春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

川越城・縄張り

2012年06月22日 | 日本の城


江戸の町並みを良く残す川越。
小江戸・川越と呼ばれて都心から一時間で行ける立地でもあり、いつもにぎわっています。

そんな川越のかつての中心 川越城の縄張りです。

残念ながら堀は三の丸近くの一カ所を残し全部埋め立てられました。
でも全国でも貴重な本丸御殿の一部が残っています。

甲府市藤村記念館

2011年01月23日 | 日本の城


藤村記念館は、明治8年に巨摩郡睦沢村(現在の甲斐市亀沢)に睦沢学校校舎として建てられたものです。
 昭和32年までは学校の校舎として、その後昭和36年まで睦沢公民館として活用されてきましたが、老朽化により撤去寸前のところ旧睦沢学校校舎保存委員会の手で昭和41年、武田神社境内に移築復元され、同委員会から甲府市に寄贈されたものです。翌昭和42年には国指定の重要文化財となり、昭和44年から郷土の民俗・歴史・教育・考古資料の展示館として長らく親しまれています。平成2年9月、教育資料館に展示替えを行いました。平成22年10月1日、甲府駅北口に移転しました。

 この建物の様式は、山梨県令藤村紫朗が積極的に奨励したとされる擬洋風建築であり、明治初期から中期にかけ多くの官公舎、学校、商家がこのような様式で建てられました。県内では、藤村紫朗にちなみ、「藤村式建築」と呼ばれています

武田神社境内にあった頃の写真です。





そして、甲府駅北口の改修に伴い行われた発掘調査で出てきた石垣の一部が復元されていました。
景観からは浮いていますが、こういうのは個人的には嬉しいです。





赤丸の付いている当たりの石垣だそうです。

それでは、大変遅くなりましたが、今年ものんびりやって行こうと思います。
よろしくお願いします。

2011.1.15

兵庫・明石城

2010年06月13日 | 日本の城
兵庫・明石城



1617年(元和3年)大坂の陣の戦功によって、小笠原忠真が信州松本城より船上(ふなげ)城に入り明石藩主となります。
そして徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、忠真に新城の築城を命じ、お隣の舅、姫路城主本多忠政とともに明石城を築城します。
だからか、縄張りは姫路城とよく似た、連郭梯郭混合式の平山城です。

江戸初期には城主が目まぐるしく入れ替わりますが、1682年、家康の曾孫にあたる、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となりました。





現存する二つの櫓

坤櫓(最初の写真の左側)重要文化財



巽櫓(最初の写真の右側)重要文化財



正面入り口の濠



桜池


二の丸の石垣


稲荷曲輪の高石垣



薬研堀



天守台(天守は作られていないと言われている)



奥に見えるのは明石海峡大橋



唯一の門遺構
(伏見城廃城時に伏見城薬医門を明石城切手門として移築、さらに明治廃城時に近くの月照寺へ移築。明石市指定文化財)




虹わかりますか??太陽の周りにできてました。
日暈(にちうん)というらしいです。初めて見ました。




では桜池に向かう亀の写真でお別れです、つまり名前は「サクラ」ですね。
お、どこかで聞いた事ある名前だ..........w





2010.6.6

山梨・甲府城

2010年05月17日 | 日本の城
山梨・甲府城


武田氏の支配下の頃の政務の中心は、前回書いた、「躑躅ヶ崎館(武田氏居館)」でしたが、江戸時代の中心は甲府城です。
戦国時代末期、武田勝頼が甲府盆地の西に「新府城」を築き政務の中心地が変わるかと思われたが、勝頼が織田・徳川連合軍に滅ぼされ、途中で終わりました。

その後、信長の配下、川尻秀隆が甲斐のほとんどを拝領する。
しかし本能寺の変で甲斐の情勢は不安定になり甲斐国人の一揆が頻発。河尻秀隆は戦死してしまいます。

その後、徳川家康が甲斐を平定、家臣の平岩親吉に命じ一条小山に縄張りを行い、当時その地にあった、一蓮寺を移転させて築城を開始したのが甲府城の始まりと言われています。


しかし完成を待たずして、家康が関東に移封になると、その後は豊臣秀勝、さらに加藤光泰、浅野長政・幸長父子ら豊臣系大名の領主が代わり、浅野氏の時代に完成した言われています。


江戸時代は、初期の幕府直轄領時代~甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて甲斐統治の拠点となりました。

市街地か進み、城の中心部が舞鶴公園として残るのみです。



建物の遺構はなく、四つの門と一つの櫓が復元されています。
2007年に復元された山手渡櫓門
(城跡が中央線に分断された北側に復元)


内松陰門


鍛冶曲輪門


稲荷曲輪四足門


2004年復元 稲荷櫓


遊亀橋から、鍛冶曲輪~本丸


現存する唯一の濠と、復元された長塀


甲府城には城郭内に石切場が残る大変珍しいお城。


3年前の写真ですが、積み直した「二重の石垣」


絵図にも載っていない、秘密の水溜跡


天守台。天守閣を描いた絵図面などは見つかっていないが、浅野氏の時代に天守閣は作られたという説もあります。

信玄祭りの期間なので、武将がたくさんいます!!



天守台からの景色「山梨といったら富士山!!」



2010.4.10

甲府・躑躅ヶ崎館

2010年04月13日 | 日本の城
甲府・躑躅ヶ崎館(武田神社)

久しぶりに山梨に行ってきました。
春の18切符の最後の日、そうしたら偶然「信玄公祭り」の時期で、街は活気づいていました。

そんな甲府の中世の中心地、躑躅ヶ崎館(武田神社)です。

甲府駅北口を出て緩やかな坂の武田通りを、約2kmほど歩きます。

しばらくすると山梨大学が見えてきます


揺るやかな坂なので、正直歩くのは結構大変です。駅前にレンタサイクルもあるので、そちらをお勧めします(台数少ないので注意)




  



躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は14世紀ごろに甲斐国守護武田氏の館が築かれていました。
現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されています。

武田信玄の父、信虎が築城し、信玄、子の勝頼と三代に渡り、1982年に新府城を築くまで、甲斐の国の中心(府中)として機能しました。

本殿


神楽殿




境内にはちょうど、「信玄公祭り」のため山県昌景隊が集合していました。



そして最近復元された武田氏館の正面玄関にあたる大手東側です。


館の出入口である虎口を守るために築かれた石塁ですが、石積みの技法などから武田氏滅亡後に造られたものだと思われます。
そして石塁の直下からは新たに武田氏時代の遺構と思われる三日月堀が発見されました。(埋められてます)


2019年の武田信虎の建都500年を目指して整備が進められているようですが、今回復元されたのは、たぶん信長、豊臣時代のものかと......ちょっと複雑な心境です。

西曲輪の藤村記念館跡(現在甲府駅前に移築修復中)


北曲輪から西曲輪に入る部分の土橋


北曲輪の桜



武田神社に戻ってくると、今度は板垣信方隊がいました。



最後まで見て頂きありがとうございました!
春らしい写真でお別れです。




2010.4.10


会津若松城 ~城内~ 

2010年03月15日 | 日本の城
会津若松城(鶴ヶ城)内の紹介です。


東北地方最大の規模で、本丸を中心に東に二の丸、三の丸と階段式に構えた梯郭式(ていかく)。
本丸の南は湯川が流れ、西と北に出丸を配し、城下町一帯(約6km)を堀や石垣、土塁で囲い込んだ大城郭です。

参考までにの地図です。


ではこの地図に載っていない場所から紹介します。
会津若松駅のひとつ手前、七日町駅で降りると、すぐに阿弥陀寺があります。
新撰組の斎藤一のお墓があるこのお寺に、若松城で唯一現存する建物が移築されています

御三階

元々、本丸内にあった建物で、外観は3階ですが、内部は4層。
2階と3階の間に天井の低い部屋があり、密談などに使われていたと思われます。
玄関部分は、本丸御殿の内玄関を取り付けたものと言われています。(葵の紋の部分)

甲賀町口門跡


郭外から郭内に入る門の石垣で、ここを界に、内側を侍屋敷、外側を町民の住居としていました。

当時、郭内と郭外の間には外濠と土塁があり、
城下にはこのような門が16箇所ありましたが、残っているのはここだけです。
城内の大手口にあたり、どの門より厳重であったそうです。

重要な門だけに、会津戦争でも激戦地なっています。

また外郭土塁で現存する天寧寺町土塁が、ちょっと遠いですが市内にあります。
バスで一瞬通っただけなので、写真が撮れませんでした。



甲賀町口門からまっすぐ甲賀町通りを進むと、天守閣が見えてきます。


ここの路上で、会津戦争の降伏式が行われました。


またお城に近づくに連れ重臣たちの屋敷が増え
右手に家老・内藤邸


左手に会津戦争の際
女子・子供ら21人が味方の足手まといになるまいと集団自決した
西郷邸跡があります。



さらに直進すると、北出丸の追手前西濠に当たります。(手前は東北隅櫓跡)


左に濠沿いに歩くと、北出丸追手門跡(大手門)があります。

内枡形です。



北出丸から本丸へ渡る椿坂そして太鼓門跡

椿坂は土橋になってるみたいです。

ここも巨大な枡形構造で
枡形の裏側には櫓台に繋がる武者走りがあります。


蒲生時代の表門、本丸埋門跡を通り




奥に見えるのは千利休に縁のある茶室・麟閣(福島県指定重要文化財)移築復元


天守閣の下にあるある石門


天守と同時に復元された鉄門


平成13年(2001年)復元の本丸内の干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋


そして
2015年度までに若松城の瓦を黒瓦から本来の赤瓦に戻す計画が検討されており、また、御三階も併せて復元される予定。
(どうも御三階は移築復元ではないらしい、残念)


雪でわかりずらいですが、復元された干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋はすでに寒さに強いと言われる赤瓦です。
天守と鉄門までが今回新しくなります。
全部の建物が復元されるのではありませんが、少しでも往時の姿に近づくのはとても楽しみです。

完成したらまた行こうと思います。


2010.2.13


雪の会津若松城

2010年02月22日 | 日本の城
会津若松城 ~絵ろうそく祭り~


通称「鶴ヶ城」一般的には会津若松城と言われるが、地元の人たちには通称で呼ばれている。
全国でも通称で呼ばれる城は珍しく、地域の人たちにとって親しみのある証拠でもある。
文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもあります。

若松城

室町時代1384年、芦名(あしな)氏がこの地に館を構えたのが始まりとされ
戦国時代中後期には、英傑・蘆名盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築きました。

伊達政宗が1589年、豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にしたが、
翌年、秀吉に臣従したさい、会津の地は召し上げられる。

1592年、織田信長の娘婿でもある蒲生氏郷が、東北の大名の押さえとして42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられ入城。
翌年、望楼型7重(5重5階地下2階とも)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。
しかし、氏郷は40歳の若さで死去、子の秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封される。

次に、天地人でも登場した上杉景勝が越後国より120万石で入封するが、
1600年、関ヶ原の戦いで西軍に加担したため、30万石に減封、出羽国米沢に移封した。

翌1601年(慶長6年)蒲生秀行が再び入城したが、今度は嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。後に無嗣断絶で改易。(波瀾万丈ですね)

その後、加藤嘉明が入封するが、子の明成が改易

そして、3代徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となった。
1868年(慶応4年)戊辰戦争の際には会津戦争にて若松城は籠城戦を1か月の間持ちこたえ、遂に城は落ちなかったが、その後開城された。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。

現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたものです。










会津の伝統工芸品の一つである絵ろうそく
今から500年ほど前の宝徳年間、時の領主、芦名盛信公が漆樹の繁殖栽培を奨励し、漆器の製造と共に、その実からは最上級の木ろうを採取し、ろうそくを作らせたことに始まります。
本格的に作られるようになったのはその後で、蒲生氏郷や保科正之が会津の産業を発展させるため、漆樹の栽培を保護奨励し、漆やろうが多く生産されるようになってからです。
江戸時代には、参勤交代の際に献上品として「南天と福寿草(難を転じて福となす)」が描かれた絵ろうそくを献上したところ、時の将軍、徳川綱吉に喜ばれ、会津絵ろうそくは広く世間に知られることになりました。
主に、神社仏閣への奉納や高級な贈答品として使われるなど上流社会で愛用されました。
特に婚礼の際には一対の会津絵ろうそくが灯され、これが『華燭の典』の語源になったとも言われています。
また、花のない会津の冬には、仏壇に供える花の代わりに絵ろうそくを飾るようになったといわれています。









五年ぶりの会津でした。
前回訪れた時、絵ろうそくの存在を知り、このお祭りの事を知りました。
次に、行くときは、この時期に訪れたいとずっと思ってました。

雪の会津はとても寒く、手はかじかみ、街自体は少しお休みムードでしたが、
そこに生きる人々は、たくましく、温かく、素敵でした。


厚い雲と雪に閉ざされた長い冬をじっと耐えるから、東北人は我慢強いのかな?
ちょっとの青空がとても嬉しく、太陽がお天道様と言われるのが、少しわかったような気がします。


絵ろうそく祭りに、ホテルからの送迎バスで行ったため、写真をじっくり撮れなかったので、また行きたいと思います。
やっぱり三脚が必要です。(一脚じゃ、厳しかった.....)


次は会津城の他の場所を紹介したいと思います。



2010.2.13









雪の江戸城

2010年02月04日 | 日本の城
久々に東京は大雪でした。

雪の写真が撮れるぞ!!と思い、早起きしてみたのですが、あまりの寒さに二度寝してしまいました....
出かけたのは昼頃、雪はほとんど溶けてますが

桜田濠と国会議事堂


桜田門


皇居外苑


二重橋と伏見櫓(微かに瓦の上に雪があるはず.....)


次は頑張ります!

2010.2.2

京都・二条城

2010年01月12日 | 日本の城
世界遺産 京都・二条城

友人が京都に行くという話聞いたため、自分も京都に行きたくて行きたくて............
前に訪れて丸二年経つのですが、我慢するか、後先考えず行くか、悩み中です.........


自分のことはさておき、冬の京都二条城です。


現在の二条城は、1939年(昭和14年)に 宮内省より下賜されたため、現在は「元離宮二条城」という名称になっています。

世界遺産にもなっている現存する二条城は、江戸時代、徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城です。
しかし、日本の歴史書に「二条城」と呼ばれるものは複数あります。まずは

ひとつ、室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城。
ふたつ、室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通にはなかった。
みっつ、織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」
よっつ、これが現在の二条城です。

ちなみに豊臣家の二条城は、現代の二条城の東200メートルにあったとされ、
「二条第」「妙顕寺(みょうけんじ)城」と言われています。

二条城で一番有名なのは
江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)
第15代将軍徳川慶喜が現存する二の丸御殿大広間において大政奉還を発表したことです。

この大政奉還は、江戸幕府の終焉だけでなく、鎌倉時代から続いた武士の政権を、武家から朝廷へ返還することを意味し、今大河ドラマで放送されている「坂本龍馬」や、篤姫で登場した「小松帯刀」も関わったされています。
詳しくはここを読んで下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大政奉還


東大手門と番所(ほとんどの人はここから入ります)



唐門(屋根に独特の唐破風がある門のこと、お寺にもあります、中国とは関係ありませんよ)



大政奉還の発表された二の丸御殿(もちろん国宝です)



天守台から、本丸御殿を望む(現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年から27年にかけて本丸内に移築したものです)






築地塀



東南隅櫓(江戸時代初期に造られた現存する隅櫓)




今年の冬の特別公開で新撰組ゆかりの壬生寺 本堂と会津藩ゆかりの金戒光明寺が入っています。
これは凄く見たいんです...京都行きたいです。


2010.1.12

長野県 松本城

2009年05月05日 | 日本の城
長野県・国宝 松本城

日本のお城で天守閣が現存するお城は全部で12城(一部天守の代わりの櫓も含む)
その中でも価値の高い4つのお城が国宝に指定されている。


姫路城(兵庫)
犬山城(岐阜)
彦根城(滋賀)
松本城(長野)


その松本城の天守閣を四つの角度から紹介

埋の橋と



本丸内から



日本アルプスと(左奥)



内堀から



5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓、月見櫓を複合した複合連結式天守と呼ばれる形。

お城と言って最初に浮かぶ、有名な姫路城や名古屋城、大阪城は白を基調としているが、松本城は黒です。
それには安土桃山~江戸の時代背景が関係しており、基本的には

豊臣時代は「黒」
徳川時代は「白」



いやいや大阪城は白じゃないか?
と思われますが、

今の大阪城は徳川時代に、豊臣大阪城の上に造られたものです。

がしかし、今ある天守閣の外見は豊臣の時代のものを参考に復元されています、
(でも白を基調.......)

今みなさんが知っている大阪城は矛盾だらけのお城なのです。



松本城のほかに、豊臣の色を濃く残す現存天守は、山陰にある松江城です。(築城は関ヶ原後)
復元では、熊本城、岡山城が有名です。


2008.5.3

片倉城の桜

2009年04月13日 | 日本の城
片倉城(八王子市) ~桜の城跡~

本丸と二の丸を分ける空堀



二の丸の桜



片倉城趾公園はカタクリの花の群生地。
3月下旬が見頃ですが、かろうじて何輪か咲いていました。



片倉城の歴史は定かではありません。
築城は、鎌倉幕府初期の重臣、大江広元を祖にもつ長井氏によって室町時代に行われたという説がありますが、
城主も城が放棄された時期もはっきりとは解りません。
縄張りの特徴から、後北条氏の手は加えられているものと思われます。
空堀・土塁等の名残があり、15世紀後半の中世城郭の形態を示す典型的なものです。


JR横浜線「片倉」駅下車徒歩5分


2009.4.9

武道館

2009年03月30日 | 日本の城
江戸城・武道館

http://blog.goo.ne.jp/kogaken1207/e/38f0ae277d77aa5d618f39c9aeb950f5
前回の江戸城で少し触れた武道館、先日、従兄弟の高校柔道の全国大会があったので応援に行ってきました。
本来名前のとおり武道の為に建てられたのですが、僕はLIVEでしか行った事がないので見る景色が新鮮でした。


では前回紹介できなかった田安門から


これは高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形

基本、江戸城の門は高麗門と櫓門で枡形(直角に設けられた二つの城門と城壁とで囲まれた四角い空き地)を形成し、
敵の直進をさまたげ、勢いを鈍らせ、防御しやすい形になっている。


右に直角に曲がると
これが櫓門(門の上にやぐらが乗っているから櫓門)


田安門は寛永13年(1636)に完成したと見られる国の重要文化財です




そして武道館へ(武道館は、1964年開催の東京オリンピックの会場のひとつとして建設されたそうです)






見事、内股で一本勝ちする瞬間!!!




武道館のある北の丸はもくれんの花が満開でした♪
桜ももうすぐですね。




2009.3.20

小江戸・川越

2009年03月17日 | 日本の城
小江戸・川越

小江戸と呼ばれている場所は3ヶ所、
埼玉県の川越市、
栃木県の栃木市、
千葉県の佐原市

江戸の北の守りの要所、川越城の城下町として、蔵造りの町並みをはじめとした江戸の下町の面影を今に留めます。

蔵町道り



時の鐘



川越城大手門跡(奥に見えるのは寛政の改革で知られる松平定信)



現存する唯一の建物、本丸御殿は現在改修工事中、あと2年お待ちください.....




三代将軍、家光の生まれた建物が移築された
川越大師喜多院のお庭



喜多院多宝塔


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まったく個人的な事なのですが、川越と僕は相性が悪いのです、
初めて訪れた時は、カメラの充電がなく写真が数枚しか取れず、喜多院に着いたときには、夕方で拝観終了、
結局家光誕生の間は見れず、本堂も閉まり.....

今回、100名城スタンプを押しとリベンジの意味も込めて訪れたのですが、肝心の本丸御殿は改修中で見れず、そのせいでスタンプが隣の川越博物館に移動になってたのですが、月曜日で休館日、再々訪が早くも決定です。
せっかくなので改修の終わる平成23年3月以降に行こうと思います。


2009.3.2

熊本・熊本城 第四回

2009年01月29日 | 日本の城
熊本・熊本城 ~第四回~

地図を参考に☆
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/87/43571d567ccd05473b08a354c957a3bf.jpg


有名な宇土櫓と高石垣を望む場所の隣に
その名の通り加藤清正公を祀った、加藤神社がある。

1月5日ということもあり、初詣の客で賑わう。


次に目指すは現存櫓の一つ監物櫓(けんもつやぐら)を目指す。
途中、監物台樹木園の敷地の入り口に冠木門を発見。

立派な石垣の割に小振りな門だと思ったら、本来は櫓門だったようです。
復元の資料が十分になかったため、写真のような冠木門で市政100周年にあわせて再建?されました。


監物櫓(現存)

熊本城主細川家家老であった長岡監物が、この地に屋敷を構え熊本城の北の守りとして固めていたことに由来
だが実際は長岡図書(ながおかずしょ)の敷地で、明治になり陸軍が誤って登録しまい、現在の名が定着


熊本城総合事務所の向かい側にある、百間石垣

一間は1.8mなので百間石垣は180mです。


そして二の丸御門跡から

二の丸広場へ

二の丸広場から三天守を望む(手前の塀は近年の復元)



そして復元された西出丸の櫓群

まずは戌亥櫓(いぬいやぐら)


次に元太鼓櫓(奥)と西大手門(手前)


最後に未申櫓(ひつじさるやぐら)



二の丸には、明治の士族の反乱の一つ、「神風連の乱(変)」の石碑がいくつかありました。


西大手門から西出丸内へ



西出丸
熊本城は茶臼山を中心に、北と東は断崖、南に坪井川と天然の要害だが、
本丸の西はなだらかな斜面が続き、弱点と言われていました。
清正は西に2重の空堀を巡らせ、空堀の間に出丸を築きました。
そして「西から敵に攻撃されてもここだけで100日は持ちこたえられる。」豪語したと伝わります。

江戸時代、西出丸の北半分には「西の御蔵」という巨大な米倉が設けられ、南半分は奉行所が置かれていました。


ここで一つ不思議な景色が目に入ります。
西の大手門のすぐ近くに
南大手門(復元)がありその横に車の道路。

入り口が3つもあるように錯覚しますが、昔はこの生活道路は存在せず、
南大手門を潜り西出丸に入り、それから本丸に入っていたのです。
のちのち、この道路は閉鎖されるという話も......わかりませんが......
ついでに北大手門も復元してくれたと思ってしまいます。

加藤神社の駐車場に車を止めていたので、一度車に乗り込み、次に城の東側、
千葉城エリアへ

千葉城は中世城郭です。現在はNHKが建っています。


熊本大神宮


熊本城稲荷


逆行ですが、須戸口門



熊本城稲荷の向かい側にある高橋公園には
西南戦争の時の熊本城の司令官 谷干城(たに たてき)の像と



横井小楠と明治維新の偉人達像がありました。

(左から坂本龍馬・勝海舟・横井小楠・松平春嶽・細川護久、
その下プレートで竹崎健次郎・内藤泰吉・嘉悦氏房・徳富一敬・長野濱平・山田武甫)」


横井小楠
藩校時習館(じしゅうかん)に学び
幕末維新期の大思想家
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革。
さらには春嶽が幕府の政事総裁職に就任した際は、顧問として幕政改革に貢献。

勝海舟と親交があり、坂本龍馬にも影響を与える。

明治元年、政府の参与に出仕、抱負の実現を図るが、翌2年正月、京の町で志半ばに凶刃に倒れました。


最後に熊本らしい景色を一枚


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熊本城を訪れたのは今回が4回目
僕のお城好きの決め手になったといっても過言じゃありません。
行くたびに、来場者が増え、活気に満ちているように感じ、嬉しく思います。

現在も復元工事は着々と進み、
段々往時の姿に取り戻して行くのを、僕自身とても楽しみにしています。

熊本市が、熊本市民が、お城を愛し、お城とともに生きている感じがとてもします。
熊本城は、熊本の中心で、市民の誇りなのでしょう。

戦火にあっても、城主を失ってもなお、輝きを増し続けてる熊本城のこれからに、期待せずにはいられません。



見所と写真の数が多く、四回もかかってしまいました。
長い間のご愛読ありがとうございました!!!



2009.1.5

熊本・熊本城 第三回

2009年01月27日 | 日本の城
熊本・熊本城 ~第三回~

地図を参考に☆
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/87/43571d567ccd05473b08a354c957a3bf.jpg

天守閣を降り、宇土櫓に向かう


熊本城、西南の役での火災を唯一逃れた多重櫓。
関ヶ原で改易になった小西行長が作った宇土城の天守閣を移築したという説が有力だったが、
解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されています。

名の由来は、この櫓を小西行長の家来を召抱え守らせたからと言われています。
大小天守閣と並び、三の天守とも呼ばれる。

国指定の重要文化財だが、現在は内部を一般公開。

その内部、最上階から撮った大小天守閣


天守と宇土櫓の間にある、首掛け石
怪力の若者が花岡山から首にかけて運んできた石と伝えられ、重さは1800kgあります。



次に数寄屋丸二階御広間(かいおんひろま)に向かう。

主に接客用として茶会、歌会、能などに利用された建物だが、
南側(写真から見た方向)には鉄砲、矢狭間や石落としを備えている。
平成元年(1989年)に市制100周年を記念して復元。


これが鉄砲狭間と石落としのセット


熊本城七不思議の一つ 地図石
日本地図とも、縄張り図とも
石が99個使われていることから、城の長寿を願ったまじないとも言われています。



そしてもう一度、飯田丸方面に降り
熊本城の見所の一つである
二様の石垣


手前と奥、この二種類の石垣の何が見所かというと........
この石垣を含め、熊本城の石垣はすべて「打ち込みハギ」という工法で積まれています。

二様の石垣は同じ打ち込みハギでも隅石(石垣の角)の積み方に違いがあり、よく見るとそれぞれ傾斜が違います。
加藤清正時代の勾配の緩やかな石垣(右側)と、細川時代の勾配の急な石垣(左側)

Upppppp!!!!


石垣の積み方をさらにマニアックに言うと
右の緩い方は「穴太積(あのうづみ)」、左の急な方は「算木積(さんぎづみ)」です。

これらの石垣は熊本城の特長の1つで、
このような高い石垣をもつ城は他にはありません。
敵が攻めて来たとき、地面付近は勾配がゆるく余裕だと思い登っていくと、上に行くにしたがって勾配がきつくなる独特なもの
武者返し(むしゃがえし)や「扇の勾配」、「清正流(せいしょうりゅう)石組」などと呼ばれています。

一通り有料エリアを見終わったところで
頼当御門から、二の丸方面へ行くことに



清正神社の方向に歩くと、さっき見た宇土櫓が違った角度から見られる
ここの高石垣は圧巻。




次回は西出丸から二の丸へ行きます

続く.......


2009.1.5