第37話. 唯物論か 唯霊論(唯神論)か、考えを定めて生きる(1) 

2017-04-03 01:40:53 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。
もう新年度が始まりましたね。時が過ぎるのが速いですね。そう感じられている人が周りにも多いようです。
気が付くとどんどんと年を重ねてしまうので、大切な事は出来るだけ早目に言っておこうと思う今日この頃です。
第3話で、生きる目標を定め、充実した人生を送る事を推奨しました。第4話と第5話で私の霊的な人生観、世界観について簡単に説明させていただきました。第4話でも申し上げましたが、この世界は、様々な思想を持つ人の集積、集合体です。この世を見渡すと、ある一群は神を信じ、ある一群は神を全く信ぜず全てを偶然と見、また神を信じる人々の中でも、自らが信じる事のみが正しく、他は皆悪、亡ぶべきと見る排他的な勢力もいるように見えます。

●普遍的霊的な世界観
私の結論は、第4話と第5話で御説明した通り、様々な宗教や思想の最大公約数として、エッセンスとして、全ての人が神仏の子であり大きな神という宇宙樹の枝葉であり、皆一つの木の枝葉であるから皆繋がっており皆兄弟であり、皆霊的な存在であり、転生輪廻の中で様々な経験と知見を重ね、より親である究極の神に近づかんと修行をする霊的な存在である。それが我々である。と言う見方をしており、この見方は多くの宗教や思想に共通してみられる考えであり、普遍性があると思われる、と言うお話をしました。よって人類は皆神の子であり、絶対に滅ぼすべき、絶対的な悪は存在しない、が、それでもしかし、真なる世界観から外れる霊性の否定、唯物論や快楽主義が広がる事も、排他的過ぎる宗派が広がる事も、究極に近い神々は認めるはずもなく、天変地異などを起こし反省を求めるであろう、それが世界の真相であろう、と、そうした話を第15話でもしました。実際の所、多分その通りだと思いますし、そうした霊的多次元的世界観を明確且つ理路整然と説明されているスゴイ新宗教が日本に存在する事も以前説明しましたが、でも、そうした霊的な世界観を信じられないと言う人はどうも数多くいらっしゃるようです。所謂、無神論、唯物論者という一群の存在です。

●不可視は非存在と言えるか?
彼らの言い分だと、霊や神は肉眼で見られないし、再現、共有ができないから存在しないと言います。でも、可視でない存在形態はこの世界には多数ございます。そもそも我々が今お世話になっているデジタルの世界も01のビットの集積に信号を変換して画像や文章や音声を再現して動画や文章を楽しんでいますが、それらの信号も変換前は空間や光ファイバー内を飛ぶ光信号や電波な訳でして、それらはただの光の一種、電磁波にすぎません。そうした不可視の電磁波は、変換されて初めて音や絵として認識されますが、飛んでいる信号の間は人間には検知出来ません。そうした電磁波的存在で、意思を持った存在がいたとしても、今の我々にはその存在を検知できるデバイスを持ち合わせておりませんが、ただそれは我々にそこまでの科学技術力がないと言うだけの話で、自分たちの非力を持って不可視の存在の否定をしてはいけないと思うのです。今は、それら霊的な存在を検知できる存在は、霊能者、預言者と呼ばれるような特殊な存在にその検知を依存していますが、将来、神々が発する信号の周波数を捉え、意図的に検知再現できる技術が生まれれば、状況は変わるかと思うのです。ですので、その可能性に対して心を閉ざしてはいけないと思いますし、不可視の思考するエネルギー体としての霊や神仏を否定するべきでないと思うのです。今、THz帯を使って空港の危険物を見出そうなんて言う技術開発も進行していますが、もっと高い周波数帯に霊の世界があるかも知れないのです。その可能性まで否定すべきではないです。

●霊存在の確率
今、もし、霊や神仏の可能性を問われれば、有るか、無いか、の50%です。いない可能性は90%ではないのです。せいぜい妥協しても50%、だから、偉そうに見えない存在を否定されても困るのです、簡単に否定するのではなく、霊や神仏がいるかもしれないという可能性に対し謙虚であるべきです。その可能性に心を閉ざすべきではありません。

●進化論の不可思議さ
また無神論者の多くは、進化論のように、簡単な微生物が段々と進化を繰り返し、猿から進化したのが人間で、全ては偶然の産物であると主張します。
でもこの進化論ベースの世界観は、私には安っぽい宗教を強要されているようにしか見えないのです。
そもそも、どうやって灼熱のマグマの塊だった地球に生物が、最初に生命が存在しはじめたのか、本当に疑問です。高熱過ぎて生命は存在しえないはずです。そして、まず、無機の鉱物などから、仮に単純なプランクトンであれ、いきなり有機的生命が生まれると仮定できるその空想力が驚きです。岩から偶然突然、生命が現れるのだそうです。冗談も大概にして欲しいです。
次に、進化論です。種というけど、種を超えると言うのは普通はあり得ません。交尾、交配によって生まれる生命は同じ種の中、近い系統ならあり得るにしろ、種を超える事は無理です。犬と猫の合いの子、犬と魚の合いの子、トカゲとカエルの合いの子、そんなものはいません。
種を越える理由を突然変異に求めているようですが、突然変異と言っても、色が違うとか、部位の数が違うとか、あくまでマイナーチェンジはあるにしろ、魚からカエルが出て来たり、種を超えるような突然変異などありません。それに、新しい種を形成するには、子孫を増やせるほど同じタイプの突然変異体が数多く大量に生まれる必要があり、1匹突然変異が起きても新しい種の誕生にはなりません。突然変異で新しい種が生まれるなんて言う話は論理が飛躍し過ぎています。話に無理があり過ぎです。
でもDNAの配列が似てるではないか?何故だ?と言う人がいるかもしれません。
私の想像では、無機から有機を作ったのは多分間違いなく神と言われるような高次の存在による創造と思われます。また基本的な種の存在も多分間違いなく神と言われるような高次の存在による仕業と思われます。ただ、ある程度の種を越える生命の創造は、今の化学技術でも可能な通り、遺伝子工学で十分できると思いますので、例えば、記録されていない過去に、高度な遺伝子工学技術を人類が有していた時期があったとすれば、その時の高度な人類の仕業として新しい種の創造はあったと言うのであれば、それは、あり得ると思います。DNAの配列の類似の理由はその辺りに求めたいと思います。また、例えば人類よりさらに高度な他の惑星の人類的存在が飛来し、新たな生命を地球にもたらしたり、遺伝子操作を地球の生物に施した、と言うのでであれば、そんな話はまだ信じられます。ただ、偶然と突然変異の連続でプランクトンから我々が出来たという説を信じよと言われても、申し訳ないですが、そのような無理のある乱暴なお話を信じる事は私には到底できません。難しすぎます。その不思議な進化論を信じられる人達は本当に凄い信仰心の持主だと思えて仕方ありません。でも、少し冷静になられては?と助言をしたい所です。

●唯霊論、唯物論、どちらが住みよいか
次に、霊や神を信じる世界と、信じない唯物論者だけの世界を比較したときに、一体何方が住みやすく、信じられるより良い世界か想像して頂きたいのです。
霊や神を信じる人たちは、心根ですら霊や神仏に見られており、それら心の在り様も正そうとし、神の教えの通り、他の存在も同じ神の子であり、愛し大切にすべきと努力する、そうした人が多数の世界と、神も霊もおらず、人は肉の塊であり、求むべきは快楽と力とその担保としての恐怖である、嘘も悪口も人を貶める事も法に触れなければどんどんすべき、心で何を思おうが構わない、神仏などない、道徳もただの建前だ、等と言う人が多い世界と、何方が良いか?と言う事です。私は、神仏を信じ、人を神の子として見、心根まで正す人が多い方がずっと素晴らしいと思います。多分、唯物論者であっても、何方の世界に自分の子供を住まわせたいか?と聞かれれば、多分そうした神仏を信じ心根を正し周りを愛さんとする人が多い世界の方に自分の子は住まわせたいでしょう。だって、その方が信頼できるし温かいし愛に満ちているし、信用できるし安心だからです。
今日本では道徳を義務化しようとしていますが、その道徳も法律もその背後に神の意思があると思えばこそありがたいのです。それがなければ、まったく重みが違う事を政府は知るべきです。無神論者にとっては、法律も道徳も、偶然の産物のガラクタの塊としての人間が、ただ自己保存の為に建前として便宜的に作ったルールに過ぎない、と捉えるでしょうから、神仏を認めた場合と、認めない場合では、まったく道徳と法律の重み、強制性とありがたみが違うのです。その点、政府は知るべきです。この世界は神仏を信じないと回らないように出来ていると思えて仕方がありません。政府も神仏を信じる素晴らしさも同時に説かないと道徳だけやっても意味がない事を知るべきです。
神仏は存在し、宇宙樹全体が神であり、その枝葉が人類であり、よって人類は皆神の子で兄弟であり、この世に輪廻の中何度も生まれる意味は霊性の獲得と神仏への進化にあると言う考え、
その点を信じないと、この世界はうまく回らないようにできていると、そう思えて仕方がないのです。

●結論
結論として、
・霊的存在、または神仏がいるか、いないか、その存在確率は50%なのですから、霊や神仏は存在する可能性に対し心を閉ざすべきではない。
・電磁波の存在を考えれば、不可視でもって神仏は否定できない。
・唯物論者、無神論者の拠り所としての進化論の論拠は、非常に脆弱で奇想天外な無理のある仮設の上に成り立っており、信じるに足りないものであり、冷静になって距離を置くべき。
・神仏と霊の存在を信じる者が多い世界の方が、より安心と信頼と愛に満ちており選択すべき世界であると知れ。
・この世界は神仏への信仰抜きに成り立たない世界として出来上がっている、したがって、無神論者、唯物論者も、また何となく神をぼやっと信じてきた人たちも、人生は一度で短く、あっという間に終わりが来るのであるから、この辺りで心を定め、全ての人が神仏の子であり大きな神という宇宙樹の枝葉であり、皆一つの木の枝葉であるから皆同じ樹の一部として繋がっており皆兄弟であり、また我々は転生輪廻の中で様々な経験と知見を重ね、親である究極の神に近づかんと修行をする霊的な存在であり、その考えに基づき、心根を整え、他人の存在を同じ神の子として、愛し尊敬し大切にすべき存在であると見たり扱ったりする努力を日々すべきである、そうした考えを日々持って生きるべきである、そうした人が増えれば、この世界は必ず素晴らしい世界に成ります。だから、是非、本日から心を定め、霊的な生活を始めてはみませんか?人生は短く、気が付いた時に肚を括り、行動に移すべきです。そうした事を改めて皆様にお勧めしたいと思います。
それでは、また。

湖畔人

改訂1:2017.04.15