春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

東京散歩 松蔭神社 幕末維新祭り

2008年10月27日 | 東京歴史散策
幕末・維新祭り 世田谷 松蔭神社

今年で十七回目を迎えた幕末・維新祭り
松陰神社を中心に、会津と萩の物産展が開かれ、
神社に続く商店街が様々なお店を出す。


 

 


二日目には幕末の志士と奇兵隊のパレードもある(仕事で見に行けず



松陰神社の出店



松陰神社

長州藩尊攘派の理論的リーダーだった吉田松陰を祀る。
安政6年10月27日、安政の大獄で小伝馬町獄中にて刑死(享年30)した遺骸を、南千住回向院から高杉晋作、伊藤博文、等によって等地に埋葬し、明治15年11月松蔭門下の人々が墓畔に社を築いてたの始まる。

社殿は没後50年祭を祈念して昭和2年に造営されたもの。
神社のあたり一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸であった。




神楽殿



門下生などから寄進された石灯籠




吉田松陰が塾長を務めた、長州藩藩校、松下村塾の原寸大が復元されている。



祭りの日 幕末劇が行われてました。
 

 


境内の左奥に吉田松陰と幕末の志士が眠る(お墓は撮らない主義なのでここまで)



一坂太郎先生の講演会とサイン会(K田さんに似てると個人的に思った......w)



オレンジ色のコスモスと




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松陰神社の存在を知ったのは、井伊直弼の眠る井伊家の菩提寺 豪徳寺を訪れた帰りだった。
ふと地図を見ると、近くに神社があるのでついでに行って見ようと思った、ただの偶然である。

吉田松陰が眠っていることももちろん知らなかったし、松陰神社の名前を見ても、そこに結びつくことはなかった。
なぜなら、井伊直弼の行った安政の大獄で処罰された一人が長州の吉田松陰だからだ。

松蔭が生きていたら明治維新もまた違った時代になっていただろう。
もしかすると日本という国自体が今とは違う国になった可能性もある。

徒歩で僅か10数分の距離に弾圧したものと、弾圧された者が眠る。
不思議な因果関係を感じた。


そしてこの幕末祭りは
戊辰戦争で敵対した、萩と会津の物産展が並び
奇兵隊と新撰組がパレードを行う。
松陰を祀る神社の神楽殿で、白虎隊の踊りが踊られる。


会津と山口の確執は今も残っている
そこそこ歴史を知る人が見ればあり得ない組み合わせだが、あくまでもお祭りはお祭り、盛り上がることが一番だ。
もしかすると日本が平和になった証なのかもしれないし、これをきっかけに交流が深まればとも思う。


今回のお祭りで、初めて吉田松陰という人物を詳しく知り、少し長州に対する考え方に変化がでた。


吉田松蔭の辞世
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
約:私の命がたとえこの武蔵野の野で終えることになっても、自分の思想はここに留めておこう

自分の命より国を想う、その気持ちは計り知れない。

獄中の松陰を訪ねて来た高杉晋作へは
「世に身、生きて心死する者あり。身亡びて魂存する者あり」
とまで言っている。

松蔭の想いはその後、松下村塾四天王をはじめとした彼の弟子たちによって受け継がれる。
松下村塾四天王、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一。
しかしこの4人で維新の夜明けを見たものは一人もいない。皆、革命の過程でその若い命を散らしていった。

彼の死から9年、明治新政府が誕生したが、彼の理想が実現したかどうかはわからない。

お祭りという雰囲気の中で、いろいろなことを考えさせられた一日でした。


2008.10.25

坂東お遍路 大銀杏の勝福寺

2008年10月23日 | 坂東三十三箇所巡礼
小田原・勝福寺 ~紅葉の境内~

第五番 真言宗 飯泉山 勝福寺(飯泉観音)


京都東寺真言宗の名刹。
寺伝によれば、弓削道鏡が流されて下野に赴く際、北千代台(小田原)に創建した千葉山弓削寺の東院堂ともいわれています。今の飯泉に移された後、応永二十五年(1418)小田原城鬼門鎮護の道場となり、称光天皇から飯泉山勝福寺の寺号が与えられ、歴代小田原城主の篤い庇護のもと栄えた。
通称「飯泉観音」と呼ばれ、坂東三十三観音の第五番札所として有名です。

本尊は十一面観音。

境内には勝福寺と飯泉地区の鎮守である八幡神社がある。寺院と神社との間には境界がなく、神仏習合時代の面影を今に残している。


仁王門(宝暦八年(1758)建立、小田原市指定文化財)



青銅水鉢(竜頭船の形をし、船尾に十一面観音坐像がある。市指定文化財)



銀杏と本堂
 


大日堂
 


樹高30m、樹齢700年のご神木
雄株で、かつて乳イチョウと呼んで乳の出ない婦人が願をかけたと言われている。


落ち葉のカーペット



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訪れたのは去年の12月上旬、ほとんどの落葉樹の葉が半分ほど落ちた頃、勝福寺の大銀杏は真っ黄色に輝いていた。



雨の後だったのも幸いし、幻想的な世界を創り出す。

大日堂に腰掛け、大銀杏を見上げると
そこに広がるのは黄色の世界。

冬の始まり
雨の降る冷え込む日だったが、心はちょっと暖かな気分にしてくれた。


2007.12.3


宇都宮城 ~甦った関東七名城~

2008年10月19日 | 日本の城
栃木県・宇都宮城



お城の歴史は古く平安時代にまで遡ると伝わる。
鎌倉時代以降、関東の名族、宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。
宇都宮氏は豊臣政権下でも所領を安堵され羽柴姓を授かるなど、仲は良好であったが、
慶長2年(1597年)に突如改易となる。

江戸時代には代々譜代大名の居城となり、将軍の「日光社参」の時の宿所として立ち寄るため、
本丸に「御成御殿」が設けられていたのが特徴であった。
家康の参謀・本多正純の大改造によりその広さは1キロ四方もの広さを誇ったという。
宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布し「宇都宮城釣天井事件」舞台となる。

江戸幕府の北の要であった名城も、
幕末の“戊辰戦争”時、大鳥圭介・新撰組の土方歳三らの率いる幕府軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、城の建造物や城下が灰燼に帰し、その後、明治23年(1890年)には城郭一帯が民間に払い下げとなり、現在では本丸跡も住宅地と化している。

しかし「よみがえれ宇都宮城」のもとに平成19年(2007年)3月25日に本丸の一部が復元された。


木造で復元された清明台櫓


(天守の代わりだったと言われる)




富士見櫓






お城ファンの間で問題になってる、土塁をぶち抜いた本丸入り口


本丸内側から櫓を見る


巨大エレベーター




本多家家紋(立ち葵)が見える



櫓内の子供たち、必死に何かを見ています。







鉄砲狭間!!!





夕日と富士見櫓





お城の復元は城好きにとってはすごく嬉しいこと、
櫓に関しては、木造でなるべく当時に技術と材木で復元してある。
しかし関東のお城の基本である土塁は、コンクリートで固められ、中は空洞、
そして存在していない橋を造り、存在したであろう土塁をぶち抜いた。

防災公園という利便上いいのかもしれないが、それは復元とはいえないと思うし。
郷土の歴史を伝えるという思惑からは到底かけ離れている行為だと思う。
「よみがえれ宇都宮城」と、唱っておいてのこの現状にがっかりしたお城ファンは多い。

色々な事情はあると思うが、関東七名城の一つに数えられ、日本を代表するお城だった宇都宮城
今後の復元には期待したい。




2008.10.3

仙台の旅 国宝 大崎八幡宮

2008年10月12日 | 東北の寺社
仙台・大崎八幡宮 ~肌寒くなった頃に~

由緒によると、
坂上田村麻呂が東夷東征のさい、現在の岩手県水沢市近郊に胆沢城を築き、
その鎮守社として宇佐八幡宮を勧請し鎮守府八幡宮を創建したのが始まりとされます。
その後、中世に一帯を支配した大崎氏に庇護され、現在の遠田郡田尻町に遷座し大崎八幡宮と称するようになります。
戦国末期になると伊達家の勢力下に置かれ、岩出山城内に、米沢にあった成島八幡宮と共に祭られ、
仙台開府後に現在の場所に遷座しました。

仙台城から見ると乾(北西)にあたり、
福門(天門)と呼ばれ、蔵や、福神様を祭ると、縁起が良いと思われる方角で、
社殿その他藩費で造営される伊達家の崇敬社として明治維新まで続きます。

明治以降、大崎八幡神社と称していたが、平成9年(1997年)に大崎八幡宮の名称に復しました。



一之鳥居




ニ之鳥居(四代藩主綱村公より寄進 元一之鳥居で県指定有形文化財)




三之鳥居(五代藩主吉村公より寄進)




重要文化財 長床(創建年月不明)




国宝・御社殿(入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造り、権現造りと言われる建築様式)






日光東照宮にも見られる権現造り、大崎八幡宮を作った大工の子や孫が、日光東照宮を作ったらしいです。





実は安土桃山時代の遺風を伝える現存最古の遺構なのです。



御神輿



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豪華絢爛な桃山建築が随所に残る街、杜の都 仙台。
派手好きと言われた伊達政宗と当時の文化が見事に融合した証拠だろう。

派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶ、この言葉の由来も少しわかるような気がする。
(伊達者に関しては諸説あります)

凛とした空気が漂う境内で、
一番印象に残ったのは、簡素な素木造りで創建年月不明だが、御社殿ほぼ同時期だと言われている長床。
御社殿とまったく対照的なこの建物のお陰で、
社殿の絢爛さがより引き出されている。

当時の仙台人に、もしかすると伊達政宗に、このような美的感覚がきっとあったのだろう。
この対比による階調は計算されていたのかもしれない。

そう思うと、すごく興味が惹かれる。


後訪れていないのは、塩竃神社と仙台東照宮、こちらも必ずこの目で見てみたい。


2008.10.7

※写真の右側が欠けてます、すいません.........

坂東お遍路 初秋の大谷寺

2008年10月05日 | 坂東三十三箇所巡礼
宇都宮・大谷寺 大谷石の街

第十九番 天台宗 天開山 大谷寺(大谷観音)


810年弘法大師による開基。
古代人の横穴住居に建てられた本堂は、風化した石壁と不思議な調和が魅力。
大谷寺本尊の「大谷観音」は、岩彫りの高さ4mの千手観音で、日本最古の磨崖仏。
柔らかな大谷石に複雑な千手観音を彫るのは高度な技術が必要とされる。
さらに奥へ進むと、それぞれ時代の異なる「釈迦三尊像」「阿弥陀三尊像」「薬師三尊像」が並び、
堂内にある10体の磨崖仏は、国の特別史跡と重要文化財の二重指定を受けています。
江戸時代になると、徳川家康の娘亀姫が篤く信仰したことから、葵の紋がところどころ目に入ります。


入り口


石の彫刻たち







大谷石
2千万年前に火山活動により生まれた緑色凝灰岩で、宇都宮北西部の大谷一帯で採れる。暖かみのある肌合いが特徴で、軽くて加工がしやすく耐久性にも優れるため、様々な建造物に使われている。
( 宇都宮カトリック教会、帝国ホテルなど※玄関部は現在、博物館明治村に保存)


横穴住居に建てられた本堂






庭園


白蛇伝説が残る


銅製灯篭(1716年、河内郡新里村の住民の寄進により戸室元蕃が鋳造)



すぐ隣にある大谷石で作られた平和観音



境内は木々が色づき始めてました



秋晴れのとある日に、初めて「磨崖仏」を見た。
当時は金箔で飾られていたそうだが、火災によって剥がれ落ち、今では、僅かに造形のときに使われていたた漆や粘土が、僅かに残るのみ。

ぼんやりとした姿だが
それでも見た時は何か暖かな気分になった。

あえて斜めの岩肌に掘られ、遠近法を使い立体感を出す。
平安時代中期から鎌倉時代にこのようなこと考えられていることに、ただただ驚いた。

石に囲まれた街、大谷。
日本は普通木の家だが、この辺りのは石の家や蔵が昔ながらに残る。
違う文化に触れているようで、新鮮だった。

でも、多くの石材屋が閉業していて街自体の活気はの今イチだったのが残念。


そういえば一つ疑問に思ったことがある。
関東ではめずらしい大谷という石の街があるのに、すぐ近くの宇都宮城は土塁のお城。
凝灰岩は、石垣には向いていないのかな???

色づき始めた木々に、道に咲くコスモス、秋の匂いを感じた一日でした。


2008.10.3