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第252話. ノストラダムスとガンダムとYMOの世代…N.G.Y世代?

2019-04-16 01:51:12 | 文化論
湖畔人です。

いや、しかし、前話で紹介したThe specialsの『Vote for me』はイイですね…。特に、あの間奏の間に漂う哀愁の世界観がたまらんですわ。

さて、前話でも指摘したようにYMOに絡めた話をしてみたいと思います。

先日フジテレビの情報番組にノストラダムスの大予言の著者だった五島勉さんが出演されて当時の子供達を不安にさせて悪かったと言うような発言をされたようです。実際、自分が属する世代は、まさしくこのノストラの予言で語られる世界の終わりに不安を募らせながら幼少期を過ごして来た世代でして、でもだからと言って1999年に何も起こらなかった事や、幼少時に不安と共に生きた事に対して、別に五島さんに恨みを持ったり不満があるのかと言われれば、個人的にはそんなものは全くない訳でして、むしろ色々と世界の様々な宗教やその考え方の違い、または共通項について考えさせられるキッカケを与えてくれた事に対し、むしろそこは感謝をしている位なのです。ノストラダムスの終末論を正しく理解する為に、世界に終わりをもたらし人類への審判を下す“神“と言う存在とは一体何なのか?、或いは、ノストラダムスが属するキリスト教の世界とは一体どういったものなのか?、対立しているキリスト教とユダヤ教やイスラム教との関係性は一体どういったものなのか?、予言はこれ一つだけなのか?実は他にもあるのか?、他にもあるならば、それら予言の宗教的背景は一体何なのか?、それら違った宗教や予言に共通する普遍的なメッセージがあるのか否か?、そうした切り口で色々と探索する中で分かった事は、数多くある予言には、どうも共通するメッセージがあって、それは、神に期待された生き方(信仰や愛や寛容や許しや正直さや謙虚さ勤勉さ等)と言うものがまずあって、それに反する生き方を人間達がした場合には、どうもその反作用として人類に反省を迫る意味合いで天変地異等が起きて来るようだ、と言う点です。そうした共通項を様々な予言の中に見出せた事は、それは大変ありがたい発見であったと思いますし、そうした大切なポイントに気付かせて頂くキッカケを与えてくれた事に対し、そこは素直に五島さんに感謝をすべきなんだろうな、なんて思っています。

ですが、一方でよく思い返してみれば、確かに小さい頃は何か漠然とした世の終わりへの不安感はあったかもしれません。でも、一方で、予言の中には、ノストラであっても、他の予言であっても、もしこうした点が改められたならば世の終わりは回避できるし、不可避でもダメージを軽減する事が出来る、何て言うリカバリー案が提示されていたかと思います。もう大分前なので正直詳細は忘れてしまいましたが、確かざっくり言えば神の教えに忠実であれ、神の教えに立ち戻れ、的なメッセージであったかと思います。神と共にあり、そして信仰や愛、寛容や許し、正直さや謙虚さや勤勉さ等と言った美徳と共にあれ、と言ったような、そんなメッセージであったかと思います。それはファティマであれ、何処の予言でも多かれ少なかれ似たようなリカバリーの為のメッセージがあったかと記憶しております。生き方を正せば、カタストロフィは回避できるか、または仮にそのカタストロフィが不可避であっても次の時代に繋がる何らかの萌芽は少なくとも残せるらしい、そんなぼんやりとした理解をしていたかと思います。

そんな中、その我々のボンヤリとした不安に対し、一つの答えとも言えるようなメッセージ性を持ったアニメーション番組が突如目の前に現れたのです。それがガンダムでした。自分は再放送でガンダムデビューをしたのですが、初めて見た時から相当な衝撃を受け、その魅力に打ちのめされ、心奪われてしまったのです。

ガンダムの良さは色々とあるかと思うのですが、まず最初に指摘すべきポイントは安彦良和さんの描くキャラクター達がこれまでのアニメの人物の描写とは全く違っていて大変魅力的だったと言う点です。それまでのアニメは劇画風な描写が多くて、ありえない程手足が長く彫りの深い顔立ちの美男美女ばかりが出て来て、何か非現実だったのです。ところが安彦さんの描く人物群は、ある程度の不格好さやリアルさがあって、でも程良くまとまりが良くて、ちょっとだけ格好良くて、そのバランスが絶妙だったのです。そうした魅力的なキャラクター達の存在がガンダムの魅力の一つ目であったかと思います。二つ目の魅力的な点は、大河原邦男さんの描くこれまた魅力的なメカデザインにあったかと思います。顔が小さく肩が大きくて肘から先の腕も長く大きくデフォルメされており、膝から下の脚の部分も長くて大きくて、全体的にガッシリと安定感を感じさせるようなフォルムをしており、それがとっても格好が良いのです。特に敵方のジオン軍のモノアイのモビルスーツは種類も多く個性豊かで魅力的でした。ザクに付いている謎のダクトの類も機能は不明ですが何か格好が良いですし、個人的には私はズゴックとドムが好きでした。何れにせよ、メカデザインのセンスの良さもガンダムの大きな魅力の一つであったかと思います。また、それらロボットの事をモビルスーツと呼ぶそのネーミングセンスも抜群だったのです。敵将の名前がランバ・ラルだったり、地名や要塞名もザンジバルとかアーバオアクーとか、何かとっても格好の良い響きを持つネーミングをする点もガンダムの魅力の一つでした。他にも、モビルスーツが動く時の効果音が格好良かったり、戦闘時にかかるBGM もとてもカッコ良くて音の面でも魅力的でした。でも、何よりも、そのストーリーの素晴らしさが当時の他のアニメとは全く違っておりガンダムを特別な存在にしていたかと思っています。リアルで残酷で、でもその混沌と極限の戦闘の中から最後にニュータイプと呼ばれる霊感を伴う新しいタイプの人類が出現してくる設定が、もう鳥肌モノだったのです。こうした魅力的なポイントが複数に重なる事で、このガンダムというアニメを至高の存在、別格の存在にしていったのではないかと思っています。

このニュータイプと言う概念が、極限の戦闘の中で五感が研ぎ澄まされる事で得られたものなのか、それとも宇宙空間と言う特別な空間に身を置く事で宇宙飛行士達が神懸るのと同じように変化していった結果得られた物なのか、正直言ってその因果関係までは判りませんが、自分的には前者の方の理解をしていて、アスリート達が極限の世界で生きる中で、常人には見えないものを見、常人には感じられないものを感じている感覚に近いモノなのかな、と受け取っていました。彼らは、ゾーンに入ると自分を上から俯瞰して見ている感覚を持った、とか、時間が止まっているように感じた、とか、時折常人には理解し難い不思議なコメントをする事がありますが、それに似た物としてこのニュータイプと言う存在を見ておりましたし、スターウォーズのフォースにアクセスするジェダイみたいなものかな、とも思っていました。極限状態に追い込まれる事で、何かずっと眠っていた潜在能力が突如開花する感じとしてこのニュータイプを捉えていたのです。

少年時代の私は、このニュータイプと言う概念に出会って、ノストラ他予言者達が言う所のカタストロフィを軽減させたりする力、またはカタストロフィの後に来るもののヒントを得たような、そんな印象を受けていたのです。

その当時は、余り明確に言葉にはできなかったのですが、宗教的、霊的な知識とこの世の存在意義などを後々に学ぶうちに、何故その頃そう感じたのか、その理由が何となく、分かるようになった気がするのです。それは、神は常に神の子達である我々人類に対し、より神近い存在に進化する事を期待されているし、いつだって助力をしたい、いつだってインスピレーションを与え、神の思いを伝え、神の思いを理解する方々にこの世界をより良くしてもらいたいと常に思っていて、それを実現するには、神々と人間側が波長同調する必要があって、その為には、人間側が、心の綺麗さ、純粋さが無いといけないし、霊界を含めたこの世界への正しく広く深い理解も無いといけないし、宗教書などを通して神の考えを理解する必要があるし、導通の為には高い集中力や正義感も要る、それら霊性の獲得を通して、神と一体化ししていく時間を長く持つ、神と導通する時間を長く持つ事ができるようになり、その結果、神に近づいていく事が出来る、それはすなわち、ニュータイプになる事に近い、と思えたのです。ガンダムの主人公の青年は、信仰を持っていたかも宗教を学ぶ過程があったかも不明ですが、少なくとも、彼は、強い正義感と純真な心を持った少年で、神の領域ともいえる宇宙空間に身を置き、戦闘の中、極限の集中状態に身を置くことで、空海やブッダが経験したような宗教体験と言うか、様々な霊的な覚醒があったと思われるのです。結果、物語の終盤では相手の気持ちを読み、相手の場所や次の攻撃など全て読めるように成っていました。要は覚醒したのです。たどった経路は別として疑似大悟体験のようなものを主人公が経ていたなと思え、戦闘までは過酷ではないにしろ、受験戦争にストレスフルなサラリーマン生活にと、過酷な現代社会に生きる平凡な我々も高い集中と正義感で、神と繋がる時間(ZONE)を沢山体験し、少しは神へと近づき進化していけるのではないのか?そうする事で、ノストラダムス他の予言で語られる危機を少しは軽減出来るのではないか?なんて淡い期待をこのガンダムを見て何となく励まされたのです。

こうした理解を持つまでは、いろいろと宗教に関する勉強もしました。ノストラの裏取りと言うか、ノストラの予言の背景としてのキリスト教や、ノストラ以外の予言やその背景にある各種宗教等を色々と学んでいた頃でもありましたので、それら様々な教えを学ぶ中で、それら教えの中に、ある程度の共通な点があるように見えてきました。それは、古今東西、どの宗教であっても、この世と言う物質世界に生きながら霊的に生きる事、霊性を高める事が、この世に生を受ける目的である、としている点です。我々がこの世に生まれて来る理由は、この霊性の獲得にある、と、皆、主張しているのです。霊性の定義は、中々難しいのですが、様々な神の教えにある言葉の共通項から推察すると、私の理解では、霊性の獲得の対象項目とは、①神を信じる事、②愛の心を深めそれを言葉や行為に現す力、③謙虚な心、④純粋な心、⑤素直さ、⑥正直な心、⑦創造性、⑧協調性、⑨勇気、⑩リーダーシップ、⑪集中力、⑫物事を実現する念いの力、⑬忍耐力、⑭柔軟性、⑮正義を求める心、⑯反省力(親切行為の技術向上と神性を宿す全ての他人に対する正しい接し方や見方を見直す事、また反省により魂の穢れを落とし純粋さを保つ事)、⑰神の作りしこの世とあの世の仕組みを知る事(転生輪廻やカルマを含めた霊的世界とこの世の仕組み)、⑱神の意図を知る事、等が、霊性の獲得の対象項目となっているのかなと思っております。それら霊性の獲得を目的として我々は何度もこの世に生まれ変わって来ているのではないかと思われています。間違っているかもしれませんが、まぁいい線を行っているのではないかと思っています。

では、何故この霊性の獲得が、この世に生まれる目的なのか、その裏にある神の願いや意図とは一体何なのか、と言う疑問が涌いてくるのではないかと思いますが、そうした神仕組みについては、我々凡人に判るはずもなく、そこは神の言葉を預かる方々、所謂、予言者と呼ばれている方々に聞くしかないのですが、想像では、神が太古の昔にこの世界を作らんと企画し、自らの光エネルギーを分光させ、様々な個性、人類を含む様々な創造物を作られ、その分光により一旦分かれた光の子達である我々人類が、転生輪廻の中で様々な経験や体験を通して前述の霊性を段々と獲得し成長、進化し、それによりそれぞれの存在が彼らの親である神に段々と近づいてゆく事が出来る、そしてその過程で段々と親である神との繋がりを取り戻し、絆を深め、段々と神の一部としての自覚を深めて行く、そうする事で分光先の我々を含む神全体としての経験値がトータルで見て増えて行き、神全体として人間や世界や宇宙や神ご自身に関するする理解がより一層深まり、神全体としての認識力に大きな進化が起きているのではないのか?等と、そのような事が想像されるのです。でも、まぁ、あくまで想像ですがね・・・。

そもそも神とは霊的な存在であり、その子達である我々もまた霊的な存在ではあるのですが、霊性と言う意味では、我々人類は、当然神とは比較にならない程の小さな存在であり、全く足元にも及ばない大変未熟な至らない存在、大いなる進化が期待される存在であって、転生の経験値を通して霊性を少しでも多く身に付け、大きく成長する事を強く期待されている存在であるにも拘わらず、一方で歩みの鈍い、魂としての成長の遅い存在なのではないのか?と、そう推察されるのです。その我々の本来の住処である霊界、あの世の世界は波長同通の世界であって、自らと似た個性が集う世界であるが故に、似た者同士で大変居心地は良いのですが、一方全く成長が見込めない世界であるが故に、成長を得るために、我々は、自分と違ったタイプの存在達が集うこの世に生まれて来る必要があるのだと思われているのです。様々な個性、様々な得手&不得手を持ち、様々な成長過程にある違った個性達が一堂に会するこの世、霊的には盲目となり負荷の大きなこの物質世界に何度でも生まれ変わって来ては、違った価値観との軋轢と葛藤の中で、自らの魂の霊性を鍛え、深め、新しい霊的側面を自らの魂に加え、魂として丸く大きく明るく輝く存在へと成長する事が期待されている、そんな存在なのではないのかと思われているのです。その意味では、葛藤が大きく、負荷も大きいこのストレスフルな世界で揉まれた方が、自分に足りていない霊性を大きく獲得できる可能性が高いとも言え、ストレスフルである程、大きく成長する可能性も高いと言えるのかもしれないのです。その意味では、ガンダムにおいて主人公が戦闘と言う極限のストレス状態の中で、多くの悲劇を目撃し、敵の中にも人間性を見、殺人とも言える戦闘に矛盾とやるせなさを感じつつも、自らの味方を守る為に戦いで勝たんとし、戦いに勝とうとする中で、凄まじい集中力を得、そうした過酷な環境で揉まれる中で霊性を獲得しニュータイプと呼ばれる霊能者に成って行きましたが、過酷な環境と言うものは必ずしも悪い事ばかりではなく、この世に生まれる事が魂の成長、霊性の獲得にあるとするならば、ある意味、過酷であればある程、この世に生まれて来る意図により合致した状況にある、と言えるのかもしれず、その意味では、この現代のストレスフルな社会に生きる我々は、実は魂的に、霊的に見て、大きく成長できるチャンスを得た幸運な存在なのかもしれないのです。

この霊性の獲得と言う視点を、神の視点、神様の側から見ようとしたならば、想像ではあるのですが、神様としては、多分、この世を神の御心に適った世界に変え行こうと常に願っているはずで、その為に、神様は我々人類の中に、神のメッセージを受け取る事が出来る純粋な心の持ち主で、神のメッセージを正しく理解出来る程の知性があって、そのメッセージを正しく人に伝えられる表現能力を持つ人物をいつも探されているのではないのか?と推察するのです。できれば、ある程度の長時間、集中力を保てる人物であれば、より長くまとまったメッセ―ジを届ける事が出来るので、より望ましく、この集中力と言う要素も望まれている資質の一つなのでは無いかと推察されます。よって、神の求める資質とは、知性、集中力、表現力、中でも一番大切と思われる資質は、多分、魂に穢れが無く、純粋な事、素直で疑いが無い心の持ち主である事が最も重要な要素なのではないかと推察されるのです。ファティマでも幼き少年少女が予言を預かる対象であったかと記憶しております。ガンダムにおいても主人公は少年であり、純粋で、素直な人物であり、また極限の戦闘を通して凄まじい集中力を持った設定となっておりましたので、彼が突然霊的な覚醒者、超能力者、即ちニュータイプになったとしても何の不思議も無く、かなりリアルな設定であったのではないかと思われます。時代が違えばこの主人公のような少年はそれこそ予言者にでもなれていた逸材と言えるのかもしれません。

いずれにせよ、我々はこのストレスフルな現代社会の中で、霊性の獲得をのぞまれています。私の理解が正しければ、霊性の獲得の対象項目は、前述の通り、①神を信じる事、②愛の心を深めそれを言葉や行為に現す力、③謙虚な心、④純粋な心、⑤素直さ、⑥正直な心、⑦創造性、⑧協調性、⑨勇気、⑩リーダーシップ、⑪集中力、⑫物事を実現する念いの力、⑬忍耐力、⑭柔軟性、⑮正義を求める心、⑯反省力(親切行為の技術向上と神性を宿す全ての他人に対する正しい接し方や見方を見直す事、また反省により魂の穢れを落とし純粋さを保つ事)、⑰神の作りしこの世とあの世の仕組みを知る事(転生輪廻やカルマを含めた霊的世界とこの世の仕組み)、⑱神の意図を知る事、等の項目が、霊性の獲得の対象項目であるかと思われ、この内、①~⑮の項は日々の日常の中で獲得出来る修行項目ではないかと思われますが、⑯、⑰、⑱の項目は、知識として様々な宗教書や哲学書を広く深く読んで学んで知識を得る事が必要な項目であろうかと思われます。それらの学びから霊的人生観や霊的世界観を獲得し、正しい霊的な真相から世界を見、その視点から反省をし、心を浄化する、そして日々心を統御せんとし、そして信仰心を通して神と繋がり、結果、心の平安を得て行く、と言うアプローチをとって行くべきかと思いますし、私も多分に漏れずそうしたアプローチを取って来た者の一人、と言う事になります。現代のストレス社会では、信じる力で神と繋がっていないとある意味心が病んでしまうような、そんな厳しい精神環境でもございますので、ある意味、この環境が我々に神と繋がる事を強要し、我々に霊性の獲得と成長を強要でもしているかのような、そんな時代なのではないかと思っています。それはまるで神様が人類に対し"人類よ、もういい加減本来の自分、本来の在り方に目覚めなさい、せっかくの世紀末です。この機会を使って魂の成長、霊性の獲得を果たし、神近き存在となって、少しは私の気持ちを理解して、我が仕事の手伝いをしなさい"とでも言われているかのような、そんな状況なのかもしれませんね。そして、ただ単に霊性に目覚めれば良いと言うだけでなくて、信じる力で大いなる存在と繋がり、繋がる事で事の本質を見抜く力を得たり、大いなる心の平安を得たりして、大いなる心の安心感と幸福感を得たならば、その次は、その幸福感をお裾分けすべく、神を通して繋っている他者の存在に対し段々と意識を向けて行って、そして次第に他者の幸福を段々と願うようになって行くべきなのではないかと思うのです。それは、即ち、あちら側の人間、与える事に喜びを見出す側の人間になって行く事を意味し、それは即ち我々が天使的人類へと進化して行く事を意味するのではないかと思われるのです。それは、多分霊的なステップアップであり、次元上昇とでも言えるような状況なのかもしれず、もしかすると、この現代のストレスフルな社会環境は、我々に有無を言わさず神と繋がる事を強要しており、有無を言わさず我々を利他の世界へと導き、有無を言わさず我々を天使の世界へと押し上げて行かんとする、霊的な進化に必要な砥石、霊的な進化に必要な負荷、霊的な進化に必要な舞台装置なのかもしれない、何かそう思えて来ました。そんな事をボンヤリと考えるようになり、現代の我々と同じく葛藤が多く厳しい精神的環境の中で霊性の獲得に成功して行ったガンダムの主人公達の姿に、今後我々がストレスフルな現代社会の中で霊性を得、世紀末の世の終焉を避けて行く為の大きなヒントを得たような、そんな気分にさせられたものです。
ただ、この過酷なストレス社会は、人類に大きな進歩をもたらす可能性がある一方で、逆もまた然りであって、その極限状態において精神のバランスを保たんとする時に、うまく本物の神々と繋がるラッキーなケースもあれば、誤って偽物の神々の罠に嵌ってしまうケースも多くあるように見えますし、イジメに走る等、心を残虐化させ悪魔と心を同化させる事で心の辛さを紛らわせんとするケースも多々見受けられるのではないかと思われます。その場合は、同じあちら側でも下の方のあちら側、即ち地獄界、悪魔の世界と縁を付ける事になってしまっているのではないかと思われます。多くの人は天使の世界と悪魔の世界の間を行ったり来たりしているのが実状なのではないかと思われますが、余り長時間残酷な思いに捕らわれていると、次第に悪魔に憑依され、自分をコントロール出来なくなって、気付けば悪魔の手先となり死後も地獄の最深部へと落ちて行く羽目になる、なんて言うケースも多々あるのではないかと思われるのです。そうなるとその悪縁を断ち切り、その悪縁から抜け出すのは相当大変であって、よほど強力な神霊の助力を得ないと、その危険な状態から抜け出す事は困難なのではないか?、その場合、人として最低のレベルまで堕ちてしまう事になってしまうのではないか?とそう思われるのです。過酷なストレス社会は、天使も作る事もあれば、悪魔も作る事もある、そんな両極端な結果をもたらす極端な環境であって、霊的に見てハイリスク、ハイリターンな世界なのかもしれません。どうせリスクが高いと言うなら、ここは折角ですので、欲張って天使の世界を目指すのが神の子供達としてあるべき姿かと思いますね。親である神様もそれを強く願っているはずですので、ここはしっかり親孝行すべき時かと思います。

霊性の獲得について考え始めた頃は、霊性の獲得は、超能力者とか霊能者みたいな不思議な力を得る事を意味するのかな?なんて思ったりしてはいましたが、どうも見ていると霊能力は大分制御も難しそうだし、言動が変になって行く方々も大分多い印象ですし、余りそこをゴールに設定すべきでは無いのかな?等と思うようになって行きました。霊能者は、ある意味、絶縁膜に亀裂が入って漏電している水に浸かった電線のような存在のようにも見えていましたし、それはコントロール不能な状態であって、絶縁膜の切れ目から霊(電気)が出入り出来る所謂、放題の状態であり、霊能者と呼ばれる方々の多くは、自分をコントロール出来なくなっている方々も相当多いような、そんな印象でしたし、稀に上級者達は、絶縁膜(霊体と肉体の境目)を半導体のように意図的に導体にしたり絶縁体にしたり自在にコントロールできる方もいるようなのですが、それを可能にするには相当な鍛錬が要る感じですし、いや、むしろ、そもそも鍛錬で鍛えられるレベルの話ではなく、魂としてのそもそもの素地が相当上等でないとどうもそこまでの制御はどうも無理そうな感じなのです。なので、これは余り興味本位で近づいて良い世界ではないぞ、かなり危険な世界だぞ、甘くは無いぞと思うようになり、そうした霊能力に興味を持つ事をだんだんと自戒をし始め、段々とそうした事から距離を置くようになって行ったのです。それよりはむしろ、心のコントロールする事やリーダーシップを鍛える事や忍耐力を鍛えるなど極一般的な精神修養をした方がずっと良さそうだし、危険も少ないぞ、と段々と思うようになって行きました。そう思うようになってから、もう、はや数十年も経ってしまいましたが、まぁ、旨く出来ているかどうかは別として、方向性としてはそれで良かったのかな?と今は思っています。そう悪くはない選択をしたのではないかと今は思えています。地味ですし、どこがニュータイプなのか?と言う話ですが、でも霊的人生観を持ちながら極ありきたりな日常を過ごし、心を制御し、信じる力で神と繋がり、そこから平安を得、平安から来る幸福を他への施しに転化し、利他行に喜びを見出せる時間帯がだんだんと増えて行けたとするならば、それは十分に進化したとも言える状態だと思いますし、まずまずの出来だったのではないかな?と今は思っています。それがガンダムに触発されて霊性を獲得せんと思い立ってから数十年経った、今の自分の立ち位置です。まぁボチボチの出来なのではないのかな?と自画自賛しています。(甘すぎか?・・・・)

20世紀末の一時期は、そうしたノストラ他の終末思想の不安の中で、ガンダムが示唆する終末の世界を生き抜く為のヒントとしてのニュータイプ的な生き方に思いをはせつつ、当時聴いていたのがYMOの音楽でした。彼らの代表的な曲の一つ、ライディーン等は宇宙を駆けるガンダムを彷彿とさせる曲でしたし、YMOと言う存在自体が、先端的な音楽を通して世界に受け入れられ、世界と繋がっている新しい存在、一種のニュータイプとして我々の目には映っていたように思います。当時世界で認められている日本のミュージシャンなんて殆どいなかった時代ですからね。彼らの存在自体が特別だったのです。音と言う感性を通して言語を超えて世界と繋がっているその様は、まるでガンダムの物語の終盤に主人公と敵とがもはや言葉を交わさなくてもテレパシーで会話が出来ていたのと同じ類の状態としてこちらからは見えておりましたので、自分の中では何かとってもガンダムの世界観と彼らの存在がとてもシンクロしていたのです。その意味でYMOは我々にとってただのミュージシャンと言う枠を超えた何か特別な存在として目に映っていたような気がします。

こうして振り返ってみると、我々の世代は、そうしたノストラ他の終末思想から来る漠然とした不安を抱えつつ、ガンダムが示唆する終末の世界を生き抜く為のヒントとしてのニュータイプ的な霊性を求める生き方に憧れつつ、YMOを聴いて20世紀末の一時期を過ごしていた世代だったのかなと思っています。無理やりその世代をネーミングしようとするならば、"ノストラダムスとガンダムとYMOの世代"、長いので略すれば"N.G.Y世代"みたいな感じでしょうか?何かドナルドフェイゲンのI.G.Y.みたいですが、まぁ実際、その三つの要素から大きな影響を受けていた世代だったのかなと思いますし、それら三つは互いにシンクロしつつ、時代的な雰囲気を醸し出していたのではないかと思っていますし、その時代的雰囲気の中で得た“霊的な人生観を持ち、信じる力で神と繋がり、平安を得、他に施す事に喜びを見出す存在へと進化できるように努力する”と言う心の態度は、ある意味かなり普遍性を持った精神的態度だと思いますし、とっても大切な物をいただけたのかな、と今は思っております。大分歳を取った今でも、基本は余り変わっていなくて、当時感じていた通り、信じる事で神と繋がり、神と繋がる事で心の平静を得、真の自信を得、他への施しに生きる、と言う時間帯を出来るだけ長く得ようと努力するスタイル自体は今でも正しいと思っているし、一般的なサラリーマン生活を送りながら、そうした思いを込めて生きると言う事はそう悪いものでもないと思っていますし、結構お勧め出来る生き方なのではないのかな?と思っている次第です。

一点注意点としては、神を意識する事自体は良いとしても、やはりどういう霊的世界観を持つか、と言う点で少し注意がいるのかなと思うのです。どう言った教えを説く宗教経由で神と繋がるのか、その点は、やはりケアの要る重要なポイントなのではないかと思うのです。私には尊崇する宗教家もおり、毎年ベストセラーを連発する偉大な宗教家なのですが、私としては当然その方の教えがベストとは思ってはいるのですが、その教えの選択は各人に委ねるとして、ただ一点申し上げるとするならば、一部の人間達にとっては都合が良いが、それを実施する事で他の人々にしわ寄せが行ったり、他の人々の苦痛の上に成り立つような幸福を推奨する類の考え方はやはり不味いなと思うのです。外せない考えとしては、人間皆神の子の思想、人々は神と言う大きな大樹の葉の一つ一つのような存在であって一つの木として皆繋がった存在であると言う考え方、神の子同士だから愛し合い尊敬しあうべきと言う愛の思想、様々な国や性別で生まれた過去があるのだから自分と違う存在への寛容性が大事と言う転生輪廻の思想、成した全ての行為に対しては、その行為への責任がずーっと伴って行く事、即ち因果の理法、カルマの思想は、外せないのかなと思っています。

まぁ、いずれにせよ、世紀末に生きて、神を意識しながら生きて来れた事自体はとても幸福な事だったのかなと思っています。ノストラダムスとガンダムとYMOの時代。それはとても面白い時代だったと思っていますし、今は、それらに影響を受けた世代が社会の中核を占めている面白い時代なのです。新しい時代が始まらない訳が無いですよね?時代は大きく変わって行く事でしょう。新しい霊性の時代がもう直ぐ来るはずなのです。その日が来るその時が待ち遠しいですし、もしかしたら、もう来ているのかもしれませんね。

それでは、また後日。

湖畔人

(2019年4月23日改訂)
(2021年7月18&19日改訂)



第153話. パンクとポストパンクを振り返る

2018-08-05 17:00:32 | 文化論
湖畔人です。

第146話の岡村孝子さんの所でも触れましたが、ホンの僅かな間ではありましたが、一時傾倒したパンクと言う、主にイギリスで流行したムーブメントについて語ってみたいと思います。一般的なイメージで言うと、パンクと言えば、破壊的でやかましくて、モヒカンのヘアーに鋲打ち革ジャンを来て、反体制、反権威主義、DIY主義、アナーキスト、暴力的、左翼的(右翼もいたけど)、そんな感じのイメージでしょうか。有名どころでは、ピストルズとかクラッシュとかThe Jamとか色々いましたが、ピストルズはニヒリスト、アンチクライスト、アナーキスト何て言うパンクの仕掛人、マルコムマクラーレンが作った酷いイメージで売っていたので(後日あれは作られたものと判りましたが)、純朴な若かりし自分にはとても受け入れられず、当時は若干政治的で若干正義感を感じさせ、タフそうで人の良さそうで且つ若干懐古主義的なロカビリー的な格好をしていたクラッシュに興味を持っていました。彼らは思想と言う思想があるかと言えば、若干社会主義的、左翼的であり、失業や人種差別や警察の腐敗、マイノリティの貧困問題など、当時の深刻なUKの社会事情、社会の底辺部の抱える鬱積や不満を荒々しいガシャガシャした音に換えて歌ってウサを晴らす的な役割を果たしていたイメージのバンドです。コンサートなど見ると殆ど暴動のような激しいものもあったようですね。彼らも社会主義や共産主義が抱える矛盾など、多分知る由もなく、金持ちや資本主義が皆悪党に見えていたのでしょう。ある程度は理解できますが、分配よりも自立補助、“魚を与えるより、釣り方を教えよ”という格言の通り、皆が独り立ちできる方向での助けこそが必要です。社会悪に声を上げるのは良いとしても、貧困への回答は何時の時代だってサミュエルスマイルズの自助努力の姿勢が正解であって、社会変革を迫るならチャンスの平等と規制の撤廃をこそ求めるべきであり、社会が間違っている、ブッ壊せ、等言ってないで、そんな暇があるなら四の五の言わず、文句言わずに勉強しろ!、学んで力を付けてしっかり稼げよ、そして社会に貢献、還元せよ、その力で貧者の自立をサポートせよ、と、何故そう歌わんのか!って言う所に行きつきまして、まあ飽きてしまったのですが、でもこのクラッシュの中心人物のジョー・ストラマーと言う人はそれでも何か捨てがたい魅力を感じる人でして、何か、浪花節的な感じ、いつでも弱い者の味方であって、サインが欲しい人がいればいつまででもサインをし続けるし、ギャラも直ぐに寄付してしまうのでいつも貧乏で、チケットが高くてコンサートに行けないと子供が嘆いているのを聞けば “ゴメンゴメン”と言って泣いて詫びてしまうとか、あの厳ついルックスとは真逆の優しさに満ちた男、そうした優しい逸話が沢山残っている御仁なのです。その優しさが多分彼の最大の魅力であり、引き付けられる点なのかな、と思っています。ただ、まあ、チャーチルでは無いですが、“若い頃、左翼に傾倒しない者は情熱が足りないが、大人になっても左翼に傾倒している者は知恵が足りない”と言う言葉の通りでして、大人になったら左翼は卒業して、皆が独り立ち出来るように支援する方向での努力こそが本当の優しさと思わないといけない訳です。それと何より、神と共にあれ!、そこを外してはイカン!という事になるかと思います。そこだけはパンクだろうが何だろうが外してはならないポイントであって、その辺りにどうも不足を感じた記憶がございますね。ただ、パンク的な精神でも、勿論良いものもあると思っていまして、パンク的な精神で良いと思うものは、動き出す精神、行動の勧め、準備が十分に出来てから動き始めるのもいいけど、もう心意気で直ぐに始める勇気と行動力、下手でもいいので兎に角やり始める精神、その姿勢は多分とてもパンク的でして、今後も残して行きたい良い姿勢だと思いますね。それと、社会悪に対し黙っておらず声を上げる精神、それもとてもパンク的な良い姿勢だと思います。相手が巨大な社会的オーソリティーであろうが何だろうが正面から戦いを挑み変革を促す精神、それはとてもパンク的だと思います。その意味で幕末の志士達、特に薩長土の志士達は極めてパンク的だと思っています。そこは引き継いで良い部分だと思いますね。
さて、そのインパクトの強いパンクと言うムーブメントの後に現れた様々な音楽的流れは、総称して“ポストパンク”と呼ばれていますが、対象はかなり幅白く、色んなジャンルを含んでいます。ニューウェーブ的なものも、テクノの一部も入っておりかなり幅が広いのですが、私の言うポストパンクは、日本ではネオアコ(ネオ・アコースティックムーブメントの略)と呼ばれたジャンルでして、海外ではギターポップとかインディーポップ等と呼ばれた一連のムーブメントを私は大好きでして、相当傾倒していました。彼らの特徴は、皆エピフォンカジノやギブソンのES-355など大きく平べったくクラシカルなルックスのセミアコのギターを持って(ジョンレノンが屋上ライブで持っていたようなタイプ)、清涼感のある爽やかでPOPな、またはジャジーなギターサウンドに青臭い詩を載せて歌う、でも根底にはパンク的な反骨精神が横たわっている的なバンドが多数現れたのですが、私は彼らに相当ハマってしまっていたのですが、彼らはトラッドな懐古主義的な頭良さげで好青年風なルックスをしているのですが、よく見るとサイドがモヒカンのように刈りあがっていて、パンク的な反骨精神が彼等の外見にもチラッと現われており、少し毒もある、今流行りのツーブロックの髪型を先行していた、そんな見た目にも音楽的にも大変魅力的な存在だった彼らなのですが、代表的なバンドとしては、アズテック・カメラ、プリファブ・スプラウト、エコーアンドザバニーメン、ペイル・ファウンテンズ、エヴリシング・バット・ザ・ガール、ザ・ブルーベルズ、ザ・スミス、そして元The Jamのポールウェラー率いるスタイル・カウンシル等、色々と良いバンドが沢山存在していた幸福な時代でした。今後、少しずつ紹介させて頂こうと思っています。でも、いきなり、“透明感”括りで数曲紹介させてもらうかもしれません。8月ですから、段々報道も先の大戦への反省みたいなのばかりに成っていくと思うので、その流れに対して、思う所を少し述べたいと思っています。

湖畔人

第116話. 人類への信頼を深める方向で③ マーヤとハッチ

2018-06-24 12:03:45 | 文化論
湖畔人です。

前前話の続きですが、第114話では、積極的に人が信頼できる世の中を作ろうとしないと、そうはならないし、その為には、人間神の子の思想やそれに基づいた日々の善業の積み重ねが要りますね、と言う話をしましたし、芸術においても、もっと単純な善人が作り出す温かい世界をもっと描いて欲しい、とも、申しましたが、それで思い出したのが子供の頃に見ていたアニメ『みつばちマーヤの冒険』です。
原作は確かヨーロッパの物だったと思いますが、この漫画に登場するキャラクターは、皆いい人?(虫)達ばかりで、とてもゆるくてホンワカする気持ちになるアニメでしたね。同じミツバチをモチーフにした他のアニメ、『昆虫物語 みなしごハッチ』は、絵も劇画調で、イジメや困難を克服する激し目のアニメでしたが、同じミツバチを描くアニメであっても、こうも違うものになるものなのか!と子供ながらに驚いたものです。私はこのゆるーい方の『みつばちマーヤの冒険』が大好きだったのですが、今でもああしたゆるーい善人だけが出て来る世界を描いた作品をもっと見てみたいなと思ってしまうのです。また是非再放送でもしていただいて、現代の子供達にも見て頂きたいなと思うのです。水前寺清子さんが歌っていたオープニング曲もエンディング曲もとても優しい歌でとても良かったなーと記憶しております。何かとても懐かしいですね。
できればあの世に帰ったら、あんなゆるーい世界に帰りたいなぁ、と、そう思う事があります。でもああしたゆるい世界に慣れてしまうと、きっと此方の世界に戻る時に、そのギャップにシンドい思いをして、拒絶反応を起こしたりして大変な思いをするんだろうなー、とも一方では思うので、中々難しい所ですね。この世ではある程度強くないと余り世の役には立てませんので、中々その辺りの加減が難しい所ですね。中々ね・・・。

湖畔人

第114話. 人類への信頼を深める方向で

2018-06-24 00:10:23 | 文化論
湖畔人です。

実力のある役者、上手い役者はどんな役者か評価をする際に、どうもうまい役者とは、人間の持つ愚かさ、醜さ、負の側面をどれだけ表現できるか、そう言った視点で評価がなされているケースが多いように見受けられます。これは役者に限らず、小説、音楽、映画、芸術全般にそう言った見方の傾向があるように見えます。まあ、そうした見方も、ある程度は判らないでもないですし、人は複雑なものを好む傾向がありますし、真に迫った物、エグイものを好む方々も多いように見受けられます。たた、その描かれる悪が、反面教師として、真似てはいけない姿として、描かれるのであればそれは良いとは思うのですが、そうでは無くて、こうした人間の悪を描くことで、それらを観た人々が、如何に人間が愚かであって、本来滅ぶべき悪しき存在である、等の、人類に対するネガティブな印象を持つ人々が増える結果になるのであれば、それはそれでやはり問題であって、それは、芸術に限らず、我々の日常の行為においても、そうした人間不信を招くような行為は控えられるべき、と思うのです。特に、無差別に人を殺傷するような方々は、自分自身やこの世界に絶望してああした事件を起こすと聞きますし、イジメや親に虐待を受けた方々だって、人間や社会への不信を募らせている事でしょう。ですから、人類や社会に対する不信を増幅する方向での芸術表現や、人間不信を招くような我々の行動も控えられるべき、と思うのです。
これまで学んで来た様々な世界観、教えによれば、この世界は、そして我々人類は、どうも例外なく全て神の子であり、神の一部であり、神と言う巨木の葉の一枚一枚であり、霊的な存在でもあって、何度もこの世に生まれては、様々な経験や知見を重ね、より神仏に近い存在に近づかんとしている存在である、というような世界観を教えて頂いています。もしその世界観が真実であるとするならば、本来この世界は神の子達が住まう世界、素晴らしい世界、信用できる世界であって、上記のような、人間や社会への不信を募らせる方々が多い状況は神の目から見たらあってはならない状況なのだと思うのです。
しかし、実際には、そうした神の子としての自覚、霊的存在としての自覚を持った方々は少数であって、その結果、かなりネガティブなイメージを人類や社会に対し持っている方の方が多いと言うのが実際のように見えます。我々皆が神の子達であるならば、こうした状況はあってはならない状況でして、本来のあるべき状態に近づけねばなりませんよね。神様だって不本意に思っている事でしょう。
ただ、成り行きに任せていては、現在のように、世界や人類に対しネガティブなイメージを持つ方の多い現状を変える事は難しいでしょう。この状況を変えるには、まず、多くの人がこの世界を信頼に足る良い世界にしようと、積極的に関与する必要があります。まずは思想として、考え方として、全ての人類が例外なく、神の子達であり、神の一部であり、霊的存在であり、転生をし、経験と知見を重ね神近き存在へと成長することを期待されている尊い存在である、と言った認識を、多くの方々に共有いただき、その上で、多くの方々に、日々そうした考えに基づいて、その考えに沿った正しい行動を積み重ねて頂き、この世界が、正直で親切で明るく世話好きな素晴らしい人々の集う信頼に足る世界である、と、そうした認識を多くの人達に持ってもらえるようにする必要があります。我々の行為を見て、人間不信に陥る人がいてはいけないと言う事です。ですから、正直である必要があり、親切で思いやりが必要であり、言動に一貫性も必要だと言う事になります。
芸術の世界においても、出来るだけ、そうした正直で親切でおせっかいな人々が作り出す思いやりと信用の溢れた明るい世界をもっともっと描いて頂きたいと思うのです。複雑で屈折した難しい人間達の織り成す世界よりも、もっと単純な善人が作り出す温かい世界をもっともっと見てみたい、と、そう思う今日この頃です。

湖畔人

第95話. Beatles論

2018-05-06 13:28:11 | 文化論
湖畔人です。

今回は、以前から触れてみたかったビートルズについてです。何時までも半島情勢と日本の危機ばかりやっていられないので、たまには趣向を変えて音楽関連の話です。気になった音楽のカテゴリーにしようかなとも思いましたが、まずは、文化論として、ビートルズについて語りたいと思います。
最近、リンゴスターがナイトの称号を頂いたと言うニュースが流れており、また何かと脚光を浴びているビートルズですが、私の中では、半年に一回位の頻度で無性にビートルズ、もしくはポールマッカートニーの曲が聞きたくなるタイミングが来ます。特に心が疲れている時はポールの甘いメロディーが疲れた心に染みて助かるのです。以前も自分は無類のポップス好きと申しましたが、その中でもビートルズ、特にポールマッカートニーの曲は、自分の中では別格扱いとして位置付けられています。勿論リアルタイムでビートルズを体感した筈も無いですが、ロックの基本としておさらいをしており、高校時代には殆どのアルバムは聴いていて結構詳しい方だとは思います。好きな曲は結果的にポールの曲が多いのですが、ジョンの書いた曲もいくつか好きな曲はございますし、ジョンがソロになった後に書いた曲も亡くなる直前のダブルファンタジー等は、「スターティング・オーヴァー」や「ウーマン」等、名曲が多く、とても好きなのですが、ただ、ジョンの代表曲となっている「イマジン」は無神論の推奨みたくなっており、霊的人生観を常識としたい立場の私としてはやはり見過ごせない点であり、ドラッグの拡散と合わせ、ビートルズ関連の中で最も問題視している点でもあります。オノヨーコさんのいとこで外交評論家の加瀬英明さんによれば、ジョンが日本に滞在していた時には靖国や伊勢神宮にも足を運んでおり汎神論的な神道的世界観にも理解を示していたし、彼は多分、キリスト教批判をしただけであってかならずしも無神論者ではない、と言ってはいましたが、きっとそう言った面も事実かと思いますが、ただ、彼の残した曲、イマジンの歌詞を見る限りは、天国も地獄も死後の世界などなく、ただ、今に生きなさいと言うような歌詞ですから、無神論の勧めにしか聞こえないのも事実です。仮にこれがキリスト教批判と言う限定されたもので宗教全てを批判した訳ではないのであれば、そう示唆すべきであって、個人的には“第5話.一度きりの人生を大切に生きる為に【3】 霊的人生観の設定方法”の中で指摘したように、生まれて来る環境がバラバラで、ある人は地獄に落ち易い酷い環境に生まれ、ある人は恵まれた天国に行き易いような環境に生まれ、人生は一度きりで、輪廻のようなセカンドチャンスはなく、失敗したら地獄で永遠の業火に焼かれていなさいなんて言う世界観は余りにも酷過ぎるし、そうしたキリスト教的なあの世観は信じがたいし、多分、元々はキリスト教でも輪廻を肯定していたのを教会が何らかの理由で意図的にもみ消した方針があったのだろう、と述べましたが、そうした理由でキリスト教の負の側面を批判するのであればそれなら同意できるし、そう言ってもらえれば良いのであって、神と霊的世界観の全てを否定すべきではないと思うのです。宗教が紛争の要因に成って来たのも事実で、そう言った点も彼の批判には含まれるのでしょう。確かに、宗教紛争を解決できる神はまだ彼がこの曲を書いたときには現れていませんでしたから、そう言いたい気持ちも理解は出来ます。理解は出来ますが、そこは、古い宗教が発生した時期の、その当時の世界観はかなり制限されており、世界全体を見ていたわけでもなく、かなりローカルなものであって、現代にマッチさせるには、多少の調整、アダプトが必要だね、と、そう言った大人な見方、対応をすべきだったと思うのです。彼はGODと言う別の曲でも、イエスも仏陀も否定し、自分と恋人のヨーコしか信じないとしていますし、I found out(悟り)と言う曲でもハレ・クリシュナやイエスを否定しています。(この曲で良い点は、ドラッグが何ももたらさないと言い切っている点だけです。これでドラッグ拡散のカルマ取りが一部出来たかもしれません)イエスの復活とか、パンを無数に出したとか、そういったエキセントリックな奇跡話を信じられないと言うなら、それは多少は理解できるし、そもそもそうした逸話は実は余り重要ではなく、それらは後世の人々がイエスを神格化するために付け足した面白話位に捉えていればよいのであって、そこでもってイエスを否定してはならないと思うのです。大事なのはイエスの愛の教えであり、霊性のお話です。枝葉で幹を否定すべきではありません。想像ですが、ジョンは親に捨てられた過去を持ち、親の愛に飢えていたため、その親の代わりとなる絶対的な愛の存在を探すあまりに、完璧な神の姿を求めすぎて、インドのヨガマスター等、世俗的で胡散臭い宗教者と出会っては失望を繰り返しこうした結論を述べたのかもしれません。期待が大きく依存性が激しい分、失望した時に激しいリアクションを起こしたのかもしれません。でもだからと言って、それで霊的世界の全てや神の存在まで否定するのはやはりやりすぎだと思うのです。ジョンは息子のショーンかジュリアンやオノヨーコさんにインスピレーションを下ろして、神と霊的世界を肯定するような歌詞に変えたIMAGINE2を是非残すべきだと個人的には思います。例えば、”I died in 1980. I found in the spiritual world now that what I said in my song “imagine” was wrong. Now I know that there are heaven and hell. They surely exist. I found that hell is not the place you need to be forever, it is like a school or a jail or a hospital. Once you find out your bad tendency in your way of thinking by being in the hell, or by looking at similar people around you in the hell, and if you start to think that your bad tendency needs to be changed, then it is the time that you can get out of the hell, it is a time to graduate from the hell. So hell is not the place you need to be forever, it is the place like a school to teach you how your bad tendency looks like and it is the place to let you think such a bad tendency needs to be changed. Once you find that out, you can get out the hell. So don’t worry too much. Somehow you can go back to where you belong to, that is the heaven. After you enjoy the life in the heaven for sometime, in order to become a better person, a God like being, you will have another chances to reborn again and again. Yes, we are in the cycle of reincarnation. So we have plenty of chances to try many other lives to experience more in order to become a better being. So, don’t worry too much. Life goes on, and you will gain your knowledge through many experiences through reincarnation. And you will be wiser and brighter and nicer in the future. Your future is bright. I swear you. Life is great. We live forever through the system of reincarnation. Thanks god, this is the perfect system.”とか、そんな感じの訂正ソングを書いて頂きたい所です。タイトルは、"IMAGINE2, Don't Imagine but know the truth"みたいな感じで。 でないと、ジョンレノン=無神論者では余りにも残念過ぎます。彼は一方では“All you need is Love”と歌う愛の伝道者でもあります。愛は神が最も重要視する教えですし、愛とはある意味彼の否定した神の別の名前です。いい線行っていたと思うのですが、Imagineだけは残念です。
長くなりましたが、結局ビートルズ論の一回目はジョン批判となりました。でもジョンの曲は好きな曲も多いし、ビートルズを作ったのもジョン、ビートルズのリーダーもジョン、神道に理解を示し、UFOを見たと言い、霊性に理解を示し、Instant Karmaとカルマを歌詞に歌ったのもジョン、愛が大事だと言ったのもジョン、良くも悪くもビートルズの中心は彼であり、彼の心の軌跡は多くの若者に追体験され、人々に考える契機を与えたのも事実です。ただただ、イマジンだけが残念、ただそれだけです。
ビートルズ程愛された存在を知らないし、彼らの書いた曲のいくつかは普遍的で今後も残る曲かと思います。イギリスの皇室と並んでイギリスの代表的なイメージであり、現代のロックやポップスの原型の多くは彼らから生み出されており、ハードロックもプログレも皆彼らから出てきています。ロックやポップスのバンドがある程度出世をするとサイケな格好をして愛と平和を歌う流れも彼らが始まりですし、色んな意味で人類的な存在、偉大なる存在なのは間違いない事実かと思います。
次回以降はビートルズの曲とポールの曲を気になる音楽のカテゴリーの項目でパラパラと一曲ずつ追いたいと思います。それではまた。

湖畔人