ら神の一部とはいえ a)プライドの根拠,b)罪の償いの仕組みと罪の意味,c)神の一部として役割の違い,わきまえるべき神との違い

2021-07-17 17:08:07 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

今日もカジスピを少し。

まずは、今回は前提として、神が在り、人類が神の作られた霊的存在と仮定した場合、それを前提とします。無神論者は今回は相手にはしません。

その場合、人間の定義として、人類を、神の創造物、神の子達、神の光の分光された光の一粒、神の一部と言う言い方がされる事が多いかと思いますが、今回はその視点でお話をします。

人間を罪の子と定義したい宗教もありますし、人間が不完全で間違いを犯す存在と言うもの事実ではありますが、神の視点から見れば、神が愛と慈悲に溢れた方、と想定した場合には、自分の造りしこの世界も人類も動物も、神はそれらの存在を肯定されると思いますし、彼らの幸福と調和と成長を常に願われているご存在なはずなので、そうした人間罪の子思想は、その慈愛に満ちた神の視点にそぐわない考えとして、今回は脇に置きます。今回はアジア的な、人間神の子達と言う思想、人間を神の一部と見る思想が、より神の本意に近いと仮定し、話を進めたいと思います。

その前提で、先に申した、人類を、神の創造物、神の子達、神の光の分光された光線の一つ(または光の粒の一つ)、神の一部と定義をする事が多いかと思いますが、全て当たっているかと思います。

a)プライドの根拠

我々は神の子であり、神の一部でもあり、故に尊い存在なのです。だって神の子供で神の一部なのです。これ以上ないのです。もうサイコーな存在なのです。一人一人全員がです。例外なくね。これが各人の持つプライドの理由なんだろうなと思っています。だって、神の子で一部ですから、鼻も高くなるし気位も高くなるはずなのです。当然の事です。でも後で話しますが我々は神そのもののではないのです。そこはわきまえる必要があります。でも多分その霊的真実が我々の高すぎるプライドの理由なんだろうと推察します。

b)罪の償いの仕組みと罪の意味

勿論、その事実に目覚めず、それにふさわしくない生き方をしている人達が多いのも事実ですが、でも霊的な真実として、そうした前提があるかと思います。

でも、各自がその神の子、神の一部としてふさわしくない生き方をした場合には、因果の理法、作用&反作用の法則、カルマの法則の中で、その間違いの報い、反作用を受けて、必ずその間違いを修正する事になる仕組みになっているようなのです。逆もしかりで、良いことをすればそれが尊敬や人気や徳や運となって本人に返ってくる仕組みがあるようなのです。なので、フェアーな仕組みです。しかも人生は一度だけでなく、死後の世界でもその調整作業は必ずあるし、来世、来来世でも、その修正と調整は入ります。なので、必ずフェアーに本人に返ってくる仕組みなのです。ですから、本来それを知っていたら、周りに意地悪なんて出来ないのです。だって後で必ず自分に返ってくるからね。相手に親切にすれば親切にされるのです。よって、良いことを、親切を、沢山、沢山すべきなのです。だって全て自分に返ってきますからね。

我々が他人に対し何か悪さや否定やいじめや虐待をする場合、それはその個人に対する罪とも言えますが、ある意味、神に対し罪を犯している、とも言えるかと思うのです。だって、各人の心の奥底には神と繋がった部分、神性、所謂、神の一部としての部分があって、ある人を傷つけ否定した場合、そこ(神性)を傷付けているのと同じことになるからです。だから、罪深いし、誤魔化せないのです。それがカルマの修正がいる理由、罪の本当の意味なのではないのか?と思います。まぁ私の想像ですが、結構イイ線行ってるのではないか?と思います。

c)神の一部として役割の違い,わきまえるべき神との違い

人間は神の一部とは言いましたが、とは言え、やはり我々は神そのものではありません。

神であれば、この宇宙と人類の創造が可能な方であり、この宇宙や人類の存在の意味と目的をご存じな方であり、全てを知っている方なはずなのです。でも各自が、自分の胸に手を当ててみれば、我々が宇宙や人類の創造が出来るか?と言えば、そんな事出来るはずもありませんし、宇宙や人類の存在の意味と目的を知っているか?と言えば、そんな事はまったく判っていません。なので、我々は神ではありませんね。当然のことです。そこをわきまえる必要があります。

神と人間の関係性を例えてみれば、

仮に、神が一人の人間の体だとして、我々がその神と言う体の皮膚の表面の細胞の一個だとします。私が神の右手の手の甲の皮膚の細胞の一つだとして、私のすべき事は、手の甲の皮膚の細胞として、私は、ばい菌の流入を防ぎ、神経を張り巡らせ、熱い物が近づけば危険と信号を発し、尖ったものが当たる感覚があれば、それも危険と信号を発して体全体に危機を知らしたりします。それが私の役割であり、仕事です。でも手の甲の細胞として私は自分の体全体(神)を認識したり、自分の体全体として思考したり、判断したり、指示できるか?と言えばそれは出来ませんね。だって単なる皮膚の一細胞ですから体全体(神)の事は分かる訳ないのです。我々人間は、仕事の範囲と責任範囲が限定されているのです。でも神は体全体に責任を持つご存在なのです。それが神と人間の違いですね。敢えて例えて言えばね。

でも、間違いなく我々は神の体の一部であり、尊い存在なのです。そうした尊い存在が我々人間だけど、神そのものとは違うのでそこはわきまえ、自惚れないでね。と言うことです。

神と同じ血が流れ、神と同じDNAを持つ存在として、自信と誇り、絶対の安心、そして感謝の心をもって、各自の役割を全うすべく努力すべきなのです。

我々は神の一部なのです。最強で最高なのです。でも周りの人も同様に神の一部です。互いに大切にし、尊敬しあいましょうね。と言うことです。

ある人は髪の毛として頭部を守る役割です。ある人は爪として、指を守る役目です。見た目も機能も硬さも色も別、でも、自分と同じでないからと言って違和感を感じる必要はないのです。役割と目的が違うだけだからです。そう思い多様性への理解が必要です。みんなで神と言う体全体の一部を担っている尊い仲間達なのです。大切にしあいましょうね。

では。

湖畔人

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