春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

夏の18切符 雨の日の仙台

2008年08月25日 | 東北の寺社
仙台・瑞鳳殿 ~伊達三代を訪ねに~


瑞鳳殿(ずいほうでん)
仙台伊達藩62万石の藩祖「独眼竜政宗」こと伊達政宗の霊廟(死者の霊を祭ってある建物)、御廟
桃山様式の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築として1931(昭和6)年、国宝に指定されたが、
1945(昭和20)年の仙台空襲で惜しくも焼失。現在の建物は1979(昭和54)年に再建されたもの。

 
 


感仙殿(かんせんでん)
二代藩主伊達忠宗の霊廟
法治体制確立、領内の安定に尽力し藩の基礎固めをなしとげました。
明治初年に本殿を除いて取り壊され、残った本殿も瑞鳳殿同様、仙台空襲で焼失しました。
現在の霊屋は瑞鳳殿に続いて再建が進められ、昭和60年に完成したもの。




善応殿(ぜんおうでん)
三代藩主伊達綱宗公の霊屋
感仙殿と同様に造営されたが、同じく戦災で焼失し、昭和60年感仙殿とともに再建された。
綱宗は故あって幕府から逼塞隠居を命じられ、隠居後は和歌、書画、蒔絵等に芸術的天分を発揮されました。
工事に先立って行われた墓室の調査でも、香道具、文具類等優雅な生活ぶりを忍ばせる副葬品が発見されている。



二代忠宗公の感仙殿、三代綱宗公の善応殿は並んで建っています。

霊屋の両脇には殉死した家臣の墓がある。


瑞鳳殿の辺り一帯は
史跡「経ヶ峯伊達家墓所」
経ヶ峯(きょうがみね)は、政宗がホトトギスの初音を聴きに訪れ、自らの墓所に決めたと言われる伊達家の霊域。
藩政時代長年禁断の地で、年月を感じさせる老杉に囲まれ、辺りとは別世界の場所。


境内には伊達家の禄高をあらわしたと伝える62段の参道や、重臣が奉納した石灯籠、戊辰関係の碑等の遺構がある。

再建の時に行われた墓室の調査で、ほぼ完全な形で政宗の遺骨が発見され、
身長は159.4cm(当時の平均値)、血液型は毛髪からB型だそうです。

2007.8.27

夏の18切符 鹿島神宮

2008年08月16日 | 18切符
茨城・鹿島神宮 ~線路は続くよどこまでも~



線~路は続く~よ、ど~こま~でも~

 野~を越え、

川、越~え、



湖、越~え~て、



は~るかな町ま~で ぼ~くたちの

 たのしい旅の夢 つないでる
(一部歌詞を替えています。)

というわけで降り立った街は


常陸国一宮、鹿島神宮を目指してやってきた。


鹿島神宮
皇紀元年(紀元前660年の建造とつたえられ、東国三社(同県にある息栖神社、香取神宮)の一つにも数えられている
名社。

祭神 武甕槌神 

武甕槌神は、香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされている。
また、地震の守り神としても有名で。境内の要石(かなめいし)は、地震を起こす大鯰の頭を抑える杭と言われ、
見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられている。

平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、
延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだった。
関東最大最古の神社。


鳥居の前に鹿がお出迎え


水戸初代藩主徳川頼房公が奉納した楼門

(頼房は水戸黄門光圀公の父親、家康の子供)


仮殿(一時的(改修などのさい)に神様をお移しする場所)





拝殿・二代目将軍の徳 川秀忠公が奉納



本殿



鹿島神宮の森を抜け


奥の宮・徳川家康が奉納(もと本殿)



さらに奥参道を森深く歩くと

大鯰の碑

そしてこれが、鯰の頭を押さえている要石

徳川光國の「水戸黄門仁徳録」には七日七掘っても掘りきれずという記述が残る。
掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、また、けが人も続出した。

要石のお陰か鹿島地方では、大きな地震がないと言われていて、関東平野はちょうど大鯰のしっぽの部分にあたるため
頭が動かせず、鯰がしっぽを振ると関東に地震が起こるとも言われる。



誰が入っても、同じ深さの池と言い伝えられている御手洗池



関東平野の隅っこ、今ではサッカーの鹿島アントラーズが有名だが、
昔、戦国時代の剣術家、生涯敗れることなしと言われた剣聖塚原卜伝の生誕の地とも言われる鹿島。

創建は紀元前660年という、日本でも有数の古社であり、神宮という名の最古級の神社、そして日本で一番有名な神社、伊勢神宮と並び三神宮の一つに数えられる鹿島神宮。

平安時代栄華を極めた藤原一族。その一族の創始者である中臣鎌足は、ここ鹿島で生まれ育ち、飛鳥の中央政界に繰り出した。
その後、藤原氏の姓を賜り、奈良の春日山にこの鹿島神宮を藤原氏は招聘(しょうへい)する、それが春日神社と言われる。

そんな伝統の鹿島、そしてその街の中心、人々の生活の、心の中心にあったであろう鹿島神宮、
どんな街だろうとワクワクしていったが、寂れている印象を受けた。

訪れたのは夏休みの土曜日にも関わらず、神社への道は、人はまばらなで閉店した店も目立つ。
まだ僕の地元の太宰府のほうが活気があるように思えた。(鹿島の方々には失礼だが)

後日鹿島神宮のことを周りに聞くと、ほとんどの人が知らなかった。

サッカーがあればまた別だろうが、古い歴史と伝統の街鹿島。

これから町づくりに個人的には期待したい。

(※歴史好きの僕にとっては神聖な空気が漂い、とても楽しめた場所でしたよ)

終戦の日

2008年08月14日 | 歴史の話
東京・靖国神社


明日は終戦の日、敗戦の日。

オリンピックで盛り上がる裏で、長崎・広島の原爆投下も、ましてや明日の終戦の日も、
人々から忘れさられているような気がしてならない。

明日は仕事でお参りに行けないが、後日改めて、今の日本の礎を築いてくれた人たちもとを訪れたいと思う。

靖国問題もあるが、今の僕は先人達の数々の犠牲と、数多の歴史の上に今、何不自由なく生きているから。


※靖国神社は幕末の嘉永6年(1853)以降の、明治維新、戊辰の役(内戦)、西南の役(内戦)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などで、
ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の御霊を、
身分や勲功、男女の別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされている。
(内戦に関しては朝廷方戦死者のみ)個人的には戊辰戦争に関しては会津派ですが.........。



春の靖国










夏の靖国










靖国、戦争に関しては人それぞれ色々な考え方があると思いますが、
このブログを見て、そういえば明日、終戦の日だなって思い出してくれれば幸いです。

坂東お遍路 真夏の龍正院

2008年08月13日 | 坂東三十三箇所巡礼
千葉・龍正院 縁日の境内


天台宗 滑河山 龍正院(りゅうしょういん)

ご本尊は十一面観世音菩薩

平安初期の838年(承和5年)滑河城主小田将治が発願し、慈覚大師の開基と伝わる坂東33ヶ所観音霊場の第28番札所。

1216年(建保4年)折からの暴風雨で本堂・護摩堂・三重塔。鐘楼などを失ったが、1696年(元禄11年)本堂が、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寄進により再建(県指定有形文化財)

仁王門は文亀年間(1501年 - 1504年)に再建されたもの(こちらは国の重要文化財)
毎年、注連縄の奉納されている。

縁日の仁王門



入り口に建つ宝筺印塔(市指定文化財)



仁王門と注連縄



注連縄(しめなわ)神域と外界とを隔てる役割がある。

毎年1月8日に締めかえる


境内へ.........

夫婦松
 1718年江戸の小幡匠が鋳造

子安観音 弁財天

しもうさ七福神(毘沙門天)


本堂裏の神社



元禄文化の時期にたてられた本堂
 
 


滑河駅からのどかな田園風景の中を歩く、どの稲にも稲穂が付いており、色づき出すのももうすぐだろう。
かぼちゃ、トマト、なす、きゅうり、はくさい、たくさんの野菜が青々と実っていた。

訪れた8月9日はちょうど四万八千日という夜祭り。

四万八千日とは、この日おまいりすると、四万八千日おまいりしたのと同じ御利益があると言われている日で。
これは浅草、浅草寺の四万六千日より二千日多い。

四万八千日とパッと言われても全く想像がつかないが、計算してみるとざっと131年分だった。
どう頑張ってもこんなに長生きできないけど、その分のご利益を家族や友達にわけてほしいけど......

露店がひしめき合い、建物だけの写真が撮れなかったのが少し残念だが、夏の風情があってこれもまたいいか。

このお寺には、野生のフクロウがよく降り立つらしい、フクロウ好きの僕には、興味津々の話で、今年は見なかったらしいが、いくつか過去の写真を見せてもらった、まるでぬいぐるみのようなとてもかわいらしく、親子のフクロウもいた。

なんだか幸せな気分になりました。

JR成田線滑河下車・徒歩約15分

2008.8.9








坂東お遍路 真夏の千葉寺

2008年08月12日 | 坂東三十三箇所巡礼
千葉・千葉寺 新緑の色


真言宗豊山派 海上山千葉寺
(せんようじ)


坂東三十三箇所観音霊場第二十九番札所。
徳川将軍家がたびたび参詣した寺格を誇り、千葉県の古刹。

ご本尊は 十一面観世音菩薩

元明天皇の時代、709年(和銅2年)この地を訪れた行基が十一面観音を安置したのに始まり、聖武天皇の命により千葉寺と称したという。1160年(永暦元年)に落雷により伽藍一切を焼失。

1180年(治承4)8月、源頼朝が相模国石橋山において平家方との戦いに敗れ、海路、房総半島へ落ち延びたとき
その頼朝に味方した千葉常胤が日ごろ祈願所としていた千葉寺(焼失しており、観音堂か)に参詣して、武運を祈り、満願成就のあかつきには堂宇の再建を誓った。

千葉氏の居城である千葉城(猪鼻城)に近く、境内に祀られている「龍蔵権現」は、城の南を守る神で、九曜紋と月星紋が神紋となっている。
小田原合戦ののち千葉氏が滅亡してしまったが、徳川将軍家の庇護のもと朱印百石、大いに寺格を高めた。

現在の本堂は、昭和51年の落成だが、仁王門、鐘楼は1828年の建築


仁王門


境内へ
 


樹齢800年を超えた天然記念物の大銀杏(色ずく頃にまた見てみたい)


千葉家家紋
九曜紋 月星紋

千葉城の南の守護神・龍蔵権現


関東88箇所霊場 第四十七番でもある大師堂


弁財天


境内は夏祭りの用意



JR千葉駅よりバスで10分
京成千葉寺駅より徒歩8分



真夏の日差しが照りつける中、JR千葉駅から5kmほどの道のりを歩く。
千葉市街を抜け軽い上り坂を1kmほどを登ったところに千葉寺はある。歴史を深さを感じさせる仁王門を潜り境内に入ると、
真っ先に樹齢800年の大銀杏が目に入った。小田原の勝福寺といい勝負だ。

俺は時代の移り変わりをずっとこの目で見ってきて、なんでもお見通しだ!!
そう言っているようでもある。

本堂は最近の建立だが、江戸時代の彫刻を模してあるのか、派手やかな彫刻で飾られていた。

千葉寺にはかつて「千葉笑い」という行事があった。
毎年大晦日の晩に住民が面で顔を覆って集合し、地頭・代官などへの不満や悪口を言いまくり、
最後にみんなで笑い合って正月を迎えるというもの。

明治時代までは続いていたようだが......

近所付き合いや地域の交流が少ない今日。
周りの目を気にして言いたいことやりたいことを我慢する今日

千葉笑いは今の時代の方が、必要なのかもしない。

2008.8.9


夏の18切符 真夏の山形 山形城

2008年08月07日 | 日本の城
山形・山形城 真夏の空

山形城
別名・霞ヶ城(かすみがじょう)、霞城(かじょう)

由来は、関ヶ原の合戦の頃に直江兼続(上杉軍)が富神山の麓からお城を十日間見てたが、
霞がかかって何も見えなかったことからその別名が付いた。今でも霞城公園として市民の憩いの場となっている。

山形城の築城は南北朝時代の1357年、足利家一族の斯波兼頼によるといわれ、
その後、斯波氏は最上家を名乗る。
今の城郭の基礎を作ったのは最上義光で、関ヶ原の功で57万石を領有。

しかし、最上義光以後は没落。1622年、義光の孫・家信(義俊)は家臣の争いにより改易
以後、鳥居忠政(24万石)が山形城を改築し、徳川家の親藩・譜代の大名が、石高を減少させながら次々と入城。
最後は水野氏5万石。

明治維新後、歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、建物は全て無くなり、本丸は埋め立てられた。
現在、本格的に城(本丸)を復元するための調査と整備が進行中。
天守閣は元から存在しない。



二の丸 南大手門跡から霞城公園内へ



復元頑張ってます


本丸 復元中


大手橋復元完了(このあと門が2009年までに復元予定)


二の丸東大手門(復元)
 

堀の真横にJRが走る


隣接する最上義光歴史館


山形の基礎を作った最上義光像




当時、僕の中で日本最北端を記録した山形
東北なので、夏だが涼しいという勝手なイメージも、まったく通用しないくらい暑かった。
途中乗ったタクシーの運転手も、東北では一番暑いと自慢していた。(※夜は寒いです)

なにより印象的だったのが、空の青さ。
普段いる東京では見たことのない色だった。

日本にあるお城のほとんどが、江戸時代の一国一城令、明治の破却、昭和の空襲により失われた。
山形城もその良き例で、本丸は埋め立てられ、敷地内には野球場もある。

だが今、復元の流れが出てきていて、二の丸東大手門を皮切りに、本丸の堀を掘り起こし、
本丸の正門に当たる一文字門が石垣と橋ともに復元中である。

これからのこういう流れが活発になり、お城がその街の憩いの場とシンボルになり、
そこから自分たちの街の歴史や、偉人たちを知る機会に少しでもなれば、僕は嬉しい。


前回は細部まで見て回れなかったので、2009年、復元が終わったらまた訪れよう。


2007.8.24

東京散歩 亀戸天満宮

2008年08月05日 | 東京歴史散策
亀戸天神社

ご祭神・天満大神(菅原道真)
    天菩日命(菅原家の祖神)相殿に祀る 

九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されるとおり、
菅原道真公をお祀りする神社。

1646年(正保三年)
太宰府天満宮の神官だった菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔)は神のお告げにより、
飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって諸国を巡り歩き 、
そして江戸の本所亀戸村にたどり着いたとき、村に元々あった天神の小さなほこらにご神像をお祀りしたのが始まり。


四代将軍家綱が江戸の大半を焼き尽くした明暦大火のあと現在の社地を寄進。
その後、寛文二年(1662)に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを造営された。


鳥居


太鼓橋(男橋)


亀が付くからか、心の字池にはたくさんの亀が



本殿


竹が描かれた石碑



藤の木がとても多く四月末から五月頭まで藤まつりが行われる。





福岡出身の僕は、小さい頃から毎年初詣は太宰府天満宮と決まっている。
一年の始まりがそこにある僕にとって亀戸天満宮の景色は、すごく懐かしいものを感じた。

そして、太宰府天満宮と言ったら梅なのだが、ここの藤の木の多さにはとても驚いた。

僕はまだ、辺り一面咲き乱れる藤を見たことがない
今年どこかに藤を見に行こう思っていたが、予定が合わず見れなかったので
来年は、絶対、亀戸の藤まつりに行こうと思う。


下町の匂いのする路地の先に、どこか懐かしい亀戸天神社。


総武線亀戸駅下車 北口より徒歩15分
総武線、地下鉄半蔵門線錦糸町駅下車 北口より徒歩15分



そうそう、ちょうど夏祭りの日でした




おまけに

江戸川からの夕日



2008.8.2

東京散歩 東京大仏

2008年08月04日 | 東京歴史散策
浄土宗赤塚山乗蓮寺

徳川八代将軍吉宗の時、鷹狩の際の休憩所に指定された格式ある寺院。
古くは孤雲山慶学院と号し、後に慶学山と改称した浄土宗の古刹。
境内地は赤塚城二ノ丸跡でもあります。

日本三大仏の一つ、東京大仏は阿弥陀如来で高さ8.2メートル
青銅製の鋳造大仏では奈良、鎌倉の大仏に次ぐ大きさです。

(日本三大仏は諸説あり)

仁王門
 

葵の紋


本堂




 

東京大仏






東武東上線「成増」からバスで10分、もしくは下赤塚から徒歩で25分
松月院 赤塚植物園 赤塚城趾・溜池公園など他にも近くに見所がたくさん。

大仏そば、大仏食堂、華麗(カレー)の店など、シャレた?お店も軒を連ねます(笑)


2007.7.22