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【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年) =母・恵美子さんと妹・朗子さんの証言=

2020-01-12 20:13:32 | 阪神・淡路大震災
 竸基弘さん(きそい・もとひろ、当時23歳、名古屋市立向陽高卒、池田研究室/ユースサイクリング同好会)は、神戸市灘区六甲町2丁目の杉本文化1階に住んでいた。
 1995年1月17日午前5時46分の地震発生時、実家のある名古屋も震度3の揺れを観測した。午前7時前に母・恵美子さんは基弘さんの部屋に電話をかけたが、話中音がするのみだった。次にかけた時は無音で、電話は繋がらなくなった。
 昼ごろ、友人からの電話で安否不明との情報。夜になって、研究室の教授から「明朝一番で神戸へ来て欲しい」との電話があり、18日朝、父・和巳さんは、妹・朗子さんとともに神戸に向かう。恵美子さんに「覚悟をしておくように」と言い残して…。
 和巳さんの記したメモには、基弘さんの救出、遺体安置所での待機、嘆き悲しむガールフレンド…。被災地神戸での記録が克明に残されていた。

 母・恵美子さんの住む名古屋市緑区のマンションで、恵美子さんと妹・朗子さんにお話を聞いた。


(写真:学部の卒業式で、笑顔の基弘さん。1994年3月。当時の写真はいずれも恵美子さん提供)


「竸くんから電話ありましたか?」

きき手)1995年1月17日の朝は、こちらも揺れましたか。
母)揺れました。台所に立ってまして、すごく揺れたんです名古屋でも。えーっと思ったんですけど、よもや神戸に地震が起きるとは考えもしなかったんで、そのままもう一度寝床に入って。で、テレビをつけたら、関西でっていうので、びっくりして。息子のところへ電話かけたけど、もう通じなかったです。最初は「話し中」みたいな音だったんです、1回目かけた時は。で、次かけたらもう、音がしなかった。
きき手)何時頃かけましたか?
母)朝7時ごろでした。連休明けで主人も出勤の日でしたので、気にしながら家を出ました。娘も気にしながら学校に行きました。いつも7時ごろテレビをつけてましたから。テレビをつける前に1回電話したのかな、その辺よく覚えてないんですよ。

母)主人は名東区長だったので、その日、会議があって。2月1日が区制20周年だったんです。その前の一番忙しい時でした。大事な会議だから行かなきゃいけないし、娘も学校に行くって言うんで…。

母)そしたら12時半ぐらいに、息子の友達から電話もらったんですよ。菅(かん)君ってお友達なんですけど、「竸くんから電話ありましたか?」って言われたから、「いや連絡はないし、連絡取れないんですけど」って言ったら、「今、下宿のところへ来てる」って。でも下宿は潰れてる。でも「竸君がいつも乗っているバイクがないから、きっとどこかへ行ってるかもしれない」って最初の電話は切れたんですよ。
メ)菅さんはどういう関係のお友達ですか?
母)同じ工学部の研究室のお友達。

妹)私は、普通に大学に行って、授業を受けてて。当時は携帯もなかったので、母が大学に電話をくれて、職員から呼び出しがあったんです。大学の公衆電話から自宅にかけたら、「お兄ちゃんがまだ見つかってないから、急いで家に戻っておいで」と言われて、すぐに家に帰りました。帰ったら、親戚のおじさんが居間にいて。とにかく、電話待ちだったのを覚えています。
母)テレビつけっ放しでね。



(写真:インタビューに応じる、母・恵美子さんと妹の朗子さん。名古屋市緑区で。2019年12月29日)


「あすの朝一番でおいでください」

母)そのあと1時間か2時間ほどしたところで、もう1回菅君から電話受けたんですけど、「いまこの辺が燃えちゃってる」って。近くの宮前商店街から出火したみたいで。「火が来ちゃってるので、立ち入り禁止になってて(杉本文化まで)行けない」っていうお電話いただいて。

母)で、そのあと待ってたら、夜に池田先生って教授の先生からお電話いただいて、「なるべく明日の朝、一番で早くおいでください」ってお電話いただいたんですね。

母)でも教授先生の電話に至る時点では、友達が、立ち入り禁止が解けて、下宿の跡に行ってかき分けかき分け息子の部屋のところへ行って、足が出てるのを見つけていた。で、脈がないっていうのでどうしようという話になって、で先生に相談して。
メ)お父さんお母さんにどう伝えようかと。
母)そうです。息子の友達たちは、親に直接言えないので…。先生は、亡くなったってことはおっしゃらなくで、「朝一番でおいでください」って…。

母)翌日、(主人と娘は)朝一番に近鉄で、鶴橋駅だったかな、そこまで行って、そこへ神戸大学の友達のS君がワゴン車で迎えに来てくださってて。娘と主人を乗せて六甲の北側を回って大学まで行って。
メ)六甲トンネルを抜けて行ったんですね。
母)たぶんね。そこから下宿までたどり着いたという話でした。
メ)妹さんも行かれたんですね
母)娘はお兄ちゃんの下宿にはよく行ってて、兄妹仲良くて。妹をかわいがる息子だったので。お兄ちゃんの友達にも、みんなにかわいがってもらったみたいなので。私が絶対(神戸に)行きたいからって、で、出かけて行ったんですけど。

母)主人は、「先生からそういう電話があったってことは、覚悟をしておきなさい」って言い置いて出かけたんですけど、娘にはそれを知らせなくて。言ったらショックだから、っていうので…。


お兄ちゃんどこーって…。しばらく叫んでた

妹)すごく時間をかけて、六甲の裏からだいぶ時間かけて神戸に入りました。着いたのが午後3時ぐらい。普通、始発で出たら午前10時には着いているはずですから。

妹)私は、お兄ちゃんがきっと生きてるってずっと思いながら、電車の中でもずっと祈りながら…。
メ)移動されている時、お父さんは声掛けとかされていましたか?
妹)無言です。ずーっと無言です。お互い喋らなかったです。父にはきっと覚悟があったんだと思いますけど、それは私には言わなかったですね。

父・和巳さんと、妹・朗子さんは、基弘さんの確定的な情報は知らされないまま、現場に着いた。

妹)車で着いて、神社の駐車場に留めて。そこで初めて地震の惨状っていうか、街が崩れ落ちて、道路が盛り上がって、コンクリートが割れてるとか目の当たりにして、初めて、お兄ちゃんが危ないかもしれないって気がついて…。小走りに、下宿まで行きましたね。
メ)アパートが崩れているのを見てどうでしたか。
妹)ちょっと半狂乱になりましたね。お兄ちゃんどこ?おにいちゃんどこ!って言いながら。崩れちゃってるから、中に入れないので。2階の部分が1階を押しつぶしていて…。2階の窓があって、窓枠につかまりながら、お兄ちゃんどこーって…。しばらく叫んでたと思います。下宿が潰れているのを見て、お兄ちゃんはもう生きてないかもしれないと、そのとき初めて思いましたね。


(写真:倒壊した杉本文化。花が手向けられている。1995年3月25日、母・恵美子さん撮影)


毛布にくるまれてお兄ちゃんが出てきた

母)2階建てのアパートの1階に住んでて、で潰れちゃったんです。南へ飛んで潰れた(倒れた)から、息子を出してもらう時は北側から(探して)。
台所はそのまま残ってる。たまたま2階の部屋の玄関の土間が息子の上に直撃して、亡くなったって。


写真を見ると、杉本文化は1階が潰れて、2階が南に傾いて、細い道を越えて駐車場の車の後ろのボンネットの上に倒れこんでいる。
竸さんは、この文化住宅の1階に住んでいた。
写真は、オレンジ色の作業服のレスキュー隊が2階の床をめくっている場面。がれきの隙間から、靴下を履いたままの足が見えている。


妹)足が見えてるって情報はどこで聞いたんだろう?
母)立ち入り禁止がなくなって、菅君のほか何人かが下宿のところへがれきをかき分けて入っていって。息子がいつも寝てる場所のとこらへんと思ってN君が見たら息子の足が、靴下を履いている足があった。それを触ったらもう脈がなかって、びっくりしてどうしよう、ってなって。でも、池田先生は私たちには直接はそれを私たちにはおっしゃらなかったので。
妹)私、現場に着いて…。
母)かきわけて見たの?
妹)ううん。私見てないの。それでも私は希望を捨ててなくって。



妹)で、父が灘消防署に、「下敷きになって埋まってるから救出してほしい」って言いに行って。それで消防隊員さんがしばらくして来てくれて。2階が1階を押しつぶしていたので、2階の畳をあげて、ジャッキみたいなのを使って、作業してくれて。しばらくしたら………。(絶句)
フラッシュバック、ちょっと…。
(母・恵美子さんが背中をさする)
妹)お兄ちゃんがいつも寝てた毛布。毛布にくるまれてお兄ちゃんが出てきたときに、初めて、お兄ちゃんが死んじゃったってことがわかって。
(涙をぬぐいながら)
妹)わーって泣き崩れたのを、お兄ちゃんの足を一番初めに発見してくれたNさんが受け止めてくれた。そばにいてくれた。うん。
(目頭を何度もおさえながら)
妹)2人兄妹だったのでね、「お兄ちゃんわたし一人になっちゃうよー」って言いながら泣いていたのを覚えています……。



(写真:基弘さんの救出作業。1995年1月18日午後、父・和巳さん撮影 )


主人は、市役所の広報を長い間やっていました

メ)でも、救出する現場をよくお父様は写真撮ってましたね。
母)主人は、市役所の広報を長い間やってた。課長で。記録に残さないといけないっていうのは、その辺はすごいなと思うんですけど。

メ)これらの写真、お父様はおそらく着いた時から順番に撮っていらっしゃるんですね。アパートの南が焼けてるんですね。
母)南が西尾荘の方向です。
メ)あぁ、竸さんのアパートの南側の駐車場の南半分まで焼けている。
母)西側が六甲交番だと思います。東側のマンションは、燃えちゃったみたいですねぇ。


(写真:基弘さんに寄り添う朗子さん。1995年1月18日午後、父・和巳さん撮影)


母)この写真に写っているのが娘です。担架でね、(息子は)毛布でこうやってうつ伏せに寝てるんです。

妹)灘区役所のソファまでそのまま行った記憶はあるから。これはたぶん、救急車で王子スポーツセンターに運びますといって、それで区役所の前で兄の遺体とともに、一旦待ってるところだと思います。
悲しみしかないので。考える力がない。ぼーっとしてましたね。
メ)このあとは?
妹)区役所の方が王子スポーツセンターまで行ってくれって、おっしゃったのかな。救急車で搬送してくれたんですよね。


(写真:杉本文化の前で。左から祖父、基弘さん、母・恵美子さん、父・和巳さん、祖母と。)

メ)震災前の写真ですね。アパートが写っている。
母)この写真は義父が長い間入院したあと、体調が戻って退院して来たときに、初孫の基弘の下宿へ行って撮ったものです。大学2年生の9月ですね。義父、義母と一緒に、主人の運転で息子の下宿へ行って。菅君が写してくれた写真です。


(写真:下宿で友人とくつろぐ竸さん)

メ)この写真では、アパートの部屋の中で基弘さんが笑っています。
母)左が菅君です。これは息子の下宿の部屋で撮った写真です。

母)杉本文化は8世帯か10世帯いる中で、うちの子だけだったんです、亡くなったの。1階はみんな潰れたのに…。お隣は家族4人で住んでらして、家財道具のタンスなんかが両側から倒れてピラミッドのように(三角形に)なって、空間で助かったそうです。一番端っこのお部屋の方はパイプのベッドで寝てらして、その枠に(天井が)落ちてきたから、隙間で助かる状態だった。
メ)そのことはいつ知ったんですか?
母)5月の取り壊しの時です、うちの子だけだったということを知って、ものすごいショックでした。なんで、なんでうちの子だけ? 違った場所に寝てたら、(結果が)違っとったんだろうかといろいろ思ってしまって…。




父・和巳さんが残した手書きのメモ

メ)それにしても、お父様は、よくここまで写真を撮られましたね。
母)仕事柄とはいえ、記録に残すことが大事と言ってました。こっちを読んでいただければ…。

母・恵美子さんはそういって、父・和巳さんの手書きのメモを取り出した。
メモには、「兵庫県南部地震 基弘始末記 父和巳記」「平成7年1月18日(水)〜20日(金)その后、追記も」と赤ボールペンで書かれている。


(写真:父・和巳さんのメモの表紙。赤ボールペンで「兵庫県南部地震 基弘始末記 父和巳記」とある。)

以下、父・和巳さんメモの抜粋。
 時刻は24時間表記にしています。
 [ ]内は、編集部の付記。〓〓部分は判読不明部分。
 一部の実名はイニシャルに変換しています。


1月18日(水)
 5:30 朗子と一緒に自宅発(憲一[和巳さんの弟]車)
 5:47 [名鉄]神宮前発
 6:30 近鉄名駅発(特急5号車)
 8:57 〃 鶴橋着
      S君ホームで出迎え、父親とあいさつ
      S(車)で下宿先へ(宝塚、有馬、裏六甲経由)

14:30 神大経由下宿先へ、池田先生と会う
      基弘確認 区消防本部へ行き
      救助要請。直ちに1個隊派遣
      (岐阜、大垣、東京、各務原の車を見かける)

      基弘の下宿のみ焼け残り、周囲は灰のみ

15:00 救助開始 15:40終了
      うつ伏せ状態で死亡確認 区対策本部へ運ぶ
      (M、Kt、Kn、菅、S、Su、IN 他でタンカ運ぶ)
      [注:M、Kt、Knさんは名古屋の友人]

16:15 神戸市立王子スポーツセンター2階の
      死体安置所[ママ]へ救急車で運ぶ
      ・基弘下宿先のみ焼けずに残り、遺体はきれいでスム

16:30 下の1Fから死体検視(死顔苦痛の跡なし)
      (圧迫により即死状態か?)
      名古屋へ状況Tel
      鑑識[検視]が終わり次第 M(車)で
      帰名する旨伝える
      その后、鑑識が今日中に終わるかどうか不明に。
      M君達午前1時には帰名。

18:30 名古屋へTel。明日ワゴン車で当所へ来れるよう手配依頼
      池田先生、同級生帰る。明朝再訪依頼(遺体運搬)

       ※救助活動が遅い(もっと助かったかも)
       ※鑑識医1人で1千体を越す遺体 誠にお役所的
        いかりを感ずる(兵庫2529人死亡)
       ※安置所は遺体を置くだけの場所
        どういう手続きをした上、引き取るのか 
        その后どういう手続き必要か説明なし(紙に書いて貼出せばよい)
        (自分の親ならどうするか考えて)

      ・市内GSガソリンなし(@¥125)
      ・飲料水求め人々右往左往
      ・食料品を求めスーパーに行列(開いているのは一部)
      ・公衆電話も行列
       ※安置所 ひ難所も同居 にも2台だけで大行列
        もっと設置すべきでは
       ※ひつぎが足りず配布についてケンカ
        毛布も足りず配布するとケンカになるので
        引っ込めてしまう
       ※余りに多い遺体 早く引き取ってほしいとの事
        家がないのにどうすると又ケンカ

19:15 おにぎり、パンの配布あり(食べる気なくもらわず)
      鑑識始まりそうで始まらない イライラ
      今日中に帰りたいので早くしてと警察に頼むもラチあかず
20:30 寛[和巳さんの弟]からTel有 ワゴンレンタルOK
22:30 家へTel
      名古ヤからのワゴン車見切り発車してほしい旨
      1時過ぎに高坂(注:自宅)へTel入れ
      我々がM(車)で帰名していたら引き返すよう指示
      (王子スポセンTelNo.802-0223 2F 179番)
23:30 鑑識医が過労でダウン 休息中と発表
      (1Fの遺体のみ終了)
24:30 M君達に帰名するようにと、基弘の遺品を届けるよう依頼
      ダウンジャケット借用(冷え込み厳しい)
      家へTel、寛(車)神戸行くよう指示
午前1時  かなり大きな余震有
       331-8181 市対策本部
       341-7441 県警
       871-5101 区対策本部


妹)王子スポーツセンターには、何百体と遺体が並んでて。私たちは遅い方で。壁際の真ん中あたり。兄と私と父で。
メ)出入り口の近くですね。
妹)壁際だったのがありがたかって、名古屋から来てるから帰る家がないので、この遺体安置所で2泊したんです。生きてる人間が横になれるスペースはないんです。遺体がわーっとならんでるから。私と父は、2日間壁際に座って寝る。玄関のそばだったから、お兄ちゃんの友達とか、彼女とか出入りしていました。
妹)兄の遺体はきれいなほうだったんですよ。もっと悲しい遺体が、ほんとうにたくさん並んでましたんで。
メ)顔をみられたときどんなだったんですか?
妹)お兄ちゃんじゃないみたいでした…。最初見たときは。冷たくなって動かないお兄ちゃんと会うの初めてだったんでね…。




1月19日(木)
1:10 夜食おにぎり配布(1人1ケ)アナウンス
     もらわずにおく
               ↗︎死体検案書
5:00 12時間経ても未だ検視の目途たたず。
       ↗︎文句いうも たらいまわし
    ※この非常時に、警察の都合で遺族はりつけのままとは
     このままでは2日間待ち迎える人も。
     夏ならどうなる。怒り心頭。
     これは一種の規制。こんな時こそ
     かん和考えるべきでは 又は
     他県から監察医を応援に頼むとか
     これは今後の大きな教訓!

5:00 宣雄君(東京)[恵美子さんの弟]へTel。上記伝える
     寛のレンタカー(トヨタリース名古屋)今日午后8時までを
     無制限使用可になったとの事、朗報
     
      家へTel(経過、レンタカー、基弘名前出た?)
      Su君Tel(経過と見込)[大学の友人]

7:40 家へTel
     葬儀は浄元寺[じょうげんじ]と打合わせて決める
     一柳[葬儀社の名前]希望ならそれで話しの上、
      葬儀社へTel予約すること
       1/20(金)仮通夜
       1/21(土)本通夜
       1/22(日)10〜葬儀、告別式
      我々は、検視が午后になりそうなので今夜遅く帰名になる見込み

     Su君宅Tel(菅君達10時頃来)
     池田先生宅Tel(午後顔出すとの事)
     朝食おにぎりもらう


              ↗︎検視遅れ 今晩帰名葬儀〓〓相談
 9:00 ・S課長へTel 24日(火)までの日程キャンセルを
       中村区地振課長N氏へ1/23(月)夜キャンセルTelを
       東市民病院W院長へ1/28〜29〓〓会キャンセルTelを
      ・池田先生へTel 9:50検視開始(予定)
      ・家へTel(基弘写真、葬儀場所)
      ・朗子海外旅行どうする返事を
      ・Tさん来るとの事[基弘さんのガールフレンド]
 9:30 検視開始(No.102〜)
10:00 菅君達来 池田先生来(おにぎり差入)
12:15 寛、憲一到着
      菅君達の案内で下宿現場へ(徒歩30分)
12:00 T嬢来(尼崎から自転車3h)
       とりすがり、ほおずり、手を握って
       別れを惜しむ 15:15帰り
13:00 家へTel 下記連絡
       寛到着のこと 朗子海外旅行取止め
       葬儀場「地蔵寺」一柳へ依頼
       ここは6時ごろ出発の見込み
14:00 現吉夫妻、花たばもって弔問に来[注:アルバイト先の居酒屋]
      (小出君もアルバイト)
      基弘の家庭教師先知っている人あれば連絡依頼
      [注:基弘さんは家庭教師を2件受け持っていた]

15:15 菅君達一たん帰る。N、K君、I君残る。
16:50 検死[ママ]
     胸部圧迫によるちっ息死 即死に近い 
       生きていても数十分位。

     死亡診断書は明日1/20午后 できるだけ遅い方で
     神戸大医学部死因研究室[ママ]へ取りに行くこと
               ↘︎三宮より北西

17:15 家へTel 6時に出発する
17:40 池田、藤井両教授来 
     死亡診断書入手見込みできた時点で拙宅へTel
     落合う場所その時決めることに。
18:00 遺体搬出(寛、憲一の他 Ik、K、N、I手伝い)

   出発(裏六甲、有馬口、宝塚、池田経由171号線
   京都南インター名神入り)


母)18日の15時ぐらい[和巳さんのメモには16時30分とある]、息子の確認の電話を受け、「ああそうなんだ」と力が抜ける感じでしたね。主人から「まだ基弘にやること残ってるから、心をちゃんとしなさい」と言われて…。辛かったですね。記憶が残っていない…。
結婚式ももうできなくなってしまったわけだから、セレモニー的なものというのはお葬式しかないので…それだけはなんとしてでもちゃんと(涙声)…母親としてやれるだけのことはやらなくちゃいかんっていう思いが…、それだけでしたね。


1月20日(金)
AM 3:00 京都南インター(3:15草津休けい)
   5:00 名古屋インター
   5:20 自宅着 基弘仮安置
    (M、K君、森夫妻[恵美子さんの姉夫婦]、蟹江<宣雄、母>、家族出迎え)

   ・今日の仕事        (結果)
    ①モーニング借受 大丸Tel、土曜日宅送
    ②死亡診断書受取 松野助教授来、土曜昼に
    ③市民課手続問合せ 土曜5時までは天白区で

   8:00 地蔵寺住職の手で枕経
         一柳葬儀店N営業部長来
   9:00 区総務課長 T君来訪 合同で葬儀打ち合わせ
         菅君に友人代表弔辞と神戸からの弔問者まとめ依頼
  10:00 「浄元寺」住職にTelし、息子の葬儀は
         地元、役所(駐車場に天白区役所他可能)の関係で、
         同宗派「地蔵寺」で執行すること了承得る。
        (この間色々な方弔問客来訪 弔電来)
  14:00 両親宅仏間へ移し、納棺
         [2世帯住宅で仏間は両親宅にある]
         隣家UY君手伝ってくれる
        (区両部長、H、N来訪)
  15:00 池田教授からTel 死亡診断書入手 明日
         昼頃、松野文俊助教授(基弘の直接指導教官)が
         拙宅へ届けてくれるとの事。
         菅君から神戸から参列希望(宿泊)30人以上に
         なるかもとTel有。最大人数今日中に教えてと返事。
 
  20:00 食事 宣雄君から神大組のマルベリーホテル予約
  21:30 M、Kn、Kt、T、M、N来
  21:40 地蔵寺住職来 読経

  23:00 解散
         12時過ぎ星空を見ながら基弘の遺品の
         タバコ「フィリップモーリス」を一服吸う。
         突然ひとかたまりの雲が現れ、北から南へ流れていく。
         光の中へ消える。
         天国へ行ったことの知らせか。朗子を呼んで一緒に見る。
      

1月21日(土)
 1時すぎ就寝
 8時すぎ起床・朝食

 今日の仕事
  ・食事数量、生花一柳へ注文
  ・モーニング受取(宅送)
  ・松野先生から死亡診断書受取
  ・天白区役所で火葬許可書

   (松野先生へ診断書5通追加で後日送付依頼)
  ・写真とる 髪の毛切り
  ・納棺品揃える
  ・電報、香典、供物帳(1/20分)寺へ持参

11:00 松野先生 新瑞橋でPick upし自宅へ 診断書受取
       極楽の実家へ送る。[松野助教授の実家=名東区極楽]
       帰る途中、基弘が好きなサザンのCDを買う(棺へ入れるため)
       
       天白区役所で火葬許可書もらう
       地蔵寺へ寄ってみると、すでに祭壇等準備完了 
       基弘の正面の写真(カラー)見ると泣けてくる

12:30 一柳へTel、食事、供花連絡
16:30 出棺 地蔵寺へ(K君達 寛 憲一 智久[いとこ]等男衆の手で)
       
18:00 (夕食)108食用意
       親族、神戸学友45人
       (松野先生、菅君が住職に基弘の話し 戒名用)
       区役所手伝いは夕食すまして集合とのこと不用に
       手伝いにあいさつ。
19:00〜通夜開始 住職やや遅れ、浄元寺住職と息子の手で始める。
       700人を超える人がお参りに来てくれる
       以后、24時頃まで来訪あり。両親帰宅
       M君等6人終夜本堂で基弘に別れの手紙書いたりしている
       小生、午前3時〜6時横になる


母:この1月21日の夕方には、松野先生と菅くんが、戒名をつける参考にと、ご住職の神野さんに基弘の人となりを話してくれました。そして本堂では、中学時3年生のときに同じクラスだった仲良しのM君ら男の子3人、女の子3人が、夜通し基弘に付き添ってくれました。


1月22日(日)
 6:00 起床 寛達朝食をスーパーで整える
       小生は食べられず(胸が一杯)
 8:30 一旦、3人[父・和巳さん、母・恵美子さん、妹・朗子さん]
       帰宅 風呂に入りモーニングに着替

10:30 寺へ戻る
       (午前8時子供達に住職が祭だん前で基弘の話をし
       読経したと聞く 基弘の学問、鉄腕アトムのめざすもの)
       [注:お寺の日曜教室]

12:00 出立(昼食)88食
14:00 来賓区内公職者(6)、天白・中・中村区長、市民
       水道、教育各局長、[中略]警察、消防、保健各署長
       神戸学友(20に絞る)、向陽2人、M君達6人着席
        [注:本堂に入る人を絞った]
       葬儀開始 
       僧侶7人(内浄元寺2人)
        戒名「基岳瑛光居士」→秀れて光り輝く人の意
        [注:きがくえいこうこじ]
       参列者、雨の中1200人程に。
       恩師松野先生思い出語り、その後池田教授の弔辞代読。
       菅君が友人代表で、菅君も泣きながら弔辞 名弔辞、感動す。
       皆もらい泣きす 神野導師も
15:10 終了 最後の別れをする。学友も
      雨の中、多勢が見送りに残ってくれていた。
      (市、区役所、区会、名鉄、ぶんご会、学友、名東区の人々等)

   あいさつ[注:父・和巳さんの挨拶文]
    ・長男基弘は去る1月17日未明の兵庫県南部地震で
     祖父母、両親2代を追いこして勉学先の神戸市で彼岸に旅立ちました。
    ・小さい頃からおじいさん、おばあさんの教育のせいか、
      人に迷惑をかけない、人のいやがることをしない子でした。
    ・短い人生でしたが、思い出は尽きません。
     又友人にも恵まれ、充実した楽しい一生であったかと思います。
    ・親としてはもっと世の中のために才能を発揮し
     役立つ人になってほしいと期待していましたが、
     こんな形で人生を終えたのは大変残念ですが
     これも定めと今は思い切るしかありません。
    ・今までの彼に対するご厚情、ご厚誼に対し、彼に代り
     心から感謝申し上げ、彼が皆さまの
     胸の中で少しでも生き続けることができれば親として幸せの限りです。
    ・本日は基弘にお別れに、この様に沢山の方々が来ていただき、
     特に彼の終えんの地、神戸からも災害の中、
     遠路はるばるかけつけていただき心からお礼申しあげます。
    ・これからは私達残された者はこの深い悲しみを乗りこえ、
     いずれ彼の居る天国へ行けるよう
     正しく、そして力強く歩んで行きたいと思っています。
     それが故人の遺志でもあると思います。
    ・皆様にはくれぐれもお体にご留意され、友人の皆さまに
     彼の分も生きていってほしいと願っております。
     本日は雨の中、基弘へお別れに来ていただき
     本当にありがとうございました。


「基弘は王子スポーツセンターにいるから会いに行ってやって」

母)地震のあとで(ガールフレンドの)Tさんから電話かかって来て、「あっ、Tさんでしょ、基弘ね今ね王子スポーツセンターにいるから会いに行ってやって」って言った覚えがあるんです。彼女も連絡の手はずがとれないですよね、で、実家元のうちへお電話くださった…。彼女は尼崎から自転車で行ってくださって、(名古屋まで)お葬式にも来てくださった。

母)お葬式の後、生まれ育った名古屋の実家の部屋を一目見ておきたいと、彼女は、基弘の大学の友人のKsさんに付き添われて来てくださったんです。
メ)「基弘の赤ちゃんの時からのアルバムや遺品を一緒に見てもらい思い出話を聞く」と、お父様のメモにはあります。
母)その遺品の中にCDがあったんです。
メ)お父様のメモには、「CDのうちケースに合わないものを朗子が発見。『プライベート』と表示されていた。さっそくCDをかけてみると、基弘のカラオケの声が入っていた。サザンの『YaYa(あの時代を忘れない)』。みんなびっくり。みんな聴きながら、泣く。うれしい発見!」と書かれています。肉声が入っていたんですね。
母)聴くと、あの子の人生を歌ってる様な気がして…。サザン好きだったので…。


(写真:尾崎豊のCDケースには、カラオケで吹き込んだ肉声のCDが入っていた。)

メ)さらに、1月28日のお父様のメモにこうあります。「午後2時ごろ、子ども会ボラ仲間のTuさん、Mmさん(女性)来宅、お参り。Tuさんは12月30日の夜、基弘と8時間あまり電話したという」。
母)子ども会冒険隊のボランティア仲間なんですけど。
メ)「『人生に悔いはない』と言っていた」。
母)そうなんです。今までの人生に、僕は悔いはないんだよって、Tさんとおしゃべりしたそうで。それを聞いて、なんかね、親としても、ああそうなんだ、短かったけども、それまでの人生は充実してたんだな、よかったな、っていう思いですよね。
メ)「『親が名古屋に帰ってほしいと言った。そうするつもり』」、基弘さんは、名古屋で就職するつもりだったんですね。
母)思ってたんですね。


(写真:ユースサイクリング同好会のおそろいのパーカー。お気に入りの色だった。)

メ)同じ日のメモには、「北海道礼文島で1993年のサイクル旅行で一緒になった、奈良女子大学ワンゲル部の、Iさん、Nさん、Sさん3人が来宅。3人とも今はOL。Iさんは習志野から。ほんとうに、少しの縁でよく来てくれた」ともあります。ユースサイクリング同好会での繋がりですかね。
母)そうですねぇ。
メ)「19時、きょうは小生の誕生日。Y君[朗子さんの当時のボーイフレンド]をまじえて、しゃぶしゃぶ囲んで夕食。一番悲しい誕生日となってしまった」。
母)うーん……。

メ)2月4日には、「午後4時ごろにはユースサイクリングのTくんが大阪から来た。彼も震災で彼女を亡くした。ユースサイクリングでは3人亡くなった」と書かれています。
母)そう、ユースサイクリング同好会では櫻井くん(当時法学部・4年、櫻井英二さん、愛媛県出身)と細井里美さん(当時農学部・2年、和歌山県出身)も亡くなったんです。ユースサイクリングのお仲間の繋がりってけっこう強くて、同じ歳の人や先輩にあたる人たちが、いまだにゴールデンウィークを利用してサイクリングしてて、名古屋にいらした時はお墓参りにきてくださったりとか、思いが強くて。感謝ですね。


バケツリレーで遺品を運び出す

母)3月に神戸に行って、倒壊した下宿からいろんなもの(遺品)を出したいと相談したら、10何人集まってくだすって、松野先生も。みんなバケツリレーで、人海戦術で出してもらって、それをいったん研究室に預かってもらって。4月の年度始めに、大事なものだけ名古屋に送っていただいたんですけど。


(写真:下宿で見つかった時計。地震発生の5時46分をまわったところで止まっている。)

母)基弘の神戸で培った人と人との繋がり、あったかいものを、返してもらいながら、こんなに愛情に包まれた日々を送らせてもらったんだっていうのは、親元を一人離れて親戚もいない神戸に行った子ですけど、5年間っていうのが改めて、ああ寂しくなかった充実した5年間だったんだなっていうことを感じさせられて…。いかに人って、一人ではなくて、寄り添う心に包まれて支えられて生きてるんだなって。息子も私たちも一緒なんだなと、そう感じますね、はい。
そのあとも、なにかにつけ(ボランティをしていた)冒険隊という子ども会の仲間の人が8人ぐらい連休に、お墓まいりかたがた来てくださったりとか。
メ)社団法人兵庫県子ども会連合会と書いていますね。年末に長時間電話で話したTuさんもこのつながりですね。
母)冒険隊は、研究室の1年上の先輩からお誘いを受けて参加したんです。うちの子も子どもが好きだったんで。子どもたちと上手に遊ぶ子だったんです。

2月10日(金) 共同通信の記者の取材を受ける
[注:共同通信が連載記事「5時46分の生と死」の第12回として全国35紙に配信した]
2月11日(祝) Tさん、Sさんの結婚式。仲人を務める。
         式中、万感胸に迫る。もう両家代表挨拶もできない。

母)主人の勤務先の部下だった人です。仲人することが決まってて…。主人は、新郎の父の両家代表挨拶をしたいっていうのが夢だったから。主人としてはそれが心残りだったと思います。


2月19日(日) 区制20周年式典 市長、議長迎え挙行。
         祝賀会で多くの人から慰めの言葉を受け、
          ついホロリとしてしまう
2月20日(月) 3月17日に大学の慰霊祭あるとの連絡
         ぜひ出席したいと返事
2月26日(日) 忌明け法要(四十九日法要)

3月 8日(水) 六甲道へ 掘り出し道具を借りて下宿先へ
         1時半作業開始 2階床下を全部はがし
         徹底的に遺品探しを行う
         セカンドバッグ、アルバム、衣類、スーツ、
          コンピューター、折り畳み自転車
          小型トラック1杯分集め神大の研究室に運ぶ途中雨が降る

        Tさんが置いてくれた遺影を前に
         ろうそく、線香、お酒、果物を供え
         みんなで手を合わす 池田教授も来る
3月12日(日) 墓地へ行く 納骨
         神大から3人来る
        サイクリング部の友人Tさんはじめ7人が来訪
          お参りをして思い出話
          基弘がタバコを吸い始めたきっかけなど聞く

3月17日(金) 震災後ちょうど2か月 
          休暇を取り8時35分ののぞみで名古屋駅を出発 
         家内と9時55分JR神戸線で住吉へ
         10時20分住吉着 菅君、Kくん駅へ出迎え
         基弘の下宿へまず行く
         11時に神大の研究室へ 早速遺品の整理
          バッグで7つになる

        2時から神大合同慰霊祭 講堂で開催
         学生39人、教職員2人 
         計41人の遺影が菊の花に囲まれ飾られた中で
          基弘は下段向かって右から2枚目なり
          遺族代表・森さん[森渉さんの父・茂隆さん]の弔辞は
          遺族の気持ちをよく表していて みなさん涙す
          参列者 講堂の中830人はじめ2000人が献花


母)主人も、他人様の暖かい心がありがたかったようです。
このあと、「鎮魂」の慰霊碑ができてすっごい嬉しかったです。あそこへ行けば、名前がちゃんとある。息子が大好きだった神戸大学だし。青春がいっぱい詰まった息子の存在がここにあるわと…。遺族はみんな同じかな。


(写真:妹・朗子さんの成人式の際に撮影した写真が遺影となった。)


メモは25年間そのまま引き出しの中にしまっておいた

メ)六甲の八幡神社についてからのお父様の様子はどうでしたか?
妹)感情的にならないで、常に冷静な判断をしてたと思います。父はどこか、深い悲しみを持っていながらも、冷静に現場を残しておかなければと写真をとるし、どう動いたら兄の遺体をできるだけ早く救出してもらえるだろうかと判断して灘消防署に行ってるし、さすが父親だったなとおもいます。
メ)写真を撮っておられたのは知っていたんですね。
妹)下宿の周りにいた私たちではどうしようもなかったんで、助け出せない状況で。記憶の風景の中で、写真を撮ってるという記憶はあります。
メ)メモもずっととられてたんですか。
妹)私は知らなかったです。(後に)母にみせてもらったんだと思います。
メ)中身は読まれましたか。
妹)ちらっと…。よーく読んだことは、まだないです。わたしにとっても、これは向き合わされるものなので。そんな克明に思い出したいことでもないので。
妹)王子スポーツセンターの壁際で、なんか書いてたのは覚えてますね。でも、これを書いていたのは知りませんでした。
母)私も、そのまま引き出しの中にしまってあって、主人が亡くなってからも見なかったので。
メ)ご家族としては、見たいと思わなかった?
母)やっぱりね、息子が亡くなったことに関してのことだから、辛いから見れない。今回、25年経つんだけれど全部見たことがなかった。写真とメモと両方見ると、こんな思いをしてたとか、すざまじい経験を客観的に書いてるから、これがお父さんの凄いところかなと思う。このとき主人は54歳でした。

メ)お父様も、最初の頃は少しだけ書き付けるつもりだったんでしょうね。
母)そう、だからそのメモ用紙みたいな半端なものに書いたんでしょう。
妹)もっと長く書くと思ったらノートだったはずですよね。ちょっとしたメモのつもりで始めたんだと思うんですけどね。




長期休暇のたびに長く神戸に行ってました

メ)神戸にはよく遊びに行っていらしたんだそうですね。
妹)神戸に行ってからの5年間は、よくかわいがってくれました。だから私も長期休暇のたびに長く神戸に行って、それでお兄ちゃんの友だちとかも仲良くしてくれてたので、それがここまでのつながりにもなって、支えにもなっているので、ありがたかったなあと思います。
メ)やさしかったんですね。
妹)下宿に行くと、いつも当たり前のように友達がいたので。お互いに遠慮なく壁がなく、そこに私さえも入りやすいような、親密な飾らない人間関係を兄が築いてましたね。
妹)私、大学3年生でしたけど、当時の友達に、わたし世界一好きなのはお兄ちゃんだよねって言ってました。格好いいタイプではなかったけど、頭いいし、おもしろいし、優しいし、最高のお兄ちゃん。(笑)


母)ワゴン車で(名古屋に)帰って来るとき、隣に寝てかえってきたんだよね。
妹)父と2人の弟(叔父)が一番前に3人で座って、その後ろは全部倒して、そこでお兄ちゃんと私が一緒に横になって名古屋まで帰って来ましてね。


1、2年したらマンションに移るつもりで…

メ)お母さんも神戸にはよく行かれてたんですか?
母)下宿に行ったのは、学校入る手続きで入居を決めた時と、引っ越しの時と、そのあと2年生の時に主人の両親連れて一緒に行った、3回しか行ったことがないんですよ。こんなに古い、崩れ落ちるような建物に住んでたんだって…。神戸大は国立大学なので、マンションやなんかは私立の(合格発表が早い)人がおさえちゃって。本当はマンションに住みたかったけど、(物件が)なかったんですよ。とりあえずは、大学生協でも斡旋していただいたんだけど、日当たりが悪いとか何かでやめて、同じ阪神産業さんというところが、家族も住んでいて広いところですけど、っていって案内してくださったのがここで。日当たりがいいので息子は気に入って…。どちらにしても、1、2年したらマンションに移るっていうつもりで入ったとこなんですよ。でも結局お友達が来やすいので…。
メ)広かったんですね。
母)だから、亡くなるまでそこに住んでた。玄関が1畳あって、その脇が3畳の和室でそこに机と本棚とパソコンと置いてあったんだよね。真ん中の部屋が6畳の和室で、一間の押入れと一間の板の間があってファスナー式のクローゼットなんか置いてあって。奥が4畳半ぐらいの台所で、トイレがついている。
メ)広いですね
妹)単純に足すと15畳ぐらいあるね。
母)30年ぐらい前の当時で、家賃が4万2000円しましたから。気に入ってずっと住んじゃってた。



(写真:研究室のPC前でのスナップ。偶然だが、日付が震災で亡くなるちょうど1年前。1994年1月17日、研究室で)


メ)震災後、若手の研究者や技術者を表彰する「竸基弘賞」が創設されましたね。
母)指導教官だった田所先生や松野先生たちが2002年(平成14年)に国際レスキューシステム研究機構を立ち上げて、2005年(平成17年)にはレスキュー・ロボットの若手研究者を奨励するために竸基弘賞を創設されたんです。
メ)基弘さんのお名前が、後世に伝えられていますね。そして、毎年、震災の日の前夜には、基弘さんの友人と毎年集まる会がありますね。
母)阪神御影の居酒屋「現吉」には、ユースサイクリング同好会の仲間で代々アルバイトをしていたんです。基弘も1年の冬ぐらいから行ってたから。主人と息子ゆかりの場所だからと行き始めたら、結構ゆかりの人がきてくださるようになって、毎年1月16日の夜は賑やかに飲み会をするんです。
息子の足を(倒壊したアパートで)見つけてくださった大学院の研究室でいっしょだったNさんは必ず。それと、ボランティア活動をしていた冒険隊の先輩リーダーのKさんも。

母)主人も、男の子を亡くしてしまって、仕事する上での生きがいも一時期微妙に揺れ動いた時があるみたいで。でも基弘のこと考えたら、私たちがあの子の心を感じながら頑張って生きていかなきゃいけないという思いでした。
いろんなつながりがなければ、自分だけの悲しみの世界で出口のないトンネルの中にいたかもしれないですね。


同じ学び舎で青春を過ごした先輩39人の死 風化させないでほしい

メ)今の学生へのメッセージを。
妹)私はね、兄が23歳で、自分でも思いもよらず突然命を失っているんで、若い人たちには、「その命っていつなくなるかわからんよ」っていうものでもあるから、命のある時間を大切にしてほしいなと思います。

母)あの震災で6434人が亡くなったんです。歴史の中の出来事と感じていらっしゃるかもしれませんが、同じ神戸大学の学び舎で青春を過ごしていた先輩39人も、ある日突然命を絶たれてしまったんだよってことは、風化させないでほしいなぁ、って思います。災害はあちこちで起きているわけだし。私たちも我が子がなくなるなんて思ってもみなかったんだから。いつなん時だれかの身に降りかかってくるかわからない、っていうことを感じるアンテナを持ってて欲しいんです。ITやAIの世の中だけど、人でなければできない「感じる心」を忘れないでほしいなと思いますね。


(2019年11月4日、12月29日インタビュー、きき手:森岡聖陽、玉井晃平)




<2020年1月11日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b


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