春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

高幡不動・土方歳三像

2011年02月02日 | 東京歴史散策


高幡不動とは真言宗智山派の「別格本山」のお寺です。
成田山新勝寺などとともに、関東三大不動のひとつです。

土方歳三の菩提寺である縁から土方歳三の銅像が境内にあります。

今でこそ新撰組は幕末武士のヒーローで日野のシンボル的存在ですが、建立には紆余曲折あったそうです。
地元有志の間で近藤勇、土方歳三、井上源三郎の銅像建立の話が持ち上がり、設計図もでき、資金の目処もついたところで、市の幹部より暴力団まがいのひとたちの像を建てるのは文化都市日野市にふさわしくないと言われ、計画は一時沙汰止みとなってしまったみたいです。

銅像銘文には平成7年11月3日、日野ロータリークラブ創立30周年を記念して建立されたと書いてあります。

意外と歴史は浅いのですね。

2011.2.1

東京散策・秋の新宿御苑

2010年11月24日 | 東京歴史散策
新宿御苑

発展を続ける新宿の高層ビルの横に広がる、異空間。

公園だと思っているかもしれませんが、実は歴史のある場所なのです。

もともとは江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地に、
1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設。
宮内省(現在の宮内庁)が管理していましたが、
第二次世界大戦後は一般に公開され、現在は環境省管轄の国民公園です。

玉藻池を中心とする回遊式日本庭園は、内藤家下屋敷の庭園『玉川園』の遺構でもあります。

ではそんな新宿御苑で撮った秋の写真たちです。
































2010.11.23

東京散歩・亀戸天満宮

2010年05月08日 | 東京歴史散策
ブログを初めてすぐの頃に書いた、亀戸天満宮の藤祭り、やっと観に行くことができました。

前の記事です。
http://blog.goo.ne.jp/kogaken1207/e/fd1c06aecd400e57e33fdbd9cb929987




















東京でここまで藤が観られる場所は他にないでしょう?
ほとんどの紫の藤ですが、白も少しありました!

今は散り始め、まだぎりぎり間に合いますよ♪

でもこうしてみると、足利の大藤は本当にすごいんだなと思ってしまいます。

2010.5.3





東京散歩・旧岩崎邸庭園

2010年01月25日 | 東京歴史散策
東京・旧岩崎邸庭園

今年の大河ドラマは「坂本龍馬」
を、岩崎弥太郎の目線から描くのです。

その岩崎弥太郎とは誰だ?と思う方はいると思いますが、三菱財閥の創業者と言えば、少しはピンとくるのではないでしょうか??

これから紹介する旧岩崎邸庭園は
初代・岩崎弥太郎が、明治11年に牧野弼成{すけしげ}(旧舞鶴藩主)から邸地を購入
弥太郎の長男で、三代目・岩崎久弥{ひさや}が、明治29年、岩崎家の迎賓館として、お雇い外国人のジョサイア・コンドルの設計で竣工しました。


現在、園内の現存する3棟の歴史的建造物は国の重要文化財に指定されています。


洋館
四角い塔の張り出す玄関や外観の装飾はジャコビアン様式、客室にはイスラム風のデザイン、ベランダが張り出したスタイルには、コンドルが得意としたベランダ・コロニアル様式を施すなど様々な様式を織り交ぜています。
北側から


ベランダ


当時世界でも贅沢品と言われたミントンのタイル


サンルーム(これは明治40年代の増築です)






撞球室
木造ゴシック様式のビリヤード室。校倉造の外観はスイスの山小屋風で、洋館の地下室と地下通路で結ばれています。




和館
書院造を基調とした和風建築で、迎賓館としての洋館に対し、生活の場として使われたようです。
設計は大工棟梁の大河喜十郎と伝えられています。
往時は550坪もの大邸宅でしたが、現存するのは大広間と茶室の周辺のみ。
釘隠しなど各所に岩崎家の家紋である三階菱が見受けられます。





橋本雅邦(がほう)による四季を描いた障壁画が残っています。
彼の弟子には横山大観、川合玉堂などがいる。弟子の名前のほうが有名?笑



南側の庭園から観るとこんな感じです。
左から和館、洋館、撞球室です。


もともと越後高田藩榊原家中屋敷だった大名庭園を、本邸の建築に際に、
池を埋め立てて広大な芝庭とし、庭石・灯篭・築山などを配した和洋併置式の庭園として改修されました。

戦後の接収や関東大震災時に、本邸も含めて地元の住民に開放され、1万人ぐらいが避難し仮住居になった関係で、かなり縮小しましたが、見所は充分です。(境界線が有耶無耶になったり、他の被災者に提供したりしたそうです)





では最後に和館の近くに咲いていた冬ボタンの写真です。
長くなってしまいましたが、最後まで見て頂きありがとうございました。



東京地下鉄千代田線 湯島 徒歩3分
東京地下鉄銀座線 上野広小路 徒歩10分
都営地下鉄大江戸線 上野御徒町 徒歩10分

2010.1.24

東京散歩 小石川・伝通院 ~徳川家ゆかりのお寺~

2009年09月07日 | 東京歴史散策
小石川・傳通院

浄土宗 無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)


開山は室町時代の応永22年(1415年)秋に、浄土宗第七祖の了誉聖冏(りょうよ・しょうげい)上人。
当時は、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の小さな草庵で開創し、山号を無量山、寺号を寿経寺とした。
それから200年後の慶長7年(1602)8月9日、徳川家康公の生母於大の方が75才、伏見城で逝去、
その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。

その後も三代将軍家光の次男亀松君や、二代将軍徳川秀忠の娘で豊臣秀頼に嫁いだ千姫などが葬られ、
将軍家の菩提所次席となり、増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。関東十八檀林の一つでもある。




明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われたが、
明治2年(1869年)に勅願寺(時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺)となる。
しかし、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。
同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つが善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。

明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになりました。

享保6年(1721)、同10年(1725)、明治40年(1910)と三度の大火にあい、
その後の再建もむなしく、第二次世界大戦では建造物すべて灰燼と帰しました。
昭和24年本堂を再建、現在の本堂は昭和63年に建立。













伝通院で有名なのは新撰組発祥の地だということです。
詳しく言うと、幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が伝通院ではなく敷地内の塔頭・処静院(しょじょういん)で結成され、会合が行われました。(現在、処静院はありません)
山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら約250人が集まったと言われています。
そして2月8日、京都へ向け出立したのです。





この説明板を見るまで、僕は浪士組は伝通院で結成されたと思っていました。
なんとも恥ずかしい限りですが、ほとんどの本や、はたまた案内には、伝通院=新撰組発祥の地になっています。
こういう小さなことでもちゃんと、正確に歴史を伝えてほしいものです。
話を大きくしたり、ありもしないことをあったかのように書いたり、
ひとつの説であるにすぎないのに、それがすべてのように書いたり。
すべてを書いていたら、とんでもない文章量になるともいますが、
世間に知られている歴史にはそういう事が少し多すぎると個人的に思います。

写真の看板も、土方歳三の部分が修正してありますし.....
平成元年の時点で、それはありえないでしょう....
東京の人間なのに.....

当時の処静院住職琳瑞(りんずい)は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われます、
後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃された。 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。

浪士組の発起人、清河八郎は将軍の上洛警護のために浪士組を結成します。が、
京都に着いてから、浪士隊が幕府の為ではなく、尊皇攘夷のために結成されたものであると発表し、幕府を怒らせた人です。
その結果、近藤・芹沢らは袂を分かち、京都に残り、清河と浪士隊は江戸に呼び戻されます。
しかし後に幕府・見回り組の佐々木只三郎らに暗殺されました。

現在、清河八郎はこの伝通院に妻とともに眠っています。
そして彼は没後45年たち贈正四位を授けられ、「明治維新の魁」とも言われています。

徳川幕府の元菩提寺に徳川幕府を欺いた人間が眠る
なんとも不思議なものです。

話を伝通院に戻しますが、
幕末の江戸の流れ渦の中にあった伝通院は明治・大正の文豪たちにも縁のある寺です。
永井荷風の「伝通院」
夏目漱石の「こゝろ」
二葉亭四迷「平凡」などに伝通院が登場します。

そして近年では
直木賞作家、柴田錬三郎(1917-1978「眠狂四郎無頼控」の作者)も眠っています。

そして現在、
毎年春の桜や、7月に有名な朝顔市が開かれます。



都営地下鉄三田線春日駅
東京メトロ南北線・丸ノ内線後楽園駅
徒歩約10分
拝観時間は10:00~17:00
拝観料は無料

2009.9.6

東京散歩 上野・寛永寺 ~天璋院篤姫の眠るお寺~

2008年11月20日 | 東京歴史散策
上野・寛永寺


天台宗東叡山寛永寺円頓院

天台宗の関東総本山。
開基は徳川家光 開山は南光坊天海
江戸城の鬼門を守る祈願寺として創建されたが、のちに芝増上寺とともに将軍家の菩提寺となる。
境内には四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定(篤姫の夫)が眠る。

現在の上野公園一体に壮大な規模をほこった大伽藍も幕末、明治の戊辰戦争(上野戦争)でそのほとんどが焼失。

明治8年(1875年)もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、復興されたが、寺の規模は大幅に縮小した。


入り口



移築された根本中堂



  

常憲院霊廟勅額門(五代綱吉が眠る)基本非公開



上野公園内にある清水観音堂



動物園の一部と化した旧寛永寺五重塔(現在は東京都所有)


他に現存する旧伽藍は

書院(徳川慶喜が水戸退去の前に2か月ほど蟄居した場所)
旧本坊表門
弁天堂
黒門(荒川区の円通寺に移築、当時の弾痕が残る)
時の鐘
東照宮
大仏山パゴダ
上野大仏

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今、大河ドラマで人気の篤姫
夫、家定との切なく短くどこか儚い夫婦生活に涙した人も多いと思う。

すぐに離ればなれになってしまった二人が、
今、隣同士で静かに眠っているという事実を知ると、感慨無量である。

基本非公開だが、一年に一度特別公開があるらしく、
今年は大河人気もあり定員80人の20倍以上の応募者があったらしい。

現在、博物館や美術館、動物園などがあり、人々の憩いと、芸術の街ともなった上野。
しかしその、のどかな公園は、僅か140年ほど前に、日本人同士が大激戦を繰り広げた場所でもある。

終戦後、境内には敗者である彰義隊(幕府側)の戦死者遺体は片付けることさえ許されず数日放置されたままになったという
非情な事実も残る。

そして公園には、有名な西郷隆盛の銅像があり、観光客が写真を撮っている姿を良く見かけるが、西郷隆盛は上野を攻めた側の人間であると思うと、上野公園で散った(旧幕府側の)魂は浮かばれないだろう。
さらに勝者、西郷隆盛象の真裏に、敗者、彰義隊のお墓がひっそりとある。
その歴史と、両者の因果関係を知っている人はほとんどいない。
(西郷はその後、西南戦争で明治政府に背き賊軍となるけど.....)

様々な歴史が絡み合う上野、歴史という視点見てみると、おもしろい街です。


話はまったく飛ぶが、
旧寛永寺五重塔が、動物園の一部となり、その周りが鳥のエリア(アヒルとかだったと思うが)になり、
重要文化財の建物が糞だらけになっているのは、なんとかならないのかな?


寛永寺
JR山手線「鴬谷」駅から徒歩5分





2008.10.6

東京散策 浜離宮

2008年11月08日 | 東京歴史散策
浜離宮恩賜庭園



正式名称は、東京都立浜離宮恩賜(おんし)庭園

江戸将軍家の鷹狩の場を、承応3年(1654年)に甲府藩主の松平綱重が拝領。海を埋め立て別邸を立てた。
(甲府浜屋敷と呼ばれる)その後は、甲府藩の下屋敷として使用された。

その後、綱重の子である徳川家宣が六代将軍になると、将軍家の別邸とされ浜御殿と改称。
大幅な改修が行われ、茶園、火薬所、庭園が整備。
十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。

幕末、外国人接待所として石造洋館である延遼館(幕府海軍伝習屯所)が建設され、
明治維新後に、宮内省の管轄となり名前も浜離宮と改められた。

関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失、当時の面影はなくなりましたが、
昭和20年、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年4月有料公開されるに至る。

国の特別名勝、及び特別史跡に指定。

JR新橋駅 徒歩15分


お城みたいな大手門から園内へ


園内
  
  
 
 


写真にもある大きな池は潮入り池
(東京湾から海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるのである)

海との入り口に水門がある


普通庭園の池と言えば、色とりどりの鯉、亀、アヒルがいますが、
ここは海水、ボラをはじめ、セイゴ、ハゼ、ウナギ、カニがいます(笑)

全国でもめずらしい現存する鴨場



中島の御茶屋で



秋らしいお菓子と抹茶をいただき



たんぽぽの綿毛に想いを馳せ



ピンクの椿に冬の気配を感じ



鳥羽伏見の戦いで大阪城から単身で逃げ帰って来た慶喜の心中を察し(将軍お上がり場)



樹齢三百年の松に時の流れを感じる



「あ、東京タワーに行こう」とふと思い立ち



今日も一日が終わるのです。



幕末の動乱、明治維新、日本最後の内戦から僅か約150年
あの松の半分の月日

東京の夜景は今日も綺麗でした。



2008.11.06

東京散歩 国宝・正福寺千体地蔵堂

2008年11月05日 | 東京歴史散策
正福寺千体地蔵堂 都内唯一の国宝建造物


臨済宗 建長寺派 金剛山 正福寺

本尊は千手千眼観音

創建年ははっきりとわかっていないが、鎌倉時代中期に建長寺(鎌倉)の僧石渓心月の開山だと伝えられる。
開基は当時の執権、北条時頼とする説と北条時宗とする説がある。

タイトルでも書いた東京都内唯一の国宝建造物「地蔵堂」がある。


山門(東村山市指定有形文化財)



国宝・正福寺地蔵堂
禅宗様仏殿の代表作の一つ。室町時代の応永14年(1407年)の建立と知られる。
同じく国宝に指定されている鎌倉の円覚寺舎利殿と全く同じ様式である。


地蔵堂の内部は,8月8日,9月24日,11月3日の3日間一般公開される。



訪れたのは三年前の秋でした






本堂 

庫裏


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国宝、その字の通り国の宝である。
建造物・絵画・彫刻・工芸品・書跡・典籍・古文書・考古資料・歴史資料などがあり、博物館にいくと時々目にすることがある。また、京都や奈良に行くと建造物に関しても意外と目にすることが多いため、それほど重要性を感じない人もいるかもしれないが、関東に存在する国宝建造物は実は大きく別けて三つしかないのである。


一つ目は、ここで紹介した正福寺地蔵堂。
二つ目は、鎌倉の円覚寺舎利殿
そして三つ目が、世界遺産でもある有名な日光東照宮の建物である
(実際には輪王寺大猷院霊廟の一部も入ります)

お寺や神社がたくさんある鎌倉でさえも国宝建造物は一つしかないのは初めて知った時は驚いた。
つまりそれだけ正福寺地蔵堂は貴重な建物なのだ。

正福寺地蔵堂のもう一つ驚くこと、それは、
世界遺産でもある日光の建物はも高い拝観料を払って見る。
鎌倉の円覚寺舎利殿は特定の日を除いて基本建物に近づくこともできない。
しかし、正福寺地蔵堂は写真の通り建物内に入れないが、すぐに近くまでいつでも行くことができるのだ。


これほど無防備でいいのかとも正直思ってしまう(南大門の放火の件もある)
それは東村山市の市民の素晴らしさとも信用とも言えるが.......


それに、道中,正福寺への道案内などもほとんどない......。


東村山市の文化財に対する意識の低さ,理解のなさなのかも......
身近な国宝と言えばそれまでだが、国宝など一つもない県も結構あるのに、少し宝の持ち腐れ感もあるのが少し残念。


なにわともあれ、こんな身近にある貴重な建物、一度見てみるのも悪くはないですよ。


西武新宿線東村山駅下車・徒歩10分


2006.11.22

東京散歩 松蔭神社 幕末維新祭り

2008年10月27日 | 東京歴史散策
幕末・維新祭り 世田谷 松蔭神社

今年で十七回目を迎えた幕末・維新祭り
松陰神社を中心に、会津と萩の物産展が開かれ、
神社に続く商店街が様々なお店を出す。


 

 


二日目には幕末の志士と奇兵隊のパレードもある(仕事で見に行けず



松陰神社の出店



松陰神社

長州藩尊攘派の理論的リーダーだった吉田松陰を祀る。
安政6年10月27日、安政の大獄で小伝馬町獄中にて刑死(享年30)した遺骸を、南千住回向院から高杉晋作、伊藤博文、等によって等地に埋葬し、明治15年11月松蔭門下の人々が墓畔に社を築いてたの始まる。

社殿は没後50年祭を祈念して昭和2年に造営されたもの。
神社のあたり一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸であった。




神楽殿



門下生などから寄進された石灯籠




吉田松陰が塾長を務めた、長州藩藩校、松下村塾の原寸大が復元されている。



祭りの日 幕末劇が行われてました。
 

 


境内の左奥に吉田松陰と幕末の志士が眠る(お墓は撮らない主義なのでここまで)



一坂太郎先生の講演会とサイン会(K田さんに似てると個人的に思った......w)



オレンジ色のコスモスと




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松陰神社の存在を知ったのは、井伊直弼の眠る井伊家の菩提寺 豪徳寺を訪れた帰りだった。
ふと地図を見ると、近くに神社があるのでついでに行って見ようと思った、ただの偶然である。

吉田松陰が眠っていることももちろん知らなかったし、松陰神社の名前を見ても、そこに結びつくことはなかった。
なぜなら、井伊直弼の行った安政の大獄で処罰された一人が長州の吉田松陰だからだ。

松蔭が生きていたら明治維新もまた違った時代になっていただろう。
もしかすると日本という国自体が今とは違う国になった可能性もある。

徒歩で僅か10数分の距離に弾圧したものと、弾圧された者が眠る。
不思議な因果関係を感じた。


そしてこの幕末祭りは
戊辰戦争で敵対した、萩と会津の物産展が並び
奇兵隊と新撰組がパレードを行う。
松陰を祀る神社の神楽殿で、白虎隊の踊りが踊られる。


会津と山口の確執は今も残っている
そこそこ歴史を知る人が見ればあり得ない組み合わせだが、あくまでもお祭りはお祭り、盛り上がることが一番だ。
もしかすると日本が平和になった証なのかもしれないし、これをきっかけに交流が深まればとも思う。


今回のお祭りで、初めて吉田松陰という人物を詳しく知り、少し長州に対する考え方に変化がでた。


吉田松蔭の辞世
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
約:私の命がたとえこの武蔵野の野で終えることになっても、自分の思想はここに留めておこう

自分の命より国を想う、その気持ちは計り知れない。

獄中の松陰を訪ねて来た高杉晋作へは
「世に身、生きて心死する者あり。身亡びて魂存する者あり」
とまで言っている。

松蔭の想いはその後、松下村塾四天王をはじめとした彼の弟子たちによって受け継がれる。
松下村塾四天王、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一。
しかしこの4人で維新の夜明けを見たものは一人もいない。皆、革命の過程でその若い命を散らしていった。

彼の死から9年、明治新政府が誕生したが、彼の理想が実現したかどうかはわからない。

お祭りという雰囲気の中で、いろいろなことを考えさせられた一日でした。


2008.10.25

東京散歩 根津神社

2008年09月15日 | 東京歴史散策
根津神社

通称・根津権現

御祭神
須佐之男命・大山咋命・誉田別命 

相殿 大国主命・菅原道真公


根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。
境内はつつじの名所として知られ、近隣には森鴎外や夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていた。
明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社。



楼門(国指定重文)と神橋



拝殿(国指定重文)




東京で権現造りの神社建築を間近に見れるのは、ここと上野東照宮ぐらいいだろうか?
戦災を逃れ、創建時の姿を今に伝えています。


約50種3000株のツツジが咲き誇る、春の文京つつじまつりは必見です。


2007.10.23


東京散歩 関東厄除三大師 西新井大師

2008年09月06日 | 東京歴史散策
東京・總持寺(そうじじ)

真言宗 豊山派
五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)

通称・西新井大師

沿革

弘法大師空海が関東巡錫の途中、西新井を通った際に、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、悪疫流行に悩む村人たちのために、本尊の十一面観音を彫り21日間の祈祷を行いました。そのとき枯れ井戸から水が湧き出て、病は平癒したと伝えられています。その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名ができたと言われています。
その後、天長3年(826年)に寺院を建立したことに始まり、江戸時代中期に建立された本堂は昭和41年(1966年)火災により焼亡したが本尊は難を逃れた。本堂は昭和46年(1971年)に再建され現在に至っています。




山門に続く門前町  名物草団子

山門(江戸後期に建立されたもので、金剛力士像、五智如来があります)
  水洗い地蔵

塩地蔵(雪に埋もれた様にも見える)

この塩をいただき、ご利益があったときには塩を倍返しにしてお返しする 

水子地蔵


大本堂(来年の初詣まで改修中)


白のさるすべりと一緒に


不動堂


ピンクのさるすべりと鐘楼堂


三匝堂(さんそうどう)

これは大変珍しく、俗に栄螺堂(さざえどう)と呼ばれる仏塔の一形式。
中がサザエのようにらせん状になっていて、初段から三段に配置された仏像が一度に拝める。
明治17年製作で、都内でこの形式の仏塔はこの一基が残るのみ。

有名なのは会津若松にある六角三層のお円通三匝堂



光明殿から


「大師」という言葉をお寺巡りをしていると時々耳にする、関東では川崎大師、佐野厄除け大師、川越大師などがある。
しかし、意外とその意味を知っている人は少ないのではないだろうか?

この場合の「大師」とは真言宗の開祖、空海のことを指し、上記の三つは御本尊が空海こと弘法大師。
この弘法大師から「大師」という言葉がきているらしい。

しかし、「大師」は宗教的には、偉大なる師という意味で、
仏などに対する尊称。また、高徳の僧への敬称
なので大師の称号を受けた僧はたくさんいて、
宗派の開祖では日蓮宗の日蓮=立正大師、
浄土宗の法然=円光大師、
浄土真宗の親鸞=見真大師、
曹洞宗の道元=承陽大師、

一概に空海だけではないのである........複雑。

今度は川崎大師にも行ってみよう。


2008.9.3

東京散歩 亀戸天満宮

2008年08月05日 | 東京歴史散策
亀戸天神社

ご祭神・天満大神(菅原道真)
    天菩日命(菅原家の祖神)相殿に祀る 

九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されるとおり、
菅原道真公をお祀りする神社。

1646年(正保三年)
太宰府天満宮の神官だった菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔)は神のお告げにより、
飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって諸国を巡り歩き 、
そして江戸の本所亀戸村にたどり着いたとき、村に元々あった天神の小さなほこらにご神像をお祀りしたのが始まり。


四代将軍家綱が江戸の大半を焼き尽くした明暦大火のあと現在の社地を寄進。
その後、寛文二年(1662)に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを造営された。


鳥居


太鼓橋(男橋)


亀が付くからか、心の字池にはたくさんの亀が



本殿


竹が描かれた石碑



藤の木がとても多く四月末から五月頭まで藤まつりが行われる。





福岡出身の僕は、小さい頃から毎年初詣は太宰府天満宮と決まっている。
一年の始まりがそこにある僕にとって亀戸天満宮の景色は、すごく懐かしいものを感じた。

そして、太宰府天満宮と言ったら梅なのだが、ここの藤の木の多さにはとても驚いた。

僕はまだ、辺り一面咲き乱れる藤を見たことがない
今年どこかに藤を見に行こう思っていたが、予定が合わず見れなかったので
来年は、絶対、亀戸の藤まつりに行こうと思う。


下町の匂いのする路地の先に、どこか懐かしい亀戸天神社。


総武線亀戸駅下車 北口より徒歩15分
総武線、地下鉄半蔵門線錦糸町駅下車 北口より徒歩15分



そうそう、ちょうど夏祭りの日でした




おまけに

江戸川からの夕日



2008.8.2

東京散歩 東京大仏

2008年08月04日 | 東京歴史散策
浄土宗赤塚山乗蓮寺

徳川八代将軍吉宗の時、鷹狩の際の休憩所に指定された格式ある寺院。
古くは孤雲山慶学院と号し、後に慶学山と改称した浄土宗の古刹。
境内地は赤塚城二ノ丸跡でもあります。

日本三大仏の一つ、東京大仏は阿弥陀如来で高さ8.2メートル
青銅製の鋳造大仏では奈良、鎌倉の大仏に次ぐ大きさです。

(日本三大仏は諸説あり)

仁王門
 

葵の紋


本堂




 

東京大仏






東武東上線「成増」からバスで10分、もしくは下赤塚から徒歩で25分
松月院 赤塚植物園 赤塚城趾・溜池公園など他にも近くに見所がたくさん。

大仏そば、大仏食堂、華麗(カレー)の店など、シャレた?お店も軒を連ねます(笑)


2007.7.22