春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

熊本・熊本城 第四回

2009年01月29日 | 日本の城
熊本・熊本城 ~第四回~

地図を参考に☆
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/87/43571d567ccd05473b08a354c957a3bf.jpg


有名な宇土櫓と高石垣を望む場所の隣に
その名の通り加藤清正公を祀った、加藤神社がある。

1月5日ということもあり、初詣の客で賑わう。


次に目指すは現存櫓の一つ監物櫓(けんもつやぐら)を目指す。
途中、監物台樹木園の敷地の入り口に冠木門を発見。

立派な石垣の割に小振りな門だと思ったら、本来は櫓門だったようです。
復元の資料が十分になかったため、写真のような冠木門で市政100周年にあわせて再建?されました。


監物櫓(現存)

熊本城主細川家家老であった長岡監物が、この地に屋敷を構え熊本城の北の守りとして固めていたことに由来
だが実際は長岡図書(ながおかずしょ)の敷地で、明治になり陸軍が誤って登録しまい、現在の名が定着


熊本城総合事務所の向かい側にある、百間石垣

一間は1.8mなので百間石垣は180mです。


そして二の丸御門跡から

二の丸広場へ

二の丸広場から三天守を望む(手前の塀は近年の復元)



そして復元された西出丸の櫓群

まずは戌亥櫓(いぬいやぐら)


次に元太鼓櫓(奥)と西大手門(手前)


最後に未申櫓(ひつじさるやぐら)



二の丸には、明治の士族の反乱の一つ、「神風連の乱(変)」の石碑がいくつかありました。


西大手門から西出丸内へ



西出丸
熊本城は茶臼山を中心に、北と東は断崖、南に坪井川と天然の要害だが、
本丸の西はなだらかな斜面が続き、弱点と言われていました。
清正は西に2重の空堀を巡らせ、空堀の間に出丸を築きました。
そして「西から敵に攻撃されてもここだけで100日は持ちこたえられる。」豪語したと伝わります。

江戸時代、西出丸の北半分には「西の御蔵」という巨大な米倉が設けられ、南半分は奉行所が置かれていました。


ここで一つ不思議な景色が目に入ります。
西の大手門のすぐ近くに
南大手門(復元)がありその横に車の道路。

入り口が3つもあるように錯覚しますが、昔はこの生活道路は存在せず、
南大手門を潜り西出丸に入り、それから本丸に入っていたのです。
のちのち、この道路は閉鎖されるという話も......わかりませんが......
ついでに北大手門も復元してくれたと思ってしまいます。

加藤神社の駐車場に車を止めていたので、一度車に乗り込み、次に城の東側、
千葉城エリアへ

千葉城は中世城郭です。現在はNHKが建っています。


熊本大神宮


熊本城稲荷


逆行ですが、須戸口門



熊本城稲荷の向かい側にある高橋公園には
西南戦争の時の熊本城の司令官 谷干城(たに たてき)の像と



横井小楠と明治維新の偉人達像がありました。

(左から坂本龍馬・勝海舟・横井小楠・松平春嶽・細川護久、
その下プレートで竹崎健次郎・内藤泰吉・嘉悦氏房・徳富一敬・長野濱平・山田武甫)」


横井小楠
藩校時習館(じしゅうかん)に学び
幕末維新期の大思想家
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革。
さらには春嶽が幕府の政事総裁職に就任した際は、顧問として幕政改革に貢献。

勝海舟と親交があり、坂本龍馬にも影響を与える。

明治元年、政府の参与に出仕、抱負の実現を図るが、翌2年正月、京の町で志半ばに凶刃に倒れました。


最後に熊本らしい景色を一枚


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
熊本城を訪れたのは今回が4回目
僕のお城好きの決め手になったといっても過言じゃありません。
行くたびに、来場者が増え、活気に満ちているように感じ、嬉しく思います。

現在も復元工事は着々と進み、
段々往時の姿に取り戻して行くのを、僕自身とても楽しみにしています。

熊本市が、熊本市民が、お城を愛し、お城とともに生きている感じがとてもします。
熊本城は、熊本の中心で、市民の誇りなのでしょう。

戦火にあっても、城主を失ってもなお、輝きを増し続けてる熊本城のこれからに、期待せずにはいられません。



見所と写真の数が多く、四回もかかってしまいました。
長い間のご愛読ありがとうございました!!!



2009.1.5

熊本・熊本城 第三回

2009年01月27日 | 日本の城
熊本・熊本城 ~第三回~

地図を参考に☆
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/87/43571d567ccd05473b08a354c957a3bf.jpg

天守閣を降り、宇土櫓に向かう


熊本城、西南の役での火災を唯一逃れた多重櫓。
関ヶ原で改易になった小西行長が作った宇土城の天守閣を移築したという説が有力だったが、
解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されています。

名の由来は、この櫓を小西行長の家来を召抱え守らせたからと言われています。
大小天守閣と並び、三の天守とも呼ばれる。

国指定の重要文化財だが、現在は内部を一般公開。

その内部、最上階から撮った大小天守閣


天守と宇土櫓の間にある、首掛け石
怪力の若者が花岡山から首にかけて運んできた石と伝えられ、重さは1800kgあります。



次に数寄屋丸二階御広間(かいおんひろま)に向かう。

主に接客用として茶会、歌会、能などに利用された建物だが、
南側(写真から見た方向)には鉄砲、矢狭間や石落としを備えている。
平成元年(1989年)に市制100周年を記念して復元。


これが鉄砲狭間と石落としのセット


熊本城七不思議の一つ 地図石
日本地図とも、縄張り図とも
石が99個使われていることから、城の長寿を願ったまじないとも言われています。



そしてもう一度、飯田丸方面に降り
熊本城の見所の一つである
二様の石垣


手前と奥、この二種類の石垣の何が見所かというと........
この石垣を含め、熊本城の石垣はすべて「打ち込みハギ」という工法で積まれています。

二様の石垣は同じ打ち込みハギでも隅石(石垣の角)の積み方に違いがあり、よく見るとそれぞれ傾斜が違います。
加藤清正時代の勾配の緩やかな石垣(右側)と、細川時代の勾配の急な石垣(左側)

Upppppp!!!!


石垣の積み方をさらにマニアックに言うと
右の緩い方は「穴太積(あのうづみ)」、左の急な方は「算木積(さんぎづみ)」です。

これらの石垣は熊本城の特長の1つで、
このような高い石垣をもつ城は他にはありません。
敵が攻めて来たとき、地面付近は勾配がゆるく余裕だと思い登っていくと、上に行くにしたがって勾配がきつくなる独特なもの
武者返し(むしゃがえし)や「扇の勾配」、「清正流(せいしょうりゅう)石組」などと呼ばれています。

一通り有料エリアを見終わったところで
頼当御門から、二の丸方面へ行くことに



清正神社の方向に歩くと、さっき見た宇土櫓が違った角度から見られる
ここの高石垣は圧巻。




次回は西出丸から二の丸へ行きます

続く.......


2009.1.5


熊本・熊本城 第二回

2009年01月23日 | 日本の城
熊本・熊本城 ~第二回~

いよいよ、復元された本丸御殿へ

西南戦争直前の明治10年2月に焼失した御殿の一部を、平成20年4月20日築城400年を記念して
総事業費:約54億円をかけ再建




この写真の右手にある銀杏が、次の復元模型の真ん中にある木です。


濃い瓦の部分が、今回復元された部分。


そしてこれが平面図(熊本城ホームページより)



大御台所の巨大な梁(もちろんすべて木造復元、釘も使わず、当時の技術を使用)



大広間



縁側



そしてこれが、加藤清正が大阪から豊臣秀頼を迎える予定で作ったとも言われる昭君之間

昭君之間」は「将軍之間」の隠語とも?


昭君之間の天井は格式の高い折上格天井(おりあげごうてんじょう)



茶室



本丸御殿を出て、天守閣へ

天守閣は明治10年(1877年)、西南戦争の年に焼失。
現在の天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960年)に再建されたものです。

内部は現在、熊本市立熊本博物館の分館となっており、肥後歴代藩主の武具や調度品のほか、西南戦争の資料などを展示。



天守最上階からの景色


真上から見た本丸御殿


現存の宇土櫓



熊本城は別名銀杏城といいます。

加藤清正が熊本城築城の際に熊本城内に銀杏の木を多数植えたことが由来です。(前回述べた、籠城の食料確保等)
本丸御殿の隣に一際大きな銀杏の木があります。

この銀杏の木を加藤清正が熊本城築城時に植えた際、
「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時、この城で兵乱が起こるだろう。」
と、つぶやいた言い伝えが残り
実際に、西南戦争(明治10年[1878年])で熊本城(銀杏城)が戦場になった時、
この銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたそうです。

いやいや、写真で見る限り小さいではないか!?

と思われるでしょう?

この銀杏、西南戦争の際に、一度燃えてしまったのです。
が、
奇跡的に、
芽吹いた脇芽が成長しで、130年でこれだけの大きさに成長したのです。
今はまだ天守より小さいですが、なんとも堂々とした姿をしています。

この木が二度目に天守の大きさになったとき、地球上から戦争が無くなっていることを切に願います。

続く............

2009.1.5

熊本・熊本城 第一回

2009年01月15日 | 日本の城
熊本・熊本城

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の子飼いの武将で、賤ヶ岳七本槍の一人、加藤清正により、
安土桃山~江戸時代にかけ、中世の千葉城、戦国時代の隈本城を取り込み、
茶臼山丘陵一帯に長野県、松本城を参考に築城。
日本三名城の一つ。

加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となり、明治維新を迎える。

明治10年(1877)の西南の役に際しては、西郷隆盛率いる薩軍を相手に、
司令官・谷干城率いる新政府軍は50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮。
しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失する。

現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたもの。

平成19年(2007)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、
西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元、今後も多くの建物が復元予定


全体地図、ホームページより抜粋



10年ぶりに念願の熊本城へ、行幸橋から天守閣を目指す

お城タクシーと熊本城 右にあるのが加藤清正の銅像



昭和の復元、馬具櫓と現存する長塀(全長約242m)



備前堀と平成の復元、飯田丸五階櫓



櫨方門(はぜかたもん)から入門(500円)竹の丸を歩く


城内に数多く残る井戸

清正は文禄・慶長の役のとき、蔚山城(うるさんじょう)で明・朝鮮連合軍を相手に、
「泥水をすすり、死馬の肉を喰らう」という苦しい籠城戦を体験。
その経験から熊本城は、籠城の備えを万全にしました。
井戸はそのひとつで城内に120以上掘られたと言われています。(17箇所の井戸が現存)


高石垣の先に天守閣が見える




焼失を免れ現存する櫓群(繋がっているようにも見えるが、左から田子櫓 七間櫓 十四間櫓)


さらに四間櫓、源之進櫓




別の入り口、須戸口門の横にある平御櫓




さらに不開門の方向に進むと、現存、東十八間櫓




不開門(あかずのもん)
城の鬼門である北東に位置し、昔の陰陽道ではこの方角は塞いでも、開け放してもいけないとされ、
門は造るが普段は閉ざし、不浄なものを運ぶときだけこの門を開いたと言われる。
現存する唯一の門




本丸御殿入り口




全国的にも類例の無い地下通路「闇り通路(くらがりつうろ)」を抜け



やっとの思いで、天守閣、本丸広場へ


続く.........


あまりに広く、見所多いので三回に分けてUpしようと思います。
気長にお待ちいただけると幸いです。


2009.1.5