春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

水戸・弘道館

2009年09月10日 | 18切符
水戸・弘道館 

幕末の話の舞台の場所が続いたので、もう一箇所。

徳川家最後の将軍、徳川慶喜が育った場所、水戸です。

弘道館は水戸藩の藩校として第9代藩主 徳川斉昭により天保12年(1841年)8月に水戸城三の丸内に作られました。
藩士に文武両道の修練をつませようと武芸のほかにも、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた、今で言う総合大学のような場所です。
安政4年(1857年)には鹿島神社と孔子廟(こうしびょう)を祀って弘道館の本開館式を行いました。当時の藩校としては国内最大規模のものだったそうです。
学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれています。

第15代の将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けました。
慶喜はその後、御三卿の一橋家へ養子に行き、徳川15代将軍になりました。
しかし皮肉にも、慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎した至善堂(しぜんどう)が今も残っています。

弘道館は国の特別史跡になっており正庁・至善堂・正門の3ケ所は重要文化財に指定され、
敷地には、梅が60種800本が植えられており、水戸偕楽園とともに、梅の名所となっています。













2009.8.4

東京散歩 小石川・伝通院 ~徳川家ゆかりのお寺~

2009年09月07日 | 東京歴史散策
小石川・傳通院

浄土宗 無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)


開山は室町時代の応永22年(1415年)秋に、浄土宗第七祖の了誉聖冏(りょうよ・しょうげい)上人。
当時は、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の小さな草庵で開創し、山号を無量山、寺号を寿経寺とした。
それから200年後の慶長7年(1602)8月9日、徳川家康公の生母於大の方が75才、伏見城で逝去、
その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。

その後も三代将軍家光の次男亀松君や、二代将軍徳川秀忠の娘で豊臣秀頼に嫁いだ千姫などが葬られ、
将軍家の菩提所次席となり、増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。関東十八檀林の一つでもある。




明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われたが、
明治2年(1869年)に勅願寺(時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺)となる。
しかし、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。
同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つが善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。

明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになりました。

享保6年(1721)、同10年(1725)、明治40年(1910)と三度の大火にあい、
その後の再建もむなしく、第二次世界大戦では建造物すべて灰燼と帰しました。
昭和24年本堂を再建、現在の本堂は昭和63年に建立。













伝通院で有名なのは新撰組発祥の地だということです。
詳しく言うと、幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が伝通院ではなく敷地内の塔頭・処静院(しょじょういん)で結成され、会合が行われました。(現在、処静院はありません)
山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら約250人が集まったと言われています。
そして2月8日、京都へ向け出立したのです。





この説明板を見るまで、僕は浪士組は伝通院で結成されたと思っていました。
なんとも恥ずかしい限りですが、ほとんどの本や、はたまた案内には、伝通院=新撰組発祥の地になっています。
こういう小さなことでもちゃんと、正確に歴史を伝えてほしいものです。
話を大きくしたり、ありもしないことをあったかのように書いたり、
ひとつの説であるにすぎないのに、それがすべてのように書いたり。
すべてを書いていたら、とんでもない文章量になるともいますが、
世間に知られている歴史にはそういう事が少し多すぎると個人的に思います。

写真の看板も、土方歳三の部分が修正してありますし.....
平成元年の時点で、それはありえないでしょう....
東京の人間なのに.....

当時の処静院住職琳瑞(りんずい)は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われます、
後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃された。 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。

浪士組の発起人、清河八郎は将軍の上洛警護のために浪士組を結成します。が、
京都に着いてから、浪士隊が幕府の為ではなく、尊皇攘夷のために結成されたものであると発表し、幕府を怒らせた人です。
その結果、近藤・芹沢らは袂を分かち、京都に残り、清河と浪士隊は江戸に呼び戻されます。
しかし後に幕府・見回り組の佐々木只三郎らに暗殺されました。

現在、清河八郎はこの伝通院に妻とともに眠っています。
そして彼は没後45年たち贈正四位を授けられ、「明治維新の魁」とも言われています。

徳川幕府の元菩提寺に徳川幕府を欺いた人間が眠る
なんとも不思議なものです。

話を伝通院に戻しますが、
幕末の江戸の流れ渦の中にあった伝通院は明治・大正の文豪たちにも縁のある寺です。
永井荷風の「伝通院」
夏目漱石の「こゝろ」
二葉亭四迷「平凡」などに伝通院が登場します。

そして近年では
直木賞作家、柴田錬三郎(1917-1978「眠狂四郎無頼控」の作者)も眠っています。

そして現在、
毎年春の桜や、7月に有名な朝顔市が開かれます。



都営地下鉄三田線春日駅
東京メトロ南北線・丸ノ内線後楽園駅
徒歩約10分
拝観時間は10:00~17:00
拝観料は無料

2009.9.6