春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

坂東お遍路 群馬・水澤寺

2009年02月20日 | 坂東三十三箇所巡礼
第十六番 天台宗 五徳山 水澤寺



今から1300年前、推古天皇の時代、上野国司の高光中将が菩提所として創建、高麗僧恵灌を奈良の寺から迎えられ、
別当開山とし、伊香保御前御守持の千手観世音菩薩を安置したと伝わる。

通称「水澤観音」

七難即滅、 七福即生のご利益があることから、「融通観音」と親しまれている。

江戸時代には徳川幕府から朱印状が与えられ、祈願寺として栄える。

門前町には、本堂の背後の水沢山からわき出る名水を使い
「寺を開いた恵灌上人が、地元の人たちにうどんの製法を伝授したのが始まり」という水沢うどんの店が軒を連ねる。

讃岐うどん、稲庭うどんと並び、日本三大うどんの一つ。

山門(天明七年、1787年竣工。市指定文化財)


手水鉢の亀?


本堂(方形造銅板葺とし、正面に唐破風の向拝をつけたもの。市指定文化財、同じく天明七年に竣工)


 


六角二重塔(県指定文化財)

内陣自体が回転する様になっており、そこに六体の銅造地蔵菩薩立像が安置され、六道輪廻をあらわしている。
手押しで左に3回廻して祈願する。
二階には大日如来が安置。

霊泉が湧き出る、龍王辨財天霊泉。財を成し、病を癒し天寿を全うする


鐘楼


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二千年の歴史を誇る群馬県を代表する名湯の一つ伊香保温泉
その近くに古刹、水沢観音はある。

現在は伊香保に立ち寄る温泉客が必ずよる観光寺になっていて、本堂横に大型バスも止まれる大駐車場が近年できた。
大型観光バスの一行と重なると、境内はとても賑わう。しかし、手を清め、石段を上がり、仁王門で一礼し、さらに石段を上がり本堂にお参りする参拝者は、僕が訪れたときには皆無であった。


ちょうど、僕がお金を払って鐘を撞こうとしたら、酔っぱらった団体客が後ろから邪魔してきて、その後、何回もすごい力で鐘を撞きだした、そしてそれに飽きたら、六角堂の内輪を高速でまわしだし、大笑いしていた。
彼らはそれが国の重要文化財だと言う事を、知ってるんだか、知らないんだか.....
それ以前に、大人としての、日本人としてのマナーくらい守ってほしい。
お寺や神社は神聖な場所である、たくさんの人々の願いや、想いが詰まった場所である。

正直こういう光景を目の当たりにすると怒りすら覚えてくる、見える位置に御朱印をいただく場所があるのに、残念なことにお寺の方が注意に出てくる事も最後までなかった。よくある光景なのだろうかとも疑ってしまう。

境内が人でにぎわう事は悪い事ではないと思うし、文化財を管理、維持するのは経済面でも大変な事だと思う。
しかし、「観光客が多く訪れる=繁栄」は必ずしも結びつかない。

昔から残る文化財は一度失えば二度と戻らない、戦災を逃れ、天災を乗り越え、多くの人日大切に保管され今に至り、
往時から綺麗な状態で残っているからこそ価値がある。
水澤寺の建物は近年修復され、とても綺麗で見応えがあるのに、このような光景は残念でしかたがない。

人の賑わいの中で、観光寺の長所と短所が見えたお寺でした。

お昼ご飯は、もちろん水沢うどん。舞茸の天ぷらも美味

岡本太郎も愛した「大澤屋」でいただきました。

2009.2.16

坂東お遍路 群馬・長谷寺

2009年02月19日 | 坂東三十三箇所巡礼
第十五番 金峯山修験本宗 白岩山 長谷寺(ちょうこくじ)

坂東三十三ヶ所霊場の十五番札所で、一般に白岩観音と呼び親しまれています。
寺の創建年代等については不詳ですが、郷士の高崎氏は厄年を恐れ、一人の旅僧の為に宿を提供しました。
旅僧はそのお礼に役の行者ゆかりの地に生えていた楊柳(ようりゅう)の木で大和長谷寺の観音様を模した像を造り与えてくれました。この旅僧は行基だったという伝説があります。

寺伝には延暦・大同(782~810)の頃に伝教大師、弘法大師も巡錫(じゅんしゃく)し、文徳天皇(851)の御代、在原業平が堂宇を修営したという。 のちに源義家、新田義貞など源氏の武将の信仰も厚かった。
長谷寺のある場所を「白岩」といい、白岩山の山号は、役ノ行者が烏川の底から白い巨岩を運ばせて、ここに修行の場をつくったという伝説に由来。白岩に境を接する里見郷は新田 義貞と共に滅亡した里見一族の本拠地であり、のちの楠正成の家臣、浜名左衛門義尊が遠江国濱名邑 より来て諸堂を改修し護った。現山主はその 三十九代目にあたるそうです。

戦国時代、天文元年(1532)関東管領上杉憲政が伽藍を整えてから日本三長谷の一つとなります。
しかし、上杉、北条、武田の上野を廻る戦いが激化、武田信玄が箕輪城の長野業政を攻めた折に兵火にあって焼失します。
そこで1580年、武田勝頼の時代に世無道上人に命じ、 天正八年(1580)再建させたのが現在の観音堂です。
唐破風をもつ見事な建築で、狩野派 の絵師牧守俊の画く天人奏楽の天井画も残ります。

明治に入り一時天台宗に属することとなりますが、戦後現在の宗派となる。

堂内にある本尊の十一面観音は秘仏で見られないが、前立の十一面観音立像は拝むことができます。


仁王門(山門)室町時代に建立


阿吽 血管でてます
 


武田勝頼寄進の本堂


本堂の彫刻(赤鬼が持っているのは硯「すずり」)


不動明王
 



白山神社(神仏習合の名残をとどめる。明治の廃仏毀釈により現在管理は寺と別らしい)



久しぶりに見たオオイヌノフグリ



そして群馬三大梅林のひとつ、みさとの梅たちが徐々に咲き始めていました!



群馬県群馬郡榛名町白岩

2009.2.16

冬の京都・智積院

2009年02月07日 | 京都の寺社
冬の京都・智積院



「成田山」で知られる、千葉の成田山新勝寺。
「川崎大師」で知られる、神奈川の川崎大師平間寺。
そして最近、ミシュランで人気爆発の東京の「高尾山」にある、高尾山薬王院。

この3つの寺院は真言宗智山派の大本山。
(東京都の高幡山金剛寺「高幡不動」は別格本山)

そして全国に3000余りの末寺を有している総本山が、
五百佛山 智積院 根来寺 いおぶさん ちしゃくいん ねごろじ

その歴史は複雑で、簡単に述べると、
元々は紀州(和歌山)根来山大伝法院の塔頭であったが、豊臣秀吉の紀州攻めで、ほとんどが焼失。
その時の住職、玄宥(げんゆう)は京都に逃れます。
慶長6年(1601)、徳川家康の命により、豊国神社(秀吉を祀った神社)境内の坊舎と土地が与えられ、再興されました。
その後、秀吉が三歳で夭折した愛児鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、現在に至ります。


金堂(本尊大日如来の尊像が安置)



再建された講堂



明王殿(京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡)



他にも桃山城の遺構といわれる大書院などがある。


祥雲禅寺時代の桃山時代末期に築かれた庭園(その後一部修復)
「利休好みの庭」とつたわる名勝庭園

山は「廬山」を、池は「長江」をモデルに


国宝に指定されている障壁画「楓図」・「桜図」
長谷川等伯作「楓図」


等伯の嫡男の久蔵作「桜図」


※これはレプリカです。本物は境内の収蔵庫にあります。
他に「松と葵の図」「松に秋草図」が国宝。


境内に咲いていた早咲きの梅

梅の木が満開になれば春ももうすぐ。
僕は見た事ありませんが、五月頃、名勝庭園のつつじがとても綺麗だそうです。

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狩野正信(室町)、狩野永徳(安土桃山)、狩野光信、狩野探幽(江戸初期)、狩野山楽
歴史の教科書にも必ず名前の出る、日本絵画史上最大の画派、狩野派(かのうは)

名前は読めなくとも、作品を知らなくとも、ほとんどの人が一度は目にした事のある名だと思う。

では、長谷川等伯と言う名を知っている人は何人いるだろうか?

能登国(石川県)七尾に生まれ、30歳の時に上洛、
安土桃山時代 - 江戸時代初期、当時のカリスマ絵師集団、狩野派に強烈なライバル意識を持ち、対抗した唯一と言える絵師。

その才能が故に狩野派から警戒され、様々な妨害、圧力をかけられたと言われている。

等伯に絶好のチャンスが訪れたのは、狩野派の長である永徳が48歳でこの世を去った翌年、
わずか三歳で夭折した秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺、祥雲寺の障壁画の大仕事が等伯の元に舞い込みます。

等伯は一門を引き連れ、四季というテーマのもと制作に取り組みました。
(この時の作品の一部が、国宝の楓図と桜図です)

しかし完成を前に次々と不幸が等伯を襲います。

まず完成の前年に、良き理解者であった千利休が自刃。
そして国宝の桜図を描いたのは等伯の息子、長谷川久蔵
等伯の才能を受け継ぎ、育て上げ、天才と言われた久蔵は、見事な桜の花を咲かせる途中、完成間近でこの世を去るのです。

その時、弱冠26歳。

その悲しみの中で息子の死の2ヶ月後、等伯は障壁画を完成させました。

晩年初めて授かった息子を失った秀吉と、将来の長谷川派を率いるはずだった、息子を失った等伯。
この障壁画の描かれた祥雲寺は今はありませんが、唯一残った、「楓図」と「桜図」
(等伯の手がけた秋の障壁画「楓図」は、秀吉の座のある部屋に描かれていたそうです)
そして利休好みの庭と伝わるお庭を前に、二人は何を思ったのでしょう。


等伯は
晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど、私生活は不幸であったようです。
72歳の時、徳川家康の要請により江戸に一派の命運をかけ下向しますが、江戸到着後2日目にして病死、
同行していた、後継者となるはずの二男・宗宅も、等伯が没した翌年に亡くなっています。
お墓の場所もわかっていないそうです。


東京国立博物館に、等伯がその悲しみを背負って描いたと言われる、日本を代表する水墨画の名作「松林図屏風」(国宝)があります。


2008.1.13

冬の京都 三十三間堂

2009年02月02日 | 京都の寺社
冬の京都 三十三間堂




三十三間堂という名で知られている、国宝の建物
天台宗の寺院で、正式名称は蓮華王院・本堂(れんげおういんほんどう)

1164年、後白河上皇の法住寺殿の一画に平清盛が建立したのに始まり、
当時、五重の搭や不動堂などを従えて偉容を誇っていましたが、 度重なる震災ですべてを損失。
現在の本堂は文永3年(1266)再建されたもの。

名の由来は、南北にのびる本堂内陣の柱間が33もあるという建築的なことと、(しかし建物外部から見る柱間は35)
また、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数と言われている。
(この「間」は長さの「間」とは違うそうです)

堂内には、中央の千手観音坐像を中心に、左右に500体、計1001体もの千手観音像が安置してあります。
また、風神像・雷神像、二十八部衆立像も安置されています。




楊枝のお加持 (やなぎのおかじ)
インド伝来の修法で、平安時代からの伝統をもつという当院最重の法要です。儀式では聖樹とされる「楊枝・やなぎ」で、
観音さまに祈願した法水を参拝者に注いで、諸病を除くというもので、特に頭痛に効くと伝えられる。





三十三間堂大的全国大会
江戸時代の「通し矢」にちなむ大会(射程60m)で、全国から毎年約二千人が参加、やなぎのお加持と同日に行なわれます。
特に新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、京都の風物詩のひとつ。





2008.1.13-