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連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…<震災29年>

2024-01-02 13:05:00 | 阪神・淡路大震災
 あの日、土埃が舞い、煙が上がる下宿街で何が起きていたのか。どのようにして学生たちの命が失われたのか。39人の学生が亡くなった神戸大学。学生たちのご家族へのインタビューで記録する連載です。<震災取材班 2024年1月掲載>

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。あの日から25年を迎えた2020年1月に9家族、コロナ禍のなかの2021年と2022年、2023年にそれぞれ2家族のインタビューを公開。
 2024年は、学生の遺族1家族と、附属病院医師の遺族のインタビューを加えて掲載しました。


(写真:神戸市灘区六甲台にある「兵庫県南部地震 神戸大学犠牲者慰霊碑」。ここから神戸三宮の高層ビル街が遠望できる。2023年10月6日撮影)

《連載記事》


【慰霊碑の向こうに】18 故・長尾信二さん=父・邦昭さん、母・フジ子さんの証言=
(当時工学部2年)
遺体は小学校の理科室に寝かされていた。そばには、合気道部の友人が交代で付き添っていたという。
 <前編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3c8de716e689258258bd51ab1aab033c
 <後編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b587e5119660b9554ad8bbe9f5a83061


【慰霊碑の向こうに】17  故・中條聖子さん=姉・鉄子さん、母・惠子さんの証言=
(当時 医学部付属病院 医師)
前の勤務先だった兵庫県加西市の病院に運ばれた聖子さん。遺体は、病院宿舎に安置され、多くの元同僚たちが悲しい対面をした。
 <前編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c2d5117248a9b9113f440404c75a199c
 <後編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/48d0d74888c9781a6fa42cd8fd39cdad


【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん=父・博昭さん、母・典子さんの証言=
(当時法学部2年/千葉県市川高校卒)
父は、リヤカーに息子の遺体を乗せて王子スポーツセンターの安置所に運んだ。
 <前編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
 <後編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61


【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん=姉・都築和子さんの証言=
(当時法学部4年/愛媛県立八幡浜高校卒)
1月17日の震災の日は、ほぼ欠かさず神戸大学の慰霊碑に坂道を歩いて向かうという和子さんが、弟を語る。
 <前編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/9bf0c4a091b634fa88beb244e92ff7cb
 <後編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/4a7df18ea52c327df001a6bad941545f


【慰霊碑の向こうに】14  故・上野志乃さん=父・政志さんの証言=
(当時発達科学部2年、人間行動表現学科/兵庫県立龍野高校卒)
徹夜で友人と課題をしていた娘。がれきの中で見つけたのは、こたつで亡くなっている2人だった。
 <前編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d36e620a22d68ccc12b625fbb6825445
 <後編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/20f92b58edd77c2d11f81ef0f19ad892


【慰霊碑の向こうに】13 故・加藤貴光さん =母・りつこさんの証言=
(当時法学部2年/広島県立安古市高校卒)
広島からやっとたどり着いた西宮の現場。そこに息子の住むマンションは建っていなかった。
 <前編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/f6a2712d855b59a66cdeaf0bcd6bc6ad
 <後編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/20f92b58edd77c2d11f81ef0f19ad892


【慰霊碑の向こうに】12 故・藤原信宏さん =父・宏美さんと母・美佐子さんの証言=
(当時経営学部4年、森ゼミ/三重県立津高校卒)
下宿選び、ほんの一足違いで選んだ1階の部屋だった…。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/0ada1a7082aaa179fede2ba05487d5c7


【慰霊碑の向こうに】11 故・森 渉さん =姉・祐理さんの証言=
(当時法学部4年、五百旗頭<いおきべ>ゼミ/軽音楽部Rock/大阪府立泉陽高校卒)
叔母からの「気をしっかり持ちや。渉君、あかんかった」との電話で、急きょ東京から大阪の実家に向かった。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/4d68c1cde36004cd4b40103b4ba2e077


【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん =母・延子さんの証言=
(当時法学部修士課程1年、犬童ゼミ/応援団総部吹奏楽部/愛媛県立三島高卒)
告別式には吹奏楽部の部員が神戸から駆けつけ、純さんが好きだった『威風堂々第1番』を演奏して送った。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645


【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん =父・利周さんの証言=
(当時経済学部Ⅱ課程3年/硬式テニス部/兵庫県立神戸高卒)
隣家のコンクリートブロックでできた倉庫が健介さんのプレハブにのしかかってきた。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa


【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん =母・恵美子さんと妹・朗子さんの証言=
(当時自然科学研究科博士前期課程1年、池田研究室/ユースサイクリング同好会/名古屋市立向陽高卒)
2階が1階を押しつぶしていて…。がれきの隙間から、靴下を履いたままの足が見えていた。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4


【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん =母・尚江さんの証言=
(当時法学部4年、五百旗頭<いおきべ>ゼミ/軽音楽部Rock/大阪府立泉陽高卒)
商船大学の遺体安置場所にはずらーっと遺体が並んでいた。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922


【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん =母・房江さんと妹・和美さんの証言=
(当時経営学部3年、本多ゼミ/映画研究部/名古屋市立向陽高卒)
西尾荘のあたりは焼け野原に。焼け跡の遺骨を本人と証明してもらうのが大変だった。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1


【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん =父・秀夫さんの証言=
(当時工学部3年、応用化学科/兵庫県立八鹿高卒)
激震で倒壊した木造の西尾荘。東側の市場から燃え広がった炎がそこを襲った。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615


【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん =父・俊雄さんと母・初子さんの証言=
(当時経済学部3年、植松ゼミ/応援団/鳥取県立米子東高卒、)
その日の夜、「高見だけ連絡が取れない」という電話が両親のもとにかかってきた。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a


【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん =父・昭憲さんの証言=
(当時理学部2年、化学科/イベント同好会ラ・プレーリー/大阪府立高津高卒)
隣の銭湯の煙突が崩れ落ち、幹弥さんの部屋が押しつぶされていた。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870


【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん =父・幸夫さんと母・栄子さんの証言=
バドミントン部の仲間が来て、倒壊した下宿の中の遺体を確認した。
(当時経営学部2年、桜井ゼミ/バドミントン部/大阪府立三国ヶ丘高卒)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b


【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から〜震災から2か月後に行われた合同慰霊祭
六甲台講堂のステージには、亡くなった神戸大の学生39人と教職員2人の遺影が並んだ。
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

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 震災当時学生だった神戸大の卒業生に聞くインタビュー。大学周辺の街はどうなったのか、学生生活は激震でどんな影響を受けたのか、OB・OGの声に耳を傾けてみる。


【震災の日の神戸大は…】② 落語家・桂吉弥さんの証言
落語研究会の後輩たちの安否確認をして…。なかには下宿が倒壊して住めなくなった部員も。
(当時・教育学部5年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bdf146234649c86ff266851be59def0f


【震災の日の神戸大は…】① 新聞記者・里田明美さんの証言
研究室から神戸の街を見ると何本も煙が立ち上っていた 。
(当時・自然科学研究科 修士課程)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/44442a706b1616030ea9ec443d64bcfc

(写真下:神戸市灘区六甲台本館前の慰霊碑。モニュメント右下の青銅製のプレートには、亡くなった学生、教職員の氏名が記されている。2023年10月6日撮影)






【慰霊碑の向こうに】18 故・長尾信二さん(当時工学部2年)=父・邦昭さん、母・フジ子さんの証言=<前編>

2024-01-02 12:55:00 | 阪神・淡路大震災
 長尾信二さん(当時20歳、愛媛県立松山南高校卒、工学部応用化学科2年・/合気道部所属)は、神戸市灘区下河原通1-3の文化住宅1階に暮らしていた。
 1995年1月17日。地震当日の夕刻になって、仕事に出ていた父・邦昭さんと母・フジ子さんそれぞれの元に、「信二君が亡くなった」と連絡が入る。
 急ぎ親戚が集まり、フジ子さんの兄の大きな車に食料などを積み込み、邦昭さんの兄、弟も乗り込んで5人で深夜、高松を出発。大渋滞の中をくぐりぬけ、十数時間かけて18日の夕方、神戸市灘区に着いた。
 信二さんは小学校の理科室に寝かされていた。そばには、神戸大の友人が交代で付き添っていたという。
 
 取材班は、高松市の実家を訪ねて、父・邦昭さん(81)、母・フジ子さん(77)にお話をうかがった。



(写真1:なくなる2日前、愛媛県重信町<現・東温市>の成人式で 画像の一部を加工しています)

当日夕方知らされた 「信二君が亡くなったんです」

ききて)震災発生当時、こちら高松も揺れたんですよね。
父・邦昭さん)震度4ぐらいやったです。結構揺れた記憶あるわね。
ききて)その時は、信二さんが大変だっていうことはまだ?
母・フジ子さん)全然。
父・邦昭さん)全然思わなんだね。神戸がそういう状態になっておるという認識はなかったですわね。寝よったんだけどもね。ああ揺れた、という程度で。

父・邦昭さん)だから神戸に大きな被害があったいうのはニュースで知りました。
ききて)テレビで?
母・フジ子さん)そうそうそう。亡くなったというのは、神戸大学の合気道部のお友達から知らされました。午後7時、6時半ぐらいかな、私が仕事行きおったから。夕方ですよ。それで「信二君が亡くなったんです」いうけん、「えー」いうて、もう腰が抜けて歩けなかった。そんなこと思うとりおりませんから。

母・フジ子さん)大学に入る時にね、「お母さん、何かあった時にどこで集合する?」っていうたんですよ。んで、え〜、主人(邦昭さん)の里が田舎の一軒家で、密集しとらんかったから、そこはどうっちゃならんと思うから。主人の里へ集合しようっていって、そんな約束したんですよ。
ききて)ご主人のお里というのはどちらですか。
父・邦昭さん)香川県綾川町いうてね。こっから、車で30分あまりかな。ちょっと南の方へ。
母・フジ子さん)そんなことまで約束して。
きき手)じゃあ大きな災害があったりしたら、そこに集まろうねと。
母・フジ子さん)「遠く(親元離れて)神戸まで行くから、海渡るから、そんな思いをするんかなあ」とか思いながら、決めとったんですよ。3時間あったら歩いてでもいけるから。


(写真2:インタビューにこたえる長尾邦昭さんとフジ子さん 高松市の自宅で 2023年11月3日午後撮影)

中学時代の町で成人式に出席するため高松に帰省

母・フジ子さん)1月に、お正月に帰ってきた時かな。高松市西植田の私のほうの里の家を壊した時に、あの子が、帰ってきとったんですよ。親戚の人みんんなに会って挨拶した。あの子は、皆さんにお別れしたんかなあ…。

母・フジ子さん)主人の転勤で、あの子も愛媛の高校に通ったんですけど、そこのみんなにも成人式でお会いして、ご挨拶して帰っとる。だからみーんなに挨拶しとる。

ききて)1月17日の地震の前には、信二さんはお正月に戻ってきて、そのあと成人式にも帰ってこられていたんですね
母・フジ子さん)1月14日には熱を出しとった。自分でバイクで行くといいよったんですよ。私は15日(の成人の)の朝に熱が下がってたら、(成人式に車で)連れていってあげるっていいました。


(写真3:実家にはいまも成人式前に処方してもらった薬の袋が残されている 画像の一部を加工しています)

母・フジ子さん)朝6時ごろかな、「どうなん?」いうたら、「行ける。お母さん行けるから」っていうの。ほな「連れてってあげる」いうて送った。
ききて)式はどこであったんですか?
母・フジ子さん)愛媛県重信町。今は東温市です。そこの中学校を卒業しとるから、重信町の成人式に行ったんですよ。んで帰る時、「神戸大学の大学院、お母さん行くからね」といって。私もええ?と思うたけど、ああ行ったらいいよいうて。自分が思うだけの事をしたらいいよ。…その時にはそんな話して、んで晩に神戸へ帰って行きました。
ききて)晩というのは…
母・フジ子さん)1月15日、成人式の晩に。赤飯やら親戚に配って、ほんで「帰る」いうんですよ。帰らんでええいうのにね。何か大学のレポートか何かがあるから、それを出さないかん。提出物があるけん帰るいうんです。しょうがないから、夜の11時半ぐらいに出たんですよ、バイクで。船の乗り場まで。
ききて)フェリーで神戸へ?
母・フジ子さん)そいで帰ったんです。


(写真4:亡くなる2日前、愛媛県重信町<現・東温市>の成人式で 1995年1月15日撮影 画像の一部を加工しています)

1月15日、成人式の晩に神戸に帰っていった

父・邦昭さん)16日の夜にこちらを出とけば助かっとった可能性が高いわねえ。
ききて)1月15日の夜に神戸に向かったから、16日の朝にはもう神戸に帰っていた?
母・フジ子さんと父・邦昭さん)帰っとったんよ。
父・邦昭さん)だから16日に出発しておけば17日の朝は港にいたはず。
母・フジ子さん)船の中におったんよ。
父・邦昭さん)船つく前くらいだったんや。
母・フジ子さん)主人の里の甥がね、ちょうど16日(17日)の朝のその神戸の地震の時に船に乗っとったんですよ。ほんで助かった。…だから、まあなんか…全てが、たぶんもうそれは寿命というんでしょうね。うん。

17日の夕方 合気道部の友人から母・フジ子さんに電話で一報が

ききて)それで、(地震が起きた)17日の夕方に合気道部のお友達から連絡があった?
母・フジ子さん)電話があったんです。ナガヤマ君いうてね。あの…1つ年上なんだけど、おんなじ合気道しとって。学部は工学部やったと思います。
その子から電話があったけど、「うそー」いう感じやねえ。そんな死ぬわけないと思ったけど、もうそれから、もう全然…。

きき手)その後はどう行動されたのですか?
父・邦昭さん)連絡を受けてから、そのままは行けなんだなあ。
母・フジ子さん)いや、夜中に行った。
父・邦昭さん)行ったんか。
母・フジ子さん)うんもう、みんな親戚の人が集まって、お弁当や何か作ってくれて。向こう(神戸)行っても何もないからと思って、してくれて。
ききて)それで、親戚のみなさんは留守番をしてくれた。
母・フジ子さん)そうそう、赤飯も置いたまま。もう情けないでしょう。


(写真5:母・フジ子さん)

ききて)どういうルートで神戸に向かわれたんですか
父・邦昭さん)山陽道だったかな。
母・フジ子さん)坂出からね、橋を渡っていったんです。
ききて)自家用車ですか?
母・フジ子さ)私の兄のね、大きな車で行ったんですよ。えー…5人で迎えに行ったんです。主人の兄と、弟と、私の里の兄と、それと私と、主人とで行ったんだけど。明石まで行って。神戸から離れとるところで、もう火がね、もうこんなんなりよるんですよ。だから「私は歩いていく」いうて、もう歩いていくからみんな帰ってくださいいうたら、「いやそういうわけにはいかん」。で結局、次の日やんな、着いたの。
ききて)ということは、1月17日の深夜に高松を出発して、18日に神戸に着いたんですね。

両親らは地震の日の夜に、急きょ神戸へ向かう

母・フジ子さん)全然通らせてもくれんへしね。
ききて)どの辺りで進めなくなりましたか?
母・フジ子さん)トンネルの手前やね。
父・邦昭さん)あれはね…。明石を通って、神戸に入る…
母・フジ子さん)寸前くらいから
父・邦昭さん)ちょっと前ぐらいかな。
ききて)でそこで動かなくなったんですね。

母・フジ子さん)大渋滞。大渋滞やけども、「どちらへ行くんですか」と聞かれて、いや息子がこんなになって迎えに行きよるんです、いうたら、「そしたらこっちのルート通ってください」と、通してくれた。
父・邦昭さん)うちは被災者ということで、通してくれたんですけど。
母・フジ子さん)それでも、そこからでもものすごい時間かかったね。
ききて)灘区の現場近くに着いたのは?
母・フジ子さん)もう、もう暗くなる寸前だったね。
父・邦昭さん)18日の夕方4時くらいやった気がするなあ。

母・フジ子さん)助け出してくれた合気道部の人らは、「信ちゃんのところ、ひょっとしたら」いうんで、みんなが連絡したんだと思うんね。ほいで、集まって一つ一つ手作業で、倒れた梁とかぜんぶ除けた。

母・フジ子さん)「おばちゃんね、(出したとき、体は)ぬくかったよお」いうてね、いってくれてね。その子たちは(地震の日の)朝の6時台にはもう現場に来とったらしいです。助けにね。
父・邦昭さん)せやから1時間くらいちゃうかな、地震があってからね。

倒壊したアパート 友人たちが引っ張り出してくれていた

ききて)アパートはどんな状況だったですか?
母・フジ子さん)もうぺっちゃんこ。
父・邦昭さん)2階建てだったんちゃうんか。
母・フジ子さん)うん。でうちの子は「梁」いうんですかね。それが、胸に。ベッドの上で寝とったから、きれいなんですよ。なあんにも外傷なし。何ていうんですか、内臓出血かなんかそんな感じで。それで息が止まって。
父・邦昭さん)圧迫死。
母・フジ子さん)そやな、圧迫死いうんやな。
ききて)じゃあ現場を見たときは、アパートは1階が潰れていて、2階はまだ見えた?
母・フジ子さん)2階の人は助かっとった。そう、神戸大学の子がもうひとりおったと思うけど、その子はたぶん2階やから助かったと思います。
ききて)じゃあもう信二さんはみんなに引っ張り出された?
母・フジ子さん)17日の昼に出してくれたと思うんです。
ききて)17日の朝が地震でしたから、みんなが駆けつけて出すまで1日はかかった?
母・フジ子さん)そりゃもう半日はかかっとるでしょう。
父・邦昭さん)半日はかかっとる。
ききて)17日の昼に、信二さんは出してもらったんですね。


(写真6:入学式の朝、下宿前で母・フジ子さんと 1993年4月)

信二さんは、小学校の理科室に寝かされていた

母・フジ子さん)遺体を収容するところが決まっとったんですよ。小学校だった。小学校の理科室に寝かされとった。神戸大の子が2人、交代でずっとそばにおってくれた。
父・邦昭さん)(遺体は)50体くらい並んでたなあ。
ききて)何小学校ですか?
母・フジ子さん)山のほう、山手の方の小学校だった
父・邦昭さん)名前はちょっと記憶にないんですよ。
母・フジ子さん)学校訪ねて、で2か所目におった。
父・邦昭さん)いっぱい(遺体が)並んどってねえ…。もうびっくりしてものもいえんような状態になったからねえ。
(沈黙)

ききて)その、灘区下河原通りのアパートから、安置所まではどなたが運ばれたんですか?
母・フジ子さん)学生たちが連れて行ってくれたと思う。

母・フジ子さん)アパートの現場には行けなんだ。ぐちゃぐちゃだ。通れん通れん。
父・邦昭さん)現場はまた後から行った。
ききて)じゃあとりあえず小学校に
母・フジ子さん)理科室だったです。理科室に寝てた。だから、あの子たちが連れていってくれたんやね。
(沈黙)

僧侶のおじはお経をあげようとしたが 「ごめん。もうようあげん」

母・フジ子さん)いやもう、きれいな姿で普通に寝とるんですよ。
父・邦昭さん)顔や何かに傷がなかったもんだから、ここ(胸部を叩く)はもういかなんだ
母・フジ子さん)朝ね、合気道部の練習が6時半からだったと思うんですよ。もうちょっとで起きる時間だったんだろうと思うんだけど、布団の中では起きとったかもしれん。とにかく布団をかぶったと思うんですよ。それだけ、外(傷)がないということは。布団被ったまんま圧死ということで、亡くなったんやろ…。もう全然普通に穏やかな顔しとったです。

母・フジ子さん)でももう信じられんから、「はよ起きて。起きて」といってね、起こそうとしたりした。で、うちは主人の兄がお寺さんなんです。(本来なら)お勤めあげるけど、「ごめん。もうようあげん」いうてね、そないいいましたわ。(フジ子さん涙ぐむ)
…よう(お経を)あげられんいうてね。ちょっとだけ読んで…したけど。

母・フジ子さん)私は若いから、どっかへ逃げとると思うとったんですよ。そんな死ぬはずないと思うとった。でもそんな甘くはなかったね。(地震が)ものすごかったから。
(沈黙)


(写真7:父・邦昭さん)

もうどんな言葉でやっても戻ってこん

父・邦昭さん)知らせを受けたんは、高松刑務所で勤務しおった時だった。夕方の5時ごろだったかねえ。聞いて、ええええ、いうばっかりでね。
母・フジ子さん)私は午後7時に知ったんやで。
父・邦昭さん)いやその前に5時ごろに…。で、ほかの者(同僚)に、はよ迎えに行かないといかんといわれて。すぐ家に帰ってきて、それから神戸に行ったんです。信じられんですわね。えええ、いうばっかりでね。神戸で地震があったいうニュースは出とるんやけども、うちの子がそういう状態になっとるいうことは全然意識なんかないもんやからねえ。ただ、死んだという知らせを受けたもんじゃから、まあ行こうということで、さっきのような話になったんですけどもね。

ききて)理科室で対面された時は。
父・邦昭さん)まあ顔見ても、落ち着いた顔しとったという印象とね、すぐ起きてくるんじゃなかろうかという感じを受けたんじゃけどね。それも、もうわしは口には出さずにじいっと見よっただけやったんじゃけども。もうどんな言葉でやっても戻ってこんというのは理解できるでしょう。身内のしかも、息子が先死ぬというというのは、もう本当に、口には出せんですよ。うーん。
こればっかりはねぇ。

「歳とったら面倒見てあげる」 優しい子でした

母・フジ子さん)特に、優しい子だったんですよ。ものすごく優しい。「お母さん見てあげるからねって、そないにいってくれてね。最期をね、見るからねいうて。
ききて)じゃあ、歳をとってもお母さんのめんどうみるからと?
母・フジ子さん)「歳とったら見てあげるから」って、そんなんまでいうてくれてね。大学行く前だったですよ。まだ高等学校ぐらいで、そんなんいうかなと思うたんやけどね。優しい。とにかく優しかったですよ。


(写真8:父・邦昭さんと母・フジ子さん 高松市の自宅で 2023年11月3日午後撮影)

続く

<2023年11月3日取材/2023年1月10日 アップロード>

【慰霊碑の向こうに】18 故・長尾信二さん(当時工学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3c8de716e689258258bd51ab1aab033c
【慰霊碑の向こうに】18 故・長尾信二さん(当時工学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b587e5119660b9554ad8bbe9f5a83061

【連載】慰霊碑の向こうに 震災の日、学生たちの命は…<震災29年版>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/78ae5006ff0f40fc07c08e88050f1141
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています


【慰霊碑の向こうに】18 故・長尾信二さん(当時工学部2年)=父・邦昭さん、母・フジ子さんの証言=<後編>

2024-01-02 12:50:00 | 阪神・淡路大震災
 長尾信二さん(当時20歳、愛媛県立松山南高校卒、工学部応用化学科2年・/合気道部所属)は、神戸市灘区下河原通1-3の文化住宅1階に暮らしていた。
 1995年1月17日。地震当日の夕刻になって、仕事に出ていた父・邦昭さんと母・フジ子さんそれぞれの元に、「信二君が亡くなった」と連絡が入る。
 急ぎ親戚が集まり、フジ子さんの兄の大きな車に食料などを積み込み、邦昭さんの兄、弟も乗り込んで5人で深夜、高松を出発。大渋滞の中をくぐりぬけ、十数時間かけて翌18日の夕方、神戸市灘区に着いた。
 信二さんの遺体は小学校の理科室に寝かされていた。そばには、神戸大の友人が交代で付き添っていたという。
 
 取材班は、高松市の実家を訪ねて、父・邦昭さん(81)、母・フジ子さん(77)にお話をうかがった。



(写真9:長尾信二さんの学生証 一部画像を加工しています)

信二さんを車に乗せて死亡診断書をもらいに

ききて)対面されても、そこからまたいろいろ手続きがあって大変だったそうですね。
母・フジ子さん)大変でした。震災で亡くなった人は、診断してもらわないかん。連れて帰られんのですよ。
ききて)勝手に連れて帰っちゃだめなんですね。
母・フジ子さん)医大かどっか行って、診察してもろて、亡くなったいうことを証明してもらう。それが1月19日の、昼の12時くらいに終わったんかな。
ききて)ご遺体を、ご両親が連れて行かなくちゃならないんですか?
母・フジ子さん)自分たちで。車に乗せて。
父・邦昭さん)死んだ証明書もらうのに、連れていくと。そういう事があったんですよ。震災で死んだか、何で死んだか分からんとかいうふうないい方をされてね。みんな(ほかの遺族の方も)連れていっとって。診断書をもろうて。
母・フジ子さん)それをもらわんことには連れて帰れんから。ほんで行って、死亡診断をもらった。
ききて)検案はどこへ行かれましたか?
母・フジ子さん)どこ行ったかな。
父・邦昭さん)あれ、近くだったん違うか。
母・フジ子さん)近くだったかな、小学校からそんなには離れてなかった。


(写真10:インタビューにこたえる父・邦昭さんと母・フジ子さん 高松市の自宅で 2023年11月3日午後撮影)

神戸では車中泊 検案は混んでいた

父・邦昭さん)(神戸では)どこっちゃ泊まりようがない。車ん中で寝てた。
ききて)じゃあ、その間は信二さんとごいっしょに、車の中にいらした?
母・フジ子さん)そうそう。(小学校の)理科室におってそれから連れていって、5時間ぐらいは医大でいろいろ(検案を)してくれて、それで連れて帰ったから、それくらいやなあ。
ききて)ほかの方に伺ったら、ご遺体と一緒で寒かったとおっしゃるご遺族の方が多いのですけど、どういう状況だったのですか?
父・邦昭さん)寒さとか、そういうのは全然感じる余裕がなかったと思うんやよね。
母・フジ子さん)ただ、息子とおる方がいいと思った。
父・邦昭さん)それで、20日の夕方帰ってきたんちゃうか。
母・フジ子さん)4時ごろ帰ってきたな。だけん、20日の昼くらいに(死亡診断書を)もろたんやろな。
父・邦昭さん)昼前くらいとちがうか。
ききて)では向こうを出発するお昼ぐらいに検案が終わって、引き取られたということですか?
父・邦昭さん)うんうん、それで(信二さんを)乗せて、帰ってきた。

父・邦昭さん)それ(死亡診断書)をもろてから、
母・フジ子さん)帰ってきたんやったな。
父・邦昭さん)身柄連れてね。(高松の)家に帰ってきたんは1月20日だった。
母・フジ子さん)確か20日に(神戸を)出たと思う。

20日に神戸から高松に連れて帰った 21日に葬式したんやな

母・フジ子さん)検案するんが混んでるから、結局待ったいう感じ。
父・邦昭さん)ほんで、もうその足ですぐ帰ってきたもんやから、20日の夕方にはこっちに帰ってきたんですよ。

ききて)では、ご親戚が待っていらしたんでしょうね。
母・フジ子さん)そうそうそう。
父・邦昭さん)そのあくる日だったか。葬儀場に連れていった。だから21日に…
母・フジ子さん)葬式したんやな。
ききて)お通夜は?
母・フジ子さん)うん。その帰ってきた晩に、ここ(信二さんの実家)でしたんですよ。
父・邦昭さん)うちは兄貴がお坊さんやからね。ここで参ってもらって。もちろん仏壇もなんもなかったからね。


(写真11:母・フジ子さん)

もし16日に震災があったら助かっとった

ききて)1月15日の成人式の日の夜に、(信二さんが)帰るとおっしゃったわけだから、つい何日か前にここにいらしたわけですよね。
母・フジ子さん)そうそう。4、5日前にはおったんやけどなあ。なかなかなあ。
(沈黙)

父・邦昭さん)まあ、はよういうたら、16日にもし震災があったら助かっとったとかね、そんな自分の都合のええ事ばっかり考える。
母・フジ子さん)そんな(ふうに考える)人は何万人もおると思う。

ききて)お葬式が行われた場所は?
母・フジ子さん)いや、ベルモニーってね、ここから15分くらいかかったとこにね、行って(葬儀を)しました。
ききて)ご葬儀の時は、どういう様子でしたか?
母・フジ子さん)葬式の時はもう、なんか分からんずくで終わったような気がする。


(写真12:合気道部の仲間と 画像の一部を加工しています)

葬儀にはようけ来てくれた 合気道部の仲間も

ききて)(信二さんの)お友達とかも来られたんですか。
母・フジ子さん)ええ。愛媛の方から、ようけ来てくれてね。ちょうど成人式(の場)で、みんな別れとるもんやから、みんないっぱいきてくれて。神戸大学の子もみんな来てくれて。
ききて)神戸からも?
母・フジ子さん)みんな来てくれたよ。すごいもう(いっぱい)。
ききて)合気道部の部員たちですか。
母・フジ子さん)うん。ちょうどあれ、服吊っとるんですよ。合気道の。
(隣の間の壁に掛けている道着を指さすフジ子さん)

母・フジ子さん)ほんで、あれが神戸大の先生のお手紙です。
(別の壁に額装して掛けてある手紙を指さすフジ子さん)
母・フジ子さん)ずっとお手紙来よったんですけど。すごい達筆で書かれて、あんなに書いてきてくれてね。
ききて)お手紙をくださった先生と信二さんは、どういったご関係だったんでしょうか?
母・フジ子さん)ゼミの先生だった。
ききて)応用化学科の?
母・フジ子さん)そうそう応用化学科に(信二さんが)いたんですよ。

地元医学部の推薦受けずに、神戸大工学部を受験

ききて)信二さんは愛媛県立松山南高校に通っておられました。神戸大工学部を選ばれた理由は?
母・フジ子さん)それがね、最初は、愛媛大の医学部を先生が推薦してくれるいうたんですよ。息子が、「お母さん、2人だけね、医学部推薦してくれるんやけど、かまう?」いうて、私は、いいよっていうたの。ところが主人が、「お医者さんなるような度胸してない」いうたんです。主人が、「絶対いかん」ていって。ほいで反対して。本人はほんまは医大へ行こうと思っとったんです、推薦してくれるから。それでもう、違うとこを(受験)せにゃいかんと(信二さんが)思たんでしょう。ほいで、京大を受けるつもりだったんですよ。「お母さん、すべったら浪人して、広島の代々木(ゼミナール)いくからね」いうて。うんそれはもうかまわんよって、そないにいっとった。そしたらまあ、神戸大学を、先生が受けえいうたんでしょうね、全然肌違いのとこ受けて、それで「受かったら受かったとこ行ったらいいんや、それでいいんや」って主人が。


(写真13:長尾信二さん 免許証の写真と思われる)

医大行っとったら死なんとすんだかもしれん

母・フジ子さん)今でもけんかしよるんですよ。「医大行っとったら死なんとすんだかもしれんのに」って、そないいうてね。でも主人は「人の命を預かるようなことは、させん」いうてね。今でも思う。ほんま思う。医大行っとったらこんなんにはならなんだとか思うたりね。そんな、もう思うばっかりやけどな。なかなかなあ。もう後悔ばっかりやね。
(うつむく二人)

母・フジ子さん)芽を摘んだんでしょうかね、親が。そのような気もします。
ききて)でも、信二さんはきっと、受けるんならこの学部・学科がいいんじゃないかって、考えられたんじゃないですか?
母・フジ子さん)そうかも分からんけどね。
(苦笑するフジ子さん)
ききて)大学院まで進みたいって(信二さんはおっしゃっていたようですね)。
母・フジ子さん)うん、そんなんにいうてたからね。へえーとか思って。

電報で神戸大学合格の知らせが来た

ききて)(信二さんの神戸大の)合格発表の時はどういう状況でしたか。
母・フジ子さん)合格発表のときはねえ…。あっ、連絡がきたんやね。
父・邦昭さん)うん。
母・フジ子さん)なんか、あの頃は電報かなんかみたいなんで、頼んどいたら連絡来て、「良かった」って。それがね、「自分が受かったことよりも、南高の子が国立大へたくさん受かった、そのほうが僕は誇りに思う。」というて。自分のことよりはその方を喜んだんですよ、なぜか。「お母さん!すごいやろ!」とかいうてね。「ああそっか、そんな風に考えるんやなあ」と思ってね。

古いアパート 本人は気に入らんかったらしい

ききて)どのように下宿を決めたのですか?
母・フジ子さん)大家さんとこ行って契約しよるのにねえ、(信二さんが)「1年しかおらんよ」いうて後ろから突つき回るんや(笑)。
ききて)信二さんはなぜ、そのアパートに「1年しかいない」といったのですか?
母・フジ子さん)好かんかったんでしょう、多分。ちょっと古かったんですよ。マンションみたいなのが好きだったんでしょうね。若いから。

母・フジ子さん)海のほうが近いから、よう帰ってくれると思った。私がいらんことして、そこを借りたんですよ。こっち(灘区の浜手のアパートに)おったら、しょっちゅう(四国に)帰ってくるとか思って。
ききて)高松行きのフェリー乗り場に近いですよね。
母・フジ子さん)そう、便利だと(思った)。

母・フジ子さん)とにかくもうそれも夕方の4時半ぐらいやったんですよ。「もう汽車に乗らないかんから」いうて。
ききて)あのころは、合格の手続きも大学でしなきゃいけなかったですもんね。
母・フジ子さん)大学行ってね、私も100万ぐらい持っていっとったんだけど、何か全部使って。帰り、「うわあ、困ったなあ」と思って、お弁当のお金がない。ほんなら、「お母さん、僕もっとるよ」いうてね。それで買って汽車の中で食べて、帰って。夜の10時半ぐらいだったかな、今治かどっかに着いたんが。


(写真14:住んでいた文化住宅の前で、入学式の朝 1993年4月撮影)

2階建て文化住宅、1階が崩れた もういかんかった

ききて)「1年ぐらいしかいないよ」と信二さんがいったアパートに、結局、そのまま住んでおられたんですね。
母・フジ子さん)震災が2年生の1月やから、2年近くまでは居てたんです。部屋が広かったんですよ。6畳が2つあったと思うね。それと別に台所があってね。
ききて)アパートは2階建てでしたね。何部屋あったんですか。
母・フジ子さん)6世帯住んどったと思う。1階に3部屋、2階に3部屋で。6部屋やったと思う。夫婦がおいでたとこもあったと思う。
ききて)1階が崩れたんですよね。
母・フジ子さん)うん。1階がもういかんかったなあ。でも1階でも助かった人もおったみたい。おばあちゃんがな、助かったいいよったから。まあ、あまりは聞かんかったけど。なんかね…。(沈黙)

母・フジ子さん)まあ多分、そこまでしか生きさしてくれんかったんだろうと思います。今、我々やって、いつ地震とか、それこそ戦争やって、いつ降りかかるか分らんから、そんなことがあっても、やっぱり、強く生きないかんのやな、と思うな。命がある限りはな。


(写真15:震災後、合気道部の仲間は新しく作った道着を両親に贈った。今も高松市の実家に大切に保管されている 2023年11月3日)

合気道部員が新しく作ってくれた道着 29年実家に吊っている

ききて)いま、こちらの実家にある合気道の道着は?
母・フジ子さん)あれは合気道部の方が全部買って持ってきてくれたんです。(実家から)持っていった物は(現場から)取り出せなんだから、
ききて)一式、部員の皆さんが新しいものを作ってくれたんですね。
母・フジ子さん)ほやから29年近く吊ってある。いただいたものをね。
ききて)倒壊したアパートからは、(道着などは)取り出せなかったんですか?
母・フジ子さん)もうべちゃべちゃやからね。何回かは行ったよ。それこそ通帳とかは、姉が(探し出して)持ってきてくれたんがあったから、解約とかそんなんにも行かなならんから、何回も行ったよ。
ききて)ほかに何か残っているものはありましたか。
母・フジ子さん)いやいやもう、ぐっちゃぐちゃやから。姉のほうがしょっちゅう行きよったと思うんだけど、その間に、「こんなんがあったよ」いうてね。

兄のバイク好きに感化されて… 北海道をツーリング

ききて)震災当時、(信二さんの)お兄さんはもう働いておられた?
母・フジ子さん)就職して、ちょうど法務教官の研修に入ったとこだったんですよ。九州行っとった。ほんですぐ帰ってきました。葬式の時に帰ってきたんやな。
父・邦昭さん)うん。そうだった。
母・フジ子さん)まあ、びっくりしとったわな。

母・フジ子さん)お兄ちゃんはよう(弟の)面倒を見る子やった。バイク好きでツーリングやらしとったから、下の子(信二さん)もそれに感化されて、お友達とバイトしながら北海道1周したり。

ききて)お友達というのは?
母・フジ子さん)大学の、堀尾くんいうてね。合気道のね、お友達でね。
ききて)バイトして自分お金ためて、バイクを(買ったんですか)?
母・フジ子さん)いやバイクは…、バイクは自分で買ったんかな?
父・邦昭さん)買わんだろうが。親に買わせとった。
母・フジ子さん)(笑)バイトは一生懸命しよったわな。


(写真16:文化住宅の前で、母とミニバイクと。重信町のナンバーだ 1993年4月撮影)

地震で壊れた赤いバイク 神戸から持って帰った

ききて)赤いバイクだったそうですね。
母・フジ子さん)この裏の倉庫に、これぐらい(一部を)を兄ちゃんがとってあるね。タイヤの上の部分(だけ保存して)置いてあるわな。
ききて)そのバイクが1月15日の夜に(乗って行ったバイクですか)?
母・フジ子さん)そうそうそれに乗って(神戸へ)帰ったよ。
ききて)そのバイクで、神戸のアパートまで帰られたんですね。
母・フジ子さん)うん。(高松に)持って帰ったね。
父・邦昭さん)うん。
母・フジ子さん)(実家の)裏にずっと止めとったね。10年ぐらいずっと置いてあった。それも盗難にあってね。ほんで警察から連絡来て、また置いとって。ほやけどもう乗らんからいうて、結局は一部だけ取って置いてあるようになった。

バイク好き わしの血を引いとるんだ

母・フジ子さん)一人で四国一周したんですよ。
ききて)信二さんが?
母・フジ子さん)私は「もう危ない、一人で行って」と。でも兄ちゃんは「母さん、ほめてやらないかん。よう行って来たねって」といってね。

ききて)お父様は? 
母・フジ子さん)バイク、乗る乗る。
ききて)じゃあ、お父様譲りという
父・邦昭さん)わしの血を引いとるんだ。

ききて)震災関連の新聞記事にも(邦昭さんの)バイクのことが出ていましたね。
父・邦昭さん)行った場所やったら、もう日本じゅう走っとる。舞鶴港から船に乗ってね、北海道まで。5日間回ったんですよ。
ききて)5日かけて一周されたんですね?
父・邦昭さん)連れがもう一人おって、バイクが2台あって。妻が車で後ろをついて、それでぐるっと一周して。それとか九州行ったりとか、新潟の佐渡島とかね。それが子どもに受け継がれとる。下の子には受け継がれる寸前に、おらんようになって…。
母・フジ子さん)兄ちゃんはずっと行っとるもんな。大学はツーリング部だった。


(写真17:父・邦昭さん)

ツーリング 息子とは行かれへんかった

母・フジ子さん)息子(信二さんの兄)も好きで、孫(信二さんの姪)二人が乗る。息子の家に駐車しとる。7台もあるんですよ。みんなが笑う。「長尾さんとこなんであんなにバイクようけあるの」「人数よりバイクの方が多い」いうて。

ききて)信二さんがバイクの免許をとったのはいつですか?
母・フジ子さん)高校卒業してすぐ取ったんです。
父・邦昭さん)50ccに乗って帰って来た。一回、愛媛から。

母・フジ子さん)それから1年くらいしてバイク買うたな、250ccの。
兄ちゃんがね、「お母さん、バイクは250超えたら税金が高くなるから250で押さえとかないかん」いうとった。
ききて)信二さんのバイクは神戸の下宿に置いてあったんですか。
母・フジ子さん)うん、下宿に置いてあった。それを(震災後)持って帰ったね。それから10年は(この実家に)置いとったと思う。
ききて)バイクは無事だったんですか。
母・フジ子さん)いや、傷はすごかった思う。兄がきれいに直してまっさらにしとった。バイク屋さんに持っていって、まっさらみたいにしとった。

ききて)弟さんの大事なものですものね。お父様はバイク好きだから、本当は信二さんとツーリングしたかったのではないですか?
父・邦昭さん)そうやね。息子(信二さん)とは行かれへんかった。
ききて)どんなところに行きたいと思っていましたか?
父・邦昭さん)場所は特に考えたことはない。
母・フジ子さん)せやけど息子が行った北海道も行ったからな、あとで。
ききて)それはやっぱり、いろんな思いがあって行かれたんですか?
父・邦昭さん)親父がいたところの都合で行った。
母・フジ子さん)信ちゃんが先に行ったところ。
父・邦昭さん)せやけど、それはたまたま先に行っただけ。息子が先に遊びに行っとったらしい。


(写真18:高松市の自宅居間でインタビューに応じる父・邦昭さんと母・フジ子さん)

生きとったら、休日には走り回っとるかも分からんね

ききて)信二さんが北海道にバイクで行ったのは何年生の時ですか?
母・フジ子さん)1年、いや、2年生の夏やったと思うな。おじいちゃんが亡くなった時やけん。
父・邦昭さん)そうやな。
ききて)信二さんが行かれた場所を?
母・フジ子さん)ほとんど行ったな。
父・邦昭さん)まぁ。たまたま連れもおってね。ほな北海道行くかとなったんや。職業上、網走は行ってみたいという意識が強かったものでね。
ききて)心の片隅には、「信二さんが行ったところだから」というのもありますよね?
母・フジ子さん)そうやね。
父・邦昭さん)北海道といえば歌のあるところばっかり通ったようなもんやからな。森進一とかね、高倉健の歌ばっかり想像する。走りよってね。まぁええところや、北海道は…。
ききて)これから、というところでしたね。信二さんがおられたら、もっともっとバイクであちこち回られたでしょうね。
父・邦昭さん)そうやね。今、生きとったら。休日には走り回っとるかも分からんね。でもそういう機会を一瞬で失ってしもとるわけだからね…。


(写真19:高校時代、野球に打ち込んでいた信二さん。ボールを持つ父・邦昭さん 2023年11月3日、高松市で)

孫は県外の大学に行かせなんだ

父・邦昭さん)バイク好きな者はどうしたって、固まって、大きな排気量のバイクに乗って行くようになるもんでね。私も650ccのバイクで走っておりましたからね。
ききて)へぇ、650ccですか。
母・フジ子さん)孫は1000ccやね、お父さん。女の子よ、2人とも。
ききて)ほんとうに2人ともおじいちゃんの、血を引いてますね。それは。

父・邦昭さん)孫が大学に行くことになった時、県外の大学に行くないうて、行かせなんだ。
ききて)なぜですか?
父・邦昭さん)何があるやら分からん、いうことで。香川県の大学いうことで香川大学に。行かさんというて本当に行かなんだ。孫娘はいう事をよく聞くわ。

防災士の資格をとった 信二さんの兄や姪

ききて)震災があってからまもなく29年なんですけど、神戸大の学生の中には慰霊碑や震災のことを知らない学生もたくさんいます。学生へのメッセージはありますか。
父・邦昭さん)やはりこれは天災やからね、止めいっちゅうわけにはいかんわけやね。
ききて)はい。
父・邦昭さん)場所的にはここ香川県は大きな天災っていうものはないからね。水が少ないという被害があるだけのもんやからね。
神戸大学の学校の人に、こういう大きな震災があって、被災した家族がもうほとんど物いえへん、がっくりきとったことを伝えてもろたら、特にあれしてくれとか、こうしてくれとかいいようがないよね。
母・フジ子さん)兄ちゃんなんか、(弟・信二さんが)亡くなって、防災士の資格をとった。孫もすぐ取った、大学行ってね。兄ちゃんも(自分の娘に)話したりする機会多いんでしょうけど、2人とも資格取りましたね。
ききて)お孫さんたちは、信二さんのことは?。
母・フジ子さん)うん、知らんね。でも、そんな感じでお父ちゃんが取ったから、孫たちも防災士の資格を取ったんでしょうね。だから、若い人たちもそういう勉強をしたら良いんかな。なんかの時に役立つと思う。


(写真20:新聞に掲載された信二さんの訃報)

月命日にはお寺さんが来て手を合わせる

ききて)神戸大学の慰霊碑を訪ねたことは?
母・フジ子さん)何回か行っております。息子(信二さんの兄)も、しょっちゅう行っとる。わたしたち行けん時は息子がね、息子夫婦が孫を連れて行っております。
ききて)その慰霊碑があることすら、知らない学生もいます。
母・フジ子さん)それはしょうがないですね。
父・邦昭さん)神戸大学に入っておられる生徒さんは知っとるんちゃう?
ききて)授業で教わっている学生は知っていますが、それ以外の学生は…。
父・邦昭さん)年月が経つとそうなるんかなぁ。

ききて)何年か前の1月17日のNHKのウェブサイトの記事には、「ここ高松から祈るんです」と書かれていましたが、毎年やはり震災の日は高松で過ごされるのですか?
母・フジ子さん)はい。今も毎月17日はお寺さんが来るから、月命日には。お寺さんが来て参るから。息子が、行ってくれたりしよる、(車に)乗せてってくれたりもするけども、乗り換えして行こうとはもう思わへん。年がいったから。

大学慰霊碑 行事やっていただければありがたい

父・邦昭さん)神戸大学から、時々案内が来るんですよ。(1月17日に大学慰霊碑に)行くつもりしておっても、野暮用ができたりして、行けない場合が多いんですよね。まだみなさんおいでなさるから、また、もしあれだったら、また参らせていただきます。30年の区切りには、できるだけ行く予定にする。盛り立てる、というのもあれなんですが、行事をやっていただけたらありがたいです。

ききて)私たち学生に伝えたいメッセージがあったら教えていただきたいです。
母・フジ子さん)力強く、生きてください。どんな、壁に当たってもね。と思います。
父・邦昭さん)私のほうからはね、無理をしないで、人生を送るようにしていただきたいと思います。


(写真21:長尾邦昭さんとフジ子さん 高松市の自宅前で 2023年11月3日午後撮影)

<2023年11月3日取材/2023年1月10日 アップロード>

【慰霊碑の向こうに】18 故・長尾信二さん(当時工学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3c8de716e689258258bd51ab1aab033c
【慰霊碑の向こうに】18 故・長尾信二さん(当時工学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b587e5119660b9554ad8bbe9f5a83061

【連載】慰霊碑の向こうに 震災の日、学生たちの命は…<震災29年版>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/78ae5006ff0f40fc07c08e88050f1141
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています




【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 医師)=姉・鉄子さん、母・惠子さんの証言=<前編>

2024-01-02 12:00:00 | 阪神・淡路大震災
 中條聖子さん(ちゅうじょう・せいこ、当時29歳、兵庫県立神戸高校卒、島根医科大学卒/医学部付属病院 第三内科勤務医師)は、神戸市東灘区魚崎中町2−4の自宅で亡くなった。
 1995年1月17日午前5時46分ごろ、自宅2階で就寝中に激しい揺れに見舞われ、本棚と崩れて来た書籍の下敷きになった。すぐにはひっぱり出すことができず、同じ2階で寝ていた父・秀信さん(故人・2014年に88歳で他界)が懸命に声をかけても返事がなかったという。
 聖子さんは近所の人たちに救出され、秀信さんが病院に運んだものの、死亡が確認されただけでなんの処置もされなかったという。
 大阪寝屋川市で開業医をしている姉・鉄子さんは、知らせを聞き、昼過ぎに休診にして神戸に向かった。途中でタクシーは進めなくなって、人家で自転車を借り、ようやく夜7時半たどり着いた魚崎の実家は倒壊せず建っていたのだが…。妹は近所の家に安置されていた。

取材班は、大阪府寝屋川市の現在のご自宅で、姉・鉄子さん(64)、母・惠子さん(87)にお話をうかがった。


【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/48d0d74888c9781a6fa42cd8fd39cdad


(写真1:加西市民病院で勤務していたころの中條聖子さん 1993年か1994年撮影)

名前を呼んでも返事がない 聖子が死んだ

ききて)1995年1月17日早朝の地震発生時はどこにいましたか?
姉・鉄子さん)私は、(寝屋川市の)マンション5階の自分の部屋で寝てたんですね。母と父と、妹・聖子と、私の娘が神戸市東灘区魚崎の実家のほうにおりました。

姉・鉄子さん)父と妹・聖子が2階で別々の部屋で寝ていて。母と、私の娘は1階で寝てたんです。
姉・鉄子さん)で地震が起こって。…私はその辺の事情は、よく分からないんだけど、父が地震だといって、聖子の名前を呼んでも返事がない、って。聖子が亡くなったんじゃないか、聖子が死んだって言ったのよね。
(うなずく、母・惠子さん)

姉・鉄子さん)そう言って、2階から、父は自分でとりあえず何とか下りてきて、聖子が返事がないんだって言って。で、母がそんなバカな事ないでしょうといって2階に上がっていって。
(うつむく惠子さん)


(写真2:インタビューを受ける母・惠子さん<左>と姉・鉄子さん<右> 2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)

顔に、鼻に触れて…息はしていなかった 認めたくなかった

姉・鉄子さん)そしたらその本棚の下敷きになっていて。
母・惠子さん)もう、本が全部ね、お布団の上から全部かぶさってしまって。ちょうど本箱が2本並べて置いてあって、その横の所へ聖ちゃんはお布団敷いて寝ていましてね。だから、本棚が全部、…開いたんでしょうか、戸が外れたんでしょうかね。
ききて)観音開きになっていたんですか。
姉・鉄子さん)そうそう。
母・惠子さん)全部本がドサッ、本が、全部…。本棚も、本と一緒に、こう…
ききて)倒れてきたんですか。
母・惠子さん)はい。
姉・鉄子さん)顔は見えていたの?
母・惠子さん)顔は見えてない。いつもこう、お顔の所までお布団引き上げて寝る子なもんだから、お布団の中に手を入れて、顔のところ触って、お鼻のところを触って。うん、本当に息はしてなかった。でも、認めたくなかったものですから…。
(うつむく惠子さん)

地震のちょっと前に、声をかけようとした

母・惠子さん)、(あの朝、地震の前に)3回ほどね、…お2階へ行って。最初は、途中まで行って、3段ぐらいまで。そのときに、気になって。聖ちゃんに声がかけたくって。ほんの、地震のちょっと前なんですけどね。
ききて)明け方ですね。
母・惠子さん)夜明けです。3段ほど行って。いや、今さっき寝たばっかりやから、起こしたらかわいそうやな思って、また戻ってきて。やっぱり気になってまた中ほどまで行って。で、最後には、踊り場まで行って。こう、ふすまを開けたかったんですけども。たしか4時過ぎまで、娘が起きてましたからね。それまで学会発表が間近に迫っていて、原稿とかそんなんを作ってたんだと思います。…いつも明け方まで、仕事や勉強をしていましたからね。

母・惠子さん)で、また下りてきて。そこまで行ったのになあ。何で、止まったんやろ、っていっつも思います。で、ふすまをあけなかったの。
(涙声になり、ため息をつく惠子さん)
ききて)じゃあ、何かちょっと、気になったんですね。
母・惠子さん)うん。…なんででしょうね。…そんなこと今までなかったんですけどね。…すごく悔やまれます。あのとき声をかけていたら…。

前の晩、家族そろった食卓で地震の話をした

ききて)前の日は、振り替え休日の月曜日でしたね。ご家族はどんな様子だったんですか。
姉・鉄子さん)私も(実家に)帰って、前の晩はみんなでお食事していて。そのときかな、「地震が来るかも」って母がそんな事をいったんですよ。
母・惠子さん)いや、週刊誌の表紙の見出しのところに、大きな地震が、っていうような見出しだったと思うんですけどね。それを、チラッと見ていて。そんな話をしたんじゃないかと思います。

ききて)じゃあ、ご家族で地震の話になっていたんですね。
姉・鉄子さん)でもまさか、そんなことないでしょという話をしていて。そのときに妹が、「死ぬんなら、私が一番だわ、潜水艦みたいなところに寝てるもん」って。
ききて)どういうところに寝ていたんですか。
姉・鉄子さん)普通のお部屋なんですけれども。机があって、大きな本棚が2つある真横で、お布団を敷いて寝ていたんで。


(写真3:インタビューを受ける、姉・鉄子さんと母・惠子さん 2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)

久しぶりにお布団を並べて寝た姉と妹

母・惠子さん)めったに、聖ちゃんとお休みがあうことはなかったんですけど。その日はたまたま、鉄子が帰ってきてて。じゃあ、お座敷でお布団2人分敷いてって。
姉・鉄子さん)いつも私が(実家に)帰ると、(姉妹)2人でお布団を並べて寝るんですよ。だから2階のお部屋に2つ一緒に並べて寝て。普段は、妹は自分の部屋で寝てるんですけれど、私が帰ってる時は、お布団を2つ並べられる方の部屋で、2人で夜中までしゃべったり、遊んだりしながらいてたんですけれどもね。

姉・鉄子さん)その日(16日の夜)は、連休明けで車は混むから、夜のうちに寝屋川のほうに帰ると言って。で、妹は、自分の部屋で、1人で寝たんですよね。
母・惠子さん)わざわざお布団を移したのよ、自分のところへ。
(うなずきながら話す惠子さん)

ききて)本棚のある部屋に布団を移して、そこに寝たわけですね。
母・惠子さん)そうですね。やっぱり、自分の勝手がよかったんですよね。
姉・鉄子さん)お仕事もしないといけないしね。
母・惠子さん)翌日の準備をするのに。だから、川本(喜八郎)先生に…
姉・鉄子さん)『平家物語』の感想文をね。
母・惠子さん)感想文、テレビの(人形劇の番組の)感想文を書いて、封筒に入れて切手も貼って、それで、枕元へね。朝起きたらすぐ出られるように、置いてありました。そういうのをするのに、やっぱり自分の部屋の方が便利だったんでしょうね。
姉・鉄子さん)番組があった日は、必ず感想をその日に書いて、翌日出勤するときにポストに入れると。

午前4時過ぎまで起きていて 寝入りばなだった

ききて)何畳の部屋でした?
母・惠子さん)6畳でしたかしら。大きな机があって、大きな本箱が2つあって…。
ききて)よもや、その翌朝に地震が本当に起きるとは…。

母・惠子さん)神戸高校で一緒のお友達もね、同じような間取りで、同じように休んでいたんですって。…で、地震で飛び起きて逃げたんやって。逃げたら本箱が、全部倒れて。ほんの一瞬の違いで、助かったって。

母・惠子さん)ええ。聖ちゃんはもう疲れてたから、寝入りばなだったんだと思いますね…。眠ったとこだった。
ききて)4時過ぎまで起きてらしたんですもんね。
母・惠子さん)そう。いつも4時ぐらいまで起きてましたから。で、(勤務先の)神戸大学病院まで行くのに早く出ないとね、車が置けないからって言って。

母・惠子さん)神戸大学病院の近くに民間の駐車場を借りていましたの。大学へは入れられないから、って言って。早く行かないと、駐めるところがないから。

母・惠子さん)(地震から)だいぶしてから、駐車場の貸主さんに、ごあいさつと解約に行った時に、「ここにも神戸大学病院の先生が下宿していて、部屋はめちゃくちゃだったけど、けがもあったので、急いで病院に飛び出して行かれた」という話を聞いて、聖子を、家から通勤させず、ここに下宿させていたら助かったのに…。下宿したがってもいたのに…。と思うと辛かった。


(地図1:神戸市東灘区魚崎と寝屋川市は直線距離で40キロほど離れている)

深夜、妹に見送られて実家を出た 寝屋川に帰ったのは午前1時半ごろ

ききて)地震のあと、お父様が最初に様子がおかしいと気付かれた?
姉・鉄子さん)父の部屋もたんすが倒れてきたらしいんですけど、自分で一応ちゃんと部屋を出られて、で、聖子に声をかけたけど、返事がないんだと言って、1階に下りてきたらしいの。

ききて)そのとき、お姉様は約40キロほど離れた寝屋川に戻っていらした?
姉・鉄子さん)夜の1時ぐらいに神戸の実家を出たんですよ。いつも通りね、妹も見送ってくれて。
ききて)じゃあ、寝屋川のマンションに帰ってこられたのは?
姉・鉄子さん)1時半ぐらいに着いたのかな、こっちには。いつも出る時にはみんなで送ってくれるんです。じゃあ頑張ってね、ということで、またねって普通に、普通にもう本当に、そうですよね。


(写真4:神戸市と芦屋市の市境付近で倒壊した阪神高速 1995年1月17日午前9時ごろ 神戸大学ニュースネット委員会)

テレビニュースに見慣れた街が えっ、これ神戸じゃないの

ききて)朝、ここ寝屋川も揺れましたよね。
姉・鉄子さん)かなり揺れてびっくりして起きて。ただ、物が落ちることもなかったんですよ。とりあえず起きて見回したけど何もなってないので。もう一回ちょっと寝てたんですよ。

姉・鉄子さん)それほどのことが起こっているとは思ってなかったんですけど…。余震の揺れで起きたときにテレビをつけ、ニュースを見てるとどんどんどんどん、見慣れた阪神高速や、JRの住吉のところにあったところが崩れているとか。そういうのが出てきて初めて、えっ、これ神戸じゃないのって。

姉・鉄子さん)そこから、神戸に電話しても全然連絡がとれなくて。医院のあるマンション5階の部屋の電話が不通になったので、仕方なくマンションの1階の医院に下りて…。そこは薬棚そのものも、どうもなっていなかったんです。医院にいれば何か連絡がとれると思って、しょうがなく、まあ医院は開けていたんですけれどね。

公衆電話から やっとつながった電話で

姉・鉄子さん)そうしたら、(神戸の)家の近所の方から、お電話が午前10時か10時半に。
母・惠子さん)お向かいの塚本さん。
姉・鉄子さん)うんうん。お電話をくださって。「みんなは?」って言ったら、「みんな大丈夫よ」っておっしゃってくださったので。よかった、って。みんな元気で無事だったらよかったわ、と思ったら。…その時は、みんな私のことも妹のことも知っていたから言えなかったんでしょうね、きっと。妹が亡くなったことをね。

姉・鉄子さん)「ああ、よかったわ」って思ってたら、しばらくして今度は母から電話がかかってきて。
母・惠子さん)全然電話通じなくてね。
ききて)家からは通じなくて。
母・惠子さん)はい、通じなくて。近くの公衆電話に並んで。


(写真5:震災直後の様子を話す、母・惠子さん<左>と姉・鉄子さん<右>、2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)

聖子が亡くなった そう伝えるのがやっとでした

母・惠子さん)大勢並んでいるでしょ。だから、詳しい話はあんまりできなくて。聖子が亡くなったということだけ、伝えるのがやっとでした。
姉・鉄子さん)で、「救急車を呼んだ?」とか言ったら、「救急車なんか来れるような状態じゃないよ」って。でも、想像もつかないので、私にしたら。えっ、なんでって。まさか、本当に、妹が亡くなるなんて、もう絶対違うと思ってたから。

姉・鉄子さん)そこで(医院の)みんなに妹がどうも亡くなったらしい、午後から、休診にして、何とか私は神戸に行くからって。帰ってこれたらすぐ帰ってくるねって。とりあえず明日1日は、休診って貼りだしておいてくれるっていって…。

姉・鉄子さん)12時半まで一応、診療なので、そこが終わったらすぐ閉めて、で、タクシーに来てもらって。もう乗ってそのまま神戸の方に向かったんですよね。

大阪・寝屋川からのタクシー 尼崎から進めなくて

姉・鉄子さん)尼崎ぐらいまでは行ってくれたんですよ。あちこち、う回しながらね。でそこから、もう国道2号線に入ったら動かない。(タクシーの運転手が)「ここから先どうしても行けないです」って言って。ずっとしばらく乗っていたんですけれども。でも、車に乗っていたら、震災で、亡くなった方とかがどのぐらいとか、亡くなった方の名前とか…。
ききて)ラジオで?
姉・鉄子さん)そうですね、タクシーの中のラジオで色々いうじゃないですか。…妹は名前が出てない、出てないと思いながら。で、尼崎ぐらいかな、降ろしてもらって。もう全然、車は動けないので。

姉・鉄子さん)そこで、しばらく歩いていたんですけれど。日がだんだん暮れてくるし、こんなんじゃたどりつけないと思って。自転車かバイクを買いたかったんですけれど、その辺のお店ももう全部閉まっていて。で、自転車屋さんのシャッターが下りていたんで。そこの、すぐご近所のお家に、とりあえず、「すいません、そこの自転車屋さん、どこにお住まいか分かります?」って、「自転車がどうしても欲しいんです」っていって。そうしたら「どうされましたか」っていったので、震災で、…家族が亡くなったって聞いたんでどうしても行きたいんです、って話をしたら、そこの方が、自転車を1台貸してくださったんです。「この自転車使わないからどうぞ使って」っていって、そこの奥様が貸してくださって。「冷たいでしょ」って言って、ご自分の手袋も貸してくださって。で、そこから、本当に自転車で、ずっと魚崎まで帰ったんですよ。


(地図2:尼崎市から神戸市東灘区魚崎までは直線距離で10キロほどある)

自転車を借り、夜7時ようやくたどりついた魚崎

ききて)魚崎に着いたのはどれぐらいでした。
姉・鉄子さん)何時でしたかね。夜の7時ぐらいだったんじゃないかな。5時過ぎぐらいにタクシーを降りて。
母・惠子さん)7時過ぎてた。真っ暗やったね。
姉・鉄子さん)ただ、国道2号線とかはもう煌々と。車が動かないから、明かりがついているんですよね。
ききて)ヘッドライトがずらっと並んでいる。
姉・鉄子さん)歩道は段差が出来てしまっていて。自転車は借りたんですが、普通に乗れない所がほとんどなんですね。
ききて)平らなところがない。
姉・鉄子さん)そばでみんな、倒れたたんすだの板なんかを出してきて、たき火をしているわけですよね。寒かったですもんね、あの時ね。

姉・鉄子さん)道路が落ち込んでいるところに、がれきというか、戸板みたいなそういうものを渡して車がそっと1台ずつとか動く程度のそういうところを、とりあえず自転車を押したり、ちょっと乗ったりしながら帰って。

姉・鉄子さん)2号線をちょっと南の方へ下ろうと思ったらもう真っ暗なんですよね。で、車が駐まっていたりしない限りは、どこもかしこも(停電で)真っ暗だった。あかりがついているなと思ったら火災なんですよね。そんなところを見ながら、すごいことになっているんだと思って。ビルも崩れていたりしているし。…こんな事が起きているんだということが、もう信じられなかったですけれども。

姉・鉄子さん)で、いつも通る、甲南本通っていう、商店街なんですけれどもね。やっとそこまでなんとか来て。アーケードがもう落ちてて、真っ暗で。でもまあ、とりあえず道は分かるので、…自転車は乗れたのかな。乗って、そしたら今度火災がすごく、火の手が上がってたりとかで。そういうところを、本当に見ながら、とにかく帰らなきゃ、帰らなきゃと思って帰ったんですけれども。

妹は斜め向かいのお宅に安置されていた

ききて)じゃあ、夜の7時過ぎぐらいに、ご自宅が見えた。
姉・鉄子さん)うん。で、「あっ、建ってるやん」と思ったんですよ家が、とりあえずは。今まで帰ってくる道中でいっぱいぺしゃんこの家とか、2階が道路にせり出しているのとか、いっぱい見てきたので。自分の自宅が見えたときに、あっ、ちゃんと建物が建ってるなっていうので。あ、もしかして大丈夫やったんちがうかなって、思ったんですけど。

姉・鉄子さん)でも、帰っても誰もいなくって。そしたら、斜め向かいの、岡本さんっていうお宅なんですけれど、そこはね、建て替えて新しいお家だったんです。(新築)3年ぐらいだったのかな。
母・惠子さん)地盤強化もしてあったし。
姉・鉄子さん)全く無傷でつぶれなかったので。でそこに行ったら、(岡本さんが)「ええ、いらしてるよ」といってくださって。そこに、父と母と娘と、聖子も置いていただいていて。そこで初めて、妹に会ったんですよね。


(写真6:中條聖子さん、1984年4月島根医科大の入学式で)

父はずっと妹の心臓マッサージをしていたという

ききて)お父様、お母様は、どういうふうに迎えられましたか。
姉・鉄子さん)「帰ってきたん」っていったかな。
母・惠子さん)うん…。

姉・鉄子さん)ただもう、本がいっぱいで、とてもじゃないけど、引き出せるような状態じゃなかったらしくて。お向かいの家のご主人とか息子さんたちが手伝って、本箱を上げてもらって。それから、妹をとりあえず下まで下ろしてくださって、それから、お父さん、だいぶ長い間、心臓マッサージしたの?
母・惠子さん)うん。
姉・鉄子さん)何とか近くにあった、六甲アイランド病院に連れてったらしいんですけれど。もう当然、生存してませんよ、って。亡くなってます、の一言だったと。何もしてくれなかった、って。そりゃそうなんですけどもね。

姉・鉄子さん)で、帰ってきてからも、ずっと父は、心臓マッサージをやってた、っていってました。見かねて、母がもう痛がるからやめてあげてって。私はそういうことは、聞いただけなんですけど。

見かねた母が 痛がるからやめてあげてと…

母・惠子さん)娘(姉・鉄子さん)が帰ってきてくれて、ちょっと、気が落ち着いたんですけどね。その晩に、ガス管か何かが。
姉・鉄子さん)その次の日じゃなかった?
ききて)地震の翌朝、東灘区の南半分に避難勧告が出ましたね。
姉・鉄子さん)そうそうガスタンクか何か。
ききて)海沿いにあるLPG(液化石油ガス)のタンクで…。
姉・鉄子さん)ガス漏れが発生しているのではないかということで。
母・惠子さん)緊急避難をしないといけなくなってね。それで、聖ちゃんは、岡本さんのところへ預けて。私らは…。
姉・鉄子さん)小学校へ行ったよね。福池小学校。ご近所の方と。
母・惠子さん)そう、岡本さんご家族と、私と。そのお隣の…。
姉・鉄子さん)浜田さんか。
母・惠子さん)3家族で福池小学校に避難しました。そしたらもう、体育館とかは、毛布に包んで、亡くなった方がいっぱいあって…。

避難所から戻って、電話をし始めた

母・惠子さん)朝方になって、避難勧告は解除になりましたでしょう。私と、みっちゃん(鉄子さんの娘・満子さん)は避難所に残って。
姉・鉄子さん)父と私で、とりあえず1回、岡本さん家に帰らしてもらって。で、そこから色々電話し始めたよね。
母・惠子さん)うん。

母・惠子さん)避難してたところは、食べ物が何もありませんでしょう。1人、2人に1個のちっちゃいパンを頂いて。
ききて)2人で1個?
母・惠子さん)うん、2人で1個。それでね、私と孫(満子さん)は、あとから、帰ってきて。

加西市から来たというトラックに出会って

母・惠子さん)途中で、自宅の近くのね、ちょうど、お宮さんがあるんですよね。その近くで、トラックに出会って。で、電池を下さったの。
姉・鉄子さん)懐中電灯の?
母・惠子さん)懐中電灯に入れる予備の電池を頂いて。それで、「どこから来はったの」って(トラックの運転手に)聞いたらね、「加西から来た」って言うの。で「どうやって来られたの」って聞いたら、「六甲トンネルを通ってきました」って。だから、六甲トンネルは通れるんやと思って。灘区の神戸大学のとこから六甲トンネルを越した所に、主人のアトリエがありましたのでね。じゃあそこに、何とか避難ができるなと思ったんですよ、その時は。

母・惠子さん)六甲トンネル通って中国自動車道を通ってきたとおっしゃったから、じゃあ、加西に連絡がつくかも分からないと思って。
ききて)加西ということは、聖子さんが以前お勤めになっていた病院のあるところですね。
母・惠子さん)体育館にたくさん置いてあったご遺体なんかでも、みんな1月26日までは出せませんとおっしゃったの。火葬も何もできないって。地震が17日でしょ。26日まで、そのまま何もできないとおっしゃって。で、どうしようか、寝屋川にも運べないし、って言ってたら、加西になんとか連絡がつくかもって。ちょっと希望が湧いてきて。で、加西に電話したのね。


(地図3:加西市は神戸の中心部から北西に約40キロ離れた播磨平野の町)

元勤務先のある加西市 「こちらなら火葬もできる」

姉・鉄子さん)(妹の以前の勤務先の)加西病院に電話して、中條ですって言ったら、「ああよかった」っていわれて。「いや、妹が亡くなったんです」って言ったら、「まさか」っていって、電話に、妹がいた内科の上司の先生が出てくださって。「神戸大病院から、もしかしたら中條さんが亡くなっているかもしれないと情報が来てたんだけど、まさかと思っていたんです」って。だから、「実際そうで、こちらでは、神戸の方では何も、葬儀も火葬も何もしてやれないんです、全然遺体が動かせなくて」っていったら、「じゃあちょっと待ってくださいね」って、「病院長とも相談します」といってくださって。でそのあと、「加西に来てください」っていってくださったんですね。

姉・鉄子さん)「聖子さんのいた宿舎も空いているし、加西の方で火葬もできます」っていってくださったんで。で、そこから、
母・惠子さん)動いたね。
姉・鉄子さん)動いたのね。そこまでは、寝屋川に電話したり色々したけど結局全然無理で。長いことご近所にお世話になっているわけにも行かないですし、加西に、じゃあ行くって話になったんです。

姉・鉄子さん)今は、市立加西病院ですが、当時は、加西市民病院という名前でした。
ききて)じゃ、来なさいと、言ってくださった?
姉・鉄子さん)山谷先生という上司の先生が、「ここにいらしてください」って。「宿舎もあいているから、泊まって頂く事もできるし、火葬もちゃんとできるようにします、できますから」っておっしゃってくださったので。で、じゃあもう、加西になんとかして行こうと、自分の家の車と、あと、父がそのころ西宮の越木岩(こしきいわ)神社の宮司さんとお友達で、よく手伝いに行ったりとかもしていたので。越木岩も結構被災していたんですけれども、そこの宮司さんが行ってあげるっていう事で、神社のライトバンで。で、聖子を乗せて…。

<2023年10月29日取材/2023年1月10日 アップロード>

【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c2d5117248a9b9113f440404c75a199c
【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/48d0d74888c9781a6fa42cd8fd39cdad

【連載】慰霊碑の向こうに 震災の日、学生たちの命は…<震災29年版>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/78ae5006ff0f40fc07c08e88050f1141
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています

続く



【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 医師)=姉・鉄子さん、母・惠子さんの証言=<後編>

2024-01-02 11:55:00 | 阪神・淡路大震災
 中條聖子さん(ちゅうじょう・せいこ、当時29歳、兵庫県立神戸高校卒、島根医科大学卒/医学部付属病院 第三内科勤務医師)は、神戸市東灘区魚崎中町2−4の自宅で亡くなった。
 棺の手配もできず、遺体の火葬もできない神戸市内から、前の勤務先だった兵庫県加西市の病院に運ばれた聖子さん。遺体は、病院宿舎に安置され、多くの元同僚たちが悲しい対面をした。
 震災2か月後には、梅田の駅ビルにあるホテルで「追悼会」が開かれ、高校時代の友人や、病院の同僚たちが別れを惜しんだ。
 神職の父・秀信さん(故人)は、被災地の復興とともに、地鎮祭に追われる日々だった。

 取材班は、大阪府寝屋川市の現在のご自宅を訪ね、姉・鉄子さん(64)、母・惠子さん(87)にお話をうかがった。



(写真7:勤務中の中條聖子さん。加西市民病院で 1993年か1994年に撮影)

元の勤務先の病院 宿舎には祭壇も用意され、棺も届いた

母・惠子さん)その前に、出棺式してくれたよね。
ききて)どこでですか?
姉・鉄子さん)岡本さんのお宅で。
母・惠子さん)簡単ですけれども、ちゃんとしてくださって。
姉・鉄子さん)で、一緒に加西まで行ってくださって…
母・惠子さん)夕方に着いた。結構時間がかかりましたのよ。
ききて)夕方ということは1月17日が地震で、19日に出発された?
姉・鉄子さん)お昼出発ですね。宮司さんも一緒に来てくれて。で、午後1時か1時半ぐらいに出発して。
母・惠子さん)ご近所の方がね、見送ってくださって。

姉・鉄子さん)1月19日の夕方、もう暮れてたかも。加西について、そしたらその、院長とか病院の職員の方とか何人か待ってて下さってて。ここにいて下さったらいいですよっていって。
母・惠子さん)ちゃんと、もう準備して。
姉・鉄子さん)棺はこっち(阪神間)ではとても調達できなかったらしいですけど、とりあえずむこうでは、棺も用意して頂けたんで。
母・惠子さん)祭壇も作っていただけてたし、で、棺が届いたのが、夜の7時過ぎでしたか。

母・惠子さん)雨が、みぞれっていうんですか。冷たい雨でした。
ききて)病院の皆さんも、かつて一生懸命働いてた聖子さんがそんな形で帰ってくるとは思ってもいなかったでしょう。
姉・鉄子さん)そうなんですよ、妹が神戸大に戻ることになった時に、職員さんとか、患者さんが、「聖子先生いてください」っていう嘆願書を書いてくださったりとか(笑)。職員の方も、もうちょっといてとか、帰らないでいいやんっていうのを随分言ってくださって。院長が、「たくさんの研修医見たけど、聖子さんみたいな子は本当にいない」っていって。「どこに行っても、必ずまた加西に戻ってきてな」って、「加西で仕事しような」って言ってくださったって聞いてたんですけどね。


(写真8:インタビューを受ける母・惠子さん<左>と姉・鉄子さん<右> 2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)


医師、病院スタッフ、夜勤明けの看護師も 次々にお別れに来てくれた

姉・鉄子さん)その晩、聖子を安置してもらったら、本当にたくさんの方が、聖子とお別れにって、次々来てくださるんですよ。職員の方とかお仕事終わったりしたら来てくださって。患者さんにまではもう、病院の方からはいいませんって、すごい大変なことになるのでっていって。でも、本当にスタッフの人たちが本当に、本当に次々いっぱい来てくださって…。
(涙をぬぐう鉄子さん)

姉・鉄子さん)あんなに綺麗だったのにねとか、あんなに優しかったにねとか、いっぱい教えてもらったんですとか。病院の…看護師さんたちの勉強会なんかも、いろいろテーマ決めてやってたみたいで。そういうのにすごく何かいろいろ教えてくださったり、自分たちが調子悪い時に相談にのったり、すごくすごく、優しくってもうほんっとにいい先生だったんですっていって。患者さんたちも、待ち時間が長くなっても、本当に聖子さんの外来は患者さんがみんな待ってて、聖子先生と話すためにみんな来てたんですよっていって。病院移るときも、患者さんの申し継ぎに、病気のことだけじゃなくって「この人は自分が湿布とか欲しくってもよういわないから、聞いてくださいね」とかメモが書いてあるそうなんです。外来してても本当に、患者さんのこと親身に聞いて、こんな先生見たことないですって…本当に口々にそう言ってくださるんで…。

妹は、ここで頑張ってたんやなぁ

姉・鉄子さん)私たち家族にとったら妹って一番下だったので、まだまだ外へ行ってちゃんとできてるのかなとか思ってたら、もうすごいちゃんと立派に頑張ってたんやねっていうので…。ほんとに、聖ちゃんが、「私ちゃんとがんばってたよ」って。みんながそういってくださって、改めて…。
(涙をぬぐう鉄子さん)
新米だからいろいろあったんでしょうけど、それでもほんとにみなさん優しく接してくださって、ここでいられて幸せやったなって、すごくそれを思います。
(再び涙をぬぐう)

姉・鉄子さん)看護師さんなんかも、差し入れでおにぎりを作って来てくださって…。神戸大病院からも同僚の先生が、夜中、来てくださったり。本当にびっくりするような人たちがたくさんきてくれて。妹は、ここで私たちに知らせたかったんやねって。加西に戻ってきて、私こうやって頑張ってたよーっていうのを、ちゃんと見せたかったのかなって。加西の人たちいい人たちでしょっていうのも、自慢したかったのかなって思いました。

姉・鉄子さん)「ここで去年の冬は鍋をしたんですよみんなで」とか、「職員が集まってここの宿舎でいろいろやったんですよ」とか話を聞くと、本当にそこに妹がいるんやなと…思いましたけど。
ききて)でも病院のみなさんもショックだったでしょうね。
姉・鉄子さん)そうですね…ほんとうね…、まあでも加西にきっと戻りたかったんだなって。
(涙をぬぐう)


(写真9:インタビューを受ける姉・鉄子さん<右>と母・惠子さん<左>)


なきがらにお化粧もした

母・惠子さん)たくさんね、130人ぐらい。聖ちゃんが棺に入った時間からみなさんが来てくださった。夜遅くまで来てくれはったね。夜勤だったんで遅くなったいうて、看護師さんなんか。
姉・鉄子さん)私…なきがらにお化粧することなんて全然、思いもつかなかったんですよ、自分自身(笑)。そしたら、皆さん亡くなった方、看護婦さんとか処置されますよね。「お化粧品ありますか?」って言って。「あったら少しお化粧してあげたらいいですよ」って言ってくださって。その時にああそうなんだって…。本当に、妹に、最後に、お化粧して…。
ききて)お姉様がお化粧してあげたんですね。
(うなずく鉄子さん)
姉・鉄子さん)本当にね、目が大きい子で、ちゃんとまぶたがきれいに、下がっててもね、閉じないような感じで(笑)。本当に今にも、目開けてパサパサって、まつ毛揺れそうな感じだったんですけど…。本当に、傷がなかったんで…お顔も。足にちょっとだけ、すり傷みたいなのがあったのかな。
母・惠子さん)そうそうお布団をこう引っ張り上げてたから、足の先のところがちょっと、あれ机がこうひっくり返って、机で、傷がついたんだろうと思ったんですけどね…。
姉・鉄子さん)まさかって、本当に、こんな事があるんやなって。

姉・鉄子さん)次の日に、加西の市長さんも火葬場にきてくださって。
ききて)1月20日が火葬だったんですね。
姉・鉄子さん)その時も宮司さんいてくれたんかな。越木岩の宮司さん…。
母・惠子さん)うん。
姉・鉄子さん)葬儀の儀をしてくださって…。一部、ほんとに親しかった患者さんが2人ぐらい、朝来られたんかな。

震災前、大学病院を辞めたいと打ち明けていた

母・惠子さん)震災のちょっと前に、大学病院を辞めたいって…泣いたの。
ききて)どうしてですか。
姉・鉄子さん)お仕事がすごいやっぱり忙しかったんでしょうね。
母・惠子さん)忙しかったんでしょうね。
姉・鉄子さん)でまあ、いろいろやりたいことがあったんですよやっぱり。絵を描いたりとか、エッセイとか童話作ったりとか、そういうことも多分、すごくやりたかったんです。だから、いろいろ、時間があったら何かイラストを描いてみたりとか、ちょっとしたエッセイ書いたり。『ロマンス三国志』っていう、自分が作った「清濂(せいれん)※」っていうヒロインと孔明さんのロマンスなんかも、なんかの、応募のために書いてたらしくて。そういうことをしてみたりとか。あと、ちょっとこんなエッセイ書いたよとかこんな短編書いたよとかいうのもいってたんで、多分、そういうこともしたかったんでしょうね。学会とか、後進の指導とか、レポートとか、外来とかもあって…。

※「濂」の字は、原作では「さんずい」ではなく「にすい」。

母・惠子さん)しんどかったんだと思う。泣いてね。辞めたいって、自宅の、リビングのとこで泣いたの。
姉・鉄子さん)仕事辞めたいというよりも、とりあえず大学病院じゃないところに、行きたいっていう話で。でもそれだったら、どっかで、探してみるけど、今すぐにね、辞めるわけにはいかないよねって話はしてたんですけどね。
母・惠子さん)あの時、「じゃあ辞める?」って辞めさしたらよかったと思う。
姉・鉄子さん)まあ分かんないですやっぱり、何かいろいろ焦りみたいなのがあったのかもしれないですね…。
母・惠子さん)私ねあの時、「じゃあね、鉄ちゃんお姉ちゃんのところでね、
ちょっとねゆっくりしたら」って。いろいろ気をつかう子だったから…思ったんだけど、しばらく泣いたあと、「もうちょっと頑張ってみるわ」っていったの。

おしゃれより、本が大好きだった

母・惠子さん)あんまり、おしゃれとかそんなものは興味がなかったみたいね。
姉・鉄子さん)時間があったらすぐ本屋さん行く人で(笑)。本をいっぱい買ってて。
ききて)だからお部屋に本がいっぱいあったんですね。
姉・鉄子さん)そうですね。

ききて)(聖子さんを)引っ張り出せないと、本に埋まってると分かった後、お父様は、あるいはお母様はどういう行動をされたんですか。
母・惠子さん)そうお向かいの方がね、旦那さんと息子さんが出してくださった。前田さんっておっしゃる、測量事務所をなさってる方だった。それでいろいろ、坊ちゃんも一緒に来て下さって、それで、外れかけた階段を、おふたり、前田さんとこ、もう1人お坊ちゃんが来てくれはって3人で来てくれはって。そして、前田さんの車で病院に。
姉・鉄子さん)六甲アイランド病院ね。

ご近所に甘えた、助けてもらった、うれしかった

母・惠子さん)聖ちゃんが亡くなったいうの、ご近所の方はやっぱり、知りますでしょ。そしたら「何かお手伝いしたいから」って来てくれはって。で、(いっしょにいた)孫がまだ4歳でしたからね。ほっとくわけにいかないの。

ききて)ご近所の岡本さんがうちに来なさいといってくださったんですか。
母・惠子さん)そうそう。ずっともう古くから、私らも昭和32年から住んでましたからね。みなさんご近所で、いい方たちばっかりだったんで。浜田さんも岡本さんも、建て替えはったから(地震で壊れなかった)。他のところはみんな潰れたんですよ、古いおうちは。建て直したおうちだけが残ってて。でそこへ、声かけてくださったんでね、甘えました。助かった。うれしかったです。


(写真10:神職だった父・秀信さん。震災の19年後の2014年に88歳で他界した)


自転車で西宮と行き来していた父

ききて)その時、お父様のご様子はどうでしたか。
姉・鉄子さん)父は、いろいろ役所へ行ったりしてましたよね。このあと、遺体とかどうしたらいいんだとか、結構動いてたよね、お父さんね。
(うなずく惠子さん)
母・惠子さん)車が出せなかったから、西宮の越木岩神社まで自転車で行って。
姉・鉄子さん)越木岩まで自転車で行ったの?
母・惠子さん)車なんか通れませんかったからね…。もう私はみっちゃん…孫がね(気がかりで)。
姉・鉄子さん)あのとき4歳ぐらいやったと思う。3年保育に行きはじめてた。
ききて)目を離せないですよね。
姉・鉄子さん)岡本さん家に娘と同い年の子がいたので、普段から結構よく遊んでたね。だから娘はお友達のところ行って遊んでたから(笑)。でもしばらく、やっぱり音とかはすごい怖かったみたいで、トイレを流す音とか、いろいろすごい怖がってましたけど…。

患者さんを助けて来た妹が、何ら医療を受けられず亡くなった

姉・鉄子さん)救急で来られたら、心臓が止まってますみたいな患者さんとか、いろいろ危ない患者さんを助けてきたり、そういうのに関わってきた本人が、何ら医療を受けられずに亡くなるんだなと思うと、なんかすごい、ちょっと、ねぇ…。こんなものなのかなって思いましたけど…。
ききて)大混乱の中で、いつもならできる医療ができなくなっていたんですね。
姉・鉄子さん)これがほんとに、同じ…日本の中でこんな事が起こるんだと。


(写真11:インタビューを受ける姉・鉄子さん<右>と母・惠子さん<左>)


ききて)お姉様は寝屋川の医院をまた開けなきゃいけなかったんですね。
姉・鉄子さん)そうですね。だから加西で葬儀していただいて。その翌日にはもう私、寝屋川に帰って来たのかな。
母・惠子さん)うん、その晩ね、もうお葬式終わって、結構早い時間に出たんですけども、渋滞でね、住吉川のあたりからものすごく、もう進まないんですよ車が。で帰ってきたのが夕方だった。で、岡本さん家へ帰ってきて、それで前田さんとか、みなさんご近所が寄ってくださってお葬式から帰って。そして、そこでね、いつまでも、岡本さんとこで、ご迷惑かけるわけにいかないし。私たち、ちっちゃい子どもも連れてましたしね。でどこか、すぐにでも住めるところがないかなと思って、聖ちゃんを出すのを手伝ってくれた測量事務所の前田さんにお話ししたら、すぐいろいろ手配してくださって。甲南山手ってございますでしょ。あの近くに、お部屋が1つ、結婚するために予約してた方が、震災で少し延期するから言うので。
ききて)空いた部屋が?
母・惠子さん)あるから、そこを世話してくださって。とりあえずそこへ、お布団と、とにかく何とかできるそれだけを持って、移って。それで、甲南山手のところから鉄ちゃんは、リュックしょって、寝屋川と行ったり来たりして。
ききて)あの時はみんなリュックとマスクで移動してましたよね。
姉・鉄子さん)そうですね、ほんとリュックでしたね。ですから、神戸ではみんなそうなのに、電車乗ってて大阪に近づいてくると何か全然違うんですよね。すごいギャップが大きかったんですけど(笑)。
ききて)あの時は「震災ルック」とかいって、神戸の人みんなはリュックを背負って歩かなきゃいけない。しかも時間もかかるし。
(相槌を打つ鉄子さん)

東灘の甲南山手から、一家で寝屋川に移る

姉・鉄子さん)お父さんは結構、片づけをしに行ったりとかしてましたね、家のね。
母・惠子さん)3月の追悼会までは、その甲南山手にいました。で、こちら(寝屋川)におうちが見つかったから、引っ越そうかといって。そこから、こっち(寝屋川)へ(移りました)。孫がまだ小さかったです。アスベストで、いろいろね被害が出てると困るからいうんで、思い切ってこっちに来たんですよ。
姉・鉄子さん)でも父はその後もずっと甲南山手に残って。
母・惠子さん)ちょっとマンションを作ってね、神戸の跡地のところに。
姉・鉄子さん)自宅跡を潰して、しばらく自分もそこに住んで、賃貸で人に…。
母・惠子さん)主人もそこで、管理を兼ねて住んでたんですけども。だんだん年がいって、やっぱり心配でね、1人置いておくのが。年いってくるとね。で、震災後11年か12年たって、寝屋川の医院の近くの神社の宮司を頼まれて、こちらに移りました。


(写真12:大阪・梅田のホテルで行われた追悼会には多くの友人や同僚が参列した 1995年3月21日撮影)

震災2か月後に「追悼会」 手作りの冊子を配る

姉・鉄子さん)3月に、追悼会をしましょうという話になって。大阪・梅田のホテルグランヴィアで。
母・惠子さん)電車が、JRが動くようになって、みなさんがちょっと集まれるようになって。3月の20日。
姉・鉄子さん)地下鉄サリンのあの日。
母・惠子さん)帰り、大阪からここに帰ってくるときに、(事件を大きく報じる)夕刊を見ました。だからあの日だと思う。そこまではもう、本当に何をしたか覚えていない…(笑)。

ききて)追悼会はどんな方が来られましたか。
姉・鉄子さん)これが追悼会の時にお配りした、これをもとに『夢半ば』とかいろいろ作ったんですけどね。
(追悼会で配布した冊子を開く鉄子さん)
母・惠子さん)追悼会に間に合うように、作ったよね。
姉・鉄子さん)うん、間に合うように、これはみんなで、ワープロ打ってくださったり、コピーをしてくださり、コピーしたものをまた医院でコピーして。で、綴じて。それとこのメモリアルアルバムと、このポートレートみたいなのをお配りして。
(封筒からポートレートを取り出す鉄子さん)

ききて)(追悼会で配布された冊子に載っている)この絵は聖子さんが描かれたものですか。
姉・鉄子さん)聖子の絵です。この辺に吊ってるものは全部聖子の絵です。
(室内の壁に飾られている絵を指さす鉄子さん)
姉・鉄子さん)聖子の神戸高校時代からのお友達だった、古林さんっていう方がいて、その方とそのお母様とが、追悼でいただいたお手紙なんかをできるものはワープロ打ちしたり。で、その原稿作ってくださって、それをコピーして、うちの医院で、みんな手伝いに来てくださって、綴じて作ったんですよ。


(写真13:追悼会で配布された冊子)

あのとき、どうして助け出せなかったんかなぁ

ききて)何人ぐらい集まられましたか。
姉・鉄子さん)追悼会何人来た?
姉・鉄子さん)たっくさんやったね。
母・惠子さん)グランヴィアさんで追悼会するのは初めてっておっしゃって。やから、これからの参考に、いろいろとしますのでって、協力してくださいました。
ききて)みなさん混乱の中でお別れがなかなかできなかったから、そういう会があるとみなさんやって来られたでしょうね。
母・惠子さん)…本当に。
姉・鉄子さん)この『夢半ば』(追悼の本)を作ったのはいつ?
母・惠子さん)1周忌。1年祭のときに。
姉・鉄子さん)1年祭か。

母・惠子さん)あのとき、聖ちゃんはどうして助け出せなかったんかなって、そればっかり思いますね…。
ききて)でもこの(冊子に載っている)お手紙の中に、お母さんに宛てたお手紙もお姉様に宛てたお手紙もたくさんあって、聖子さんはすごく家族思いですね。
母・惠子さん)聖ちゃんもわりかし、家族やからいうてあんまりわがままもいいませんし、案外…気遣いを、お互いが気遣いしすぎて…聖ちゃんもあんまり心配かけまいと思ってるとこがあって…。

(惠子さんにアルバムを差し出す鉄子さん)
母・惠子さん)あっ、これ追悼会の時のです。3月、グランヴィアでした時の。
姉・鉄子さん)こっちが1年祭。妹の『森のかんづめ』(絵本)とかを、みんなにお配りしたので。これは翌年だわ多分。結構このときも人に来てもらってたと思うんですよね。


(写真14:聖子さんの原作を元に制作された『森のかんづめ』)

お誕生日に、1月17日に 届く花やメッセージカード

姉・鉄子さん)聖子のお友達っていうのは、みなさんこう、長く、わりと深くというか。だから今でも、10月13日のお誕生日にメッセージカードをくれたりとか。
母・惠子さん)毎年送ってくれはる。お手紙下さる、聖ちゃんに。
姉・鉄子さん)震災の日にも必ず、フラワーアレンジを習ってらっしゃって、手作りのそれを送ってくださったり。今でも1月17日は神戸大病院の同僚の先生とか、神戸高校の時のお友達からお花が届いたり。
ききて)今度は震災29年。次は30年ですよね。

姉・鉄子さん)追悼会の時もすごいたくさん来てくださったし。一年祭の時は川本喜八郎先生(聖子さんが好きだったNHKテレビの人形劇『人形歴史スペクタクル平家物語』の人形作家)が来てくださって。
ききて)多くの人に愛されたんですね。聖子さんは。
姉・鉄子さん)聖子の書いてた童話で、この『森のかんづめ』っていう絵本も出版することになったり(初版1997年1月19日)。『森のかんづめ』を広めたいねって、お友達が神戸市の小学校中学校に配ってくださったりして。
母・惠子さん)人形劇も、してくれはったね。
姉・鉄子さん)山口県の人形劇団が人形劇をして好評だったので。東北の震災の後そちらの方にも公演に行ったりとか。被災地の小学校と全国の福祉施設、養護施設に1冊ずつ送らせてもらいましょうということで、送らせてもらって。


(写真15:人形作家の川本喜八郎さんから贈られた人形。聖子さんの創作『ロマンス三国志』の孔明とヒロイン 2023年10月29日寝屋川市で)


地鎮祭で走り回った父 バタバタしてたから生きてられたんやと思う

母・惠子さん)お父さんも地鎮祭で忙しかったよね。
ききて)被災地でさら地になって、何か建物を建てる時には、お父様はお仕事というか地鎮祭をやらなきゃいけないわけですね。
姉・鉄子さん)越木岩神社さんのお手伝いで、地鎮祭に走り回ってましたね。
母・惠子さん)お父さんの神社は地震で壊れてしまって。日吉神社っていう神社。その再建もしないといけませんしね。
(新聞記事を出す)
姉・鉄子さん)神社を再建した時の。
母・惠子さん)みんなバタバタしてたね。
姉・鉄子さん)バタバタしてたから、生きてられたんやと思う。
母・惠子さん)そう。そう。
姉・鉄子さん)目の前にやらないといけない事がすごくあったので。でなかったら本当に止まってしまったかもしれない。
母・惠子さん)ほんとにうつ状態になってたかもわかりません。


(写真16:聖子さんの遺品や資料が、段ボール箱に入ったまま保管されている 2023年10月29日寝屋川市で)


妹のマツダ「ルーチェ」に乗りつづけた父

ききて)新聞記事で紹介されたマツダのルーチェ。これはどういう自動車なんですか。
母・惠子さん)今も置いてます。
姉・鉄子さん)そう。父と妹と同じ車だったんですよ。父もルーチェに乗ってたんですけれど、震災の後、寝屋川から神戸に帰る時かな、事故をして、車が結構駄目になって。ちょうど妹も同じルーチェだったので、色が違ったんですけど、妹のルーチェにそのまま父が乗ることになる。
ききて)あー。そうだったんですか。
姉・鉄子さん)それでずっと地鎮祭も行ったし、ずっとそれに乗っていました。
母・惠子さん)いつも聖子と一緒だって。
姉・鉄子さん)20万キロ以上乗ったんじゃない。
母・惠子さん)今も1ヶ月に1回は動かしてます。
ききて)とりあえず動かさないと機械が。
姉・鉄子さん)動かなくなっちゃうんでね。


(写真17:マンションの駐車場には聖子さんのルーチェが停められていた。震災後は父・秀信さんが乗っていた 2023年10月29日寝屋川市で)

絵を教えていた父 信仰を深めた父

ききて)絵も上手いですね。聖子さんね。
姉・鉄子さん)父がもともと神戸市の小学校の美術の教諭なんです。定年退職までずっと学校の先生をしていました。やりながら、父も神官の、神職の資格を勉強してとって。
母・惠子さん)鉄子が生まれたときから。
姉・鉄子さん)私が生まれた時に先天性の心疾患で、あんまりもう長くないっていわれて。父にしてみれば、なんとかそれを助けてほしいということで。それで信仰するようになって。で、私がとりあえず元気になって神様へのお礼というかちゃんとご奉仕するということで、父はちゃんと神職を取って、で、神社に奉務することになった。

ききて)聖子さんは医師として働かれる中で、患者さんにも絵付きのお手紙を書かれている。
姉・鉄子さん)そうですね。便箋とか封筒とかいつも持ち歩いていて、お手紙をくださる方には必ずお手紙を返してました。

姉・鉄子さん)すごい気を遣う子です。自分がこれをこうしたいとかこっちをやりたいと思ってても、でもこっちの方が相手はしたいんだろうなと思ってたら自分の方を一応あきらめるというか。
母・惠子さん)相手を立てたね。
姉・鉄子さん)もうめっちゃ真面目でしたね。何に対しても。


(写真18:聖子さんのイラストや絵。震災後に一家が引っ越した寝屋川の自宅に飾られている)

それぞれが頑張って生きていたこと 覚えていてほしい

ききて)震災が神戸で起こったということを、大学でどのように語り継いでいけばいいと思いますか。
姉・鉄子さん)次々震災があったり、いろんな災害もあったり、戦争もそうですし。時代とともに、みなさん覚えてらっしゃる方、関わった方が亡くなっていかれて…。そういう中で、みんなそれぞれ、ちゃんと生きてましたよって、精いっぱい頑張ってましたよって、だからそれを、覚えてていただきたい。やっぱり忘れないで、今みんなの礎のもとに私たちいるんだよっていう気持ちで、やっぱり毎日を大切にしていってほしいなっていうのをすごく思います。
ききて)お母様はいかがですか。
惠子さん)私はもう、逃げたい気持ちがいっぱいありましたけど、こういうところから逃げたい、逃げたいと思ってすごく苦しみましたけど。やっぱり、孫が、少しずつ大きくなってくるんですよね。やっぱりここで、逃げるわけにはいかないなと。この孫がやっぱり一人前になるまでは、もうちょっと少しでも世の中の役に立つと言ったら大げさですけれど、ちょっとでもこう自分のやりたいこと、それがこうできるように手伝ってやりたいなとは思ってます。


(写真19:インタビューを受ける姉・鉄子さん<右>と母・惠子さん<左>)

ききて)姪の満子さんは覚えてらっしゃいますよね聖子さんのこと。
姉・鉄子さん)そうですね。ちっちゃい時にね、よく遊んでもらって。それこそリカちゃん人形で遊んでもらったりとか。セーラームーンごっこをしてもらったりとか。そういうのでは結構覚えてるみたいですけどね。

姉・鉄子さん)聖ちゃんが亡くなっているっていうことで父も母もみんなすごいしんどいんだな、というところとか、娘は娘でずっとそれを感じながら生きてきてるんですよね。なのでやっぱりどこかこう、私は聖子ちゃんの代わりでなくちゃいけないんだっていう、そういうプレッシャーは結構大きいとは思いますけどね。
母・惠子さん)それはやっぱり、私としたら、しんどいです。思わせるのがね。でもやっぱり。
姉・鉄子さん)みんながそれを望んでしまうというか。そこは。みんなに応えたいというか、やっぱり自分は家族の一員なんだからっていうのは、ずっとあの人は思って頑張ってきてると思うんですけど。

姉・鉄子さん)やっぱりおじいちゃんともすごい仲よかったですし、神社を手伝いに行ったりとか。私も神職を取って、娘も神職の資格を取って。
ききて)そうなんですか。
姉・鉄子さん)そういうこともやりたいねっていうのもずっと思ってますし。やっぱり娘は娘なりにこの家族のもとに生まれてきたんだということで、ちゃんと、つないでいかなくちゃいけないというか。その思いを、みんなが頑張ってきたんだよっていうのは、よく分かってると思います。


(写真20:姉・鉄子さんの医院のデスクには聖子さんの写真が 2023年10月29日 寝屋川市香里本通町で)

治すことだけが医療じゃない

ききて)神戸大の医学部付属病院は震災の時に大変な状況になりました。若い医療関係者に、何かメッセージはありますか?
姉・鉄子さん)生きたくても生きられなかった人いるって。傷を治すとか病気を治すってことだけが決して医療じゃない。その背景にあるもの、相手の立場とか相手の状況とかいろんなものを分かって一緒にこれ治そうねとか、この病気を治すために頑張りましょうねとかっていうふうな先生になって頂けたらいいなと思います。

ききて)震災からまもなく30年ですよね。患者さんを大切にした聖子さんですから、多くの被災者に寄り添う医療をしたかったでしょうね。
姉・鉄子さん)やっぱり忘れないでほしいですよね。一括りで何百人っていうことではないですもんね。一人一人にちゃんと大事にしてた人生があり、家族がありですもん。
母・惠子さん)聖ちゃんの事を覚えておいてほしい…。

ききて)お休みのところ、つらいことを思い出させてしまい申しわけありませんでした。ありがとうございます。しっかり記録にとどめるようにします。


(写真21:神戸大医学部研修医のころの中條聖子さん。1990年12月9日、神戸港で。姉・鉄子さんが撮影)

<2023年10月29日取材/2023年1月10日 アップロード>

【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c2d5117248a9b9113f440404c75a199c
【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/48d0d74888c9781a6fa42cd8fd39cdad

【連載】慰霊碑の向こうに 震災の日、学生たちの命は…<震災29年版>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/78ae5006ff0f40fc07c08e88050f1141
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています


(写真22:聖子さんの追悼作品集『夢なかば』)