What's Left of Me
ウエルベックを読みたくなった。が、いつもと違う。彼に対する疑念が僕に生まれたからだ。
ウエルベックは云う。
「わたしたちは、あらゆる形態の現実主義にたいする、至高の解毒剤を必要としている。人は人生を愛しているときには読書はしない。それに、映画館にだってほとんど行かない。何と言われようとも、芸術の世界への入り口は多かれ少なかれ、人生に少しばかりうんざりしている人たちのために用意されているのである」
~ミシェル・ウエルベック『H・P・ラヴクラフト』国書刊行会
そんな感じもするが、そうではない。
まず、人は「人生を愛しているときには読書はしない」のか?読書は何も文学(小説)だけではない。哲学書や歴史や科学全般、、、本を読む行為は全ての分野に該当する。
そもそも「人生を愛している」という定義が漠然としているため、観点(視座)は多々ある。が、僕の場合、いろいろあっても、くたばりそうで、立ち上がろうとするとき、本(読書)が杖になる。
何かに躓き、それでも立ち上がることは、逆説的だが「人生を愛している」ということになる。つまり「人生を愛していない」時、人は本を読まなくなる。そして、文字を失った時(本を読まなくなった時)、人は暴力を生み出す。歴史を観ればわかる。人は「人生を愛しているときには読書をする」のだ。
次の課題、「映画館にだってほとんど行かない」。これは絶対に違う。「人生を愛している」からこそ、映画を愛してしまうのだ。人は欲張りなのだ。
目に飛び込んで来るシーンにもう一つの別の己の人生を生き、今の人生に重ねる。結果、瞬間、自分の人生が充足する。つまり、それは「人生を愛している」証左になる。
羨望の世界でも「人生を愛している」から、映画のような世界を私は目指そうと思うのだ。今が苦しくとも「(己の)人生を愛している」からこそ、映画を観るのである。結果そういうことだ。時間が教えてくれる。だから、人は「人生に絶望しているから映画など観に行かない」ということになる。僕はそう考える。
最後の意見(僕には課題)「何と言われようとも、芸術の世界への入り口は多かれ少なかれ、人生に少しばかりうんざりしている人たちのために用意されているのである。」
これも違う。「人生に少しばかりうんざりしている」のではなく、自分の中に言葉を持っている人間には関係ない。そのような人間は「芸術の世界への入り口」など探す必要もない。いつの間にか、或いは既に「芸術の世界」の住民になっている。
「人生に少しばかりうんざりしている」のではなく、「芸術の世界」の住民ではない人びとに、そういう人はうんざりしている訳である。一方で、「芸術の世界」の住民にウンザリしている人びともいる。そちらの方が多い。それが現実の社会だ。
人は、生きるのに精いっぱいの時、或いは退屈な時、人生にウンザリしていく。だからと言って、彼らに対して、芸術の世界への入り口が用意されているとは思えない。
「芸術の世界」の住民になる用件は、先天的な感性にあり、それにいつ気が付くか、、それだけの問題だ。つまり、自分の中に自分の言葉を持っているか、、、人生の密度は濃度はそれ次第だ。それこそが芸術の本質であり、人生の全てだ。