サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

新型インフルエンザ騒動記

2009年06月18日 | 日本での関係記事
 もうそろそろいいでしょう。
 いよいよ、サマール紀行の後日談を解禁します。

 今回は、14日(日)の飛行機でマニラから帰ってきたのですが、16日(火)の朝、サマールに一緒に行ったN(夫)さんから突然電話がかかってきました。
 
「えらいこっちゃ。今なあ、北保健所から電話があって、マニラから帰ってきた飛行機の乗客が、新型インフルエンザを発症したらしいんや。それで、俺の席が、その乗客から2m以内やったということで、俺は濃厚接触者ということになったらしい。今から保健所の職員らが来るそうや。」

 飛ぶほど驚きました。少し前の、あの月面探検の宇宙服のような物々しいかっこうをした連中がやってくるのでしょうか?

「えー、隔離されるんか?」、「いや、まだ何も分らん。」

 帰国便の座席は、窓際からKさん、私、N(妻)さん、そして通路を隔ててN(夫)さんでした。彼が濃厚接触者というのなら、我々もきわどいものです。半径2mと、半径2.5mでどう違うというのでしょうか? それに、以前は、もっと大きい半径の範囲を濃厚接触者としていたはずです。

 それに、私は、今、京都ではひとり住まいですから、もし、自宅に保健所から電話があっても、留守番電話で夜まで聞けません。今日も、いろんな人に会う用があるので、もし、私の方にも連絡が来ているのなら、万一、何かあったら迷惑をかけるので、そんな大勢の人に会うわけにもいきません。

 仕方がないので、北保健所に電話してみました。
私:「一緒に飛行機で帰ってきた友人が感染の恐れがあるというが、私はそのすぐ近くに座っていた。問題はないのか?」
北保健所:「いや、国から連絡があったのは、その方だけです。」
私:「すぐに横にいたのですよ。それなら、何も気にせず、普通にしていてもいいのか? もし、家に保健所から電話をもらっても、誰もいないから今、電話しているのだ。」
北保健所:「いや、あの、その、国からはその方に連絡をするようにという連絡があっただけですから。--- 一寸待ってください、上司と相談してみますから。」

 ところが、長く待たされている間に、突然、電話が他の部署にまわってしまったのです。
北保健所:「はい、こちら保健所ですが。どういうご用件ですか?」
私:「えー、どうなってるのか? 新型インフルエンザの相談窓口に電話をしていたら、待たされているうちに違う部署にまわってしまったのか?」
北保健所:「それなら、お待ちください。」

 それでも、電話はそのまま応答なし。しびれを切らして、今度は居住地の洛西保健所に電話してみました。
 ここでも、「国から、何の連絡もありません。」というだけで、どういう注意をすればいいのかというアドバイスすらないのです。そして、ここでも、「ちょっと待ってください。上司と相談しますから。」と言って待たされるのです。埒が明かないので、電話を切りました。私もかっては市職員でしたから、彼らの悪口は言いたくないのですが、せめて、もうちょっとキチンとした対応をしてもらわないと困ります。

 しばらくして、N(夫)さんから、電話がかかってきました。
N:「北保健所が来たけど、毎日、朝夕、熱を測れというだけで、どこへ行っても、何をしてもいいらしい。それに、保健所の連中、マスクもせんと来よった。どうなってるんや?」

 濃厚接触者だというのに、こんな程度なのです。少し前のあの大騒ぎはいったい何だったのでしょうか?

 それで、もう何も気にせず、夕刻、馴染みの店にビールを飲みに行きました。サマールの土産話をしたのですが、誤解を招いてもいけないので、もちろん、Nさんのインフルエンザ疑惑については触れませんでした。

 ところが、しばらくすると、今度は、N(妻)さんから電話がかかってきたのです。
「彼、熱が出てきた。夕方から、37.3度ある。」

 エー、それはヤバイ。発症者の2m以内にいたものが、2日後に発熱したのですから、インフルエンザに感染したことがかなり疑われます。

 そうすると、玉突きで、今度は私が濃厚接触者ということになります。明日、大事な裁判と、TM訴訟の弁護団会議があるのです。いったいどうしたらいいのでしょうか?

 夜遅く、帰宅しましたが、留守番電話には何も入っていませんでした。1mほどの違いで、私は濃厚接触者という定義にはされなかったようです。
 Nさんに電話をしたのですが、やはりまだ熱があるとのこと。これは困りましたね。
 私が発症した後のことに思いがめぐります。まさか、沖縄に帰って入院できないし、京都で一人で入院すれば、義母の介護があるので登久子も来るわけにはいかないし、いったい誰が私の世話をしてくれるのでしょうか? 困った、困った。

 こんなことをくだくだ考えながら、遅くまで一人でウィスキーを飲み続けました。気のせいか、どうも熱っぽいような---

 そして、翌朝、Nさんから電話。
N:「もう熱はないわ、下ったわ。」
私:「それやったら、なんで熱でたんや?」
N:「いや、外でビール飲んでたんやけど、夕方の熱を測って保健所に電話する時間がせまってきたので、急いで走って家に帰ったんや。そのためやと思う。」

 まあ、ともかく、良かった、良かった。
 こうして全て一件落着。なんとか、笑い話で終わりました。


 パフォーマンスだけに明け暮れた、少し前の大騒ぎの馬鹿馬鹿しさを実感した今回のインフルエンザ騒動でした。

14日(日)夜に帰洛。とんでもないハプニングが!(追記)

2009年06月15日 | Weblog
 6月14日、タクロバンを朝6時の飛行機で発ち、マニラへ。
 マニラでは、JAPSAMのOGのGさんと会う。4月から、マニラの邦人用の新聞社で働き始めたのだが、仕事も面白いらしく、実に生き生きとしている。

 午後の飛行機で関空に戻る。


(追記)
 帰国後、とんでもないハプニングが起こりました。まだ、事態は流動的ですので、1週間後の21日ぐらいに詳細をお知らせします。
 お楽しみに!

もうカルバヨグの最終日

2009年06月13日 | Weblog

(やっと修理が終った「謝罪と友好の碑」)


 14日(日)に、カルバヨグからマニラに飛行機で飛び、そのまま日本に帰る予定だったが、カルバヨグからのフライトが、なんと満席、チケットが買えない。
 仕方なく、13日(金)の午後、また、バスでタクロバンに戻ることになった。
13日は、カライマンのフィエスタ当日だが、やむを得ない。今回は、滞在期間が短いのでバタバタする。

 朝、11時に、ラーニングセンターの管理をお願いしているスーサンさんの家に行く。皆、レチョン(豚の丸焼き)を、「うまい、うまい」と食べていた。トムノムさんも来たので、少し、京都サマール友好協会のイーパオのラーニングセンターの話をする。いろいろ問題があるようだが、今回は時間もないので、9月に来たときに、移管か閉鎖かを相談しなければならない。
 もう15年も続いてきたセンターだが、リトもいなくなったので、やはり運営が難しい。

 昼は、バイオガス事業地の地主・イダイさんの家へ。今回、一緒に来たKさんは、15年前に初めて来たときに、イダイさんの証言を聞いている。
 そして、新しいバランガイキャプテンの家にも挨拶。国会議員・ウイの息子らも来ていて話がはずんだ。


(カライマンの新しいバランガイキャプテンと)



 大急ぎで宿舎に戻り、午後3時のバスでタクロバンに向かう。ベイビーがついてきてくれた。
 タクロバンでは、ライブの店で夕食。歌が始まると、やはり、むずむずしていたのか、ベイビーが前に出ていって歌いはじめた。
 タクロバンの市役所横の公園には、いっぱいの屋台がでて、中央のステージでは歌などのショーで賑やか。ここでも、ビールを飲みながら、しばらくゆっくりする。

 カルバヨグにはわずか3泊という慌ただしい旅だったが、14~15年ぶりに来てくれた3人も楽しんでくれたようで、まずはよかった。

カライマンのフィエスタ

2009年06月12日 | Weblog


 いつものようにイメルダの家で、ジョナサンに散髪をしてもらう。ジムジム君も、もう歩けるようになっていた。

 昼は、アリマンゴ(蟹)を買い込んで、ナガビーチへ。海岸の小屋でゆっくりする。





 そして、夜は、カライマンへ。ニーロの家で夕食をご馳走になる。
 今夜は、フィエスタ前日のバランガイナイト。広場では、ダンスパーティが始まった。歌は、ナーティ。陽気な音楽に、村人たちが次々とやってきた。
 我々は、ニーロの家の前に椅子を出し、ビール、タンドワイを楽しむ。


盛りだくさんな一日

2009年06月11日 | Weblog
 6月11日。朝食後、Nさんら3人は、市場でいっぱい、ビール、魚、貝、果物等を買い込み、マパソ(温泉)へ。
 私は、滞在期間が短いので、カルバヨグに残って人と会ったり、仕事の整理に追われる。

 昼過ぎ、3人は、「良かった! 最高やった!」と言って、ツルツルの顔をして帰ってきた。
 
 午後3時にソルソゴンの小学校へ。
 JAPSAMの学生らの依頼で、京都の中学生グループと、植物の種を交換し、栽培日記を書くプロジェクトだ。昨日、朝顔を植え終り、今日は、綿と枝豆の種まき。
 新しい校長先生に挨拶し、子どもたちの様子を写真にとる。
 うまく育てばいいのだが。





 図書館を開設する予定のトレーニングセンターの2階も見に行った。
 立派な棚や椅子ができている。この棚をいっぱいにするには、かなりの本が必要だ。

 
 (図書館の担当者、リスリスとマリクリス) 


 その後、大慌てでカライマンへ。
 昨年、ここで修士論文のフィールドワークをしたJAPSAMのAさんが、村の人々へのお礼ということで、大量の古着を送ってきたのだ。フィエスタの機会に、皆に配ろうということになった。
 すぐに大勢の人たちが集まってくる。ベイビーがうまく仕分けしてくれて、各世帯の名簿をもとに、番号をつけて順次、抽選。皆、大喜びで受け取ってくれた。




 夕刻、皆で屋上でビールを飲んだ後、リンズガーデンへ。今日は、ナーティが歌う日だ。ベイビーも7年ぶりにマイクをとって歌ってくれた。ナーティとベイビーは、15年前からのコンビ。息もぴったりと合って、さすがに聞かせる。


レイテ経由でサマールへ

2009年06月10日 | Weblog


 6月9日、4人で関空を発つ。今回は、4人連れ、京都サマール友好協会の理事が全員来た。皆、14~15年ぶりのサマールだ。酒豪ぞろいなので、いったいどんな旅になるのか、心配だ。

 マニラからレイテに飛び、ホテル・アレハンドロに泊まる。(このホテルについては、私のブログ・「戦場のピアニスト」で紹介しているので、見てほしい。
 http://kyoto-samar.hp.infoseek.co.jp/newpage162.htm

 翌日、まず、マッカーサーランディングパークへ。1944年10月20日、マッカーサーらがレイテに上陸した模様を示す大きなブロンズ像が、黄金色に輝いている。横には、各国首脳らのプレートが。日本の村山首相は、簡単な一言だけ。各国首脳らが力強いメッセージを寄せているのと比べて、恥ずかしい。

そして、バスでカルバヨグへ。道路も随分良くなった。
 カルバヨグに着いてすぐ、カライマンとソルソゴンを訪問。いつものように、JAPSAMの学生らからの手紙配りに追われる。

 夕刻は、オポックの家の前に椅子を出し、皆で酒盛り。こののどかな雰囲気がたまらない。