春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

仙台の旅 国宝 大崎八幡宮

2008年10月12日 | 東北の寺社
仙台・大崎八幡宮 ~肌寒くなった頃に~

由緒によると、
坂上田村麻呂が東夷東征のさい、現在の岩手県水沢市近郊に胆沢城を築き、
その鎮守社として宇佐八幡宮を勧請し鎮守府八幡宮を創建したのが始まりとされます。
その後、中世に一帯を支配した大崎氏に庇護され、現在の遠田郡田尻町に遷座し大崎八幡宮と称するようになります。
戦国末期になると伊達家の勢力下に置かれ、岩出山城内に、米沢にあった成島八幡宮と共に祭られ、
仙台開府後に現在の場所に遷座しました。

仙台城から見ると乾(北西)にあたり、
福門(天門)と呼ばれ、蔵や、福神様を祭ると、縁起が良いと思われる方角で、
社殿その他藩費で造営される伊達家の崇敬社として明治維新まで続きます。

明治以降、大崎八幡神社と称していたが、平成9年(1997年)に大崎八幡宮の名称に復しました。



一之鳥居




ニ之鳥居(四代藩主綱村公より寄進 元一之鳥居で県指定有形文化財)




三之鳥居(五代藩主吉村公より寄進)




重要文化財 長床(創建年月不明)




国宝・御社殿(入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造り、権現造りと言われる建築様式)






日光東照宮にも見られる権現造り、大崎八幡宮を作った大工の子や孫が、日光東照宮を作ったらしいです。





実は安土桃山時代の遺風を伝える現存最古の遺構なのです。



御神輿



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豪華絢爛な桃山建築が随所に残る街、杜の都 仙台。
派手好きと言われた伊達政宗と当時の文化が見事に融合した証拠だろう。

派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶ、この言葉の由来も少しわかるような気がする。
(伊達者に関しては諸説あります)

凛とした空気が漂う境内で、
一番印象に残ったのは、簡素な素木造りで創建年月不明だが、御社殿ほぼ同時期だと言われている長床。
御社殿とまったく対照的なこの建物のお陰で、
社殿の絢爛さがより引き出されている。

当時の仙台人に、もしかすると伊達政宗に、このような美的感覚がきっとあったのだろう。
この対比による階調は計算されていたのかもしれない。

そう思うと、すごく興味が惹かれる。


後訪れていないのは、塩竃神社と仙台東照宮、こちらも必ずこの目で見てみたい。


2008.10.7

※写真の右側が欠けてます、すいません.........

夏の18切符 平泉・毛越寺

2008年09月11日 | 東北の寺社
岩手県平泉・毛越寺(もうつうじ)


天台宗別格本山 医王山毛越寺


「吾妻鏡」によると慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。記録によると往時、堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けている大変珍しいお寺です。

平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。




伽藍復元図



  


大泉が池



遣水(池に水を引き入れるためと造られたもの)

平安時代の唯一の遺構で、全国的にも極めて珍しいもの


開山堂(慈覚大師円仁をまつる堂)



現・常行堂(仙台藩主伊達吉村公の武運長久を願って再建)



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2008年現在
国の特別史跡は61件、
国の特別名勝は35件、

その両方に指定されている、毛越寺。

いままで色々な庭園を見て来たが、平安時代の浄土庭園を見るのは初めてだと思う。
伽藍復元図を頭の中で思い浮かべ、境内を回る。
中尊寺金色堂のように、藤原時代から残る建物は一つも現存しないが、庭園や、巨大な礎石を見ると、
優美で壮大な伽藍が想像できる。

その昔、藤原氏が全盛を極めた頃、平泉は京都にも劣らぬ、いやそれ以上の都市だったといわれる。
今の平泉からは、正直信じられないのだが、中尊寺やこの毛越寺の雄大さをこの目で見ると、
本当にこの場所に、そのような都市が存在したと心で感じことができる。

藤原清衡から僅か四代、彼らは中央政権とは別に、仏教を中心とした独自の平和国家を、この平泉に創るはずだったのだろう。
それを証明するかのように、清衡は中尊寺建立供養願文には
「奥州の戦乱で亡くなった多くの人の霊を弔い、敵味方はもちろんのこと、鳥や獣また虫類にいたるまで、極楽往生できるように」と書かれている。

平泉で散った源義経も、この平泉が目指した独自の平和国家に深く共感し、このような国造りを中央政権で目指した、しかし兄、源頼朝との間に考えのずれが生じ、ついには実の兄に背いた。
しかしその結果、鎌倉幕府によって、平泉と藤原氏諸共滅ぼされている。

「敵味方はもちろんのこと、鳥や獣また虫類にいたるまで、極楽往生できるように」
そう願った初代清衡の平泉への想いは空しくも
兄と争い、信じていた四代藤原泰衡に裏切られた義経とともに夢と消えた。



夏草や兵どもが夢の跡


松尾芭蕉の一句が心に響いた平泉の夏


2007.8.26

夏の18切符 平泉・中尊寺

2008年09月10日 | 東北の寺社
岩手県平泉・中尊寺

天台宗東北大本山 関山中尊寺

本尊・阿弥陀如来


創建は嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁によって開山されたと伝わる。
その後、奥州藤原氏初代の清衡が長治2年(1105)から中尊寺の再建に着手し、
天治元年(1124)に金色堂が竣工、基本的な伽藍が完成したのは21年後の大治元年(1126)の時。
吾妻鏡によると中尊寺の規模は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」とされ、平泉では毛越寺に次ぐ大きさだったそうです。

文治5年(1189年)、奥州藤原氏は鎌倉幕府により滅亡するが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続した。
しかし、建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂と経蔵の一部を残すのみほぼ全焼。
その後衰退していく。

奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたと言われている。
「五月雨の 降残してや 光堂」

江戸時代、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っている。

2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。
しかし、2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定。


平泉駅



巨大な杉に囲まれた参道
 


最上川を望む



弁慶堂(中には弁慶の最期の立ち往生と義経の像が祀られている)



薬師堂(藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった)



地蔵堂



観音堂


本堂(明治42年の再建。堂内には、総本山の比叡山延暦寺より分火された、「不滅の法燈」がおよそ1200年燈り続ける)

入り口の本坊表門は江戸時代初期の建築で県指定有形文化財


大日堂


鐘楼

当初は二階造りの鐘楼であったが、火災で焼失。梵鐘は康永二年(1343)の鋳造。
銘に中尊寺の創建や建武の火災の事などを伝える。撞座の摩耗ははなはだしく、今ではこの鐘を撞く事はほとんどない。


彌陁堂(阿弥陀堂)



天満宮(中尊寺境内の最奥地の高台に鎮座)



国宝・金色堂(※光堂(金色堂)はこの写真の覆堂の中にあります。そして、さらにガラスの中に覆われてます。)


中は撮影禁止
中の様子を知りたい方はhttp://homepage2.nifty.com/araemishi/images/tyuusonji.jpg


旧覆堂

旧覆堂は、現在の覆堂になるまで、金色堂を覆雨風から金色堂を守っていたもの。
現在の覆堂が建設された為に、移築された。
室町時代中頃建設され、約500年間金色堂を守っていたそうです。
つまり、松尾芭蕉が平泉を訪れた時には、この旧覆堂の中にある金色堂を見たのでしょう。


経蔵(武4年(1337年)の火災で2階部分が焼け、1階部分を修復して現在に至る。国重要文化財)



白山神社(神楽殿)

伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたもの、国の重要文化財指定


写真にはないですが、他にも八幡堂、峰薬師堂、弁財天堂、不動堂、讃衡蔵(宝物館)
など、様々な建物があります。


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仙台から鈍行列車に揺られ、JR平泉駅に到着。
駅前でレンタサイクルをし、無量光院跡、柳之御所遺跡、源義経終焉の地・高館を周り、念願の中尊寺にやってきた。

さすがの夏休みの昼時、ものすごい数の観光バスと、人。
拝観料を払いFMガイドラジオを借り境内へ。

樹齢300年の老杉に覆われている参道・月見坂を登る。
正直、ここまで広い境内だとは知らなかった。
中尊寺本坊のほか、17か院の子院があり、目標の金色堂まで約800mの緩い坂道が続いている。

上記の写真に出て来た数々の建物と仏様を御参りしていたら、金色堂までなんと一時間半もかかってしまった。

現在の覆堂はコンクリート作りだが、やはり、この場所だけは独特の空気が漂っていた。
平泉を繁栄させた藤原三代の遺体が眠っているからだろうか?

はたまた、源義経を殺害し、藤原氏を滅亡させてしまった四代泰衡公だけは遺体はなく、首級だけが納められているからか。



金色堂を初めて見た感想は、正直あまり覚えていない。
コンクリートの建物の中にあったからか、夏でエアコンが効いていたからか、金色堂までさらに一枚ガラスがあったからなのか。それとも、人が多すぎたからか。

近くにあった旧覆堂の中にあった頃の金色堂をこの目で見たかったと、切に感じた。

しかし、最近起こった東北大地震のことを考えれば、今後世界遺産にもなるであろう貴重な日本の文化財、なんとしても後世に伝えてほしいものだ。

時間はすでに夕方
この後、当時、中尊寺より大きかった毛越寺にも行きたかったので、二時間半ほどで中尊寺を後にした。

かっこよく去りたいが、僕は真っ黄色のレンタサイクル...............


2007.8.26

夏の18切符 雨の日の仙台

2008年08月25日 | 東北の寺社
仙台・瑞鳳殿 ~伊達三代を訪ねに~


瑞鳳殿(ずいほうでん)
仙台伊達藩62万石の藩祖「独眼竜政宗」こと伊達政宗の霊廟(死者の霊を祭ってある建物)、御廟
桃山様式の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築として1931(昭和6)年、国宝に指定されたが、
1945(昭和20)年の仙台空襲で惜しくも焼失。現在の建物は1979(昭和54)年に再建されたもの。

 
 


感仙殿(かんせんでん)
二代藩主伊達忠宗の霊廟
法治体制確立、領内の安定に尽力し藩の基礎固めをなしとげました。
明治初年に本殿を除いて取り壊され、残った本殿も瑞鳳殿同様、仙台空襲で焼失しました。
現在の霊屋は瑞鳳殿に続いて再建が進められ、昭和60年に完成したもの。




善応殿(ぜんおうでん)
三代藩主伊達綱宗公の霊屋
感仙殿と同様に造営されたが、同じく戦災で焼失し、昭和60年感仙殿とともに再建された。
綱宗は故あって幕府から逼塞隠居を命じられ、隠居後は和歌、書画、蒔絵等に芸術的天分を発揮されました。
工事に先立って行われた墓室の調査でも、香道具、文具類等優雅な生活ぶりを忍ばせる副葬品が発見されている。



二代忠宗公の感仙殿、三代綱宗公の善応殿は並んで建っています。

霊屋の両脇には殉死した家臣の墓がある。


瑞鳳殿の辺り一帯は
史跡「経ヶ峯伊達家墓所」
経ヶ峯(きょうがみね)は、政宗がホトトギスの初音を聴きに訪れ、自らの墓所に決めたと言われる伊達家の霊域。
藩政時代長年禁断の地で、年月を感じさせる老杉に囲まれ、辺りとは別世界の場所。


境内には伊達家の禄高をあらわしたと伝える62段の参道や、重臣が奉納した石灯籠、戊辰関係の碑等の遺構がある。

再建の時に行われた墓室の調査で、ほぼ完全な形で政宗の遺骨が発見され、
身長は159.4cm(当時の平均値)、血液型は毛髪からB型だそうです。

2007.8.27

18切符の旅 真夏の山形 立石寺

2008年07月24日 | 東北の寺社
山形・山寺 真夏の日差し


山寺は正式には 宝珠山立石寺りっしゃくじと読みます。

貞観2年(860年)頃円仁(慈覺大師)が修行の場として開いたと伝える。
元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、有名な「閑さや巖にしみ入る蝉の声」の句を詠んでおり、参道に句碑があり 一番奥にある奥の院までは1015段の急な階段がある。

本堂である、根本中堂には本山である比叡山延暦寺より移し灯した『不滅の法灯』があり、千百余年、消えずにほのかな光を放ち続けている。



境内へ


ブナ材の建造物としては日本最古ともいわれる根本中堂


境内にいるたくさんの住人たち

 
   


ころり阿弥陀如来
 

山門を潜りいよいよ階段へ


せみ塚
 閑さや岩にしみ入る蝉の声



2/3くらい登ると見えてくる仁王門


あと少し...

朝希望に起き 昼は努力に生き 夜は感謝に眠る


頂上 (左)大仏殿  (右)奥の院


国宝 三重小塔


納経堂と開山堂


絶壁


五大堂からの絶景



境内一帯に澄んだ空気が漂う中
淡々と、黙々と、1015段の急な階段を登る。
大昔から、たくさんの人たちが何を思い、何を願い、何を感じ、この階段を登ったのだろうか?

ただ僕は後々、この時のことを思い出すと、只只、無心だったように思う。

そして奥の院に着いた時、五大堂からの景色を見たとき
一つの達成感とともに、晴れ晴れとした気持ちになった。


実は山寺は、悪縁切り寺とも言われている、少しそれも分かるような気がした。

松尾芭蕉もそういう思いもありながら、あの句を読んだのかな

「閑さや巖にしみ入る蝉の声」

2007.8.25