サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

レイテ島の戦跡を巡る③ オルモクのコンクリートハウス

2011年09月16日 | サマールと戦争

         (オルモク、当時の激戦の跡を生々しく残すコンクリートハウス)

 サン・イシドロから大急ぎでオルモクに向かった。コプラ(ココヤシからの油)の会社の構内に、銃撃を受けてぼろぼろになった3階建てのコンクリート造りの建物が、当時の姿のまま残っている。この建物を訪ねることが、今回のレイテ巡りの最大の目的だった。

 ここに立てこもったのは、名古屋・岐阜からの部隊を中心とする第26師団独立歩兵第12連隊の立石大隊。1944年12月10日から14日にかけて英軍との間で熾烈な戦闘が続き、建物はほとんど破壊された。

 民間の土地に建っているうえ、破損が進んでいるので、この建物もいつまで残されるかは分らない。しかし、大戦当時の状況をそのまま残す貴重な戦跡だから、なんとかいつまでも保存されるよう願っている。

 

 オルモク市の警察本部には、日本軍の対空機関砲が保存されている。


レイテ島の戦跡を巡る②---サン・イシドロ 沈んだ日本艦船のマストが見える?

2011年09月15日 | サマールと戦争

 リモン峠からビリヤバ経由でレイテの西北部・サンイシドロに向かった。今回の目的の一つがサンイシドロの港に、今も日本軍の艦船のマストが見えるかどうか確かめることだった。

 ビリヤバに入ると正面にブガブガ山が見えた。レイテ戦の最終段階、米軍に追われた日本軍は、ただひたすらこの山を目指して死の彷徨を続けた。レイテにおける日本軍が壊滅したところだ。

 当時、日本兵たちはこの山をカンキポット山と称し、さらにそれを言いかえて「歓喜峰」と呼んでいた。大岡昇平は『レイテ戦記』で、この山のことを次のように記している。
 「山そのものはいかにも歓喜峰の名にふさわしい山容を持っていた。頂上の東側と西側は比高70mの、そぎとったような岩壁になっていて、紫藍の岩壁が朝焼け夕焼けに赤く染まった。付近の低山の間に屹立して、遠くからもよく見えた。原隊を追及する敗兵は、あそこまで行けば友軍がいると勇気づけられ、そり立つ岩の頂上を見つめながら足を運んだ。」

 
 この周辺だけでも約1万人、リモン峠からこの山にいたる一帯では、3万人もの日本兵たちが死んだという。
 当時、レイテ島に投入された日本軍の総兵力は8万4千人。しかし、生還者はわずか2,500人にすぎなかった。京都の第16師団が最も多く1万8千人が投入されたが、生還者は、戦後、サマール島で降伏した150人を入れても、わずか580名という。(『レイテ戦記』)
 戦争末期、すでに「棄兵の師団」(『防人の詩』)と化した第16師団は、最期に、師団長牧野中将以下、約200名がレイテ中央山陵を越えてブガブガ山を目指したことが分かっている。しかし、彼らがブガブガ山にたどりついたという記録はない。

 私は、2007年2月、この山の山頂を踏んでいる。

 ブガブガ山登頂記(前) ブガブガ山登頂記(後)

                    (ブガブガ山 山頂部)

             (サン・イシドロの港)

 1944年12月、レイテ西部のオルモク港が米軍におちたため、マニラから物資補給に向かった第68師団はレイテ西北部のサン・イシドロに上陸しようとした。「赤城山丸」「白馬丸」「第五真盛丸」「日洋丸」、輸送艦「第11号」の5隻。

 しかし、ここでも米軍の空襲により、5隻全てが沈没し、日本軍は武器、食糧の大部分を失った。68旅団は闘う前から戦力を喪失した部隊となってしまった。つい最近まで、干潮時には、港入口に沈船のマストが2本、海面に露出していたという。今回のサンイシドロ行は、今も何か見えるのか確かめることだった。

        (サン・イシドロの町長・アランさん)

 すぐに港に行ったが何も見えない。ちょうど漁師たちが戻ってきたので聞いたが、数年前に撤去され、今はもうないという。詳しい事情を聴くため、町長を訪ねた。

 町長は、アランさんという中国人。彼の話によると、沈んだ船は5隻。15年ほど前に引き上げられたとのこと。さらに2年前にも残った部分が引き上げられた。自宅に、昔からのアルバムがあるので、船や引き上げ時の写真がないかどうか、探してくれるという。

 町長の家は、1926年築。戦争当時、日本軍が接収していたという。今も柱に銃撃の跡が残っている。壁には、日本軍の38式銃が展示されていた。

 また、隣の小学校からは、戦後、日本兵の骨が大量に出てきたという。

 

              


レイテ島の戦跡を巡る① 激戦地・リモン峠

2011年09月15日 | サマールと戦争

9月4日、関空を出てマニラ経由でレイテのタクロバンに入った。翌日、車をチャーターして北レイテの戦跡を巡る。大岡昇平『レイテ戦記』の地図が参考になった。

 (急峻なレイテ背梁山脈。米軍に追われた日本軍は、こうした山の中の行軍を強いられた。)

              (リモン峠から北、カリガラ湾を望む。)

 タクロバンから西に1時間半ほど走るとリモン峠に着く。この辺りでは、1994年の12月、レイテ西部のオルモクからきた第1師団と、タクロバンから西進した米軍が1ケ月にわたって激戦を続けたところだ。この辺りだけで、日本兵6000人が死んだという。 

「壕の中にうずくまって火が頭の上を通りすぎるのを待っていた日本兵は、激しい息づかいを近くに聞いて、首を出して見た。まっ赤な顔をした兵士がはって通りすぎるところだった。声をかけたが聞こえないらしく、はあはあ息をしながら、両手で焼けた萱(かや)の根をつかんではって行った。腰から下もまっ赤だった。股から下に脚はなかった。」(『レイテ戦記』)

 

 

 

  第1師団の慰霊場

 

 

 

 

 

                (リモン川)

この付近で多くの日本兵が死に、当時、この川は「血の川」と呼ばれたという。

 

 

                   (工兵第1連隊の碑)

 この部隊は、軍用道路の開設にあたる部隊だが、工兵第1連隊は690名が全員戦死した。)

              (野砲兵第1連隊碑)

 


ブログへの投稿、ありがとうございました

2010年11月29日 | サマールと戦争
 以前、レイテ、サマールの沖縄出身者について書いたことがあるが、そのうちの一つに、関係者からのコメントが投稿されていた。
 左枠のコメント欄から見ることができるが、念のため、本文で再掲する。

 中島さん、投稿、ありがとうございました。

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驚き (中島)
2010-11-23 23:57:16
 トミ子さんをご存知の方のブログを読めるとは、驚きでした。玉砕した祖父の踏み込んだ所へ案内してくれたのが、トミ子さんでした。タクロバン空港へ迎えに来てもらい、2回もカンギポットまで案内をして頂き、昼食時もワライワライ語とビサヤ語を自在に操って、郷土料理を食べたのを思い出しました。トミ子さん、沖縄の人へは、感謝の気持ちがいっぱいです。また、このブログ作者は、僻地のフィリピンを熟知されている方と思い感動しました。

カプル島は、戦争当時、「隠忍の孤島」と言われていた

2009年04月09日 | サマールと戦争
 このブログでも何回か紹介してきましたが、サマール北西部に位置するカプル島には、今も多くの日本軍の戦争遺跡が残っています。


(島の北端、ルソン島とのサンベルナンディノ海峡を見渡す高台には、3基の砲台跡がそのまま残っている。)


 (村人が、島の南部の、当時、日本軍が隠れていた塹壕を案内してくれた。)


 私は、このカプル島には3回ほど行きましたが、その時は、この島にいた日本軍がどこの部隊かというのは分かりませんでした。
 しかし、今回、ある資料を読んでいて、戦争当時のこの島の状況がやっと分かったのです。

 最初にこの島に入ったのは、やはり京都の陸軍第16師団でした。
 1943年、フィリピン内海と太平洋を結ぶこの海峡が、戦艦の監視と敵艦攻撃の要となる場所として、カプル島を要塞化する計画が立てられました。そして、16師団の野砲兵第22連隊(垣6558)の工兵隊が、最北の岬に堡塁を構築したのです。灯台には監視硝も作られました。
 サマール本島にいた第9連隊第5中隊が守備に就いたこともあるようです。

 その後、1944年10月、独混第26連隊第1大隊の第2中隊(程川中隊長)が、ルソンからサンアントニオ島を経由してカプル島に入ります。大隊本部(五木田大隊長)は、サマール北部のアレン、第1中隊(小山内中体長)は、サンアントニオ島へ渡る拠点・マオー(現在のサン・イシドロか?)に駐屯しました。

 1944年10月20日、米軍がレイテ島に上陸。1945年1月になるとカプル島にも米軍の空襲や艦砲射撃が始まりました。そして、1月19日には、ついに米軍が島に上陸します。
 程川隊は、山間部への後退を余儀なくされましたが、小さいカプル島では隠れるところがないというので、筏で島を脱出します。しかし、海峡のすさまじい潮流に翻弄され、筏は浸水、兵士たちは必死に泳いでカプル島に戻りました。(中隊長ら24名は、カプル島の西にあるナラホス群島経由でルソンに向いましたが、ゲリラの銃撃を受け、中隊長は戦死。生還者は3名のみだったようです。)

 カプル島に戻った兵士たちは、再度の脱出をあきらめ、島の山間部にこもります。東西が4キロほどの小さな島で、密林もなく、隠れるところもほとんどありません。私たちが訪ねた洞窟も、その頃、日本兵が隠れたところの一つだったのでしょう。日本兵たちは、小さい島の中で、ゲリラに追われながら、食糧を求めて凄惨な日々を過ごしたようです。当時の戦記には、カプルのことを「隠忍の島」と称しています。

 結局、1945年1月に山に隠れた兵士たちが投降に応じたのは、10月でした。49名の兵士たちが投降した際には、島の人たちは、終戦記念パレードを開催、投降した兵士たちは、音楽隊に続いて町を一巡させられたといいます。それまでは、山間部に夜盗と化した日本兵たちがいたので、島民たちは安眠も出来ず、婦女子を島外に疎開させたりしていたそうですから、喜びもひとしおだったのでしょう。

 今は、のどかなカプル島ですが、あんな小さな島にも、こんな悲惨な戦争の歴史があったのです。
   (以上は、井上忠著『続 独混第26連隊比島の苦闘』に基づいています。)
 

サマール一の激戦地、ライトに残る陸軍第16師団の慰霊碑

2008年09月13日 | サマールと戦争
 カルバヨグから南へバスで2時間ほどで、パラナスという町に着きます。
 第2次大戦当時、このパラナスはサマールで最大の激戦地でした。
 1944年10月20日、マッカーサがレイテ島に上陸。それから2ケ月もしない12月12日には、このパラナスで、レイテから北進してきた米軍と、迎え撃つ京都・陸軍第16師団第5中隊との間で壮絶な戦闘が行われました。米軍のすさまじい砲撃に、日本軍は塹壕から一歩も出ることもできず、戦死者が相次いだといいます。(サマールの戦記には、このパラナスの戦闘で、ある下士官が、下半身を全て吹き飛ばされたにもかかわらず、それでも「君が代」を全て歌い終えてから事切れたという戦意高揚の逸話が残っています。)

 第5中隊は、結局、20名ほどの犠牲者と多くの負傷者を出して壊滅。その後、サマール各地から集結した1000名ほどの部隊も、翌年1月、カルバヨグを前にして米軍の攻勢のため、山中へ逃げ込まざるを得ませんでした。そして、終戦後の9月まで、サマールの鬱蒼とした熱帯雨林の山岳部を、同僚の人肉を食べるというような飢餓の彷徨を強いられたのです。投降した際には、わずか300人ほどに減っていたといいます。(この経過については、拙著『フィリピン・幸せの島サマール』をご一読ください。)

 パラナスに来たのは、いくつかの目的があったのです。
 まず、京都・同志社大学横のバザール・カフェでフィリピン料理を担当されているサマール出身のアイバさんのお爺さんを訪ねることでした。アイバさんは、私や、サマール会(JAPSAM)の学生らの、ワライ語の先生でもある肝っ玉母さん。京都でもう15年以上も暮らしておられますが、その間、一度も故郷には帰っておられません。

 バスを降りて近くの食堂で聞くと、すぐにお爺さんの家が分かりました。ピリモン・カバニエロさん。もう83歳とのことですが、今も元気で田んぼで働いておられるようです。我々の突然の訪問には驚かれたようですが、非常に喜んでいただき、アイバさんへの手紙を託されました。
 ピリモンさんに、戦争当時の話を聞いたところ、近くの日本軍のキャンプがあったところに碑が建っているとのことでした。すぐに案内してもらいました。




 東サマールへの三叉路を少し北へ行った右手の丘に、元垣6554部隊の慰霊碑がありました。やはり、私が2001年にパラナスに来たときに訪ねた碑でした。「垣兵団」とは、京都の旧陸軍第16師団のことです。
 『悲運の京都兵団証言録 防人の詩』(京都新聞社)によると、ちょうどこの辺りは、第5中隊の岡田小隊が塹壕を掘って最前線で米軍に対峙したところです。前述の、下半身を全て吹き飛ばされながらも「君が代」を歌い終えてから死んだという下士官がいた塹壕もこの付近でしょうか。周囲はバナナの木などが茂った静かな丘陵地帯で、61年前、地形も変わってしまうような凄まじい砲撃の戦闘があったとはとても信じられません。
 
 その後、強い雨の中をパラナスの小学校に向かいました。
 京都の伊藤さんが建てられたお地蔵さんも、きちんと管理されていました。




 パラナス訪問のもうひとつの目的は、ここでもう50年以上も住んでおられる沖縄出身のよし子さんを4年ぶりに訪ねることです。

 よし子さんは、居間にベッドを置いて横になっておられましたが、すぐに起き上がって我々を迎えてくれました。4年前よりはむしろお元気そうで安心しました。来年の3月にちょうど80歳になられます。
 彼女も、レイテの秀子さんと同じように沖縄出身です。24歳のときに、基地で働いていたババルコンさんと結婚。沖縄に10年ほど一緒に住んでいましたが、1959年に夫の故郷サマールに来たそうです。18年前に夫を亡くされましたが、息子さんがパラナスの町長を3期務められ、今はその奥さんが町長というような家系で、何不自由なく暮らしておられるようです。彼女も、もう日本に帰るつもりはないとのことでした。

 それにしても、レイテの秀子さん、トミ子さん、トヨ子さん、そしてこのサマールのよし子さん、皆、沖縄出身という事実には驚きます。フィリピン全体には、おそらくかなりの数の沖縄出身女性が暮らしておられるにちがいありません。戦前、戦後と続く、フィリピンと沖縄のこうした関係をいずれじっくりと調べなおしてみたいと思っています。





戦前からサマールに駐在した元日本軍属・ヤマモトさんの写真

2008年09月11日 | サマールと戦争

 

  1922年からサマールに駐在した元日本軍属・ヤマモトさんと、その家族の貴重な写真。1935年頃のものと思われる。

 中央右側がヤマモト・ツメタロウさん。(ツメタロウという名前は少しおかしいが、いただいた「Family History」の資料にはそうなっていた。) その左が、奥さんのMATILDEさん。後ろが、長女のBEATRIZ B.YAMAMOTOさん。カルバヨグのパヤハンのバランガイキャプテンのトニーさんは、その長男。
 一番右の長男・ONIEさんは、ヤマモトさんが、1944年に死んだ後、ゲリラに追われ、逃げている途中に溺れて死んだという。まだ、14歳だった。

 ヤマモトさんの膝にいる一番下の娘さん、ERRINDA B.YAMAMOTOさんは、今も北サマールでご健在とのこと。75歳になられている。できれば、一度、お伺いして、ツメタロウさんの話をお聞きしたいものだ。


1922年からサマールに住み着いた元日本軍属・ヤマモトさん

2008年09月10日 | サマールと戦争

(元日本軍属・ヤマモトさんの孫、トニーさんと。手にしているのはその日本人の写真)

 8月に来たときに、カプル島で元日本軍属の孫・ベイビーさんに会った話はこのブログにも書きました。今日は、ベイビーさんの上のお兄さんのトニーさんに会うことができました。詳しいことはトニーさんに聞いてくれと言われていたのです。

 トニーさんは今では、カルバヨグのパヤハンというバランガイのキャプテンです。以前から、何度かお会いしたことがありましたが、お宅に訪問してゆっくり話を聞いたのは今日が初めてです。

 彼からは、家系図やファミリーヒストリーを書いたメモなどをいただきました。そして、なんとお爺さんの日本人の写真があったのです。現地女性と結婚して、4人の子どもと一緒の写真ですから、1935年頃の写真で、きわめて貴重なものです。なんとか拝借することができたので、スキャンする予定です。

 お爺さんの名前は、ヤマモトツメタロウさん。1885年、和歌山県生まれ。1922年に、情報機関の一員としてフィリピンに来て、サマールのカトゥバロガンに駐在しました
。そして、1925年、北サマールの山中の村で、現地女性と結婚し、そこに住み始めて、奥さんと一緒にビジネスを始めました。
  その後、戦争が始まり、日本軍がサマールに来たときには、その案内役を務めたりしていましたが、1944年に、自殺してしまったそうです。
 残された家族は、やはり、日本軍族の家族として、ゲリラから追われ、大変な目にあったようです。長男は、逃げている途中に溺れて死んでしまいました。結局、全ての財産をゲリラに提供することと引き換えに、家族は助かったそうです。

  戦争の始まるずっと以前から、日本軍は、アジアの各地に、民間人を装った軍属を配置していたのです。その中には、ヤマモトさんと同じように、現地で結婚し、そのまま住み着いた人も多かったのかもしれません。

  いずれにしろ、彼は、サマールに住み着いた、最初の日本人にちがいありません。また、和歌山の彼の親戚を捜し出して、詳しい話を聞いてみたいものです。
  また、今も京都でご健在の、戦争当時、サマールにいた元陸軍第16師団のYさんにもお会いして、このような軍属のことについても調べてみたいと思っています。あるいは、Yさんもカトゥバロガンにおられましたから、写真を見せれば、ヤマモトさんのことを覚えておられるかもしれませんね。
 


カプル島に住む元日本軍属のお孫さん

2008年08月12日 | サマールと戦争
 カプル島には宿はなく、私たちは、マヌエル・ヤマモト・カパサレックさんのお宅に泊めていただいた。愛称をベイビーさんという61歳の方だ。
 いつも上半身裸。結局、私たちがいた2日間、彼のシャツ姿を一度も見なかった。
 ここではお金持ちで、庭先にテレビ(ビデオケ)を備え、長いすを並べて「シアター」にしている。島では、夜の娯楽がないので、みんなここに集まってくる。入場料2ペソというから、けっこういい商売だ。
 テレビ番組やDVDの映画などが終ると、大人たちのビデオケタイム。ボリュームをガンガンにあげて、大きな歌声が深夜まで村中に響く。

 実は、ヤマモトというミドルネームでも分るように、彼のお爺さんは、日本人だ。私は、3年前にカプル島に来たときにも、お話を聞かせていただこうと思って、この家に寄ったことがあるが、その時は、あいにくお留守だった。今回、はじめてお会いできて、いろいろお話を聞くことができた。



 お爺さんの名前は、ヤマモト・トシロウさん。
 戦前、シルビノロボスの町にやってきた。ここは北サマールの鬱蒼とした森林地帯。戦争当時、サマールの山中を飢餓の敗走を続けた日本軍も、この町のすぐ近くを通っている。
 彼は、この町で、ココヤシなどのビジネスを初め、やがて現地の女性と結婚、子どもも生まれた。
 みんな民間人だと思っていたが、戦争が始まると、彼は軍属だったことが分る。
 その頃の詳しい話はベイビーさんもご存知ないが、戦争が終った時、彼は自殺してしまったという。あるいは、当時、各地の状況を調べるために、民間人の装いをした軍属が配置されたというが、彼もその一人だったのかもしれない。
 
 戦後、息子さんのTulayさんは、シルビノロボスの町長となった。4人の子どもが生まれ、ベイビーさんはその二男という。
 長男のTunnyさんは、今、カルバヨグのパヤハンというバランガイの村長さんをされている。私も何回かお会いしている。
 
 戦後も、ベイビーさんはシルビノロボスに住んでいたが、付近はNPAの力が強く、町の治安も悪いということで、奥さんの出身地、カプルに来られたという。

 お爺さんの実家は、和歌山県。お爺さんの兄弟らがサマールにも何回か来られ、ベイビーさんも、お爺さんの弟さんに会ったことがあるという。

 まだお若いが、もう14人ものお孫さんに囲まれてゆったりと暮らされている。
 サマールの日本軍の歴史を知るためにも、このヤマモトさんのことをもっと調べてみたいと思っている。


(島の最北端の灯台横には、今も、日本軍の砲台跡が4ケ所残っている。フィリピンの内海から太平洋に抜けるこの海峡は、当時、戦略的にも重要な位置を占めていた。レイテ沖海戦に向かう日本の戦艦らも、この海峡を抜けて太平洋に向かった。)


(島には、今も、当時、日本兵が隠れていた洞窟があちこちに残っている。)

レイテ島の日本軍壊滅の地・ブガブガ山登頂記(後編)

2007年02月07日 | サマールと戦争

(ブガブガ山の鋭い岩峰の上に立つ。戦争当時、この山頂には日本軍の監視硝があった。)

<前編(2月3日号)より続く>

 山頂の岩に腰を下ろし、大岡昇平『レイテ戦記』の記述を思い出しながら、いつまでも周囲の山並を眺め続けた。

 凄惨な戦争当時の記録から、もっと鬱蒼とした一帯かと思っていたのだが、予想外に低く、また開けた丘陵地帯が続いているのに驚く。当時も、レイテ中央山稜ほどの密林ではなかったようだ。何故、こんな明るく浅い地形の所で数万人もの日本兵が飢餓の中に死ななければならなかったのだろうかとたまらない思いがする。

 はるか西に目をやると一面の海が午後の太陽に輝いている。
 当時、レイテのほとんどの港が米軍に制圧され、この付近の海岸だけが、マニラからの日本の艦船が唯一着けるところだった。しかし、すぐに米軍の爆撃を受け、多くの艦船が沈んでしまった。海に飛び込んでなんとか上陸した兵士たちもいたが、武器や食料はほとんど陸揚げできなかったという。
 ビリアバの少し北のサンイシドロの港には、今も、引き潮になれば、沈んだ日本の艦船が姿を現すそうだ。今回は時間がなくて行けなかったが、なんとか次回には訪ねたいところだ。

 パラールさんにせかされ、腰をあげて下山にむかう。少し降りたところでふと気がついて頂上に戻り、小さな石を数個拾ってザックに入れた。
 頂上の岩峰を少し下ると、両側が急峻な崖となった狭い谷間を抜ける。ところどころに鍾乳洞の穴が開いている。第1師団の司令部もブガブガ山麓の洞窟に置かれたというが、この辺りの洞窟も日本兵にとって格好の隠れ家になったに違いない。
 付近には、掘り返されたところがあちこちにある。聞くと、今も地元の人たちが、日本兵が金を隠したと信じて掘り返しているという。

 谷間を抜け、コゴン草の生えた斜面を下っていく。登りとはちがった道を降りたせいか、途中で道を失ってしまった。パラールさんの息子さんが、腰から鉈をはずして藪を切り開きながら降りていく。ふと気がつくと、私の腕に長い切り傷ができ血が流れている。鋭い木の葉で切ってしまったようだ。
 なんとか元の道に戻り、後はのんびりと山道を下る。広い草原をたどりながら振り返ると、ブガブガの大きな山容が素晴らしい。何回も立ち止まっては山を振り返り続けた。

 ブガブガの村に戻ってきたのは午後5時前。バランガイキャプテンのフェリックス(70歳)さん、山を案内してくれたパラールさん(71歳)らとラム酒を飲みながら村の話を聞いた。
 戦争当時、この辺りは日本軍がいっぱいだったので、2人はビリアバの町に住んでいたそうだ。戦後になってやっとここにバランガイができたという。
 ブガブガ山には、南のカタグバカンというバランガイの方が近いので、日本兵の慰霊碑などはそちらにあるそうだ
。(帰途、このカタグバカンの村の慰霊碑も訪ねた。この辺りからのブガブガ山の姿は特に素晴らしい。) ブガブガには何もなく、あまり人も来ないので、なんとかツーリストが来るような村にしたいというのが2人の願いだという。
 また、気になっていたブガブガという山名の意味も教えてもらった。村の人たちの話では、昔、山頂で2頭の蛇が火を吹きあったという言い伝えからこの名がついたという。ブガとは「吹く」という意味らしい。
 当時、日本兵たちはカンキポット山と称したのだが、「カンキポット」とは、山頂から南へ降りた谷のあたりの地名だという。それを日本兵が山の名前と間違えて呼びだしたようだ。

 そのうち、何事だろうと村の人たちも大勢集まってきた。「もういいから」と断ったのに、ラム酒の新しい瓶が開けられてしまった。
 陽気な村の人々、そして明るいブガブガ周辺の眺め。戦争当時の凄惨な歴史とのあまりのギャップにとまどいが続く。この日は時間もなく、お年寄りたちからは、ほとんど当時の話を聞けなかったが、何回か通い続ければ、もう少し分かってくるだろうか。
 ともかく次回にはもっと時間をかけてこの地域を歩いてみたい。

 


レイテ島の日本軍壊滅の地・ブガブガ山登頂記(前編)

2007年02月03日 | サマールと戦争

(ブガブガ山の岩峰を仰ぎながら登り始める)

 
 レイテの中心地、タクロバンからバスで約2時間、ビリアバの町に入ると、さとうきび畑の向こうに切り立った山が見えた。地元の男に尋ねると、やはりそれがブガブガ山だった。標高は359mにすぎないのだが、周辺のなだらかな丘陵の中では、鋭い岩峰が目立つ飛びぬけて高い山だ。

 2月3日、ビリアバの町に着いた私たちは、翌4日、このブガブガ山に向かった。

 ビリアバの中心地で、オートバイをチャーター。運転手以外に3人が乗るいわゆる「ハバルハバル」で約20分、麓のブガブガというバランガイに着いた。正面にはブガブガ山の岩峰
が圧倒的にせまっている。この辺りには、戦争当時、日本軍の第1師団司令部が置かれていたはずだ。

 バランガイキャプテンのフェリックスさんを訪ね、山に登りたいと頼んだ。彼は、「もう午後の1時半、登りに2時間はかかるから戻ってくるのはもう夕方になってしまう」と少し躊躇される。以前にも、降りてこられなくなって山で一晩すごした人たちがいるという。
 しかし、せっかく来たのだからともかく午後3時半までは登って、ダメならそこで下山することにする。フィリックスさんは、バランガイタノッド(村の警察官)のパラールさん親子2人をガイドとしてつけてくれた。

 さっそく山に向う。ココヤシの林はすぐに終わり、広葉樹の森林が続く。時々、急な地形に道が消え、パラールさんたちが別れて道を探した。フィリピンでは比較的涼しい1月とはいえ、急な登りに息が切れ、汗が流れる。
 サマールから一緒に来たレイは、もう最初の30分の登りでダウンし、あきらめて一人、下山してしまった。しかし、私にとってこの山は長く思い続けていた山、なんとしても登らなければならないと道を急ぐ。

 最後に草つきの急斜面を登るとそこが頂上だった。狭い岩峰に立つと、もう360度さえぎるものはない。急峻なレイテ中央山稜とは違い、明るい丘陵が遥かかなたまで続いている。風が強く、パラールさんが「気をつけて!」と叫ぶ。

 レイテ西北部にそびえるブガブガ山。第2次大戦末期、米軍に追われた日本兵たちが、レイテ各地からそれこそ飢餓の彷徨を続けてこの山を目指した。このするどい岩峰は、遠くからもよく目立ったにちがいない。兵士たちは、「あそこまでたどりつけば」という一念だけで、鬱蒼とした密林を這うようにしてすすんだのだろう。

 当時、日本兵たちはこの山をカンキポット山と称し、さらにそれを言いかえて「歓喜峰」と呼んでいた。大岡昇平は『レイテ戦記』で、この山のことを次のように記している。
 「山そのものはいかにも歓喜峰の名にふさわしい山容を持っていた。頂上の東側と西側は比高70mの、そぎとったような岩壁になっていて、紫藍の岩壁が朝焼け夕焼けに赤く染まった。付近の低山の間に屹立して、遠くからもよく見えた。原隊を追及する敗兵は、あそこまで行けば友軍がいると勇気づけられ、そり立つ岩の頂上を見つめながら足を運んだ。」

 1944年12月末、「軍ハナシ得ル限リノ戦力ヲ歓喜山周辺ノ地区ニ集結シ、自活自戦永久継戦ノ態勢ヲ確立スルト共ニ爾後ノ反撃作戦ヲ準備セントス」という命令が出された。「自活自戦永久継戦」とはなんという冷酷な命令だろう。兵士たちは、補給も断たれ、棄てられたのである。
 すでに戦争の大勢は決していた。山をさまよう日本兵たちにはもう反抗の力も残っていなかった。米軍も敢えて山に攻め入らなかったが、日本兵たちの多くは、飢餓に苦しみそのまま死んでいった。
 大岡昇平は当時の様子を、「ビリアバの町のフィリピン人の間に、カンキポット北方の谷間にあった若い兵士の死体に、臀と股の肉がなかったという記憶が残っている。」「戦後山から出て来た者は一人もいなかった。」などと記している。

 この周辺だけでも約1万人、日米の激戦地だったレイテ中央部のレモン峠からこの山にいたる一帯では、3万人もの日本兵たちが死んだという。
 当時、レイテ島に投入された日本軍の総兵力は8万4千人。しかし、生還者はわずか2,500人にすぎなかった。京都の第16師団が最も多く1万8千人が投入されたが、生還者は、戦後、サマール島で降伏した150人を入れても、わずか580名という
。(『レイテ戦記』)
 戦争末期、すでに「棄兵の師団」(『防人の詩』)と化した第16師団は、最期に、師団長牧野中将以下、約200名がレイテ中央山陵を越えてブガブガ山を目指したことが分かっている。しかし、彼らがブガブガ山にたどりついたという記録はない。

 「ああ、この付近で、レイテの日本軍は壊滅したのだ。」と思いながらいつまでも頂上の岩に腰を下ろして周辺の山を眺め続けた。

 

 

<後編(2月7日号)に続く>


「東サマールで元日本兵の遺骨50体あまり発見」の報道をめぐって

2006年04月20日 | サマールと戦争

 先週の金曜日(14日)、九州の久留米まで行ってきました。

  2001年7月26日の毎日新聞に、「フィリピン中部の無人島で50体余りを確認、鑑定を依頼」という報道がありました。東サマールのホロアン島の洞窟で、元日本兵と思われる遺骨が50体も出てきたというのです。この辺りは、大戦当時、沖合いで戦艦大和などの連合艦隊と米軍との大海戦(レイテ沖海戦)が戦われたところで、その際、日本の艦船が沈み、多数の乗員が島に泳ぎ着いて亡くなったのではないかという記事でした。

 また、同年9月5日の同紙「記者の目」欄には、この東サマールの遺骨収集に同行した記者の、「靖国参拝よりも遺骨収集だ」という大きな署名記事が掲載されています。ここでは、作家・安岡章太郎の「(彼は直前に病に倒れて内地に送還されるが、彼がいた師団は)レイテ決戦に投入され、連隊2500人中、生き残ったのはわずか37人だった」などという談話も載っています。

  当時から、この記事のことが気になっていました。一度、そのホロアン島にも行ってみたいと思って調べていたのですが、最近になって、やっとこの遺骨を発掘をされたSさんの連絡先が分かったのです。

  ちょうど九州に行く機会があり、久留米のSさんを訪ねたのですが、結局、「徒労」でした。Sさんは、遺骨のDNA鑑定までされたのですが、骨が古すぎて鑑定できなかったそうです。大戦当時よりずっと古いものだったのです。昔からこの辺りには、遺体をそのまま洞窟に風葬のように安置する習慣があったので、あるいはそのような遺骨かもしれないということでした。

  Sさんは、この10年ほど、レイテ島を中心として遺骨の発掘作業を続けておられます。長くそんな活動をされていると、現地の人たちから、様々な情報が持ちこまれてくるそうです。しかし、ほとんどは、お金目当てのガセネタとのことです。レイテ島などでは、謝礼目当てに遺骨や遺留品を掘り起こす住民らもいるといわれています。今回の東サマールの大量の日本兵の遺骨発見の情報も、結局はそうしたガセネタの一つだったということでした。

  Sさんは、元日本兵が生存しているとの情報で、サマールも3ケ所まわったそうです。昨年、ミンダナオ島での元日本兵生存情報で大騒動を起こしたあの日本人も、最近、Sさんに連絡をとってきているとのことでした。

 それでも、Sさんからは、レイテ島の戦跡に関する多くの情報を教えてもらいました。京都の部隊、陸軍第16師団が壊滅したレイテ島のそれらの戦跡を、次回にでも、じっくりと回ってみたいと思っています。

  また、同時に、『もう一つのレイテ戦』(日本軍に捕らえられた少女の絵日記)のフェリアスさんの記録や、2月にリラフィリピーナで聞いたレイテ島出身の何人かの戦時性暴力被害者のロラ(お婆さん)たちの証言がどうしても忘れられません。昨年12月に、レイテのブラゥエンの町を訪ねたことは、「チョイさんのサマール便り」にも書きました。この町には大戦当時、京都の陸軍第16師団が駐屯していたのです。レイテ島東部では最大の激戦地で、今も多くの慰霊碑が建っているのですが、同時に、フェリアスさんら多くのロラたちが性的被害を受けたところでもあるのです。

  元日本兵の戦記はもちろん、大岡昇平の『レイテ戦記』や京都新聞社の『防人の詩』などにも、こうした被害女性の話はいっさい出てきませんが、レイテの戦跡を訪ねる際には、彼女らが拘束され被害を受けた場所も確認して回るつもりです。