サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

カプル島は、戦争当時、「隠忍の孤島」と言われていた

2009年04月09日 | サマールと戦争
 このブログでも何回か紹介してきましたが、サマール北西部に位置するカプル島には、今も多くの日本軍の戦争遺跡が残っています。


(島の北端、ルソン島とのサンベルナンディノ海峡を見渡す高台には、3基の砲台跡がそのまま残っている。)


 (村人が、島の南部の、当時、日本軍が隠れていた塹壕を案内してくれた。)


 私は、このカプル島には3回ほど行きましたが、その時は、この島にいた日本軍がどこの部隊かというのは分かりませんでした。
 しかし、今回、ある資料を読んでいて、戦争当時のこの島の状況がやっと分かったのです。

 最初にこの島に入ったのは、やはり京都の陸軍第16師団でした。
 1943年、フィリピン内海と太平洋を結ぶこの海峡が、戦艦の監視と敵艦攻撃の要となる場所として、カプル島を要塞化する計画が立てられました。そして、16師団の野砲兵第22連隊(垣6558)の工兵隊が、最北の岬に堡塁を構築したのです。灯台には監視硝も作られました。
 サマール本島にいた第9連隊第5中隊が守備に就いたこともあるようです。

 その後、1944年10月、独混第26連隊第1大隊の第2中隊(程川中隊長)が、ルソンからサンアントニオ島を経由してカプル島に入ります。大隊本部(五木田大隊長)は、サマール北部のアレン、第1中隊(小山内中体長)は、サンアントニオ島へ渡る拠点・マオー(現在のサン・イシドロか?)に駐屯しました。

 1944年10月20日、米軍がレイテ島に上陸。1945年1月になるとカプル島にも米軍の空襲や艦砲射撃が始まりました。そして、1月19日には、ついに米軍が島に上陸します。
 程川隊は、山間部への後退を余儀なくされましたが、小さいカプル島では隠れるところがないというので、筏で島を脱出します。しかし、海峡のすさまじい潮流に翻弄され、筏は浸水、兵士たちは必死に泳いでカプル島に戻りました。(中隊長ら24名は、カプル島の西にあるナラホス群島経由でルソンに向いましたが、ゲリラの銃撃を受け、中隊長は戦死。生還者は3名のみだったようです。)

 カプル島に戻った兵士たちは、再度の脱出をあきらめ、島の山間部にこもります。東西が4キロほどの小さな島で、密林もなく、隠れるところもほとんどありません。私たちが訪ねた洞窟も、その頃、日本兵が隠れたところの一つだったのでしょう。日本兵たちは、小さい島の中で、ゲリラに追われながら、食糧を求めて凄惨な日々を過ごしたようです。当時の戦記には、カプルのことを「隠忍の島」と称しています。

 結局、1945年1月に山に隠れた兵士たちが投降に応じたのは、10月でした。49名の兵士たちが投降した際には、島の人たちは、終戦記念パレードを開催、投降した兵士たちは、音楽隊に続いて町を一巡させられたといいます。それまでは、山間部に夜盗と化した日本兵たちがいたので、島民たちは安眠も出来ず、婦女子を島外に疎開させたりしていたそうですから、喜びもひとしおだったのでしょう。

 今は、のどかなカプル島ですが、あんな小さな島にも、こんな悲惨な戦争の歴史があったのです。
   (以上は、井上忠著『続 独混第26連隊比島の苦闘』に基づいています。)