春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

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四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

雪の会津若松城

2010年02月22日 | 日本の城
会津若松城 ~絵ろうそく祭り~


通称「鶴ヶ城」一般的には会津若松城と言われるが、地元の人たちには通称で呼ばれている。
全国でも通称で呼ばれる城は珍しく、地域の人たちにとって親しみのある証拠でもある。
文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもあります。

若松城

室町時代1384年、芦名(あしな)氏がこの地に館を構えたのが始まりとされ
戦国時代中後期には、英傑・蘆名盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築きました。

伊達政宗が1589年、豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にしたが、
翌年、秀吉に臣従したさい、会津の地は召し上げられる。

1592年、織田信長の娘婿でもある蒲生氏郷が、東北の大名の押さえとして42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられ入城。
翌年、望楼型7重(5重5階地下2階とも)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。
しかし、氏郷は40歳の若さで死去、子の秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封される。

次に、天地人でも登場した上杉景勝が越後国より120万石で入封するが、
1600年、関ヶ原の戦いで西軍に加担したため、30万石に減封、出羽国米沢に移封した。

翌1601年(慶長6年)蒲生秀行が再び入城したが、今度は嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。後に無嗣断絶で改易。(波瀾万丈ですね)

その後、加藤嘉明が入封するが、子の明成が改易

そして、3代徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となった。
1868年(慶応4年)戊辰戦争の際には会津戦争にて若松城は籠城戦を1か月の間持ちこたえ、遂に城は落ちなかったが、その後開城された。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。

現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたものです。










会津の伝統工芸品の一つである絵ろうそく
今から500年ほど前の宝徳年間、時の領主、芦名盛信公が漆樹の繁殖栽培を奨励し、漆器の製造と共に、その実からは最上級の木ろうを採取し、ろうそくを作らせたことに始まります。
本格的に作られるようになったのはその後で、蒲生氏郷や保科正之が会津の産業を発展させるため、漆樹の栽培を保護奨励し、漆やろうが多く生産されるようになってからです。
江戸時代には、参勤交代の際に献上品として「南天と福寿草(難を転じて福となす)」が描かれた絵ろうそくを献上したところ、時の将軍、徳川綱吉に喜ばれ、会津絵ろうそくは広く世間に知られることになりました。
主に、神社仏閣への奉納や高級な贈答品として使われるなど上流社会で愛用されました。
特に婚礼の際には一対の会津絵ろうそくが灯され、これが『華燭の典』の語源になったとも言われています。
また、花のない会津の冬には、仏壇に供える花の代わりに絵ろうそくを飾るようになったといわれています。









五年ぶりの会津でした。
前回訪れた時、絵ろうそくの存在を知り、このお祭りの事を知りました。
次に、行くときは、この時期に訪れたいとずっと思ってました。

雪の会津はとても寒く、手はかじかみ、街自体は少しお休みムードでしたが、
そこに生きる人々は、たくましく、温かく、素敵でした。


厚い雲と雪に閉ざされた長い冬をじっと耐えるから、東北人は我慢強いのかな?
ちょっとの青空がとても嬉しく、太陽がお天道様と言われるのが、少しわかったような気がします。


絵ろうそく祭りに、ホテルからの送迎バスで行ったため、写真をじっくり撮れなかったので、また行きたいと思います。
やっぱり三脚が必要です。(一脚じゃ、厳しかった.....)


次は会津城の他の場所を紹介したいと思います。



2010.2.13









雪の江戸城

2010年02月04日 | 日本の城
久々に東京は大雪でした。

雪の写真が撮れるぞ!!と思い、早起きしてみたのですが、あまりの寒さに二度寝してしまいました....
出かけたのは昼頃、雪はほとんど溶けてますが

桜田濠と国会議事堂


桜田門


皇居外苑


二重橋と伏見櫓(微かに瓦の上に雪があるはず.....)


次は頑張ります!

2010.2.2