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【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年) =母・延子さんの証言=

2020-01-15 02:55:50 | 阪神・淡路大震災
 工藤純さん(当時23歳、愛媛県立三島高卒、犬童ゼミ/応援団総部吹奏楽部)は、神戸市東灘区田中町4丁目の下宿アパートで被災した。
 当初、遺体が隣人と取り違えられそうになった。四国から駆けつけた家族は、自衛隊員に下宿の間取り図を渡して救出を頼んだところ、ベッドの上で遺体で発見され、2日後の昼ごろ、ようやく瓦礫の下から救出された。
 告別式には友人ら800人近くが参列した。神戸大学吹奏楽部の部員が、貸切バスであの(被災して混乱していた)神戸から駆けつけ、純さんが好きだった『威風堂々第1番』を演奏して送った。

 母・延子さん(72)に、愛媛県四国中央市のご自宅でお話をうかがった。


(写真:関西学生吹奏楽連盟の仲間に囲まれ、笑顔の純さん。手にはビデオカメラを持っている。)


母:お墓まいりとかはね、ふつうお盆やお彼岸とかに行きますけど、こっち(四国中央市)だと、お正月明けに行くんです。村上水軍の支配下にあった辺りでは、負け戦が分かって、お正月(旧暦の正月は今の一月中旬から2月上旬)まで絶対持ちこたえられないから、お正月に食べようと思ってとってあったごちそうを全部食べてということで。この辺ではその名残で、1月の16日に、お墓参りするんです。
[注:当時は1月15日が成人の日で祝日だったため15日に墓参りをすることが多かったという]
きき手:そうなんですね、初めて知りました。

母:うちは、1月17日が命日なんで、元気だった時は毎年神戸に行ってたんです。NPO法人「阪神淡路大1.17希望の灯り」ってご存じですか。略称がHANDS(ハンズ)っていうんですけれど、それの会員になっているんで…。今は、ずっと行けてないんですけど。

きき手:以前、神戸に行くことができていた時は、神戸でどうされていたんですか?
母:16日の仕事が終わってから、高速バスで三宮に着くんです。それで、東遊園地(神戸市中央区)に行って。夜だからテントで朝の4時ぐらいまで、もう1年ぶりに会う方ばかりなんで、ずっとしゃべって。
きき手:早朝、竹灯篭に点灯しますよね。
母:竹筒で「1.17」って並べますよね。水を入れてそこにロウソクを浮かべて、一本一本火をつけていかなくちゃいけない。それをボランティアでやるんです。
きき手:手作業なんですね。
母:6400個以上あるんで、1個1個つけていっても、なんかなぜかお天気悪い日が多くて、雨降ってたらまた消えてしまうんで、ずっとつけていかなくちゃいけなくて。で、そうしているうちに、(発災時刻の5時46分の)5分前ぐらいになったら、やめて…。
きき手:そして、黙祷ですね。
母:そのあと、午前10時ぐらいまで東遊園地にいて、それから、大学の追悼献花式。以前は12時開始だったんで、お昼までには大学のある六甲台に行ってました。


(写真:母・延子さん。四国中央市の自宅で。2019年9月27日)


「東灘文化センターにいる」との連絡で覚悟しました

きき手:地震当日のことを教えてください。純さんに何かあったかもしれないということは、いつ感じられましたか?
母:愛媛でも揺れを感じましたが(松山で震度3)、テレビで最初は神戸の震度は出なくて…。昼過ぎに東京に住んでる高校の同級生から電話があったんです。「朝、家から電話かけたら話中で、昼休みにかけたら着信音は鳴るけど出なかった」ということでした。「工藤くんのことだから人助けでもしてるんですよ」と言ってくださいました。その言葉にすがって電話をかけ続けましたが、夜になっても連絡がつかないんです。あの子にしてはおかしい、と思い始めました。

母:たしかNTTの安否情報に登録したんです。そうしたら大家さんから地震の翌日の1月18日の朝に、「バイクがあるし、呼びかけても返事がないので帰省されているんではないですか」と電話がかかってきたんです。それで、8割方だめだと思いました。

きき手:四国のご自宅(当時は伊予三島市)を出発されたのはいつだったんですか?
母:18日のお昼ぐらいに、夫が徳島県から大阪経由で(西方向に)向かい、私は午後JRで出発し、岡山で大学に通っていた次男と合流して、新幹線で(東方向の)姫路に向かいました。さらに在来線で西明石駅だったか…まで。そして、そこからタクシーを並んで乗って、「須磨までしか行けません」といわれ、須磨で降りてから徒歩で東灘区に向かいました。
きき手:純さんについての情報は入ってきましたか?
母:その途中で夫から携帯電話に連絡があって、「東灘文化センターに移動した」といわれて覚悟しました。


最初の遺体は純ではなかった

きき手:神戸に到着した時の様子は?
母:着いたとき、もう暗くなっていましたから、夕方6時ごろだったでしょうか。夫の両側にはクラブ(神戸大吹奏楽部)の友人で元副部長さんと同じクラリネットパートの学生さんたちがいました。ところが、見つかった遺体は純ではないというのです。体を拭いているうちに、胸毛がないのでおかしいということになって、お友達も「これは工藤くんじゃない」ということになって。隣室の方だとわかったというんです。免許証がそばに落ちていたので、最初は純ではないかと思われていたようです。

きき手:では、純さんはどこに?
母:入学の時に援助してくれた母(純さんにとっては祖母)に見せるために書いた家の間取り図と、家具の配置図のコピーを持参していたので、1月19日の午前中に、それを自衛隊の方にお渡ししました。
きき手:どこで見つかったんですか?
母:結局、2DKの真ん中の部屋のベッドの上で見つかったと、19日のお昼前には連絡がありました。ただ、文化センターに遺体が到着したのは午後だったと思います。一定の数の遺体が集まってから運ぶことになっていたんです。トラックに6体ほど載せられていました。
きき手:遺体の発見の場にはいなかったんですね。
母:現場は立ち入り禁止になっていたんです。私たちは立ち会えませんでしたが、路面に直に寝かされていたそうです。かわいそうだと、ご近所の方が、花柄のきれいな毛布をかけてくださっていました。
きき手:検視はすぐにできたんですか。
母:いいえ。私が、遺体安置所の管理責任者を探し出し、連れて帰りたいと申し出たんですけど…。自衛隊の「遺体搬出証明書」ももらっているので、四国に帰ってから検視を受けるからいいでしょうと言ったんですが、受け入れてもらえませんでした。1人で検視をしていました。結局検視を受けたのが、20日の午前3時ごろだったでしょうか。こんどは「棺がないとダメ」と言われたのですが、なんとか融通してもらって、夫の会社の人がレンタカーで運んでくれることになりました。


吹奏楽部の部員が、あの子の好きだった『威風堂々第1番』で送ってくれた

母:アパートは、2階建ての木造で、1階には4世帯入居していました。純は西から2番目の部屋でした。純の両隣の方も亡くなっています。一番東端の部屋は、2段ベッドを置いていて、それが支えになって空間ができて助かったそうです。

きき手:純さんはどのように四国に帰ってこられたんでしょうか?
母:1月20日の朝、神戸を出発し、車で山手幹線、山陽自動車道、瀬戸大橋経由、松山道で、夕方4時ごろ家に着きました。山陽道のゲートが開放されていた風景が、なぜか心に残っています。
途中、山陽自動車道に乗る前に、夫の高校の同級生がドライアイスを手配してくれました。

きき手:そのあとご葬儀だったんですね。
母:1月21日に通夜でした。22日の告別式には地元の純の友人や、クラブ(吹奏楽部)の友人など800人近くが参列してくださいました。神戸大学吹奏楽部の方々が、貸切バスであの(被災して混乱していた)神戸から来てくださって、あの子の好きだった『威風堂々第1番』で送ってくださいました。
きき手:演奏で純さんを送ったんですか。
母:中学がすぐ近くで、当時の顧問の先生が体育館を控え室に貸してくださいました。楽器のない人には楽器も貸してくださいました。音楽を愛する仲間に囲まれて、短くて不本意な死ではあっても、一方では幸せな一生だったと思います。


慰霊碑ではメディアの取材を受けるより遺族同士の話をしたい

母:私、今度行くと5年ぶりになるんで、この前(震災20年)のときなんか、記者の方の取材をお受けしていて。急いで帰らなくちゃいけないとかっていう遺族の方とあまりお話ができなくて。もし1月17日に、行けたとしたら、その場では、遺族同士の話を優先させて頂きたいですね(苦笑い)。
きき手:大学の慰霊碑は大切な場所ですね。
母:メディアの方とか来られるので、そういうのが嫌だって言って。朝の、5時46分に来られて、そのまま帰られたりする方もいます。

延子さんは原因不明の体調不良で、2006年以降、大学の献花式に参列することができなかった。震災20年の2015年、9年ぶりに杖と車椅子を使って神戸を訪ねることができた。

きき手:前回行かれたのは?
母:震災20年の時ですね。あの時もすでに杖は使っていたので、皆さんと同じ速さでは歩けないから。夫の大学時代のクラブの先輩の方が、車いすをちゃんと自動車の後ろのトランクにつめるようにしてあるからって、大学まで送って下さって。
きき手:今度行くと5年ぶりですね。
母:ただ夫は、いろいろ病気抱えてるんで。行けるかどうか分からないけど、神戸まではとにかく行くって言ってるんで…。
きき手:5年前の震災の日は、どのように過ごされたんですか?
母:あの時は、(大学正門横のアカデミア館1階生協の)食堂で残ってお話ししました。私を入れて藤原さんと、戸梶さんら5人でした。お父さんたちは遠く離れていた感じ。藤原さんと戸梶さんはご夫婦で来られてましたけど、お父さんはお父さん同士で話していました。
ご家族とか、お友達と一緒に来られている方は献花式のあと、下宿跡に行かれたりするんで、加藤さんとか競さんとかは慰霊碑の前で、ちょっとだけお話ししました。

きき手:体調はいかがですか。
母:あの一応いろいろ検査したんですけれど、どこも異常がない、
もう本当に前はかろうじて杖で歩けていたんですけれど、102日間入院してたら、やっぱり、衰えるのって早いんですね、筋肉が。


(写真:震災25年には神戸を訪れることができた。夫の優さんと。2020年1月17日昼)


中学校から吹奏楽を始めた

きき手:純さんは音楽が好きだっておっしゃってましたけど、中学、高校からやってらしたんですか。
母:私が、クラシックが好きで、小学校1年生の時から、ピアノを。私がちっちゃい時やってたので、もう1回やろうと思って、一緒に、音楽ピアノ教室に通ってて。
で、3年生の時、ふたりで発表会に出ました。グノーのアベマリアを、私が低音部(バッハの平均律ピアノ曲集第1巻)弾いて、息子が高音部。弾いている時に、私は真っ白になってしまって弾けなくなってしまって、あの子は最後まで弾ききって。で、もうこの子に負けたーと思いました。

きき手:純さんはどのくらいピアノを続けていらしたんですか。
母:小学校4年生からスポーツ少年団に。ソフトボールを始めたんで、そっちを優先するって言ってそれで。(ピアノは)レッスンの時間に遅れたら、その日の最後に回されるんですね。大体女の子がほとんどで、いっぱい待っているところに男の子一人で待ってなくちゃいけない。それが何か気詰まりだったらしくて、何か近所の、同級生の家に入ってずっとサボってたみたいなんですね。
レッスンの終わる時間までそこで時間潰して帰ってきて…。何ていうか私に悪いなぁと言うか、言いだしにくかったんでしょうね。
きき手:中学からはまた音楽やってたんですか。
母:1年ぐらいおサボりしてたんで、5年生、5年生の終わりで、白状して(笑)。
やめて、で、6年生の1年間はソフトボールをして。で中学校で吹奏楽。そしたら楽譜読めるし、絶対音感が備わってたから。いろんな楽器ができるんで、一番最初はチューバ。パレードするときはスーザフォンという大きな管楽器で。
あれは女の子にはできないからって言って。高校では、ユーフォニウム…。


阪大よりも神大を受けた理由

きき手:高校は県立三島高校でしたよね。
母:そうでした。センター試験の時に、730何点あったんですね。8つぐらいの予備校から、「1浪して東大狙いませんか」って。九州のどこかの予備校は、学費免除で、寮費もタダで、1か月に3万円奨学金つきとか。
きき手:すごい待遇ですね。
母:でも、東京には地震があるから行きたくないって。
きき手:地震があるから、ですか。
母:その時、神戸大学も大阪大学もA判定だったんですね。
でそれは、大阪大学のほうが定員が多いから。何か800点満点で、あの年、大阪大学を受験した人がふたり800点。
きき手:なぜ阪大よりも神大の方を?
母:神戸大学の法学部は、教官1人当たりの学生数が、大阪大学より少ないって。向こうは、先生も多いけど学生の方も多い。神戸大学が、何か主要な大学のなかで教官1人当たりの学生数はいちばん少ないって言ってました。


あの子なりの正義

母:学校の先生は実績が欲しいから、行かなくても(進学しなくても)受かったほうがいいので、受けろと言われて。1回は大勢が受ける試験を体験しとかないとだめだって言われて、関西の私大を受験したんですね。
きき手:何年になりますか。
母:1990年ですね。その私大はA判定でていたのに、なぜか不合格だったんです。それで、どうしたのって言ったら、「英語は白紙で出した」って。本当に受けに来た人に悪いからって。
きき手:心優しい方だったんですね。
母:まああの子なりの正義だったんでしょうね。

母:大学院の入学発表があった時に、発表の掲示板を見たいからって言って行ったんですね。ちょうどその日、阪神・巨人戦の最終戦だったので、生協でチケット売っているから買っといってって言ったら、「買えんかったって」と言って。
でも、夫は阪神ファンなんで、どうしても見たいって言って。で、行ってダフ屋さんで買ったんですよ。阪神側はもうすでに売り切れていて、巨人側の応援席しかなくって。でも、「阪神ファンはマナーが悪い」とかブツクサブツクサ言うものだから、夫が「そんなに文句言うなら帰れ」って言って。そしたら、「帰ります」ってホントに帰っちゃったんです。どうしてって言ったら、ダフ屋さんで買うのは違法行為だとかって言って(苦笑い)。
あのー絶対に、その、不法行為、違法行為、どちらも、いやだから。
きき手:正義感が強かったんですね。
母:もう本当に、ちっちゃい時からそうでした。そのくせ自分はおサボりしてね(笑)。


遺品のワープロで作成した遺族同士の紙面

きき手:そうですか。
母:愛媛県では、神戸大学の方が5人亡くなってて。そのうち、廣瀬さんって、宇和島の方と…お手紙してた。最初、15人ぐらいの神戸大の遺族の方と一対一の文通をしてたんですねでも、どなたに書くのも同じ事なので、それだったらもう、一度にと、『THE 17TH(ザ・セブンティーンス)』を出しました。1997年の1月の発行が最初。夫には1年でやめるって約束しました。純のワープロを生かしたいと思って、発行を始めたんです。

『THE 17TH』は、当初毎月17日に発行。ワープロで作成された。そのシャープ製のワープロ「書院」は、純さんの下宿から取り出してきた遺品だった。

母:たしか(震災翌年の)1996年の1月17日、たまたま大学の慰霊碑にNHKアナウンサーの住田さんがいらしてて、で、あれこの声どっかで聞いた事があるなって(笑)。
きき手:と思ったら住田さんだった(笑)。
母:「もしかして」って言ったら、ああいう方なので、「そうですその住田です」って(笑)。
きき手:住田さんは神戸大学の卒業生(1983年経営学部卒)ですね。1995年から、朝の情報番組『生活ほっとモーニング』のキャスターを、月曜から金曜の帯で担当していました。
母:ワープロが故障して使えなくなって、その住田さんがたまたま同じメーカーのを持ってたのを譲って下さって。そして、それも故障してしまって。もう部品の補償年数も過ぎてたんです。で、「人と防災未来センター」に…。
きき手:寄贈されたんですね。
母:はい。

純さんの下宿から取り出したワープロは、2014年12月に「人と防災未来センター」に延子さんの手で寄贈された。


(写真:純さんの遺品のワープロ。シャープ社製の「書院」。2015年1月12日、神戸市中央区の人と防災未来センターで)

母:もう一人下の息子がいるんで、夫が、「その子がいるのにいつまでも、純の事ばっかし一番にしていたら、生きてる子がかわいそうだろう」、「忘れてしまえ」っていうんですけど、それは絶対に、できない。しようと努力したらそれがストレスになりますよね。
「人は2度死ぬ」っていいますよね。1回目は生物としての死、2回目は記憶から消え去る時。だから、2度目の死は絶対、迎えさせたくない。

母:「人は2度死ぬ」という言葉は、松田優作さんの言葉だという説がある。映画『リメンバー・ミー』のリー・アンクリッチ監督が、メキシコでのリサーチで「1度目は心臓が止まった時、2度目は埋葬や火葬をされた時、3度目は人々がその人のことを忘れてしまった時。人間には“3つの死”がある」と聞いたとも発言している。

母:だから、それだけは絶対、やだーと思って。


母には純が死んだとは言えませんでした

母:私の母には純が死んだとは言えませんでした。「ロンドン大学に交換留学に行った」というと、「純ちゃんなら電話ぐらいしてくれるはず」というんです。一緒に住んでいた弟夫婦が、「神戸で地震があったから、電話が繋がりにくかったんだろう」と説明すると、「飛行場からかけられるだろうに」と食い下がったらしいんです。「向こうからコレクトコールでかけるように言って」とまで言うんです。
きき手:……。
母:『クローズアップ現代』という番組で、純のことが放送されたんです。夜遅いから見ないだろう思っていたんですが、新聞予告で「神戸」とあるので見たらしくて…。母は、「純が死んだって言ってるー」と叫んだそうです。「ロンドンに行ったっていうのは嘘じゃない」と、弟夫婦は責められたそうです。そのあと、弟とは、これからは隠しだてはしないでおこうと決めました。今度の2月には、母の13回忌を迎えます。


大きな視野で法制度や公助のあり方考えて

きき手:いまの大学生に伝えたいメッセージはありますか?
母:個々の死は、私たちが生きている限り忘れることはありません。大きな視野で、遺体を引き取る時に私たちが感じた法制上の不備や、その後の公助のあり方を考えていただければな、と思います。

母:毎年、1月17日の震災の日の正午に、神戸港の船が一斉に汽笛を鳴らしますね。だから大学の慰霊碑にいるとその音も聞こえるんですね。今は12時半とか、学生が参加できるようになっていますよね。
きき手:今は、12時半開始です。
母:もう震災から25年だし、大学がいつまで(慰霊献花式を)やってくださるか…。もしかしたら、今回限りになるんじゃないかなと、いつもそれを心配しています。
(2019年9月27日インタビュー きき手:玉井晃平)


(写真:神戸市中央区三宮にある「慰霊と復興のモニュメント」で、純さんの銘板を指で触れる。2020年1月17日午後)

連載おわり

<2020年1月17日 アップロード>
※ブログの編集上、アップロードの日付より早い時間に掲載しています。


《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b






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