春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

冬の京都・智積院

2009年02月07日 | 京都の寺社
冬の京都・智積院



「成田山」で知られる、千葉の成田山新勝寺。
「川崎大師」で知られる、神奈川の川崎大師平間寺。
そして最近、ミシュランで人気爆発の東京の「高尾山」にある、高尾山薬王院。

この3つの寺院は真言宗智山派の大本山。
(東京都の高幡山金剛寺「高幡不動」は別格本山)

そして全国に3000余りの末寺を有している総本山が、
五百佛山 智積院 根来寺 いおぶさん ちしゃくいん ねごろじ

その歴史は複雑で、簡単に述べると、
元々は紀州(和歌山)根来山大伝法院の塔頭であったが、豊臣秀吉の紀州攻めで、ほとんどが焼失。
その時の住職、玄宥(げんゆう)は京都に逃れます。
慶長6年(1601)、徳川家康の命により、豊国神社(秀吉を祀った神社)境内の坊舎と土地が与えられ、再興されました。
その後、秀吉が三歳で夭折した愛児鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、現在に至ります。


金堂(本尊大日如来の尊像が安置)



再建された講堂



明王殿(京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡)



他にも桃山城の遺構といわれる大書院などがある。


祥雲禅寺時代の桃山時代末期に築かれた庭園(その後一部修復)
「利休好みの庭」とつたわる名勝庭園

山は「廬山」を、池は「長江」をモデルに


国宝に指定されている障壁画「楓図」・「桜図」
長谷川等伯作「楓図」


等伯の嫡男の久蔵作「桜図」


※これはレプリカです。本物は境内の収蔵庫にあります。
他に「松と葵の図」「松に秋草図」が国宝。


境内に咲いていた早咲きの梅

梅の木が満開になれば春ももうすぐ。
僕は見た事ありませんが、五月頃、名勝庭園のつつじがとても綺麗だそうです。

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狩野正信(室町)、狩野永徳(安土桃山)、狩野光信、狩野探幽(江戸初期)、狩野山楽
歴史の教科書にも必ず名前の出る、日本絵画史上最大の画派、狩野派(かのうは)

名前は読めなくとも、作品を知らなくとも、ほとんどの人が一度は目にした事のある名だと思う。

では、長谷川等伯と言う名を知っている人は何人いるだろうか?

能登国(石川県)七尾に生まれ、30歳の時に上洛、
安土桃山時代 - 江戸時代初期、当時のカリスマ絵師集団、狩野派に強烈なライバル意識を持ち、対抗した唯一と言える絵師。

その才能が故に狩野派から警戒され、様々な妨害、圧力をかけられたと言われている。

等伯に絶好のチャンスが訪れたのは、狩野派の長である永徳が48歳でこの世を去った翌年、
わずか三歳で夭折した秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺、祥雲寺の障壁画の大仕事が等伯の元に舞い込みます。

等伯は一門を引き連れ、四季というテーマのもと制作に取り組みました。
(この時の作品の一部が、国宝の楓図と桜図です)

しかし完成を前に次々と不幸が等伯を襲います。

まず完成の前年に、良き理解者であった千利休が自刃。
そして国宝の桜図を描いたのは等伯の息子、長谷川久蔵
等伯の才能を受け継ぎ、育て上げ、天才と言われた久蔵は、見事な桜の花を咲かせる途中、完成間近でこの世を去るのです。

その時、弱冠26歳。

その悲しみの中で息子の死の2ヶ月後、等伯は障壁画を完成させました。

晩年初めて授かった息子を失った秀吉と、将来の長谷川派を率いるはずだった、息子を失った等伯。
この障壁画の描かれた祥雲寺は今はありませんが、唯一残った、「楓図」と「桜図」
(等伯の手がけた秋の障壁画「楓図」は、秀吉の座のある部屋に描かれていたそうです)
そして利休好みの庭と伝わるお庭を前に、二人は何を思ったのでしょう。


等伯は
晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど、私生活は不幸であったようです。
72歳の時、徳川家康の要請により江戸に一派の命運をかけ下向しますが、江戸到着後2日目にして病死、
同行していた、後継者となるはずの二男・宗宅も、等伯が没した翌年に亡くなっています。
お墓の場所もわかっていないそうです。


東京国立博物館に、等伯がその悲しみを背負って描いたと言われる、日本を代表する水墨画の名作「松林図屏風」(国宝)があります。


2008.1.13

冬の京都 三十三間堂

2009年02月02日 | 京都の寺社
冬の京都 三十三間堂




三十三間堂という名で知られている、国宝の建物
天台宗の寺院で、正式名称は蓮華王院・本堂(れんげおういんほんどう)

1164年、後白河上皇の法住寺殿の一画に平清盛が建立したのに始まり、
当時、五重の搭や不動堂などを従えて偉容を誇っていましたが、 度重なる震災ですべてを損失。
現在の本堂は文永3年(1266)再建されたもの。

名の由来は、南北にのびる本堂内陣の柱間が33もあるという建築的なことと、(しかし建物外部から見る柱間は35)
また、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数と言われている。
(この「間」は長さの「間」とは違うそうです)

堂内には、中央の千手観音坐像を中心に、左右に500体、計1001体もの千手観音像が安置してあります。
また、風神像・雷神像、二十八部衆立像も安置されています。




楊枝のお加持 (やなぎのおかじ)
インド伝来の修法で、平安時代からの伝統をもつという当院最重の法要です。儀式では聖樹とされる「楊枝・やなぎ」で、
観音さまに祈願した法水を参拝者に注いで、諸病を除くというもので、特に頭痛に効くと伝えられる。





三十三間堂大的全国大会
江戸時代の「通し矢」にちなむ大会(射程60m)で、全国から毎年約二千人が参加、やなぎのお加持と同日に行なわれます。
特に新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、京都の風物詩のひとつ。





2008.1.13-