サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

設置から6年、バイオガス施設は今も順調に稼働

2011年09月20日 | Weblog

   (カライマンのバイオガス施設(2011.9.7撮影))

 サマールの2ケ所(カライマン、ソルソゴン)に開設したバイオガス施設は、設置から6年半が経過したが、今も順調に稼働している。

 公衆トイレ、豚小屋、そしてバイオガスのコンロのある台所だけではなく、ホールでは、地域の子どもたちを集めたデイケアーセンターの活動が定着している。もうこれだけの年月が経ったのだから、ひとまずは「成功」と総括させてもらってもいいだろう。

  

 ただ、養豚事業はやはりなかなか難しく、当初の想定のようにはいっていない。それでも順調にガスは発生し続けている。

 

 バイオガス施設のホールを使った子どもたちのデイケアー活動(左:カライマン、右:ソルソゴン)

 京都サマール友好協会は、これらのデイケアー活動の先生たちの給与や、子どもたちの教材、おやつ代等の援助を続けている。

 

 


とうとうあの海一望の宿舎を引き上げた!

2011年09月19日 | Weblog

  (私のサマールの宿舎・シーサイドインの屋上は絶好のビヤガーデンだった)

 バイオガス事業を始めた次の年(2005年)の秋、シーサイド・インにできた新築のアパートに引っ越した。窓からは海が一望、朝陽から夕陽まで楽しめる最高の部屋だった。波の音を聞きながら寝つき、深夜に起きると、春には、南十字星が海の上に輝いていた。

  

 最近は、もう年に3~4回しかサマールに行けないので、その度に部屋を引き上げようと思うのだが、この素晴らしい海を見ると、いつもその思いは挫折。とうとう6年間も借り続けてきた。

 今回、夏に体調を悪くしたこともあって、今回、とうとう部屋を引き上げた。今、片づけないと、それこそどうなるか分らないという思いもあった。京都からの友人が荷物を持って帰ってくれたのも助かった。

 次のサマール行からはホテル住まいとなる。以前と違い、カルバヨグにもそこそこの値段で泊まれる快適なホテルがいくつかできているのでもう不自由はしない。それに、どこに泊まっても、時々は、この屋上に上がらせてもらい、夕陽を見ながらビールを飲むことをできるだろう。

    (最後の夜、屋上でしみじみとビールを飲む)


ウィ市長のお墓参りと家族への慰問---そして分った驚く事実

2011年09月18日 | Weblog

 

                            (ウィ市長のお墓)

 今回のサマール行でまずしたかったことは、殺されたウイ市長のお墓参りと、家族への弔問だった。私とウィの関係、そして、ウィが殺された時の状況については、このブログの本年5月1日版を見てほしい。

  ・フィリピン・サマールから衝撃の悲報--ウィ市長が殺されてしまった(2011.5.01)

  ・ウィ市長が殺された状況が判明(2011.5.3) 

 フィエスタの日(9月8日)の夕刻、お墓参りに行くことができた。まるで御殿のような立派なお墓の建物に、彼は眠っていた。棺の上に飾られた写真を見ながら、1994年以来の彼とのつきあいを思い出し、さすがに胸が熱くなった。こんなに早く殺されてしまって---、かわいそうで仕方がない。

 翌日、市役所に息子のジムジムを訪ねた。ウィ市長が殺されたため、アキノ副市長が市長となり、市会議員のトップだった彼は副市長に昇格していた。

  (副市長室でジムジムと。後ろは、ウィの大きな肖像画)

 私は、1995年当時、しばらくウィの家に泊めてもらっていたことがある。当時、ジムジムや長女のアイカは、まだやんちゃでかわいい小学生だった。副市長となったジムジムは、懐かしそうに私を迎えてくれた。彼は、まだ20代のはずだが、すっかり太って、政治家としての風格もついてきている。

 部屋の壁には、ウィの知事選に向けたポスターが貼ってあった。

 

   (ウイと副知事候補のネス)        (知事選には、ウィに代わり、娘のアイカが立つ)

 副知事候補のネスは、ウィが殺された際、彼女も右腕を負傷している。彼女のポスターの経歴などを見ていて、あっと驚いた。サマールのパラナスという町、そしてババルコンという名前には憶えがある。あの、沖縄出身でパラナスに住んでいるよし子さんの息子は長くパラナスの町長をしていたはずだ。あるいは、ネスは、よし子さんの孫ではないのか?

 ジムジムに、ネスのお婆さんは、日本人ではないかと聞いてみたが、彼は知らないという。そこで、パラナスで2回、日本人のお婆さんを訪ねた際の話をすると、彼は、すぐにネスに電話してくれた。やはり、そうだった。彼女はよし子さんのお孫さんだった。

    

    もう50年以上もサマールに住むよし子さん(左は、2001年9月。右は、2005年12月)

 よし子さんは、1926年生まれ。戦後、米軍と一緒に沖縄に来たババルコンさんと結婚し、10年ほど沖縄に住んでいたが、1959年にサマールにやってきた方だ。沖縄には1度帰っただけで、ずっとサマールで暮らされている。

 あのよし子さんの孫娘が、ウィと一緒に副知事に立候補し、ウィが殺された後は、ウィの娘のアイカとコンビを組んでいるのだ。それにしてもなんという偶然だろう。

 

  ジムジムはすでに政治の世界で生きているが、ウィの娘のアイカがまさか政治家を志すとは思わなかった。彼女もそんなつもりは全くなかったという。ところが、銃撃を受け、タクロバンの病院に運ばれたウィが、意識を失う直前、アイカに電話をし、後のことを頼んだのだという。アイカも、父親の最後の言葉を聞き、その遺志を継ごうと決意したのだ。

 それにしても、サマールで政治家として生きていくことはなんと大変なことだろう。ジムジムとアイカの今後の政治家としての人生が、平穏なものであることを願うばかりだ。


10年を迎えたJAPSAMの活動

2011年09月17日 | JAPSAMの活動

 サマールには、2002年3月から毎年、3月と9月、京都を中心とした学生グループ(JAPSAM)がワークキャンプに来てくれている。

 今回も、9月4日~15日の日程で6名の学生が来てくれた。うち3名は全く初めてのメンバー、そのうちの2人は1回生で、まだ19歳だという。

村の子どもたちと一緒に運動会。毎年恒例のドッジボールや綱引きなどで子どもたちは大はしゃぎだ。

 

  2年前にオープンした図書館。村の子どもたちは、従来、全く本と縁はなかったから、この図書館の意義は大きい。絵本を中心に、現在900冊ほどの本がある。京都サマール友好協会に寄せられていた多くの絵本も、ほとんどこの図書館に寄贈した。

 京都サマール友好協会の現地スタッフ・ベイビーは、今年から、町のストリートチルドレンを家に集めて食事を提供する事業を始めた。この日(9月11日)は、JAPSAMと子どもたちの交流会。16人の子どもたちが集まった。

 半数ほどの子どもたちは裸足。私がサマールに初めてきた1994年頃には、こうした子どもたちはいなかったのだが。

 

  

 今回のワークは期間が短かったので、ホリデイの遠出はなし。すぐ近くのナガビーチで海水浴を楽しんでいた。ソルソゴンから近いので、村の子どもたちも大勢やってきて賑やかだった。


ライニングセンターが完成した! 盛大な完成式典

2011年09月16日 | Weblog

               (完成式典を終えて。Yさんを中心に、いっぱいの笑顔があふれる)

 9月7日、カルバヨグのイーパオというバランガイ(村)で、子どもたちのためのラーニングセンター(LC)の完成式典が行われた。ここでは、京都サマール友好協会が、1995年からLCを運営してきたが、建物が老朽化し、どうすればいいのか、途方に暮れていたところだった。

 そんなとき、JAPSAMのOB、HさんからYさんを紹介してもらった。今年1月、YさんとHさんはサマールに来られ、このLCの現状を見て、新築のための費用を全額寄付していただけることになったのだ。

 (すっかり老朽化していた以前のラーニングセンター(本年1月撮影)) 

 完成式典に先立って、神父さんに来てもらってBlessingが行われた。

                (Yさんによるテープカット)

 

 式典には、ちょうどこの日にやってきたJAPSAMの学生ら。福岡のYさん、Hさん。京都のMさん、Hさん、そしてレイテのタクロバンから来られたOさんらも参加され、盛大に行われた。

 (9月12日からは、シワックの授業が始まった。SEの授業は19日からの予定)

 建物は延床面積160㎡の2階建て。1F、2Fにそれぞれ2つずつの部屋がある。1Fの一室は、以前から続いているシワックのLC。それ以外は、ベイビーたちの就学前教育施設(SE)が使用する。

 また、2Fの1室は、地元の住民組織らが、セミナーやミーティングを開いたりすることもできる。周囲は、ニッパヤシの家ばかりなので、災害時の避難施設にもなるだろう。

 このLCは、Yさんの希望で、「テッカ ラーニングセンター」と名付けれた。Yさんと、亡くなられたYさんのおつれあいの名前をあわせたものだという。 

 Yさん、本当にありがとうございました。


レイテ島の戦跡を巡る③ オルモクのコンクリートハウス

2011年09月16日 | サマールと戦争

         (オルモク、当時の激戦の跡を生々しく残すコンクリートハウス)

 サン・イシドロから大急ぎでオルモクに向かった。コプラ(ココヤシからの油)の会社の構内に、銃撃を受けてぼろぼろになった3階建てのコンクリート造りの建物が、当時の姿のまま残っている。この建物を訪ねることが、今回のレイテ巡りの最大の目的だった。

 ここに立てこもったのは、名古屋・岐阜からの部隊を中心とする第26師団独立歩兵第12連隊の立石大隊。1944年12月10日から14日にかけて英軍との間で熾烈な戦闘が続き、建物はほとんど破壊された。

 民間の土地に建っているうえ、破損が進んでいるので、この建物もいつまで残されるかは分らない。しかし、大戦当時の状況をそのまま残す貴重な戦跡だから、なんとかいつまでも保存されるよう願っている。

 

 オルモク市の警察本部には、日本軍の対空機関砲が保存されている。


レイテ島の戦跡を巡る②---サン・イシドロ 沈んだ日本艦船のマストが見える?

2011年09月15日 | サマールと戦争

 リモン峠からビリヤバ経由でレイテの西北部・サンイシドロに向かった。今回の目的の一つがサンイシドロの港に、今も日本軍の艦船のマストが見えるかどうか確かめることだった。

 ビリヤバに入ると正面にブガブガ山が見えた。レイテ戦の最終段階、米軍に追われた日本軍は、ただひたすらこの山を目指して死の彷徨を続けた。レイテにおける日本軍が壊滅したところだ。

 当時、日本兵たちはこの山をカンキポット山と称し、さらにそれを言いかえて「歓喜峰」と呼んでいた。大岡昇平は『レイテ戦記』で、この山のことを次のように記している。
 「山そのものはいかにも歓喜峰の名にふさわしい山容を持っていた。頂上の東側と西側は比高70mの、そぎとったような岩壁になっていて、紫藍の岩壁が朝焼け夕焼けに赤く染まった。付近の低山の間に屹立して、遠くからもよく見えた。原隊を追及する敗兵は、あそこまで行けば友軍がいると勇気づけられ、そり立つ岩の頂上を見つめながら足を運んだ。」

 
 この周辺だけでも約1万人、リモン峠からこの山にいたる一帯では、3万人もの日本兵たちが死んだという。
 当時、レイテ島に投入された日本軍の総兵力は8万4千人。しかし、生還者はわずか2,500人にすぎなかった。京都の第16師団が最も多く1万8千人が投入されたが、生還者は、戦後、サマール島で降伏した150人を入れても、わずか580名という。(『レイテ戦記』)
 戦争末期、すでに「棄兵の師団」(『防人の詩』)と化した第16師団は、最期に、師団長牧野中将以下、約200名がレイテ中央山陵を越えてブガブガ山を目指したことが分かっている。しかし、彼らがブガブガ山にたどりついたという記録はない。

 私は、2007年2月、この山の山頂を踏んでいる。

 ブガブガ山登頂記(前) ブガブガ山登頂記(後)

                    (ブガブガ山 山頂部)

             (サン・イシドロの港)

 1944年12月、レイテ西部のオルモク港が米軍におちたため、マニラから物資補給に向かった第68師団はレイテ西北部のサン・イシドロに上陸しようとした。「赤城山丸」「白馬丸」「第五真盛丸」「日洋丸」、輸送艦「第11号」の5隻。

 しかし、ここでも米軍の空襲により、5隻全てが沈没し、日本軍は武器、食糧の大部分を失った。68旅団は闘う前から戦力を喪失した部隊となってしまった。つい最近まで、干潮時には、港入口に沈船のマストが2本、海面に露出していたという。今回のサンイシドロ行は、今も何か見えるのか確かめることだった。

        (サン・イシドロの町長・アランさん)

 すぐに港に行ったが何も見えない。ちょうど漁師たちが戻ってきたので聞いたが、数年前に撤去され、今はもうないという。詳しい事情を聴くため、町長を訪ねた。

 町長は、アランさんという中国人。彼の話によると、沈んだ船は5隻。15年ほど前に引き上げられたとのこと。さらに2年前にも残った部分が引き上げられた。自宅に、昔からのアルバムがあるので、船や引き上げ時の写真がないかどうか、探してくれるという。

 町長の家は、1926年築。戦争当時、日本軍が接収していたという。今も柱に銃撃の跡が残っている。壁には、日本軍の38式銃が展示されていた。

 また、隣の小学校からは、戦後、日本兵の骨が大量に出てきたという。

 

              


レイテ島の戦跡を巡る① 激戦地・リモン峠

2011年09月15日 | サマールと戦争

9月4日、関空を出てマニラ経由でレイテのタクロバンに入った。翌日、車をチャーターして北レイテの戦跡を巡る。大岡昇平『レイテ戦記』の地図が参考になった。

 (急峻なレイテ背梁山脈。米軍に追われた日本軍は、こうした山の中の行軍を強いられた。)

              (リモン峠から北、カリガラ湾を望む。)

 タクロバンから西に1時間半ほど走るとリモン峠に着く。この辺りでは、1994年の12月、レイテ西部のオルモクからきた第1師団と、タクロバンから西進した米軍が1ケ月にわたって激戦を続けたところだ。この辺りだけで、日本兵6000人が死んだという。 

「壕の中にうずくまって火が頭の上を通りすぎるのを待っていた日本兵は、激しい息づかいを近くに聞いて、首を出して見た。まっ赤な顔をした兵士がはって通りすぎるところだった。声をかけたが聞こえないらしく、はあはあ息をしながら、両手で焼けた萱(かや)の根をつかんではって行った。腰から下もまっ赤だった。股から下に脚はなかった。」(『レイテ戦記』)

 

 

 

  第1師団の慰霊場

 

 

 

 

 

                (リモン川)

この付近で多くの日本兵が死に、当時、この川は「血の川」と呼ばれたという。

 

 

                   (工兵第1連隊の碑)

 この部隊は、軍用道路の開設にあたる部隊だが、工兵第1連隊は690名が全員戦死した。)

              (野砲兵第1連隊碑)