春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

東京散歩 根津神社

2008年09月15日 | 東京歴史散策
根津神社

通称・根津権現

御祭神
須佐之男命・大山咋命・誉田別命 

相殿 大国主命・菅原道真公


根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。
境内はつつじの名所として知られ、近隣には森鴎外や夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていた。
明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社。



楼門(国指定重文)と神橋



拝殿(国指定重文)




東京で権現造りの神社建築を間近に見れるのは、ここと上野東照宮ぐらいいだろうか?
戦災を逃れ、創建時の姿を今に伝えています。


約50種3000株のツツジが咲き誇る、春の文京つつじまつりは必見です。


2007.10.23


夏の18切符 平泉・毛越寺

2008年09月11日 | 東北の寺社
岩手県平泉・毛越寺(もうつうじ)


天台宗別格本山 医王山毛越寺


「吾妻鏡」によると慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。記録によると往時、堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けている大変珍しいお寺です。

平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。




伽藍復元図



  


大泉が池



遣水(池に水を引き入れるためと造られたもの)

平安時代の唯一の遺構で、全国的にも極めて珍しいもの


開山堂(慈覚大師円仁をまつる堂)



現・常行堂(仙台藩主伊達吉村公の武運長久を願って再建)



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2008年現在
国の特別史跡は61件、
国の特別名勝は35件、

その両方に指定されている、毛越寺。

いままで色々な庭園を見て来たが、平安時代の浄土庭園を見るのは初めてだと思う。
伽藍復元図を頭の中で思い浮かべ、境内を回る。
中尊寺金色堂のように、藤原時代から残る建物は一つも現存しないが、庭園や、巨大な礎石を見ると、
優美で壮大な伽藍が想像できる。

その昔、藤原氏が全盛を極めた頃、平泉は京都にも劣らぬ、いやそれ以上の都市だったといわれる。
今の平泉からは、正直信じられないのだが、中尊寺やこの毛越寺の雄大さをこの目で見ると、
本当にこの場所に、そのような都市が存在したと心で感じことができる。

藤原清衡から僅か四代、彼らは中央政権とは別に、仏教を中心とした独自の平和国家を、この平泉に創るはずだったのだろう。
それを証明するかのように、清衡は中尊寺建立供養願文には
「奥州の戦乱で亡くなった多くの人の霊を弔い、敵味方はもちろんのこと、鳥や獣また虫類にいたるまで、極楽往生できるように」と書かれている。

平泉で散った源義経も、この平泉が目指した独自の平和国家に深く共感し、このような国造りを中央政権で目指した、しかし兄、源頼朝との間に考えのずれが生じ、ついには実の兄に背いた。
しかしその結果、鎌倉幕府によって、平泉と藤原氏諸共滅ぼされている。

「敵味方はもちろんのこと、鳥や獣また虫類にいたるまで、極楽往生できるように」
そう願った初代清衡の平泉への想いは空しくも
兄と争い、信じていた四代藤原泰衡に裏切られた義経とともに夢と消えた。



夏草や兵どもが夢の跡


松尾芭蕉の一句が心に響いた平泉の夏


2007.8.26

夏の18切符 平泉・中尊寺

2008年09月10日 | 東北の寺社
岩手県平泉・中尊寺

天台宗東北大本山 関山中尊寺

本尊・阿弥陀如来


創建は嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁によって開山されたと伝わる。
その後、奥州藤原氏初代の清衡が長治2年(1105)から中尊寺の再建に着手し、
天治元年(1124)に金色堂が竣工、基本的な伽藍が完成したのは21年後の大治元年(1126)の時。
吾妻鏡によると中尊寺の規模は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」とされ、平泉では毛越寺に次ぐ大きさだったそうです。

文治5年(1189年)、奥州藤原氏は鎌倉幕府により滅亡するが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続した。
しかし、建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂と経蔵の一部を残すのみほぼ全焼。
その後衰退していく。

奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたと言われている。
「五月雨の 降残してや 光堂」

江戸時代、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っている。

2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。
しかし、2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定。


平泉駅



巨大な杉に囲まれた参道
 


最上川を望む



弁慶堂(中には弁慶の最期の立ち往生と義経の像が祀られている)



薬師堂(藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった)



地蔵堂



観音堂


本堂(明治42年の再建。堂内には、総本山の比叡山延暦寺より分火された、「不滅の法燈」がおよそ1200年燈り続ける)

入り口の本坊表門は江戸時代初期の建築で県指定有形文化財


大日堂


鐘楼

当初は二階造りの鐘楼であったが、火災で焼失。梵鐘は康永二年(1343)の鋳造。
銘に中尊寺の創建や建武の火災の事などを伝える。撞座の摩耗ははなはだしく、今ではこの鐘を撞く事はほとんどない。


彌陁堂(阿弥陀堂)



天満宮(中尊寺境内の最奥地の高台に鎮座)



国宝・金色堂(※光堂(金色堂)はこの写真の覆堂の中にあります。そして、さらにガラスの中に覆われてます。)


中は撮影禁止
中の様子を知りたい方はhttp://homepage2.nifty.com/araemishi/images/tyuusonji.jpg


旧覆堂

旧覆堂は、現在の覆堂になるまで、金色堂を覆雨風から金色堂を守っていたもの。
現在の覆堂が建設された為に、移築された。
室町時代中頃建設され、約500年間金色堂を守っていたそうです。
つまり、松尾芭蕉が平泉を訪れた時には、この旧覆堂の中にある金色堂を見たのでしょう。


経蔵(武4年(1337年)の火災で2階部分が焼け、1階部分を修復して現在に至る。国重要文化財)



白山神社(神楽殿)

伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたもの、国の重要文化財指定


写真にはないですが、他にも八幡堂、峰薬師堂、弁財天堂、不動堂、讃衡蔵(宝物館)
など、様々な建物があります。


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仙台から鈍行列車に揺られ、JR平泉駅に到着。
駅前でレンタサイクルをし、無量光院跡、柳之御所遺跡、源義経終焉の地・高館を周り、念願の中尊寺にやってきた。

さすがの夏休みの昼時、ものすごい数の観光バスと、人。
拝観料を払いFMガイドラジオを借り境内へ。

樹齢300年の老杉に覆われている参道・月見坂を登る。
正直、ここまで広い境内だとは知らなかった。
中尊寺本坊のほか、17か院の子院があり、目標の金色堂まで約800mの緩い坂道が続いている。

上記の写真に出て来た数々の建物と仏様を御参りしていたら、金色堂までなんと一時間半もかかってしまった。

現在の覆堂はコンクリート作りだが、やはり、この場所だけは独特の空気が漂っていた。
平泉を繁栄させた藤原三代の遺体が眠っているからだろうか?

はたまた、源義経を殺害し、藤原氏を滅亡させてしまった四代泰衡公だけは遺体はなく、首級だけが納められているからか。



金色堂を初めて見た感想は、正直あまり覚えていない。
コンクリートの建物の中にあったからか、夏でエアコンが効いていたからか、金色堂までさらに一枚ガラスがあったからなのか。それとも、人が多すぎたからか。

近くにあった旧覆堂の中にあった頃の金色堂をこの目で見たかったと、切に感じた。

しかし、最近起こった東北大地震のことを考えれば、今後世界遺産にもなるであろう貴重な日本の文化財、なんとしても後世に伝えてほしいものだ。

時間はすでに夕方
この後、当時、中尊寺より大きかった毛越寺にも行きたかったので、二時間半ほどで中尊寺を後にした。

かっこよく去りたいが、僕は真っ黄色のレンタサイクル...............


2007.8.26

東京散歩 関東厄除三大師 西新井大師

2008年09月06日 | 東京歴史散策
東京・總持寺(そうじじ)

真言宗 豊山派
五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)

通称・西新井大師

沿革

弘法大師空海が関東巡錫の途中、西新井を通った際に、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、悪疫流行に悩む村人たちのために、本尊の十一面観音を彫り21日間の祈祷を行いました。そのとき枯れ井戸から水が湧き出て、病は平癒したと伝えられています。その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名ができたと言われています。
その後、天長3年(826年)に寺院を建立したことに始まり、江戸時代中期に建立された本堂は昭和41年(1966年)火災により焼亡したが本尊は難を逃れた。本堂は昭和46年(1971年)に再建され現在に至っています。




山門に続く門前町  名物草団子

山門(江戸後期に建立されたもので、金剛力士像、五智如来があります)
  水洗い地蔵

塩地蔵(雪に埋もれた様にも見える)

この塩をいただき、ご利益があったときには塩を倍返しにしてお返しする 

水子地蔵


大本堂(来年の初詣まで改修中)


白のさるすべりと一緒に


不動堂


ピンクのさるすべりと鐘楼堂


三匝堂(さんそうどう)

これは大変珍しく、俗に栄螺堂(さざえどう)と呼ばれる仏塔の一形式。
中がサザエのようにらせん状になっていて、初段から三段に配置された仏像が一度に拝める。
明治17年製作で、都内でこの形式の仏塔はこの一基が残るのみ。

有名なのは会津若松にある六角三層のお円通三匝堂



光明殿から


「大師」という言葉をお寺巡りをしていると時々耳にする、関東では川崎大師、佐野厄除け大師、川越大師などがある。
しかし、意外とその意味を知っている人は少ないのではないだろうか?

この場合の「大師」とは真言宗の開祖、空海のことを指し、上記の三つは御本尊が空海こと弘法大師。
この弘法大師から「大師」という言葉がきているらしい。

しかし、「大師」は宗教的には、偉大なる師という意味で、
仏などに対する尊称。また、高徳の僧への敬称
なので大師の称号を受けた僧はたくさんいて、
宗派の開祖では日蓮宗の日蓮=立正大師、
浄土宗の法然=円光大師、
浄土真宗の親鸞=見真大師、
曹洞宗の道元=承陽大師、

一概に空海だけではないのである........複雑。

今度は川崎大師にも行ってみよう。


2008.9.3