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【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年) =父・俊雄さんと母・初子さんの証言=

2020-01-12 20:09:41 | 阪神・淡路大震災
  震災直後、少なくとも20人を超える神戸大生が亡くなった、という情報が広まった。第35代の応援団長に就いたばかりの高見秀樹さんの死も、学内に悲しみとともに伝わった。「もしも生まれ変わったら、団旗になって神大生を見守り続ける」と、団の機関誌に綴っていた高見団長の、早すぎる死だった。
 高見さん(当時21歳、鳥取県立米子東高卒、経済学部植松ゼミ、応援団)は、神戸市灘区友田町1-1の盛華園アパート2階で被災した。
 鳥取県西部に暮らす両親のもとには、地震発生の1995年1月17日夜に、「高見だけ連絡が取れない」という電話が、応援団の関係者から入る。2人は翌18日午後、鳥取を出発。日付が変わった19日午前2時ごろ、神戸に着いた両親にもたらせたのは、秀樹さんが王子スポーツセンターの遺体安置所に収容されたという情報だった。
 
 父・俊雄さん、母・初子さんに、鳥取県大山町の自宅でお話しをうかがった。


(写真:学ランを脱いだ、笑顔の高見さん。)

たどり着いた下宿周辺はがれきの山で、足の踏み場もない状態

母・初子さん:最初は大丈夫かなと思ってテレビを見てましてね。それこそ、連絡はないけどもね、なにかボランティアとかしてるんだわと思ったりして。テレビにいろんなところが映し出されると、おらせんだろうかってね、見てましたけどね。
父・俊雄さん:秀樹のところに電話をしても混雑しているんでつながらんかったけど、夜になるとつながって。呼び出し音はするんだけど…。そのうち、応援団から連絡があったからね。
母・初子さん:「高見んとこだけ連絡が取れない」っちゅう連絡があってね。17日の夜かな。

父・俊雄さん:18日朝、朝、鳥取まで乗用車で行って。鳥取の農協会館に立ち寄ってね。そしたらうちの(農協中央会の)幹部が、2人で行かせるのはちょっと危ないけん、同僚の秋本さんっていう職員に、彼の車を運転をしてもらって、とりあえず9号線経由で神戸に行くことになった。

父・俊雄さん:神戸に近づくと、もう車は大渋滞で。六甲山のトンネルは通行止めという表示が出とったけども、トンネルの入り口はとにかく行ってみようと…。車の入る余地は開いとった。六甲トンネル抜けて出たら、神戸大学の上の団地(鶴甲団地)に出た。

父・俊雄さん:大学から下がったら、道路が波打っとるわ。そこに行くまでがすっごいノロノロ運転だったわ。新神戸のほうに曲がる、交差点の辺に墓があるわな。あそこの墓はもう全部墓石寝とるし。夜中、何時ごろ入ったんだったかいな。1月19日の未明、午前2時ごろになっとったかいな。

きき手:秀樹さんの下宿には、たどり着けたのですか?
父・俊雄さん:下宿までたどりつけんだがな。もうがれきの山で。足の踏み場もない状態だわな。
母・初子さん:最初に、応援団から来た連絡では、「高見だけが連絡とれない」ということだったけど、後になって、「下宿で見つかった」って連絡があった。でも、遺体はどこに運んだいうのは、分かってなかったんよな。
父・俊雄さん:友田町周辺の被災者の皆さんが、このあたりの犠牲者は、中学校にもってきてあるっていうもんで。
きき手:どこの中学ですか。
父・俊雄さん:大学のところからおりて新神戸方向に曲がる交差点があるなぁ。あの辺に中学校があらへんかい。
きき手:鷹匠中学ですかね。
父・俊雄さん:そいで中学校に行って、暗い中、各教室を回って遺体をずっと探してみたけど、違う違うで、そこにはいなかった。


(写真:母・初子さんと父・俊雄さん。鳥取県大山町で)

冷蔵庫か、電子レンジが落ちて来て…検視した医師は、即死だと言っとった

父・俊雄さん:これはいけんわ、応援団に連絡せにゃいけん。で、公衆電話だったかな、携帯したかな。電話したら、応援団が下宿に来て探したら、(建物の)下になっとったと。(秀樹さんを建物の下から)見つけて、王子スポーツセンターに居るっていう事で、それからまた、センターに向かった。

きき手:王子の遺体安置所には、応援団も付き添っていたんですね。
母・初子さん:王子スポーツセンターの武道館。ここは明かりもついてるしね。寝さしてもらってね。応援団も何人かおられて。
父・俊雄さん:応援団はよう段取りして、ええところを確保しといてくれた。
母・初子さん:寝さしてあるような感じやったなぁ。普通に寝とるような感じ。

母・初子さん:あの、胸を押さえられて。(左の首筋を押さえながら)ここから血が出とったな。ここを打ったみたいでな。電気製品かなんかが落ちてきて、冷蔵庫か、電子レンジかねぇ。
父・俊雄さん:で、顔はうっ血して。検視した医師は、即死だと言っとったけどな。
母・初子さん:次の日から試験があったみたいで、結構遅くまで起きっとったんやない。普通だったら友達の所に行ったりしてね、おっただろうけど。たまたま家に(下宿に)おったからね。
父・俊雄さん:目は充血してるけ、これは勉強しとったもんだと医者は言っとった。

母・初子さん:前の日にちょうど私が電話してたんですよ。来年は就職だからね、応援団ばかりしておらずに勉強せにゃいけんよって話をしてたんです。その時はね、2回も電話した。正月に応援団の子たちが来た時にね、誰か靴下を忘れててね、「靴下忘れてるわ」っていってね。2回も電話したんです。


(写真:震災の12日前。学生服に腕章。ブリックカラーの団旗の前の高見さん。1995年1月5日、摩耶山上で。)

王子スポーツセンターの武道館は所狭しと遺体が並べられとって

父・俊雄さん:そこで、1日、おったかなぁ。そしたら検視が始まって、そこの柔道場の広いところはもう、もうそれこそ所狭しと、遺体が並べられとって、騒然たるもんだった。泣く声で、寝るのも寝られへんし。

きき手:お辛かったでしょうね。
父・俊雄さん:動転したわけでもないけど、これは葬式したらにゃいけんっていう、そっちの方で、一生懸命だった、俺は。それで、早よ連れて帰らにゃ。でも、検視が済まにゃ動かす事もできんだし。早よう検視せい、早よう検視せいと言って医学部の先生に…。
きき手:早く検視してほしいと。
父・俊雄さん:1人でやられとったんかなぁ。「私も検視の調書を、寝ずに作っとる」と。「お前何言っとるか」っちゅう事だった。
きき手:特別に早くするということはできないと。
父・俊雄さん:そういう状況ではないと。

父・俊雄さん:検視が済んでも、今度は検視の調書ができんで…。それがないと火葬ができんだけんなぁ、とりあえずなぁ遺体は連れて帰るけえ。応援団の先輩の立林(たてばやし)君、同じ米子東高校の出身で秀樹の一期上の先輩に、(調書を)受け取って夜行列車『出雲』で帰ってきてくれと。で、とりあえず家に連れて帰ると。まああの辺は応援団だけあってさすがだわい。
母・初子さん:その調書を持って帰るのね、ものすごく大事に、神経使われたみたいですけどね。



体は硬いまんまだったけん重さで動かせねんだ、鍛えた体だけぇ

父・俊雄さん:まだ、体は硬いまんまだったけん、連れて帰ってもここから、重さで動かせねんだがなぁ。大きなものだけんな、鍛えた体だけぇ。足はこんなだし。
母・初子さん:どこも悪いところがねぇないんだから。
父・俊雄さん:板に乗せて、ここまで運んで布団に寝さしただけど。
きき手:それは、お父さんお一人でされたんですか。
父・俊雄さん:みんなだわいな。誰がおったやろ、おねえ(秀樹さんの姉)もおったか。

母・初子さん:(葬儀は)すごい行列でね、もう国道9号線のとこまで参列してくれる方がいらっしゃってね。同級生の親御さんとかね、地域の小学校、中学校、高校の同級生にねぇ。すごい人だったらしい。私たちそこまで見てないですけど、友達がねぇ話してくれて。
きき手:神戸大学の学生たちも?
母・初子さん:ええもう、神戸大学の子たちはもう通夜の前から来て、ここ(実家)にね全部で45人くらい泊まりましたからねぇ。離れも使って。
きき手:交通が途絶している神戸から、よくみなさん来ましたね。
母・初子さん:ええみんな来てくれまして。よその大学の応援団の方もね。
父・俊雄さん:京都大学、大阪市立大学、大阪大学も来てくれたかいな。
母・初子さん:すごい上の先輩もこられるしねぇ。応援団初代の菅さんなんかもきて下さったんですよ。


(写真:応援団長に就任した直後の新年会で撮影した写真と、団の腕章。1995年1月5日、摩耶山上で。)

震災前の正月は、団員がうちに来てお酒飲んだり楽しくやってたんです

母・初子さん:(学部は)経済学部でした。3年生でねぇ、植松ゼミにいてねぇ。で、植松先生もすごいかわいがって下さっててね。葬式にも来て下さるしね。本も出されて高見君に捧げるってね。でももう先生も亡くなっちゃいましたけどね。
父・俊雄さん:秀樹は酒の方が忙しかったようだ。酒飲んでからの武勇伝はなんぼでもあるけぇ。学生会館のとこから何か下に落ちた、っていう事もあったし。
母・初子さん:震災直前の正月にはねぇ、なんか応援団の5、6人がうちに(団長の実家に)来たんです。夜はみんなでお酒飲んだり、卓球したりとかね楽しくやってたんです。



香典をもとに、応援団が追悼手記集を作ってくれた

父・俊雄さん:香典がな、こんなに集まった。何百万も。これは俺が使とったてしょうがねぇわいと思って、応援団に寄付したんだ。
きき手:その寄付金をもとに、応援団が追悼の冊子『若き旗手 丘陵に消えず』を作ってくれたんですね。
母・初子さん:もう、涙、涙ですよね。最初はなかなかね、読めませんでした。

きき手:この冊子には多くの応援団員の手記が収められています。秀樹さんはどのように発見されてのかを知る手がかりがありますね。


(画像:追悼手記集『若き旗手 丘陵に消えず』の表紙。団旗を支える高見さんの姿が。)

▽1期下の当時3回生・国司和丸さんの手記。
「1月17日未曽有の阪神大震災が神戸の街を襲った。我々団員がこの悲報を目にしたのは地震の翌日(18日)の朝のことである。我々が崩れた下宿先から高見さんの遺体を掘り起こした。(中略)もう一緒に応援することも、酒を酌み交わすことも、言葉を交わすことさえもできなくなったのだ。

母・初子さん:(次の)36代の団長さん。もうずっと毎年、1月17日には神戸に来られる。お勤めが東京ですけどね。こちら(鳥取の秀樹さんの実家)にもね、来てくださったこともあるしね。

きき手:18日の朝団員のみなさんが秀樹さんを見つけた。となると、お父様、お母様が神戸に到着されたのは?
父・俊雄さん:19日の未明だな。午前2時ごろ。
きき手:18日の日中に応援団は秀樹さんの悲報に接しているから、お父様、お母様は18日夜から19日の明け方になって神戸に着いたということですね。真っ暗な中、中学の安置所を探されて、その後、応援団の皆さんと連絡がついて、運ばれた場所が王子スポーツセンターの武道場だとわかったと。

母・初子さん:あのとき、(鳥取県)米子の火葬場はフル回転だった
父・俊雄さん:米子の火葬場に、神戸の遺体がヘリで運ばれてくるだけぇ。
きき手:つまり神戸で処理できなかったんですね、火葬場がいっぱいで。近県で火葬せざるを得なかった。
父・俊雄さん:もうフル回転だったけん。


中学まではサッカーに熱中、高校は美術部

きき手:高見さんが応援団の団長になると聞かれた時はどう思われました?
母・初子さん:だいたい合格発表の時に、学ランきた子らがおってね、おっ今頃、こんなの着てる子がおるんだわなんて思ってね。その時はまだね、応援団に入るかどうか分からんかったですけどね。まさか自分の子がね。
きき手:なんで入ったか聞かれました?
母・初子さん:なんかね、入りたかったみたいですよ。憧れだったんかなぁ。
きき手:高校では高見さんは何をやっていらしたんですか?
母・初子さん:米子東高校の時は美術部です。
父・俊雄さん:最初はサッカーしてて、サッカー部では時間に余裕がないけん辞めて、美術部。
母・初子さん:友達が美術部に入って、それと一緒に確か入った。絵も上手でもないのに。中学まではね、サッカーに一生懸命でした。
父・俊雄さん:あの頃はまだ、米東のサッカーは強かっただけな

父・俊雄さん:秀樹がバイトしよった、焼き鳥屋のおやじさんが四十九日のときだかには来てましたがぁ。
母・初子さん:バイト先は「鳥やす」でした。「鳥やす」でバイトしとった1つ下の人もやっぱり亡くなってね。王子公園の遺体安置所の隣は、神戸大の戸梶さんだった。偶然。お母さんの実家が鳥取ということで、一度来て下さったわ。


(写真:思い出のアルバムを見ながら、インタビューは続いた。)

古いアパートだったけど気に入って 合格発表の日に決めた

きき手:盛華園アパート、これはどうやって見つけたんですか。
母・初子さん:合格発表のときに見にいったんだよねえ。最初だったよねあそこ。古い建物でね、木造で。共同のトイレで。大家のおばあさんがね何かよさそうな感じの人でね、秀樹も気に入っちゃってね。でそこでいいっていうしね。どこかねもう1か所行ってみようかっては言ってたんですけどね。いいっていうもんで。そんなにきれいでもないし古い建物だったけど、まあ男の子だけぇ、ええっかと思ってね。
父:(大きなため息)。
母・初子さん:2階の一番角ね。公園がすぐ見える所だったけね。
父・俊雄さん:1階に住んどった者はみんな助かったけど、2階におった秀樹だけが、あそこでは犠牲になった。母・初子さん:秀樹の方に建物が傾いたような感じ。電気製品がね(飛んで来て)。やっぱり(当たった)場所が悪かったんでしょうね。
父・俊雄さん:(ため息)。

母・初子さん:隣の公園でね、1月17日はいつもね、応援団が慰霊祭をやってくれてたんです。ずーとね、行ってたんですけど、最近、お父さんも神戸まで運転するのが自信がなくなってね。その前に私も病気したりとかしているから。ここ2年くらいかな、行ってないんです。


さだめっていうだかなー、残念無念だわい

きき手:秀樹さんは21歳。当時、お父様が49歳でした。
父・俊雄さん:今は74歳。25年になるがな。
母・初子さん:私は46歳だった。
きき手:21ってまだ若いのに…。
父・俊雄さん:それだがな。まあこれは突発事故で、人生が途絶えるっちゅうのは情けないことだけどな。
母・初子さん:残念で仕方ない。
父・俊雄さん:まあしょうがねえわなこれは。
母・初子さん:娘(秀樹さんの姉)が男の子4人も作りましてね。その上の子が、今年9月に20歳になりました。息子(の亡くなった年齢)に近づいてますからね。
父・俊雄さん:その、なんちゅうだか、さだめっていうだかなー、どうにもならんもんがあるわなぁ。悔しがっとったってしょうがないんで、まあ残念無念だわい。
母・初子さん:(仏壇の傍の応援団の腕章を見ながら)応援団に入っとって幸せだったと思うです。応援団が学ランとかを掘り出して持ってきてくれたんです。


震災のこと慰霊碑のこと 今の学生に伝えるのは大学の務めではないか

きき手:今の若い世代に向かって何かお言葉を頂けるとありがたいです。
父・俊雄さん:もしもその運命っていうものがあるんなら、まあその、このロウソクの長さでないけれども、その長さが決まっとるっちゅう事であるならなぁ。自殺はしてほしくないですねやっぱり。
それと、あの震災っていうのはこれから、台風も同じ事だし水害も同じことなんだけども、いつ何が起こるか分からんから、そのためにも、どうしたら自分が守れるかっていう事も、もう1つ大事なことでないかなと思いますわね。

きき手:今の大学では震災のこと知らない学生が多いんです。
父・俊雄さん:せっかく(六甲台の)正門の所に記念碑を作ってるわけだけん、その建てとるって意味を学長みずから学生の皆さんに広く教えていく。その意味合いというものを教えるっていう事が、大震災の後から生まれた人たちに対する、学校としての努めだかしらんなあ。
母・初子さん:でもね、15年ぐらいまではね、もうあきらめるにあきらめきれんっていう感じでね。今でもこんなんで秀樹の話をすると涙が出るんですけどね。だけど、なんか、ちょっと吹っ切れたような感じがねしましたね。あのときは。あとはその、私たちはもう幸せになるというようなこと事を考えずに、精いっぱいその日その日を生きていけばいいと思って、頑張ってるんですけども。あちらに行ってからいい報告できるように、秀樹に、こうして頑張ったよと、いえるような生活にね、したいと思います。
(2019年9月8日インタビュー、きき手:森岡聖陽)


(写真:日本海に近い高見家の墓前で。2019年9月8日、鳥取県大山町)

▽1月17日
 午前5時46分……地震発生。
          鳥取から電話をしてもつながらない。
          夜になると、呼び出し音はするものの電話に誰も出ない。
 夜………………………「高見んとこだけ連絡が取れない」と応援団から電話が入る。
▽1月18日
 午後3時ごろ………父・俊雄さん、母・初子さん、鳥取を出発。
▽1月19日
 午前2時ごろ………神戸に到着。
         「下宿で見つかった」と連絡を受けていたため、
          鷹匠中学の遺体安置所を探すがみつからない。
          応援団と連絡がとれて、王子スポーツセンターで遺体と対面。
          検視を待つ。
▽1月20日
 午前0時40分……秀樹さんの遺体が鳥取県大山町の実家に戻る。
▽1月21日
 自宅にて通夜。
▽1月22日
 自宅にて葬儀。


<2019年12月15日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b



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