サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

ロラズハウス訪問

2010年06月18日 | ロラズハウス関連

 (マニラのロラズハウス。ロラは帰った後でおられなかったが、リッチーさんらが陽気に迎えてくれた。左は、ロラ・ピラールさんの孫娘)


 早いもので今回のサマール滞在も今日(16日)で終り。早朝の飛行機でマニラに飛ぶ。マニラに1泊して、明日にはもう帰国だ。
下痢はまだ続いているので、気が気ではない。
 JAPSAMの卒業生・Mさんが働いているマニラ新聞社を訪問。Mさんも、今では、もう中堅記者としてバリバリ仕事をしている。

 サントーランのサルバシオンさんの家に荷物を預け、ロラズハウスに向かう。
 ここは、大戦当時、日本軍の性暴力被害を受けたロラたちのセンター。日本で寄金を集め、やっと広い一軒家を買うことができたのだ。(その詳細は、下欄の各ブログを見てほしい。)

 久しぶりの訪問だったが、リッチーさんたちはいつものように陽気に迎えてくれた。
 サマールからのお土産として、ティナパ(魚の燻製)を渡す。マニラでも、サマールのティナパは有名だから、喜んでくれた。我々は、2005年以来、2回、ロラとリッチーさんたちを京都の証言集会に招待しているから、「●●は今、どうしてる?」、「○○は元気か?」と、リッチーさんも懐かしそうだ。

 ただ、今日は、残念なことにロラたちは誰もいなかった。皆、歳をとって、なかなかここへも来られなくなっているらしい。あの元気だったロラ・ピラールさんも、家でひっくり返って腕を折ってしまったという。(それでも、ピラールさんの孫娘が、ロラズハウスに泊り込んで手伝っていた。)
 そういうリッチーさんも、腰を痛めて、杖が頼り。7月1日には、日本大使館前での抗議行動を予定しているのだが、中止しようかどうか迷っているという。

 日本政府が、何の謝罪も補償もしないまま、ロラたちはどんどん歳をとってしまっている。もう残された時間はほとんどない。




 (ロラズハウスの壁には、亡くなったロラたちの写真がズラリと並んでいる。)



 ロラたちが自ら作った、日本軍に被害に遭ったときの様子。












<参考>
*「チョイさんのサマール便り」より 
 ・今も語り伝えられる勇敢なロラ---あるサマールの戦時性暴力被害者の話(2005.8.14)

 ・「サマールの勇敢なロラ」のお墓参り(2005.9.29)

*「チョイさんのサマール日記」より
 2006.4.27、11.23
 2007.8.26
 2008.3.6、3.17、8.13、8.14

 





ロラズハウスの調印式は9月12日。どなたか一緒に行きませんか?

2008年08月14日 | ロラズハウス関連

(新しいロラも登場。歌と踊りが続いて、なかなか出発できない。)

 8月14日、今回のフィリピン行も、今日が最終日だ。
 朝10時には空港に向かわなければならないが、
新しいロラもやってきて、みんなで歌や踊りが続いた。
 普段は杖をついているロラ・バージニアさんも、踊りとなると、杖をほっポリ出して踊りに夢中だ。
 ここに決まるまで、いろいろ紆余曲折があったが、こんなに広い家が購入できて、ロラたちが喜んでいる顔をみると、本当に良かったと思う。

 日本で募金活動を進めてきたロラズ基金とリラピリピーナの調印式を早くしようということになり、東京のSさんにも電話して、9月12日ということに決まった。
 調印式の後、記者会見もして、その後、お祝いのパーティだという。

 私は、いつも3月、9月にサマールに来てくれる学生グループ(JAPSAM)と一緒に、9月2日、3日にもここに泊めてもらい、サマールの帰途、12日の調印式にも参加する予定。
 どなたか、同行希望の方はおられませんか?

 


日本のみんなの募金で購入、新しいロラズハウスを訪問

2008年08月13日 | ロラズハウス関連
 13日にマニラのロラズハウスを訪問、1泊させてもらいました。

 ロラたちの集いの場、駆け込み場所、そして歴史資料館などにするために、この2年間、日本で募金活動を続けてきましたが、やっと購入できることになった建物です。引越しもやっと終り、整備されてきました。


(1Fの一番大きな部屋は、ロラたちの写真や資料を集めた歴史資料館にする予定。来訪者を迎えた会議などにも使える広い部屋です。)


(入口前でみんなで記念写真。ロラ・バージニアさん、ロラ・ヒラリアさん、ロラ・シメオナさんらが来てくれた。スタッフのネネさんや、ネニータさんたちもリラで活動していたロラたちの娘さんだ。)


(IFの応接室は、もっぱらカラオケルーム。リッチーさんがマイクを離さない。)


(ロラたちと夕食。台所兼食堂もゆったりした広さがある。)


(2Fのゲストルームは、まだペンキを塗って改装中。この部屋を2つに仕切る予定。)


(2Fの奥の部屋はリラピリピナの事務所にするという。)


(入口を入ると広い前庭がある。ここはパーティの際の踊りの場にうってつけ。古着の販売も始まっていた。)

ロラズハウスの建物購入について話し合い

2008年03月17日 | ロラズハウス関連

(購入できないかと検討中の建物)

 ボントクを午後3時に出たバスは、17日の午前3時にやっとマニラに着きました。まだ、真っ暗なので、6時頃までバスの中で眠らせてもらい、ロラズハウスに向かいました。
 東京からSIさんが来られたので、ロラズハウスの建物購入について話し合うためです。

  今、検討している家を購入する方向で地主と交渉を始めようということになりました。

 


マニラでロラズハウスを訪問

2008年03月06日 | ロラズハウス関連

 JAPSAMのMさんと関空を発ち、午後、マニラに着きました。昨日も京都は雪だったのに、やはり、マニラは30度。震えていた毎日だったので、この暑さが嬉しくてなりません。
 クバオで、数日前にフィリピンに来て、バギオに行っていた、やはりJAPSAMのKさんと合流。3人で、元従軍「慰安婦」のロラズハウスに行きました。

 去年も京都に来たピラールさんとリッチーさんが私たちを待っていてくれました。今、日本で基金を集めて、新しくロラズハウスの建物を購入しようとしているのですが、もう1年以上も、なかなかいい物件が見つかりませんでした。
 今回、いい物件があるというので、私が下見に来たのです。
すぐに案内してもらいました。少し予算をオーバーしているのですが、まずまずの物件でした。すぐに、東京のSさんに連絡。Sさんも見に来るというので、私も、18日の帰国の前にまたここに来て、Sさんと一緒に話をすすめようということになりました。

 暗くなって、Mさん、Kさんと、エトガルの家へ。2人と同年代の娘さんが3人いるので、皆で話がはずんで楽しそうでした。

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 以下、購入したいと考えている建物の写真です。





 

サマールに出発。マニラでロラズハウスを訪問

2007年08月26日 | ロラズハウス関連

 (引っ越してしまったロラズハウスを訪問)

 久しぶりのマニラ。機内の放送では、気温は30度とのこと。京都よりはずっとましです。
 迎えに来てくれたエトガルたちに荷物を持っていってもらい、私はそのままロラズハウスに行きました。元慰安婦(戦時性暴力被害者)たちのセンターです。
 昨秋以来、新しいロラズハウスを購入しようと、日本の3グループがロラズハウス基金を集めはじめました。新しい家が見つかるまでは、現在のロラズハウスの家賃も出すようにしています。そんなこともあって、私は、サマールへの行き帰りには、よくロラズハウスを訪問しているのです。
 それが、私たちに連絡もなく、突然、ロラズハウスが引っ越してしまいました。今回は、当面の家賃を渡し、今後のことを話しあうための訪問です。また、11月には、また2人のロラたちを京都に招待し、証言集会を予定しているので、その打ち合わせもしなければなりません。

 やっと探し当てた新しいロラズハウスは、細い路地の奥の小さな4階建ての建物でした。ちょうど大阪の教会関係者のグループが来ており、狭い家はもう座るところもありません。
 リッチーさんと2時間ほど話し合いましたが、なかなか我々の提案を分かってもらえず、結局、物別れ。また、11月に京都に来たときに話し合おうということになりました。

 フィリピンのロラたちは政府からの援助もなく、皆、高齢化して困難な問題をかかえています。
 何とか早急に、ロラたちの被害の証言記録や、長年の活動記録などを恒常的に展示し、ロラたちが、いつでも気安く集まれるようなセンターを作りたいと考えているのですが、今、集まっている金額では家の購入も難しく、前途は多難です。

  ロラたちが京都に来て証言されるのは、11月11日(日)です。ぜひ、おいでください。


マニラでロラズハウスを訪問、そしてサマールへ

2006年11月23日 | ロラズハウス関連

(久しぶりにロラズハウスを訪問、リッチーもピラールさんも元気だった。)

 2ケ月ぶりにフィリピンに戻ってきました。今、サマールですすめているバイオガストイレ事業のJICAとの契約が今月末に終わるので、事業のj引継ぎなどの書類をかわすなど、いっぱいの仕事が待っています。

 マニラに到着してすぐに、戦時性暴力被害者のロラ(お婆さん)たちが集まっているリラフィリピーナのロラズハウスを訪問しました。
 昨年、京都の証言集会に来てくれたピラールさんと、リッチーさんが待っていてくれました。二人ともお元気そうなのでほっとしました。

 実は、財政的な問題から、このロラズハウスが継続できなくなり、閉鎖・移転の話が出ているのです。東京のSさんの団体から預かったお金を渡したあと、リッチーさんからその説明をしてもらいました。
 話を聞くと、ちょうど前日に、近くの建物を無料で使えるようになったということでほっとしました。それでもかなり痛んでいるそうで、修理の費用もかなりかかりそうです。また、敷地内には空き地もあるので、専用の建物も建てることができるということでした。
 これで、今年のクリスマスパーティや、2月のバレンタインデーのパーティも今のロラズハウスでできるということで、ロラたちもほっとしています。そして、3月末にその建物に引越しという段取りになりそうです。

 帰国後、東京のSさんや、大阪のIさんたちと相談して、新しいロラズハウスのための募金活動を始めますので、ぜひ、ご協力ください。修理費用や、新しい建物の新築費用にあてたいと考えています。

 午後7時頃にサントーランのエトガルの家に着き、夕食を食べてから、また空港に戻りました。東京から来られるTさんを迎えるためです。彼女は、東京農工大の学生で、インターネットで見つけた私のバイオガス事業に関心を持ち、一度、現地を見たいというのです。1週間ほど滞在されます。
  彼女と会えたのはもう深夜の12時近く。サントーランに戻って、ベッドに入ったのはもう午前1時前でした。

 明日は、午前3時起きで空港に行かなければなりません。2時間ほどの仮眠ができるだけ。国内線のスケジュールが突然変わって、カルバヨグに行く便がなく、北サマールのカタルマンに飛びます。
 昨日も忙しくて3時間ほどしか睡眠時間がとれなかったので、やはりきついですね。


 

 

 

 


あのロラ・ピシンさん(レイテ島出身)が亡くなった!

2006年04月27日 | ロラズハウス関連

 4月24日(月)にマニラに着き、すぐにロラズハウス(第二次大戦当時の日本軍による性暴力被害者たちの組織、リラ・フィリピーナの事務所)を訪ねたことは26日のブログにも書きました。その時の話を詳しく書きましょう。

  門をくぐると、なんと、東京の柴崎さん、澤田さん(マニラ新聞)たちがいるではありませんか。柴崎さんは、長く、ロラたちの支援活動を続けておられる方です。

 久しぶりの対面で話がはずんで楽しかったのですが、リラ・フィリピーナのリッチーさんから悲しい報せを聞かされました。2月に証言を聞かせていただいたロラ・ピシン(プリシラ・バルトニコ)さんが、4月24日に急死されたというのです。

  2月12日、京都からやってきた証言集会のグループと、スモーキーマウンテン近くのナボタスを訪問しました。この辺りには、性暴力被害者のロラ(おばあさん)たちのコミュニティがあり、この日は、我々が行くというので10人ほどのロラたちが集まってくれました。そこで最初にお話いただいたのが、ロラ・ピシンさんでした。

  彼女は、レイテのタクロバン近くのブラウェンの町で被害にあわれました。このブラウェンの町には、当時、3つの飛行場があり、日本軍のレイテ島における最大の航空基地群だったのです。この町に駐屯していたのは、あの陸軍第16師団、すなわち京都出身の兵士たちでした。 米軍の上陸を直前にして、日本軍は飛行場の造成を急ぎました。そのために、大勢の現地の人々が工事にかり出されたといいます。

  1944年10月20日、マッカーサーがレイテ島に上陸しました。海岸部の防衛にあたっていた日本軍は一瞬にして粉砕されます。その後、少し内陸に位置しているブラゥエンの3つの飛行場の争奪戦が熾烈に戦われました。結局、10月末には、16師団は多くの犠牲者をだした後、飛行場を放棄して西側の中央山岳地帯に逃げ込んだのです。

 その後、16師団は、12月上旬になって、隠れていた山岳部からブラゥエンの飛行場に、最後の「切り込み」を行います。一時、飛行場を占拠しますが、結局、米軍の猛反撃によって、ほとんどの兵士はここで死んでしまいました。いわば、京都の16師団が壊滅したところなのです。(その後、生き残った兵士たちは、レイテ島中央の山岳部を西海岸に飢餓の行軍を続け、凄惨な最後を迎えます。)

  ロラ・ピシンさんの証言は、このような経過をふまえて聞くと、我々に切実にせまってきます。特に、彼女に暴行を続けたのは、京都の兵士たちなのですから、和我々にとっても他人事ではありません。私も、昨年12月には、このブラゥエンの町を訪ねているので、彼女の証言は強く記憶に残っています。

  彼女は、時々、涙をおさえながら、自らが受けた被害を証言してくれました。 当時、ブラゥエンに駐屯していた日本兵が3人、ゲリラに殺されたというので、日本軍による報復が始まったそうです。彼女は、従姉妹と一緒に日本軍に捕まり、ブラゥエンの小学校の駐屯地に連行されました。そこで、3人の女性らと教室に閉じ込められたのです。毎朝、トラックに載せられて、飛行場の造成工事現場で働かされ、夕刻、駐屯地に戻った後は、レイプされる毎日が続いたそうです。「殺されるのが怖くて抵抗できなかった。」と彼女は泣き続けました。そんなピシンさんを、隣にいたロラが、そっと肩を抱くようにして励ましているのが印象的でした。

  ロラ・ピシンさんは、証言が終わったあと、隣の彼女の家に我々を招いてくれました。壁には、彼女が描いたという絵が飾られています。今は、落ち着いた暮らしをされているのだなと思うと、やはり、ほっとしました。

  享年、78歳。2月にお会いした時は、あんなに元気だったのですから、突然の訃報に、もう言葉もありません。お通夜に行かれた澤田さんからのメールでは、ロラ・ピシンさんは可憐な白いドレスを着て、たくさんの花に囲まれて眠っていたそうです。大勢のロラたちが集まって、お祈りをささげていたとのことでした。

  彼女らは、長く、日本政府に謝罪と補償を求め続けているのですが、それもかなわないまま、こうして毎年、大勢のロラたちが亡くなられているのです。急がないと、残された時間は、もうありません。

 (このブラゥエンの飛行場造成では、他にも、フェリアスさんというロラが、自らの受けた性被害の実態を絵にし、それは『もう一つのレイテ戦(日本軍に捕らえられた少女の絵日記)』という本になって出版されています。

  レイテ島には、日本の遺族会等が建てた慰霊碑がたくさんあります。戦後60年の今も、慰霊団が時々やってきます。しかし、その一方で、こうした被害を受けた女性たちが多くいるのだという事実は、教科書から「慰安婦」という言葉が無くなってしまったように、次第に消されつつあります。それだけに、こうした記録を残していくことは本当に大切なことですね。その意味で貴重な本です。)