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【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年) =父・秀夫さんの証言=

2020-01-12 20:10:16 | 阪神・淡路大震災

(写真:坂本竜一さん。1年浪人して、行きたかった神戸大に合格した。)

 坂本竜一さん(当時22歳、兵庫県立八鹿高卒/応用化学科)は、神戸市灘区六甲町2丁目4の西尾荘1階に下宿していた。
 神戸の西に隣接する明石市に住んでいた父・秀夫さん(74)は、1995年1月17日の早朝5時46分、立っていられないほどの揺れにみまわれた。出張準備ですでに起きていた秀夫さんは、まずその日の出張を取りやめる段取りをしようと、車で神戸市兵庫区の会社に向かった。
 須磨区から長田区を通過する道路では、消防のホースが何本も横切っていた。長田の火災情報は車内のラジオでも流れていたという。
 秀夫さんは会社を午後1時ごろ出発。竜一さんの下宿の様子を見に行こうとさらに東に向かう。
 あたりが薄暗くなりかけたころ、ようやくたどり着いた灘区六甲町。しかし、西尾荘の建物はなく、煙がくすぶっているだけで、場所を間違えたかと思ったほどだった。

激震で倒壊した木造の西尾荘。東側の市場から燃え広がった炎がそこを襲った。このアパートでは、3人の神戸大生が亡くなった。
 竜一さんが、救出に駆けつけた学生に話した最後の言葉。これが後日、新聞に掲載され、父・秀夫さんを苦しませたのだった。


(写真:西尾荘の焼け跡。坂本竜一さんと、中村公治さん、鈴木伸弘さんの3人の神戸大生がここで亡くなった。1995年3月18日撮影 神戸大メディア研/ニュースネット )

私も74歳 竜一のとこに行くのもだいぶ近くなってきたかなぁと

父・秀夫さん:今年25年の法事やったやね。あっという間に過ぎ去った感じするな。25年は早かった。私も74歳や。だから、竜一のとこに行くのも、だいぶ近くなってきたかなぁと。平均年齢でいうと6、7年もしたら、あっちの世界でまた遊べるわい、一杯飲めるわいと思ってる。

きき手:神戸大学工学部の学科は?
父・秀夫さん:応用化学。
きき手:本人のご希望だったんですか?
父・秀夫さん:いやあどうかなぁ。理工系に行きたいとは言いよったけど。
きき手:合格発表や入学式はいっしょに行かれたんですか?
父・秀夫さん:いや私は見に行ってないですよ。現地建設工事で長期出張中で、行くことはできんかった。
きき手:入学が決まった時は一緒に喜ばれたんでしょう?
父・秀夫さん:うん。田舎(八鹿)へ帰ってささやかなお祝いをした。祖父母や叔父にも祝ってもらった。(生きていたら)いまなんぼや47、8歳になるんちゃう。ええおっさんや。


(写真:出張がちだった父・秀夫さん。男手で育てた竜一さんの大学合格はうれしかった。)

入学1年たって、阪神深江の下宿から六甲町の西尾荘に引っ越した

父・秀夫さん:(被災した灘区六甲町の)西尾荘に来る前はね、阪神深江近くの学生下宿におったんや。家主が、半分取り壊して建て替えするいうことで、出てくれいわれて(西尾荘に)引っ越した。私は長期出張中やったから、自分で(次の下宿を)探すように言うて…。引っ越し先が決まってから、週末に私が神戸に帰って、私の車で引越しした。大学に入って一年たってから、こっちの六甲町に来たんかな、それまでは深江の方でした。

きき手:お父様はどんなお仕事をされていたんですか?
父・秀夫さん:当時は名古屋に据付工事で長期の出張で、舞台機構の機器据付工事に行ってました。

父・秀夫さん:(地震のあった)1月17日の夜は、灘区民ホール1階は多くの人でいっぱいやった。ここだけ公衆電話がどうにか使えたので、順番待って家族と連絡取ってた。ずっとあとに復旧工事で区民ホールにいかなあかんことがあったけど、どうしても行けなくて、外してもらったことがあった。あそこだけは行きたくないと。

明石市大久保から兵庫区和田岬の会社まで、4、5時間かかった

きき手:当時の自宅だった明石市大久保の団地で地震を感じられたときどんな状況でしたか?
父・秀夫さん:あの日の朝は、出張に行くために早くから起きてました。ドーンと揺れて、うわって揺れて、立ってられへんかった。竜一に電話したけど通じへんかった。
きき手:明石市大久保と神戸は3、40キロ離れてますね。六甲町が火事になっとるいうのは、どの時点で知ったんですか?
父・秀夫さん:六甲町が火事になっとるいうのは全然知らなかった。長田のほうが火事になってるのは聞いたけど。車で移動中にラジオで聞いた。

父・秀夫さん:無事で、まあどこかに行ってるやろと、安易に考えてましたわ。全然。だから亡くなってるとか、そういう災難に遭うとは思わんし。出張のこともあったので、とにかく会社に行って、客先に出張のキャンセルを連絡して、そのあと隆一のところに行けばいいわと思って、午前6時ごろ明石を出た。
きき手:明石から神戸へ向かう途中は、どんな様子でしたか?
父・秀夫さん:大渋滞で全然進まへんし、長田区の浜側の道(2号線南側道路)では、いっぱいある(道を横切っている)消防ホースを乗り越えながら、兵庫区和田岬の会社まで、4、5時間もかかった。
きき手:大変な状況に竜一さんが巻き込まれているかもしれないと気付いたのは、いつだったんですか?
父・秀夫さん:いや、それは西尾荘に着いてから。建物がなくなって、煙が少し上がってた。



薄暗くなりかけたころ西尾荘に到着 建物はなく煙が少し上がってた

きき手:何時ごろ西尾荘にたどりつかれたんですか?
父・秀夫さん:会社を午後1時過ぎに出たけど、なかなか進まなくて、車をかなり離れた王子公園のあたりに置いて、歩いて西尾荘に向かった。あたりが薄暗くなりかけたころ着いたけど、建物はなくて、煙が少し上がってた。建物がないので、場所を間違えたかと思ったぐらいやった。

父・秀夫さん:学生が2人ほどどっか収容されてるとかなんとか、その辺の人が言っとったから、病院に行っとんかなと思って病院に行った。海星病院とか、阪急より上の電気ついとう病院は全部行った。4、5か所。負傷して入院してる人の名前の中に無いから…。

父・秀夫さん:で、西尾荘に戻って…。大家さんと会ったのは1月18日やったと思う。「坂本君の顔見てない」と言われた。昼前ぐらいやったと思う。大家さんも(息子が逃げられなかったと)わかっとったって、俺にそんなこと言われへんわなあ。言えないと思うわ。俺だってわかるよ。

父・秀夫さん:その前に、会社行って、「こういう事情やから当分会社出てこれへんから」ていうたら、手伝いに行く言うて、で皆会社の連中が現場に来てくれた。


翌々日、掘ってみるしかないと…鈴木さんとこも手伝って

父・秀夫さん:とにかくその部屋のとこを掘ってみるしかないやん。
1階の真ん中の南側の部屋。とにかく俺も何回かあいつの部屋に行ってるから、間取りはだいたい分かっとうから…。水もなにもかかってないから熱いんよ、手袋かなんかしてても。
部屋んとこを掘って何もなかったら、どっか行っとるんやろし…。それを確かめるには掘るしかないからね。

父・秀夫さん:で消防署に言ったら、勝手にやったら(現場検証をしていない火災現場をさわったら)あかんらしいね。だけど、なんとか許可をくれたんやね、会社の人が行って言うてくれたんや。警察も消防も手が回らんから、したらあかんとかいいながら黙認みたいな感じやと思うね。身内がするんやからね。生死を確認するために。

父・秀夫さん:(息子を)探しとった時に、(同じ西尾荘に住んでいた神戸大生の)鈴木さん(の家族)らと一緒になってね。夫婦2人で来てた。私は身内も来てくれたし、会社の人間も来てくれたし、こっちはもう手が足りとるから、そっち助けたってくれていうて、鈴木さんとこをな。
そうそう。鈴木さんも来られたから。掘り始めたのは3日目(1月19日)やったと思う。2日目は何もできんかった。



地獄やなと思った。骨拾ったの初めてやもん

きき手:で、掘ろうということになったんですね。
父・秀夫さん:そうそうそう。掘るしかないとなって…。
3日目に全部掘り出した。遺骨とジーパンのボタンやら硬貨。枕もとのカセットテープなんかを触ったらぐしゃぐしゃっとつぶれてまうけど、形はあったし。漫画本の形も。
そん中に一万円硬貨もあった。それは俺が「金なくなったらこれ使えるから」と渡していたものやった。

きき手:総勢何名くらいで掘られましたか?
父・秀夫さん:宝塚の俺のいとこが来てくれたのと、加古川の叔父も来てくれたし、まあ、2人ともバイクで。田舎から妹夫婦も来てくれとった。会社の人もおったし、5、6人おったのかな。それで、うちは手が足るから、鈴木さんとこは2人やったんで、会社の人に手伝ってあげてと言ったんです。

きき手:当初、西尾荘で生死が不明だったのは坂本さんと鈴木伸弘さん=工学部3年=、中村公治さん=経営学部3年=の3人でした。
父・秀夫さん:鈴木さんは浜松の人で中村さんは名古屋の人。なんか俺の仕事と関係のあるところばかり。めぐ合わせかなぁ思っとった。
外の(焼け残った)バイクのヘルメットには(竜一の)髪の毛が残っとったからね。DNA鑑定をしてないけど、それはあいつのバイクやと思って今でも仏壇に置いとるけどね。

きき手:掘っている間、どのようなお気持ちでしたか?
父・秀夫さん:いやあ、マジかいという気持ちと…。地獄やなと思った。俺、骨拾ったの初めてやもん。おじいさんおばあさんが先に亡くなってたけど、火葬場では(お骨を)拾ってないし、親父やお袋も(亡くなったのは)竜一より後やからね。俺が竜一の骨を拾うのが先やというのは、おかしいんやけどね、順序としては。 


遺骨を持って灘署に行って 鈴木さんと検視を待ってました

父・秀夫さん:だけど、おっきな骨はなかったなぁ。大腿のこんなとこの骨がちょっとこのぐらいの大きさのがあったかなぁ。あとはもうみんなもうわからへん。わからへんし、とにかく拾えるやつは全部拾って帰った。
何年かしてから、(区画整理で)造成してた時に、灘署から取りに来い言われて、また行ったことはある。骨を。それをまた、墓に、墓に入れるしかないからねぇ。

きき手:一緒に掘っていた鈴木さんのところも同じような状況でしたか?
父・秀夫さん:そうそう。そうです。あの人はベッドに寝とったんかな。金属製の枠組みのベッドがあるでしょ。きれいに拾えたん違うんかなぁて。

父・秀夫さん:掘って遺骨を拾った後は、検視をしてもらわなあかんでしょ。遺骨をもって灘署に行って、で検視官が神戸大医学部のお医者さんかな。死亡診断書を出してもらわなあかんから。それで灘署で待ってました。署内の通路にも避難されてる方がたくさんおられました。終わったら夜中の10時か11時ごろでした。鈴木さんと2人で待ってました。その日の晩で鈴木さんとは別れたけど。




骨はこれ以上焼いたらなくなってしまうから、遺品だけを棺桶に入れて

父・秀夫さん:俺は(明石市)大久保に帰って、あれ(火葬許可)を出してもらわなあかん。まあ火葬はもうせんでええのやけど、証明書を取らな。それから田舎に帰って葬儀したんやけどね。

父・秀夫さん:骨は(これ以上)焼いたらなくなってしまうから、遺品だけを棺桶に入れて。
きき手:遺品としてはどのようなものを入れられたのですか?
父・秀夫さん: 田舎(実家の養父市八鹿)に置いてた竜一の本、英検2級の合格証とか。あの世いったら役に立つかも分かれへんわね。子供のころから大切にしてたものをたくさん入れました。

きき手:死亡の診断書が出る、火葬の許可をもらうという、その。そういった一連のことが4日目の1月20日ですか?
父・秀夫さん:そうですね。3日目の晩に検視をしてもらって、(明石市)大久保に帰って、あくる日に明石市役所やなぁ、俺の住む近くに出張所があって、そこでやってくれたけど。
きき手:そして、その棺に入れて火葬の段取りになったんですね。
父・秀夫さん:そう、田舎で、私の親やら親戚が準備はみんなしてくれとった。
きき手:田舎というのは養父市ですか?
父・秀夫さん:そう、養父市の方。4日目の、役所に届けたその足で…。いや葬儀はそのあくる日やわ。


「もう俺のことはええかから逃げてくれ」と言ったというけれど

父・秀夫さん:東側から火が出てるでしょ。あっち側から火が来て、みなさん逃げざるを得んから、逃げたんやけど。(助けようとした学生に)「もう俺のことはええかから逃げてくれ」と(息子が)言うたと…。
そんな事情やから、そんなこと大家さんはだいたい知っておられて、俺にそんなこといえないやない。
俺もそんなこと、聞いたのは、3月に大学で慰霊祭をしたでしょ、あの時に新聞に書かれとったんよ。

(編集部注:朝日新聞大阪本社版1995年3月17日付夕刊の記事『友の目前、3人は逝った』には、「南棟二階の山口史郎さん(21)=工学部3年=は揺れが収まるのを待って外に飛び出した。自力で抜け出した松田好晴さん(22)=工学部4年=ら10人ほどの学生とともに、(中略)崩れた北棟の一階部分で、坂本さんを見つけた。のこぎりで畳を切り、床板を破ったが、坂本さんの下半身は木材などに挟まれて動かない。『火が来るー』。アパートの外から声がした。『君ら、危ななったら、頼むから逃げてくれ』。堂越浩さん(23)=農学部4年=の耳にいまも、坂本さんのその言葉が残る」と記されている。)



生きたまま焼かれたんやなぁ なかなか言葉にならんわ

父・秀夫さん:はっきりそのことを聞いたのはそれから5年してから。女性のテレビディレクターからやった。
きき手:2000年1月16日に放送されたNHK『新日本探訪』ですね。神戸大学の学生新聞「ニュースネット」の活動を描いた番組でしたね。
父・秀夫さん:「俺のことはええから逃げてくれ」とホントに言ったんやったらえらいやっちゃと。(女性ディレクターは)それはホンマやと、それは証明してくれる人がおるから電話つながるようにしてくれとったけど、私はええといって。それ以上のことは聞きたくない、聞いてもしょうがないしね。

父・秀夫さん:本人は亡くなった。生きたまま焼かれたんやなぁ、はっきり言うたら。だから今でこそ俺もそんなん言えるけど、なかなか言葉にならんわ。
その方(「逃げてくれ」と言ったと証言してくれた人)は、福井県の人、大野市かな。農学部の人。その人は2階やから助かっとんや。うちのやつは下(1階)やったから、ダメやったんや。


ホンマそんなこと言えるかなぁ…あの世行ったら聞いてみる

父・秀夫さん:私は全然知らんかった。なんで教えてくれんかったんやろうとはすごくおもったけど、まあ教えてもろたって一緒やけど。ショックが早く来るか遅く来るかだけの…。
きき手:なんで教えてくれんかったやろというのは?
父・秀夫さん:そういう亡くなり方したいうの全然知らんかったから。
昔から朝寝坊やったから、寝とって、ドンと来て潰されて(意識がないまま)火が来て亡くなったと。そう思うとったんやけど。

父・秀夫さん:火さえ来なかったら助かっとったわな。本人が「俺のことはええから逃げてくれ」とかね、ホンマそんなこと言えるかなぁとかな。もう自分であきらめて、もう出られない、しょうがないと思ってハラ決めたんかな。
まあそれは、またあの世行ったら聞いてみるわ。俺もあいつと同じ墓にはいるはずやから。聞いてみるわそれは。

きき手:その話を最初に聞いたときは、本当にそういう事を言ったのかな、という気持だったんですね。
父・秀夫さん:いやそらほんとかなぁという気持ち、すごいしてましたよ。そら、周りの人がうまいこといってくれとんのかなあとか、そんな気持ちがしとったからね。だけどそんな証明してくれる人がおるっていってね、その人が電話で話しますかといわれたときに、俺は「もっと何とかならんかったんかい」と言いたいぐらいやからね。そう言うかもわからんへんらね。
だから、それが事実やったらそれでええ。それで満足するから。

父・秀夫さん:火さえ来なかったら何とか時間かけたら助かってた話やから。そら足の一本はなくなってたかもしれへんで。
それがあいつが自分の口で言うたんやったら、それはえらいやっちゃとほめてやりたいと思うとるだけやけどな。悪あがきしそうな感じもするけどな。それがなかっただけにな、えらいやっちゃとわしは思ったな。

父・秀夫さん:実は、その後、助けようとした学生の一人に出会うことがありました。彼も長い間苦しんだことを聞きました。「もうあの時のことは忘れて、自分の人生を生きてほしい、竜一の分もがんばって」と伝えたんです。いまから15年から17年ぐらい前かな。


またあいつと会えるわ…そう思えるようになるには20年近くかかった

父・秀夫さん:今年で24年、25年になるよねぇ。だけど10何年かはなんか、しんどいというか、目標がなくなるというか、精神的には物凄いえらかったねぇ。
だんだん人生の終わりの年になってくるにしたがって、また、あいつと会えるわ、会って遊べるわってね、そういうふうに思えるようになるには20年近くかかったね。そういう感じがしますね。だから今70過ぎやろ、もうホンマ年齢だんだんいってきてから、ちょっと精神的にだいぶ楽になってきた。

きき手:前日、竜一さんはお父様と食事をされてったとうかがっています。
父・秀夫さん:夕方5時過ぎに来た。その時大相撲中継のテレビを見てたんです。見終わってから、食事に行こやいうて…。テレビ見てたとき、団地の鉄のサッシがちょっとガタガタ揺れた。なにげなしに、地震かなと。後で聞いたら地震やった。震度1か2かの弱い地震がやった。相当後になって知った。
前の日にね、好きな焼肉を食べて一緒に過ごしたんやから、他の人と比べたら言うことないやないかと思う。いい思い出にしたい。震災が来る前までの日々が、私も竜一も、それぞれの目標に向かって生活してた、一番いい時期、いい時代やったやと思ってる。


(写真:インタビューの前に、神戸大慰霊碑を訪れた秀夫さん。2019年8月14日、神戸市灘区六甲台町で)


大学の慰霊碑から持ち帰った楠の新芽 20年で大きく育った

父・秀夫さん:息子は、短い人生やったけど、彼の望み通り、全てをかなえて神戸大学工学部に入学して、下宿は一人住まいやったし、希望通りの人生を歩んだ。同級生の弟の家庭教師もしてた。自分も社会勉強になったと思うし、これからの人生の目標もあったんやろうなぁ。

父・秀夫さん:2000年の夏に、いつも通り神戸大学の慰霊碑の前に行ったら、楠の新芽が玉砂利の中から芽を出してた。その中の5センチぐらいの小さな芽を2本持って帰ったんです。育つかなぁと心配したけど、すくすく育った。30センチぐらいになった時、墓地に植えました。もう1本は、私の住んどる地域の公民館に植えてもらった。2本とも、20年近くの年月で、4メートルぐらいになりました。墓から私の家が見えるんです。いつも向こうから見てると思ってる。

父・秀夫さん:大学の慰霊碑は、墓ではないけれど、明石に住んでたときから、夏の7月末から8月ごろに、毎年、小さな花を持って行ってるんです。これからも、車の運転、身体の続く限り、行きたいと思ってます。

父・秀夫さん:竜一の亡くなり方もなんかちょっと特殊やしね。その場におった人だって、頭から一生離れへんのちゃうかな。自分自身で歯がゆい思いをされたんやろうと思うもん。俺もそうやけど、悲しい思い出になってしまうんかな、とか。そんな場面に出くわしてしもたのがな…。あの震災で6千何人死んだんやから、いろんな亡くなり方されたやろけど…特にその場にたまたま居合わせた人にとってつらい思い出やと、わしは思うもん。

父・秀夫さん:(葬儀に参列してくれた友人の)名前は、香典戴いた方には全部その時に名前全部書いとんやけどね。あの当時はロータスの123、そのフロッピーがあるんやけど、名前とか住所とか全部あれに入ってる。それを(いまのパソコンが)読んでくれへんからね、名前が全然分からん。



この大学で多くの学生・教職員が亡くなった このことだけは知ってほしい

父・秀夫さん:思うんやけど、テレビなんかで南海地震や東南海地震なんかが起きるとよく聞くけど、みんなどう思うのかなぁ。もしも地震が来たら、と思うことも、日常生活では必要ちゃうかな。頭の隅っこの中にはね、置いといてほしいなと。

きき手:今の学生の多くは、阪神淡路大震災のことや、たくさんの先輩が亡くなった事を知りません。何か、伝えたいことはありますか?
父・秀夫さん:神戸大学に入って卒業する子はやっぱり、阪神淡路大震災の時に、ここの学校で教職員、学生、留学生がこれだけ亡くなった、これだけ若い人が亡くなったんやってことだけは知ってほしいなと思いますね。慰霊碑があることを知らない学生もいるいうのは、ちょっとさびしいなぁ。
(2019年8月14日インタビュー、きき手:玉井晃平、森岡聖陽)




<2019年12月21日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b



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