中條聖子さん(ちゅうじょう・せいこ、当時29歳、兵庫県立神戸高校卒、島根医科大学卒/医学部付属病院 第三内科勤務医師)は、神戸市東灘区魚崎中町2−4の自宅で亡くなった。
1995年1月17日午前5時46分ごろ、自宅2階で就寝中に激しい揺れに見舞われ、本棚と崩れて来た書籍の下敷きになった。すぐにはひっぱり出すことができず、同じ2階で寝ていた父・秀信さん(故人・2014年に88歳で他界)が懸命に声をかけても返事がなかったという。
聖子さんは近所の人たちに救出され、秀信さんが病院に運んだものの、死亡が確認されただけでなんの処置もされなかったという。
大阪寝屋川市で開業医をしている姉・鉄子さんは、知らせを聞き、昼過ぎに休診にして神戸に向かった。途中でタクシーは進めなくなって、人家で自転車を借り、ようやく夜7時半たどり着いた魚崎の実家は倒壊せず建っていたのだが…。妹は近所の家に安置されていた。
取材班は、大阪府寝屋川市の現在のご自宅で、姉・鉄子さん(64)、母・惠子さん(87)にお話をうかがった。
【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/48d0d74888c9781a6fa42cd8fd39cdad
(写真1:加西市民病院で勤務していたころの中條聖子さん 1993年か1994年撮影)
名前を呼んでも返事がない 聖子が死んだ
ききて)1995年1月17日早朝の地震発生時はどこにいましたか?
姉・鉄子さん)私は、(寝屋川市の)マンション5階の自分の部屋で寝てたんですね。母と父と、妹・聖子と、私の娘が神戸市東灘区魚崎の実家のほうにおりました。
姉・鉄子さん)父と妹・聖子が2階で別々の部屋で寝ていて。母と、私の娘は1階で寝てたんです。
姉・鉄子さん)で地震が起こって。…私はその辺の事情は、よく分からないんだけど、父が地震だといって、聖子の名前を呼んでも返事がない、って。聖子が亡くなったんじゃないか、聖子が死んだって言ったのよね。
(うなずく、母・惠子さん)
姉・鉄子さん)そう言って、2階から、父は自分でとりあえず何とか下りてきて、聖子が返事がないんだって言って。で、母がそんなバカな事ないでしょうといって2階に上がっていって。
(うつむく惠子さん)
(写真2:インタビューを受ける母・惠子さん<左>と姉・鉄子さん<右> 2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)
顔に、鼻に触れて…息はしていなかった 認めたくなかった
姉・鉄子さん)そしたらその本棚の下敷きになっていて。
母・惠子さん)もう、本が全部ね、お布団の上から全部かぶさってしまって。ちょうど本箱が2本並べて置いてあって、その横の所へ聖ちゃんはお布団敷いて寝ていましてね。だから、本棚が全部、…開いたんでしょうか、戸が外れたんでしょうかね。
ききて)観音開きになっていたんですか。
姉・鉄子さん)そうそう。
母・惠子さん)全部本がドサッ、本が、全部…。本棚も、本と一緒に、こう…
ききて)倒れてきたんですか。
母・惠子さん)はい。
姉・鉄子さん)顔は見えていたの?
母・惠子さん)顔は見えてない。いつもこう、お顔の所までお布団引き上げて寝る子なもんだから、お布団の中に手を入れて、顔のところ触って、お鼻のところを触って。うん、本当に息はしてなかった。でも、認めたくなかったものですから…。
(うつむく惠子さん)
地震のちょっと前に、声をかけようとした
母・惠子さん)、(あの朝、地震の前に)3回ほどね、…お2階へ行って。最初は、途中まで行って、3段ぐらいまで。そのときに、気になって。聖ちゃんに声がかけたくって。ほんの、地震のちょっと前なんですけどね。
ききて)明け方ですね。
母・惠子さん)夜明けです。3段ほど行って。いや、今さっき寝たばっかりやから、起こしたらかわいそうやな思って、また戻ってきて。やっぱり気になってまた中ほどまで行って。で、最後には、踊り場まで行って。こう、ふすまを開けたかったんですけども。たしか4時過ぎまで、娘が起きてましたからね。それまで学会発表が間近に迫っていて、原稿とかそんなんを作ってたんだと思います。…いつも明け方まで、仕事や勉強をしていましたからね。
母・惠子さん)で、また下りてきて。そこまで行ったのになあ。何で、止まったんやろ、っていっつも思います。で、ふすまをあけなかったの。
(涙声になり、ため息をつく惠子さん)
ききて)じゃあ、何かちょっと、気になったんですね。
母・惠子さん)うん。…なんででしょうね。…そんなこと今までなかったんですけどね。…すごく悔やまれます。あのとき声をかけていたら…。
前の晩、家族そろった食卓で地震の話をした
ききて)前の日は、振り替え休日の月曜日でしたね。ご家族はどんな様子だったんですか。
姉・鉄子さん)私も(実家に)帰って、前の晩はみんなでお食事していて。そのときかな、「地震が来るかも」って母がそんな事をいったんですよ。
母・惠子さん)いや、週刊誌の表紙の見出しのところに、大きな地震が、っていうような見出しだったと思うんですけどね。それを、チラッと見ていて。そんな話をしたんじゃないかと思います。
ききて)じゃあ、ご家族で地震の話になっていたんですね。
姉・鉄子さん)でもまさか、そんなことないでしょという話をしていて。そのときに妹が、「死ぬんなら、私が一番だわ、潜水艦みたいなところに寝てるもん」って。
ききて)どういうところに寝ていたんですか。
姉・鉄子さん)普通のお部屋なんですけれども。机があって、大きな本棚が2つある真横で、お布団を敷いて寝ていたんで。
(写真3:インタビューを受ける、姉・鉄子さんと母・惠子さん 2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)
久しぶりにお布団を並べて寝た姉と妹
母・惠子さん)めったに、聖ちゃんとお休みがあうことはなかったんですけど。その日はたまたま、鉄子が帰ってきてて。じゃあ、お座敷でお布団2人分敷いてって。
姉・鉄子さん)いつも私が(実家に)帰ると、(姉妹)2人でお布団を並べて寝るんですよ。だから2階のお部屋に2つ一緒に並べて寝て。普段は、妹は自分の部屋で寝てるんですけれど、私が帰ってる時は、お布団を2つ並べられる方の部屋で、2人で夜中までしゃべったり、遊んだりしながらいてたんですけれどもね。
姉・鉄子さん)その日(16日の夜)は、連休明けで車は混むから、夜のうちに寝屋川のほうに帰ると言って。で、妹は、自分の部屋で、1人で寝たんですよね。
母・惠子さん)わざわざお布団を移したのよ、自分のところへ。
(うなずきながら話す惠子さん)
ききて)本棚のある部屋に布団を移して、そこに寝たわけですね。
母・惠子さん)そうですね。やっぱり、自分の勝手がよかったんですよね。
姉・鉄子さん)お仕事もしないといけないしね。
母・惠子さん)翌日の準備をするのに。だから、川本(喜八郎)先生に…
姉・鉄子さん)『平家物語』の感想文をね。
母・惠子さん)感想文、テレビの(人形劇の番組の)感想文を書いて、封筒に入れて切手も貼って、それで、枕元へね。朝起きたらすぐ出られるように、置いてありました。そういうのをするのに、やっぱり自分の部屋の方が便利だったんでしょうね。
姉・鉄子さん)番組があった日は、必ず感想をその日に書いて、翌日出勤するときにポストに入れると。
午前4時過ぎまで起きていて 寝入りばなだった
ききて)何畳の部屋でした?
母・惠子さん)6畳でしたかしら。大きな机があって、大きな本箱が2つあって…。
ききて)よもや、その翌朝に地震が本当に起きるとは…。
母・惠子さん)神戸高校で一緒のお友達もね、同じような間取りで、同じように休んでいたんですって。…で、地震で飛び起きて逃げたんやって。逃げたら本箱が、全部倒れて。ほんの一瞬の違いで、助かったって。
母・惠子さん)ええ。聖ちゃんはもう疲れてたから、寝入りばなだったんだと思いますね…。眠ったとこだった。
ききて)4時過ぎまで起きてらしたんですもんね。
母・惠子さん)そう。いつも4時ぐらいまで起きてましたから。で、(勤務先の)神戸大学病院まで行くのに早く出ないとね、車が置けないからって言って。
母・惠子さん)神戸大学病院の近くに民間の駐車場を借りていましたの。大学へは入れられないから、って言って。早く行かないと、駐めるところがないから。
母・惠子さん)(地震から)だいぶしてから、駐車場の貸主さんに、ごあいさつと解約に行った時に、「ここにも神戸大学病院の先生が下宿していて、部屋はめちゃくちゃだったけど、けがもあったので、急いで病院に飛び出して行かれた」という話を聞いて、聖子を、家から通勤させず、ここに下宿させていたら助かったのに…。下宿したがってもいたのに…。と思うと辛かった。
(地図1:神戸市東灘区魚崎と寝屋川市は直線距離で40キロほど離れている)
深夜、妹に見送られて実家を出た 寝屋川に帰ったのは午前1時半ごろ
ききて)地震のあと、お父様が最初に様子がおかしいと気付かれた?
姉・鉄子さん)父の部屋もたんすが倒れてきたらしいんですけど、自分で一応ちゃんと部屋を出られて、で、聖子に声をかけたけど、返事がないんだと言って、1階に下りてきたらしいの。
ききて)そのとき、お姉様は約40キロほど離れた寝屋川に戻っていらした?
姉・鉄子さん)夜の1時ぐらいに神戸の実家を出たんですよ。いつも通りね、妹も見送ってくれて。
ききて)じゃあ、寝屋川のマンションに帰ってこられたのは?
姉・鉄子さん)1時半ぐらいに着いたのかな、こっちには。いつも出る時にはみんなで送ってくれるんです。じゃあ頑張ってね、ということで、またねって普通に、普通にもう本当に、そうですよね。
(写真4:神戸市と芦屋市の市境付近で倒壊した阪神高速 1995年1月17日午前9時ごろ 神戸大学ニュースネット委員会)
テレビニュースに見慣れた街が えっ、これ神戸じゃないの
ききて)朝、ここ寝屋川も揺れましたよね。
姉・鉄子さん)かなり揺れてびっくりして起きて。ただ、物が落ちることもなかったんですよ。とりあえず起きて見回したけど何もなってないので。もう一回ちょっと寝てたんですよ。
姉・鉄子さん)それほどのことが起こっているとは思ってなかったんですけど…。余震の揺れで起きたときにテレビをつけ、ニュースを見てるとどんどんどんどん、見慣れた阪神高速や、JRの住吉のところにあったところが崩れているとか。そういうのが出てきて初めて、えっ、これ神戸じゃないのって。
姉・鉄子さん)そこから、神戸に電話しても全然連絡がとれなくて。医院のあるマンション5階の部屋の電話が不通になったので、仕方なくマンションの1階の医院に下りて…。そこは薬棚そのものも、どうもなっていなかったんです。医院にいれば何か連絡がとれると思って、しょうがなく、まあ医院は開けていたんですけれどね。
公衆電話から やっとつながった電話で
姉・鉄子さん)そうしたら、(神戸の)家の近所の方から、お電話が午前10時か10時半に。
母・惠子さん)お向かいの塚本さん。
姉・鉄子さん)うんうん。お電話をくださって。「みんなは?」って言ったら、「みんな大丈夫よ」っておっしゃってくださったので。よかった、って。みんな元気で無事だったらよかったわ、と思ったら。…その時は、みんな私のことも妹のことも知っていたから言えなかったんでしょうね、きっと。妹が亡くなったことをね。
姉・鉄子さん)「ああ、よかったわ」って思ってたら、しばらくして今度は母から電話がかかってきて。
母・惠子さん)全然電話通じなくてね。
ききて)家からは通じなくて。
母・惠子さん)はい、通じなくて。近くの公衆電話に並んで。
(写真5:震災直後の様子を話す、母・惠子さん<左>と姉・鉄子さん<右>、2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)
聖子が亡くなった そう伝えるのがやっとでした
母・惠子さん)大勢並んでいるでしょ。だから、詳しい話はあんまりできなくて。聖子が亡くなったということだけ、伝えるのがやっとでした。
姉・鉄子さん)で、「救急車を呼んだ?」とか言ったら、「救急車なんか来れるような状態じゃないよ」って。でも、想像もつかないので、私にしたら。えっ、なんでって。まさか、本当に、妹が亡くなるなんて、もう絶対違うと思ってたから。
姉・鉄子さん)そこで(医院の)みんなに妹がどうも亡くなったらしい、午後から、休診にして、何とか私は神戸に行くからって。帰ってこれたらすぐ帰ってくるねって。とりあえず明日1日は、休診って貼りだしておいてくれるっていって…。
姉・鉄子さん)12時半まで一応、診療なので、そこが終わったらすぐ閉めて、で、タクシーに来てもらって。もう乗ってそのまま神戸の方に向かったんですよね。
大阪・寝屋川からのタクシー 尼崎から進めなくて
姉・鉄子さん)尼崎ぐらいまでは行ってくれたんですよ。あちこち、う回しながらね。でそこから、もう国道2号線に入ったら動かない。(タクシーの運転手が)「ここから先どうしても行けないです」って言って。ずっとしばらく乗っていたんですけれども。でも、車に乗っていたら、震災で、亡くなった方とかがどのぐらいとか、亡くなった方の名前とか…。
ききて)ラジオで?
姉・鉄子さん)そうですね、タクシーの中のラジオで色々いうじゃないですか。…妹は名前が出てない、出てないと思いながら。で、尼崎ぐらいかな、降ろしてもらって。もう全然、車は動けないので。
姉・鉄子さん)そこで、しばらく歩いていたんですけれど。日がだんだん暮れてくるし、こんなんじゃたどりつけないと思って。自転車かバイクを買いたかったんですけれど、その辺のお店ももう全部閉まっていて。で、自転車屋さんのシャッターが下りていたんで。そこの、すぐご近所のお家に、とりあえず、「すいません、そこの自転車屋さん、どこにお住まいか分かります?」って、「自転車がどうしても欲しいんです」っていって。そうしたら「どうされましたか」っていったので、震災で、…家族が亡くなったって聞いたんでどうしても行きたいんです、って話をしたら、そこの方が、自転車を1台貸してくださったんです。「この自転車使わないからどうぞ使って」っていって、そこの奥様が貸してくださって。「冷たいでしょ」って言って、ご自分の手袋も貸してくださって。で、そこから、本当に自転車で、ずっと魚崎まで帰ったんですよ。
(地図2:尼崎市から神戸市東灘区魚崎までは直線距離で10キロほどある)
自転車を借り、夜7時ようやくたどりついた魚崎
ききて)魚崎に着いたのはどれぐらいでした。
姉・鉄子さん)何時でしたかね。夜の7時ぐらいだったんじゃないかな。5時過ぎぐらいにタクシーを降りて。
母・惠子さん)7時過ぎてた。真っ暗やったね。
姉・鉄子さん)ただ、国道2号線とかはもう煌々と。車が動かないから、明かりがついているんですよね。
ききて)ヘッドライトがずらっと並んでいる。
姉・鉄子さん)歩道は段差が出来てしまっていて。自転車は借りたんですが、普通に乗れない所がほとんどなんですね。
ききて)平らなところがない。
姉・鉄子さん)そばでみんな、倒れたたんすだの板なんかを出してきて、たき火をしているわけですよね。寒かったですもんね、あの時ね。
姉・鉄子さん)道路が落ち込んでいるところに、がれきというか、戸板みたいなそういうものを渡して車がそっと1台ずつとか動く程度のそういうところを、とりあえず自転車を押したり、ちょっと乗ったりしながら帰って。
姉・鉄子さん)2号線をちょっと南の方へ下ろうと思ったらもう真っ暗なんですよね。で、車が駐まっていたりしない限りは、どこもかしこも(停電で)真っ暗だった。あかりがついているなと思ったら火災なんですよね。そんなところを見ながら、すごいことになっているんだと思って。ビルも崩れていたりしているし。…こんな事が起きているんだということが、もう信じられなかったですけれども。
姉・鉄子さん)で、いつも通る、甲南本通っていう、商店街なんですけれどもね。やっとそこまでなんとか来て。アーケードがもう落ちてて、真っ暗で。でもまあ、とりあえず道は分かるので、…自転車は乗れたのかな。乗って、そしたら今度火災がすごく、火の手が上がってたりとかで。そういうところを、本当に見ながら、とにかく帰らなきゃ、帰らなきゃと思って帰ったんですけれども。
妹は斜め向かいのお宅に安置されていた
ききて)じゃあ、夜の7時過ぎぐらいに、ご自宅が見えた。
姉・鉄子さん)うん。で、「あっ、建ってるやん」と思ったんですよ家が、とりあえずは。今まで帰ってくる道中でいっぱいぺしゃんこの家とか、2階が道路にせり出しているのとか、いっぱい見てきたので。自分の自宅が見えたときに、あっ、ちゃんと建物が建ってるなっていうので。あ、もしかして大丈夫やったんちがうかなって、思ったんですけど。
姉・鉄子さん)でも、帰っても誰もいなくって。そしたら、斜め向かいの、岡本さんっていうお宅なんですけれど、そこはね、建て替えて新しいお家だったんです。(新築)3年ぐらいだったのかな。
母・惠子さん)地盤強化もしてあったし。
姉・鉄子さん)全く無傷でつぶれなかったので。でそこに行ったら、(岡本さんが)「ええ、いらしてるよ」といってくださって。そこに、父と母と娘と、聖子も置いていただいていて。そこで初めて、妹に会ったんですよね。
(写真6:中條聖子さん、1984年4月島根医科大の入学式で)
父はずっと妹の心臓マッサージをしていたという
ききて)お父様、お母様は、どういうふうに迎えられましたか。
姉・鉄子さん)「帰ってきたん」っていったかな。
母・惠子さん)うん…。
姉・鉄子さん)ただもう、本がいっぱいで、とてもじゃないけど、引き出せるような状態じゃなかったらしくて。お向かいの家のご主人とか息子さんたちが手伝って、本箱を上げてもらって。それから、妹をとりあえず下まで下ろしてくださって、それから、お父さん、だいぶ長い間、心臓マッサージしたの?
母・惠子さん)うん。
姉・鉄子さん)何とか近くにあった、六甲アイランド病院に連れてったらしいんですけれど。もう当然、生存してませんよ、って。亡くなってます、の一言だったと。何もしてくれなかった、って。そりゃそうなんですけどもね。
姉・鉄子さん)で、帰ってきてからも、ずっと父は、心臓マッサージをやってた、っていってました。見かねて、母がもう痛がるからやめてあげてって。私はそういうことは、聞いただけなんですけど。
見かねた母が 痛がるからやめてあげてと…
母・惠子さん)娘(姉・鉄子さん)が帰ってきてくれて、ちょっと、気が落ち着いたんですけどね。その晩に、ガス管か何かが。
姉・鉄子さん)その次の日じゃなかった?
ききて)地震の翌朝、東灘区の南半分に避難勧告が出ましたね。
姉・鉄子さん)そうそうガスタンクか何か。
ききて)海沿いにあるLPG(液化石油ガス)のタンクで…。
姉・鉄子さん)ガス漏れが発生しているのではないかということで。
母・惠子さん)緊急避難をしないといけなくなってね。それで、聖ちゃんは、岡本さんのところへ預けて。私らは…。
姉・鉄子さん)小学校へ行ったよね。福池小学校。ご近所の方と。
母・惠子さん)そう、岡本さんご家族と、私と。そのお隣の…。
姉・鉄子さん)浜田さんか。
母・惠子さん)3家族で福池小学校に避難しました。そしたらもう、体育館とかは、毛布に包んで、亡くなった方がいっぱいあって…。
避難所から戻って、電話をし始めた
母・惠子さん)朝方になって、避難勧告は解除になりましたでしょう。私と、みっちゃん(鉄子さんの娘・満子さん)は避難所に残って。
姉・鉄子さん)父と私で、とりあえず1回、岡本さん家に帰らしてもらって。で、そこから色々電話し始めたよね。
母・惠子さん)うん。
母・惠子さん)避難してたところは、食べ物が何もありませんでしょう。1人、2人に1個のちっちゃいパンを頂いて。
ききて)2人で1個?
母・惠子さん)うん、2人で1個。それでね、私と孫(満子さん)は、あとから、帰ってきて。
加西市から来たというトラックに出会って
母・惠子さん)途中で、自宅の近くのね、ちょうど、お宮さんがあるんですよね。その近くで、トラックに出会って。で、電池を下さったの。
姉・鉄子さん)懐中電灯の?
母・惠子さん)懐中電灯に入れる予備の電池を頂いて。それで、「どこから来はったの」って(トラックの運転手に)聞いたらね、「加西から来た」って言うの。で「どうやって来られたの」って聞いたら、「六甲トンネルを通ってきました」って。だから、六甲トンネルは通れるんやと思って。灘区の神戸大学のとこから六甲トンネルを越した所に、主人のアトリエがありましたのでね。じゃあそこに、何とか避難ができるなと思ったんですよ、その時は。
母・惠子さん)六甲トンネル通って中国自動車道を通ってきたとおっしゃったから、じゃあ、加西に連絡がつくかも分からないと思って。
ききて)加西ということは、聖子さんが以前お勤めになっていた病院のあるところですね。
母・惠子さん)体育館にたくさん置いてあったご遺体なんかでも、みんな1月26日までは出せませんとおっしゃったの。火葬も何もできないって。地震が17日でしょ。26日まで、そのまま何もできないとおっしゃって。で、どうしようか、寝屋川にも運べないし、って言ってたら、加西になんとか連絡がつくかもって。ちょっと希望が湧いてきて。で、加西に電話したのね。
(地図3:加西市は神戸の中心部から北西に約40キロ離れた播磨平野の町)
元勤務先のある加西市 「こちらなら火葬もできる」
姉・鉄子さん)(妹の以前の勤務先の)加西病院に電話して、中條ですって言ったら、「ああよかった」っていわれて。「いや、妹が亡くなったんです」って言ったら、「まさか」っていって、電話に、妹がいた内科の上司の先生が出てくださって。「神戸大病院から、もしかしたら中條さんが亡くなっているかもしれないと情報が来てたんだけど、まさかと思っていたんです」って。だから、「実際そうで、こちらでは、神戸の方では何も、葬儀も火葬も何もしてやれないんです、全然遺体が動かせなくて」っていったら、「じゃあちょっと待ってくださいね」って、「病院長とも相談します」といってくださって。でそのあと、「加西に来てください」っていってくださったんですね。
姉・鉄子さん)「聖子さんのいた宿舎も空いているし、加西の方で火葬もできます」っていってくださったんで。で、そこから、
母・惠子さん)動いたね。
姉・鉄子さん)動いたのね。そこまでは、寝屋川に電話したり色々したけど結局全然無理で。長いことご近所にお世話になっているわけにも行かないですし、加西に、じゃあ行くって話になったんです。
姉・鉄子さん)今は、市立加西病院ですが、当時は、加西市民病院という名前でした。
ききて)じゃ、来なさいと、言ってくださった?
姉・鉄子さん)山谷先生という上司の先生が、「ここにいらしてください」って。「宿舎もあいているから、泊まって頂く事もできるし、火葬もちゃんとできるようにします、できますから」っておっしゃってくださったので。で、じゃあもう、加西になんとかして行こうと、自分の家の車と、あと、父がそのころ西宮の越木岩(こしきいわ)神社の宮司さんとお友達で、よく手伝いに行ったりとかもしていたので。越木岩も結構被災していたんですけれども、そこの宮司さんが行ってあげるっていう事で、神社のライトバンで。で、聖子を乗せて…。
<2023年10月29日取材/2023年1月10日 アップロード>
【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c2d5117248a9b9113f440404c75a199c
【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/48d0d74888c9781a6fa42cd8fd39cdad
【連載】慰霊碑の向こうに 震災の日、学生たちの命は…<震災29年版>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/78ae5006ff0f40fc07c08e88050f1141
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています
続く
1995年1月17日午前5時46分ごろ、自宅2階で就寝中に激しい揺れに見舞われ、本棚と崩れて来た書籍の下敷きになった。すぐにはひっぱり出すことができず、同じ2階で寝ていた父・秀信さん(故人・2014年に88歳で他界)が懸命に声をかけても返事がなかったという。
聖子さんは近所の人たちに救出され、秀信さんが病院に運んだものの、死亡が確認されただけでなんの処置もされなかったという。
大阪寝屋川市で開業医をしている姉・鉄子さんは、知らせを聞き、昼過ぎに休診にして神戸に向かった。途中でタクシーは進めなくなって、人家で自転車を借り、ようやく夜7時半たどり着いた魚崎の実家は倒壊せず建っていたのだが…。妹は近所の家に安置されていた。
取材班は、大阪府寝屋川市の現在のご自宅で、姉・鉄子さん(64)、母・惠子さん(87)にお話をうかがった。
【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/48d0d74888c9781a6fa42cd8fd39cdad
(写真1:加西市民病院で勤務していたころの中條聖子さん 1993年か1994年撮影)
名前を呼んでも返事がない 聖子が死んだ
ききて)1995年1月17日早朝の地震発生時はどこにいましたか?
姉・鉄子さん)私は、(寝屋川市の)マンション5階の自分の部屋で寝てたんですね。母と父と、妹・聖子と、私の娘が神戸市東灘区魚崎の実家のほうにおりました。
姉・鉄子さん)父と妹・聖子が2階で別々の部屋で寝ていて。母と、私の娘は1階で寝てたんです。
姉・鉄子さん)で地震が起こって。…私はその辺の事情は、よく分からないんだけど、父が地震だといって、聖子の名前を呼んでも返事がない、って。聖子が亡くなったんじゃないか、聖子が死んだって言ったのよね。
(うなずく、母・惠子さん)
姉・鉄子さん)そう言って、2階から、父は自分でとりあえず何とか下りてきて、聖子が返事がないんだって言って。で、母がそんなバカな事ないでしょうといって2階に上がっていって。
(うつむく惠子さん)
(写真2:インタビューを受ける母・惠子さん<左>と姉・鉄子さん<右> 2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)
顔に、鼻に触れて…息はしていなかった 認めたくなかった
姉・鉄子さん)そしたらその本棚の下敷きになっていて。
母・惠子さん)もう、本が全部ね、お布団の上から全部かぶさってしまって。ちょうど本箱が2本並べて置いてあって、その横の所へ聖ちゃんはお布団敷いて寝ていましてね。だから、本棚が全部、…開いたんでしょうか、戸が外れたんでしょうかね。
ききて)観音開きになっていたんですか。
姉・鉄子さん)そうそう。
母・惠子さん)全部本がドサッ、本が、全部…。本棚も、本と一緒に、こう…
ききて)倒れてきたんですか。
母・惠子さん)はい。
姉・鉄子さん)顔は見えていたの?
母・惠子さん)顔は見えてない。いつもこう、お顔の所までお布団引き上げて寝る子なもんだから、お布団の中に手を入れて、顔のところ触って、お鼻のところを触って。うん、本当に息はしてなかった。でも、認めたくなかったものですから…。
(うつむく惠子さん)
地震のちょっと前に、声をかけようとした
母・惠子さん)、(あの朝、地震の前に)3回ほどね、…お2階へ行って。最初は、途中まで行って、3段ぐらいまで。そのときに、気になって。聖ちゃんに声がかけたくって。ほんの、地震のちょっと前なんですけどね。
ききて)明け方ですね。
母・惠子さん)夜明けです。3段ほど行って。いや、今さっき寝たばっかりやから、起こしたらかわいそうやな思って、また戻ってきて。やっぱり気になってまた中ほどまで行って。で、最後には、踊り場まで行って。こう、ふすまを開けたかったんですけども。たしか4時過ぎまで、娘が起きてましたからね。それまで学会発表が間近に迫っていて、原稿とかそんなんを作ってたんだと思います。…いつも明け方まで、仕事や勉強をしていましたからね。
母・惠子さん)で、また下りてきて。そこまで行ったのになあ。何で、止まったんやろ、っていっつも思います。で、ふすまをあけなかったの。
(涙声になり、ため息をつく惠子さん)
ききて)じゃあ、何かちょっと、気になったんですね。
母・惠子さん)うん。…なんででしょうね。…そんなこと今までなかったんですけどね。…すごく悔やまれます。あのとき声をかけていたら…。
前の晩、家族そろった食卓で地震の話をした
ききて)前の日は、振り替え休日の月曜日でしたね。ご家族はどんな様子だったんですか。
姉・鉄子さん)私も(実家に)帰って、前の晩はみんなでお食事していて。そのときかな、「地震が来るかも」って母がそんな事をいったんですよ。
母・惠子さん)いや、週刊誌の表紙の見出しのところに、大きな地震が、っていうような見出しだったと思うんですけどね。それを、チラッと見ていて。そんな話をしたんじゃないかと思います。
ききて)じゃあ、ご家族で地震の話になっていたんですね。
姉・鉄子さん)でもまさか、そんなことないでしょという話をしていて。そのときに妹が、「死ぬんなら、私が一番だわ、潜水艦みたいなところに寝てるもん」って。
ききて)どういうところに寝ていたんですか。
姉・鉄子さん)普通のお部屋なんですけれども。机があって、大きな本棚が2つある真横で、お布団を敷いて寝ていたんで。
(写真3:インタビューを受ける、姉・鉄子さんと母・惠子さん 2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)
久しぶりにお布団を並べて寝た姉と妹
母・惠子さん)めったに、聖ちゃんとお休みがあうことはなかったんですけど。その日はたまたま、鉄子が帰ってきてて。じゃあ、お座敷でお布団2人分敷いてって。
姉・鉄子さん)いつも私が(実家に)帰ると、(姉妹)2人でお布団を並べて寝るんですよ。だから2階のお部屋に2つ一緒に並べて寝て。普段は、妹は自分の部屋で寝てるんですけれど、私が帰ってる時は、お布団を2つ並べられる方の部屋で、2人で夜中までしゃべったり、遊んだりしながらいてたんですけれどもね。
姉・鉄子さん)その日(16日の夜)は、連休明けで車は混むから、夜のうちに寝屋川のほうに帰ると言って。で、妹は、自分の部屋で、1人で寝たんですよね。
母・惠子さん)わざわざお布団を移したのよ、自分のところへ。
(うなずきながら話す惠子さん)
ききて)本棚のある部屋に布団を移して、そこに寝たわけですね。
母・惠子さん)そうですね。やっぱり、自分の勝手がよかったんですよね。
姉・鉄子さん)お仕事もしないといけないしね。
母・惠子さん)翌日の準備をするのに。だから、川本(喜八郎)先生に…
姉・鉄子さん)『平家物語』の感想文をね。
母・惠子さん)感想文、テレビの(人形劇の番組の)感想文を書いて、封筒に入れて切手も貼って、それで、枕元へね。朝起きたらすぐ出られるように、置いてありました。そういうのをするのに、やっぱり自分の部屋の方が便利だったんでしょうね。
姉・鉄子さん)番組があった日は、必ず感想をその日に書いて、翌日出勤するときにポストに入れると。
午前4時過ぎまで起きていて 寝入りばなだった
ききて)何畳の部屋でした?
母・惠子さん)6畳でしたかしら。大きな机があって、大きな本箱が2つあって…。
ききて)よもや、その翌朝に地震が本当に起きるとは…。
母・惠子さん)神戸高校で一緒のお友達もね、同じような間取りで、同じように休んでいたんですって。…で、地震で飛び起きて逃げたんやって。逃げたら本箱が、全部倒れて。ほんの一瞬の違いで、助かったって。
母・惠子さん)ええ。聖ちゃんはもう疲れてたから、寝入りばなだったんだと思いますね…。眠ったとこだった。
ききて)4時過ぎまで起きてらしたんですもんね。
母・惠子さん)そう。いつも4時ぐらいまで起きてましたから。で、(勤務先の)神戸大学病院まで行くのに早く出ないとね、車が置けないからって言って。
母・惠子さん)神戸大学病院の近くに民間の駐車場を借りていましたの。大学へは入れられないから、って言って。早く行かないと、駐めるところがないから。
母・惠子さん)(地震から)だいぶしてから、駐車場の貸主さんに、ごあいさつと解約に行った時に、「ここにも神戸大学病院の先生が下宿していて、部屋はめちゃくちゃだったけど、けがもあったので、急いで病院に飛び出して行かれた」という話を聞いて、聖子を、家から通勤させず、ここに下宿させていたら助かったのに…。下宿したがってもいたのに…。と思うと辛かった。
(地図1:神戸市東灘区魚崎と寝屋川市は直線距離で40キロほど離れている)
深夜、妹に見送られて実家を出た 寝屋川に帰ったのは午前1時半ごろ
ききて)地震のあと、お父様が最初に様子がおかしいと気付かれた?
姉・鉄子さん)父の部屋もたんすが倒れてきたらしいんですけど、自分で一応ちゃんと部屋を出られて、で、聖子に声をかけたけど、返事がないんだと言って、1階に下りてきたらしいの。
ききて)そのとき、お姉様は約40キロほど離れた寝屋川に戻っていらした?
姉・鉄子さん)夜の1時ぐらいに神戸の実家を出たんですよ。いつも通りね、妹も見送ってくれて。
ききて)じゃあ、寝屋川のマンションに帰ってこられたのは?
姉・鉄子さん)1時半ぐらいに着いたのかな、こっちには。いつも出る時にはみんなで送ってくれるんです。じゃあ頑張ってね、ということで、またねって普通に、普通にもう本当に、そうですよね。
(写真4:神戸市と芦屋市の市境付近で倒壊した阪神高速 1995年1月17日午前9時ごろ 神戸大学ニュースネット委員会)
テレビニュースに見慣れた街が えっ、これ神戸じゃないの
ききて)朝、ここ寝屋川も揺れましたよね。
姉・鉄子さん)かなり揺れてびっくりして起きて。ただ、物が落ちることもなかったんですよ。とりあえず起きて見回したけど何もなってないので。もう一回ちょっと寝てたんですよ。
姉・鉄子さん)それほどのことが起こっているとは思ってなかったんですけど…。余震の揺れで起きたときにテレビをつけ、ニュースを見てるとどんどんどんどん、見慣れた阪神高速や、JRの住吉のところにあったところが崩れているとか。そういうのが出てきて初めて、えっ、これ神戸じゃないのって。
姉・鉄子さん)そこから、神戸に電話しても全然連絡がとれなくて。医院のあるマンション5階の部屋の電話が不通になったので、仕方なくマンションの1階の医院に下りて…。そこは薬棚そのものも、どうもなっていなかったんです。医院にいれば何か連絡がとれると思って、しょうがなく、まあ医院は開けていたんですけれどね。
公衆電話から やっとつながった電話で
姉・鉄子さん)そうしたら、(神戸の)家の近所の方から、お電話が午前10時か10時半に。
母・惠子さん)お向かいの塚本さん。
姉・鉄子さん)うんうん。お電話をくださって。「みんなは?」って言ったら、「みんな大丈夫よ」っておっしゃってくださったので。よかった、って。みんな元気で無事だったらよかったわ、と思ったら。…その時は、みんな私のことも妹のことも知っていたから言えなかったんでしょうね、きっと。妹が亡くなったことをね。
姉・鉄子さん)「ああ、よかったわ」って思ってたら、しばらくして今度は母から電話がかかってきて。
母・惠子さん)全然電話通じなくてね。
ききて)家からは通じなくて。
母・惠子さん)はい、通じなくて。近くの公衆電話に並んで。
(写真5:震災直後の様子を話す、母・惠子さん<左>と姉・鉄子さん<右>、2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)
聖子が亡くなった そう伝えるのがやっとでした
母・惠子さん)大勢並んでいるでしょ。だから、詳しい話はあんまりできなくて。聖子が亡くなったということだけ、伝えるのがやっとでした。
姉・鉄子さん)で、「救急車を呼んだ?」とか言ったら、「救急車なんか来れるような状態じゃないよ」って。でも、想像もつかないので、私にしたら。えっ、なんでって。まさか、本当に、妹が亡くなるなんて、もう絶対違うと思ってたから。
姉・鉄子さん)そこで(医院の)みんなに妹がどうも亡くなったらしい、午後から、休診にして、何とか私は神戸に行くからって。帰ってこれたらすぐ帰ってくるねって。とりあえず明日1日は、休診って貼りだしておいてくれるっていって…。
姉・鉄子さん)12時半まで一応、診療なので、そこが終わったらすぐ閉めて、で、タクシーに来てもらって。もう乗ってそのまま神戸の方に向かったんですよね。
大阪・寝屋川からのタクシー 尼崎から進めなくて
姉・鉄子さん)尼崎ぐらいまでは行ってくれたんですよ。あちこち、う回しながらね。でそこから、もう国道2号線に入ったら動かない。(タクシーの運転手が)「ここから先どうしても行けないです」って言って。ずっとしばらく乗っていたんですけれども。でも、車に乗っていたら、震災で、亡くなった方とかがどのぐらいとか、亡くなった方の名前とか…。
ききて)ラジオで?
姉・鉄子さん)そうですね、タクシーの中のラジオで色々いうじゃないですか。…妹は名前が出てない、出てないと思いながら。で、尼崎ぐらいかな、降ろしてもらって。もう全然、車は動けないので。
姉・鉄子さん)そこで、しばらく歩いていたんですけれど。日がだんだん暮れてくるし、こんなんじゃたどりつけないと思って。自転車かバイクを買いたかったんですけれど、その辺のお店ももう全部閉まっていて。で、自転車屋さんのシャッターが下りていたんで。そこの、すぐご近所のお家に、とりあえず、「すいません、そこの自転車屋さん、どこにお住まいか分かります?」って、「自転車がどうしても欲しいんです」っていって。そうしたら「どうされましたか」っていったので、震災で、…家族が亡くなったって聞いたんでどうしても行きたいんです、って話をしたら、そこの方が、自転車を1台貸してくださったんです。「この自転車使わないからどうぞ使って」っていって、そこの奥様が貸してくださって。「冷たいでしょ」って言って、ご自分の手袋も貸してくださって。で、そこから、本当に自転車で、ずっと魚崎まで帰ったんですよ。
(地図2:尼崎市から神戸市東灘区魚崎までは直線距離で10キロほどある)
自転車を借り、夜7時ようやくたどりついた魚崎
ききて)魚崎に着いたのはどれぐらいでした。
姉・鉄子さん)何時でしたかね。夜の7時ぐらいだったんじゃないかな。5時過ぎぐらいにタクシーを降りて。
母・惠子さん)7時過ぎてた。真っ暗やったね。
姉・鉄子さん)ただ、国道2号線とかはもう煌々と。車が動かないから、明かりがついているんですよね。
ききて)ヘッドライトがずらっと並んでいる。
姉・鉄子さん)歩道は段差が出来てしまっていて。自転車は借りたんですが、普通に乗れない所がほとんどなんですね。
ききて)平らなところがない。
姉・鉄子さん)そばでみんな、倒れたたんすだの板なんかを出してきて、たき火をしているわけですよね。寒かったですもんね、あの時ね。
姉・鉄子さん)道路が落ち込んでいるところに、がれきというか、戸板みたいなそういうものを渡して車がそっと1台ずつとか動く程度のそういうところを、とりあえず自転車を押したり、ちょっと乗ったりしながら帰って。
姉・鉄子さん)2号線をちょっと南の方へ下ろうと思ったらもう真っ暗なんですよね。で、車が駐まっていたりしない限りは、どこもかしこも(停電で)真っ暗だった。あかりがついているなと思ったら火災なんですよね。そんなところを見ながら、すごいことになっているんだと思って。ビルも崩れていたりしているし。…こんな事が起きているんだということが、もう信じられなかったですけれども。
姉・鉄子さん)で、いつも通る、甲南本通っていう、商店街なんですけれどもね。やっとそこまでなんとか来て。アーケードがもう落ちてて、真っ暗で。でもまあ、とりあえず道は分かるので、…自転車は乗れたのかな。乗って、そしたら今度火災がすごく、火の手が上がってたりとかで。そういうところを、本当に見ながら、とにかく帰らなきゃ、帰らなきゃと思って帰ったんですけれども。
妹は斜め向かいのお宅に安置されていた
ききて)じゃあ、夜の7時過ぎぐらいに、ご自宅が見えた。
姉・鉄子さん)うん。で、「あっ、建ってるやん」と思ったんですよ家が、とりあえずは。今まで帰ってくる道中でいっぱいぺしゃんこの家とか、2階が道路にせり出しているのとか、いっぱい見てきたので。自分の自宅が見えたときに、あっ、ちゃんと建物が建ってるなっていうので。あ、もしかして大丈夫やったんちがうかなって、思ったんですけど。
姉・鉄子さん)でも、帰っても誰もいなくって。そしたら、斜め向かいの、岡本さんっていうお宅なんですけれど、そこはね、建て替えて新しいお家だったんです。(新築)3年ぐらいだったのかな。
母・惠子さん)地盤強化もしてあったし。
姉・鉄子さん)全く無傷でつぶれなかったので。でそこに行ったら、(岡本さんが)「ええ、いらしてるよ」といってくださって。そこに、父と母と娘と、聖子も置いていただいていて。そこで初めて、妹に会ったんですよね。
(写真6:中條聖子さん、1984年4月島根医科大の入学式で)
父はずっと妹の心臓マッサージをしていたという
ききて)お父様、お母様は、どういうふうに迎えられましたか。
姉・鉄子さん)「帰ってきたん」っていったかな。
母・惠子さん)うん…。
姉・鉄子さん)ただもう、本がいっぱいで、とてもじゃないけど、引き出せるような状態じゃなかったらしくて。お向かいの家のご主人とか息子さんたちが手伝って、本箱を上げてもらって。それから、妹をとりあえず下まで下ろしてくださって、それから、お父さん、だいぶ長い間、心臓マッサージしたの?
母・惠子さん)うん。
姉・鉄子さん)何とか近くにあった、六甲アイランド病院に連れてったらしいんですけれど。もう当然、生存してませんよ、って。亡くなってます、の一言だったと。何もしてくれなかった、って。そりゃそうなんですけどもね。
姉・鉄子さん)で、帰ってきてからも、ずっと父は、心臓マッサージをやってた、っていってました。見かねて、母がもう痛がるからやめてあげてって。私はそういうことは、聞いただけなんですけど。
見かねた母が 痛がるからやめてあげてと…
母・惠子さん)娘(姉・鉄子さん)が帰ってきてくれて、ちょっと、気が落ち着いたんですけどね。その晩に、ガス管か何かが。
姉・鉄子さん)その次の日じゃなかった?
ききて)地震の翌朝、東灘区の南半分に避難勧告が出ましたね。
姉・鉄子さん)そうそうガスタンクか何か。
ききて)海沿いにあるLPG(液化石油ガス)のタンクで…。
姉・鉄子さん)ガス漏れが発生しているのではないかということで。
母・惠子さん)緊急避難をしないといけなくなってね。それで、聖ちゃんは、岡本さんのところへ預けて。私らは…。
姉・鉄子さん)小学校へ行ったよね。福池小学校。ご近所の方と。
母・惠子さん)そう、岡本さんご家族と、私と。そのお隣の…。
姉・鉄子さん)浜田さんか。
母・惠子さん)3家族で福池小学校に避難しました。そしたらもう、体育館とかは、毛布に包んで、亡くなった方がいっぱいあって…。
避難所から戻って、電話をし始めた
母・惠子さん)朝方になって、避難勧告は解除になりましたでしょう。私と、みっちゃん(鉄子さんの娘・満子さん)は避難所に残って。
姉・鉄子さん)父と私で、とりあえず1回、岡本さん家に帰らしてもらって。で、そこから色々電話し始めたよね。
母・惠子さん)うん。
母・惠子さん)避難してたところは、食べ物が何もありませんでしょう。1人、2人に1個のちっちゃいパンを頂いて。
ききて)2人で1個?
母・惠子さん)うん、2人で1個。それでね、私と孫(満子さん)は、あとから、帰ってきて。
加西市から来たというトラックに出会って
母・惠子さん)途中で、自宅の近くのね、ちょうど、お宮さんがあるんですよね。その近くで、トラックに出会って。で、電池を下さったの。
姉・鉄子さん)懐中電灯の?
母・惠子さん)懐中電灯に入れる予備の電池を頂いて。それで、「どこから来はったの」って(トラックの運転手に)聞いたらね、「加西から来た」って言うの。で「どうやって来られたの」って聞いたら、「六甲トンネルを通ってきました」って。だから、六甲トンネルは通れるんやと思って。灘区の神戸大学のとこから六甲トンネルを越した所に、主人のアトリエがありましたのでね。じゃあそこに、何とか避難ができるなと思ったんですよ、その時は。
母・惠子さん)六甲トンネル通って中国自動車道を通ってきたとおっしゃったから、じゃあ、加西に連絡がつくかも分からないと思って。
ききて)加西ということは、聖子さんが以前お勤めになっていた病院のあるところですね。
母・惠子さん)体育館にたくさん置いてあったご遺体なんかでも、みんな1月26日までは出せませんとおっしゃったの。火葬も何もできないって。地震が17日でしょ。26日まで、そのまま何もできないとおっしゃって。で、どうしようか、寝屋川にも運べないし、って言ってたら、加西になんとか連絡がつくかもって。ちょっと希望が湧いてきて。で、加西に電話したのね。
(地図3:加西市は神戸の中心部から北西に約40キロ離れた播磨平野の町)
元勤務先のある加西市 「こちらなら火葬もできる」
姉・鉄子さん)(妹の以前の勤務先の)加西病院に電話して、中條ですって言ったら、「ああよかった」っていわれて。「いや、妹が亡くなったんです」って言ったら、「まさか」っていって、電話に、妹がいた内科の上司の先生が出てくださって。「神戸大病院から、もしかしたら中條さんが亡くなっているかもしれないと情報が来てたんだけど、まさかと思っていたんです」って。だから、「実際そうで、こちらでは、神戸の方では何も、葬儀も火葬も何もしてやれないんです、全然遺体が動かせなくて」っていったら、「じゃあちょっと待ってくださいね」って、「病院長とも相談します」といってくださって。でそのあと、「加西に来てください」っていってくださったんですね。
姉・鉄子さん)「聖子さんのいた宿舎も空いているし、加西の方で火葬もできます」っていってくださったんで。で、そこから、
母・惠子さん)動いたね。
姉・鉄子さん)動いたのね。そこまでは、寝屋川に電話したり色々したけど結局全然無理で。長いことご近所にお世話になっているわけにも行かないですし、加西に、じゃあ行くって話になったんです。
姉・鉄子さん)今は、市立加西病院ですが、当時は、加西市民病院という名前でした。
ききて)じゃ、来なさいと、言ってくださった?
姉・鉄子さん)山谷先生という上司の先生が、「ここにいらしてください」って。「宿舎もあいているから、泊まって頂く事もできるし、火葬もちゃんとできるようにします、できますから」っておっしゃってくださったので。で、じゃあもう、加西になんとかして行こうと、自分の家の車と、あと、父がそのころ西宮の越木岩(こしきいわ)神社の宮司さんとお友達で、よく手伝いに行ったりとかもしていたので。越木岩も結構被災していたんですけれども、そこの宮司さんが行ってあげるっていう事で、神社のライトバンで。で、聖子を乗せて…。
<2023年10月29日取材/2023年1月10日 アップロード>
【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c2d5117248a9b9113f440404c75a199c
【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/48d0d74888c9781a6fa42cd8fd39cdad
【連載】慰霊碑の向こうに 震災の日、学生たちの命は…<震災29年版>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/78ae5006ff0f40fc07c08e88050f1141
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています
続く
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