(カルバヨグのウイ市長と (1996年 市長室で))
朝、メールを開くと、サマールのレイから、とんでもない衝撃の知らせが届いていた。カルバヨグのウイ市長が昨夜(4月30日)、射殺されたというのだ。あまりのことにもう言葉もない。
私は、1994年に初めてフィリピン・サマールに行ったのだが、彼とはその時以来の付き合いが続いていた。彼は、1993年から3期(9年)カルバヨグ市長を務め、その後、3期、国会議員。そして、昨年、再び、カルバヨグ市長に戻ったばかりだった。(フィリピンでは、政治家のポストは3期までと決められている。) 現在、確か、59歳のはずだ。
彼との、この17年間の付き合いの思い出はつきない。
1995年当時、私は京都市の職員だったが、ウイ市長の招待により、カルバヨグ市役所の都市計画・開発局に1年半、派遣された。その際、彼は、なかなか京都市の決定が出ないことに業を煮やし、なんと、訪日して京都市を表敬訪問し、直接、要請しくれたのだ。彼のそんな熱意もあって、私のカルバヨグ派遣は実現したのだ。
京都では、私の家にも来てくれたし、当時、私がカルバヨグに行った際には、彼の家に長く泊めてもらっていた。国会議員になってからは、さすがに彼も忙しく、また、ほとんどマニラにいたので、なかなか会えなかったが、フィエスタの時など、よく、JAPSAMの学生などをつれて、彼の家を訪ねていた。当時から、深刻な政争が続き、彼の家もきわめて厳重な警戒態勢がとられていたが、私は、いつもフリーパスで、彼の個室まで、ずかずかと入って行っていた。彼は、酒を飲まなかったが、私が行くと、いつもボディガードにビールを買いに走らせ、カニやエビをご馳走してくれた。
そんな彼が殺されてしまった。ああ、無念でならない。
ただ、心配は、リベラルパーティのリーダーだったウイが殺されたことより、報復が始まるのではないかということだ。
(「謝罪と友好の碑」の除幕式。ウイ市長は左から3人目 (1995年12月))
(左端は、娘のジェシカ。(2001年9月))
(私のバイオガス事業の完成記念式典には、忙しい中、わざわざマニラから戻って参加してくれた。(2006年2月))
(最近も、マニラとの行き来の際、よく一緒になった。(2009年1月))