サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

サマール一の激戦地、ライトに残る陸軍第16師団の慰霊碑

2008年09月13日 | サマールと戦争
 カルバヨグから南へバスで2時間ほどで、パラナスという町に着きます。
 第2次大戦当時、このパラナスはサマールで最大の激戦地でした。
 1944年10月20日、マッカーサがレイテ島に上陸。それから2ケ月もしない12月12日には、このパラナスで、レイテから北進してきた米軍と、迎え撃つ京都・陸軍第16師団第5中隊との間で壮絶な戦闘が行われました。米軍のすさまじい砲撃に、日本軍は塹壕から一歩も出ることもできず、戦死者が相次いだといいます。(サマールの戦記には、このパラナスの戦闘で、ある下士官が、下半身を全て吹き飛ばされたにもかかわらず、それでも「君が代」を全て歌い終えてから事切れたという戦意高揚の逸話が残っています。)

 第5中隊は、結局、20名ほどの犠牲者と多くの負傷者を出して壊滅。その後、サマール各地から集結した1000名ほどの部隊も、翌年1月、カルバヨグを前にして米軍の攻勢のため、山中へ逃げ込まざるを得ませんでした。そして、終戦後の9月まで、サマールの鬱蒼とした熱帯雨林の山岳部を、同僚の人肉を食べるというような飢餓の彷徨を強いられたのです。投降した際には、わずか300人ほどに減っていたといいます。(この経過については、拙著『フィリピン・幸せの島サマール』をご一読ください。)

 パラナスに来たのは、いくつかの目的があったのです。
 まず、京都・同志社大学横のバザール・カフェでフィリピン料理を担当されているサマール出身のアイバさんのお爺さんを訪ねることでした。アイバさんは、私や、サマール会(JAPSAM)の学生らの、ワライ語の先生でもある肝っ玉母さん。京都でもう15年以上も暮らしておられますが、その間、一度も故郷には帰っておられません。

 バスを降りて近くの食堂で聞くと、すぐにお爺さんの家が分かりました。ピリモン・カバニエロさん。もう83歳とのことですが、今も元気で田んぼで働いておられるようです。我々の突然の訪問には驚かれたようですが、非常に喜んでいただき、アイバさんへの手紙を託されました。
 ピリモンさんに、戦争当時の話を聞いたところ、近くの日本軍のキャンプがあったところに碑が建っているとのことでした。すぐに案内してもらいました。




 東サマールへの三叉路を少し北へ行った右手の丘に、元垣6554部隊の慰霊碑がありました。やはり、私が2001年にパラナスに来たときに訪ねた碑でした。「垣兵団」とは、京都の旧陸軍第16師団のことです。
 『悲運の京都兵団証言録 防人の詩』(京都新聞社)によると、ちょうどこの辺りは、第5中隊の岡田小隊が塹壕を掘って最前線で米軍に対峙したところです。前述の、下半身を全て吹き飛ばされながらも「君が代」を歌い終えてから死んだという下士官がいた塹壕もこの付近でしょうか。周囲はバナナの木などが茂った静かな丘陵地帯で、61年前、地形も変わってしまうような凄まじい砲撃の戦闘があったとはとても信じられません。
 
 その後、強い雨の中をパラナスの小学校に向かいました。
 京都の伊藤さんが建てられたお地蔵さんも、きちんと管理されていました。




 パラナス訪問のもうひとつの目的は、ここでもう50年以上も住んでおられる沖縄出身のよし子さんを4年ぶりに訪ねることです。

 よし子さんは、居間にベッドを置いて横になっておられましたが、すぐに起き上がって我々を迎えてくれました。4年前よりはむしろお元気そうで安心しました。来年の3月にちょうど80歳になられます。
 彼女も、レイテの秀子さんと同じように沖縄出身です。24歳のときに、基地で働いていたババルコンさんと結婚。沖縄に10年ほど一緒に住んでいましたが、1959年に夫の故郷サマールに来たそうです。18年前に夫を亡くされましたが、息子さんがパラナスの町長を3期務められ、今はその奥さんが町長というような家系で、何不自由なく暮らしておられるようです。彼女も、もう日本に帰るつもりはないとのことでした。

 それにしても、レイテの秀子さん、トミ子さん、トヨ子さん、そしてこのサマールのよし子さん、皆、沖縄出身という事実には驚きます。フィリピン全体には、おそらくかなりの数の沖縄出身女性が暮らしておられるにちがいありません。戦前、戦後と続く、フィリピンと沖縄のこうした関係をいずれじっくりと調べなおしてみたいと思っています。





ソルソゴン・子豚基金、その後の報告

2008年09月12日 | Weblog

(アナイ(お母さん豚)として残った、Mさんの愛豚)

 今年の初めに、ソルソゴンのバイオガス事業地の養豚事業のために、募金を募り、それぞれ、地元のお母さんに育ててもらって生計向上の足しにするという子豚基金の呼びかけをさせてもらいました。
  6名の方にご協力いただき、3月末から養豚事業が始まりましたが、その後、ベイビーさんからの連絡が遅れ、それぞれのオーナーの方に報告ができず、申し訳ありませんでした。

  子豚たちは元気に育ち、8月に、5頭の豚たちを売ったそうです。その収入は、管理をしてもらったそれぞれのお母さんと、事前に飼料代を立て替えていた京都サマール友好協会(KSFA)で折半。お母さんたちには、一人、800ペソを配分することができました。

 そして、よさそうな豚を1頭、アナイ(お母さん豚)にするために残しています。協力していただいた、Mさんの豚です。---おめでとう!
 このアナイは、もう、9月上旬に種付けが終りましたから、順調にいけば、来年1月に出産予定です。10頭ほどの子豚が生まれてくれれば、また、施設の費用を引いた残りを、お母さんたちとKSFAで分けます。立て替えたお金が回収できるまでには時間がかかりそうですが、地域のお母さんたちの生計向上に少しでも役立つといいのですが。
 ともかく、報告が遅れたことをお詫びします。 

  また、今、ソルソゴンで検討しているのは、セブの会社からの、子豚と飼料代等の全てを提供し、売れた豚の収益を、管理したお母さんたちとその会社で分けるという提案です。(KSFAにも、施設の提供費として、幾分かの費用が入ります。)
  豚が死んだ場合も、お母さんたちにはリスクがないというのですから、うまい話ですが、会社にとっては、サマールでも事業を展開するための最初の場所になるそうです。ともかく、来週、その会社のスタッフが来て、細かい協議をするとのことでした。

  なお、ソルソゴンのバイオガスは、一時、豚がいなくなってガスの発生が止まっていましたが、8月頃からまた順調に発生しはじめています。配管やコンロなども全て新しくしました。

 


頑張るJAPSAMの学生ら

2008年09月12日 | JAPSAMの活動

(村の子どもたちに、衛生教育の紙芝居をするJAPSAMの学生ら)

 JAPSAMの学生らのワークキャンプも順調にすすんでいます。
  昨日、ソルソゴンのバイオガス事業地に行ったところ、ちょうど、そこで紙芝居をしているところでした。京都での連日の練習のかいもあって、もう見事なワライ語の紙芝居です。

  明日からは、私と一緒に、2人の男子学生が先に帰ってしまいますが、17日の帰国まで、元気に活動してくれることを願うばかりです。


戦前からサマールに駐在した元日本軍属・ヤマモトさんの写真

2008年09月11日 | サマールと戦争

 

  1922年からサマールに駐在した元日本軍属・ヤマモトさんと、その家族の貴重な写真。1935年頃のものと思われる。

 中央右側がヤマモト・ツメタロウさん。(ツメタロウという名前は少しおかしいが、いただいた「Family History」の資料にはそうなっていた。) その左が、奥さんのMATILDEさん。後ろが、長女のBEATRIZ B.YAMAMOTOさん。カルバヨグのパヤハンのバランガイキャプテンのトニーさんは、その長男。
 一番右の長男・ONIEさんは、ヤマモトさんが、1944年に死んだ後、ゲリラに追われ、逃げている途中に溺れて死んだという。まだ、14歳だった。

 ヤマモトさんの膝にいる一番下の娘さん、ERRINDA B.YAMAMOTOさんは、今も北サマールでご健在とのこと。75歳になられている。できれば、一度、お伺いして、ツメタロウさんの話をお聞きしたいものだ。


1922年からサマールに住み着いた元日本軍属・ヤマモトさん

2008年09月10日 | サマールと戦争

(元日本軍属・ヤマモトさんの孫、トニーさんと。手にしているのはその日本人の写真)

 8月に来たときに、カプル島で元日本軍属の孫・ベイビーさんに会った話はこのブログにも書きました。今日は、ベイビーさんの上のお兄さんのトニーさんに会うことができました。詳しいことはトニーさんに聞いてくれと言われていたのです。

 トニーさんは今では、カルバヨグのパヤハンというバランガイのキャプテンです。以前から、何度かお会いしたことがありましたが、お宅に訪問してゆっくり話を聞いたのは今日が初めてです。

 彼からは、家系図やファミリーヒストリーを書いたメモなどをいただきました。そして、なんとお爺さんの日本人の写真があったのです。現地女性と結婚して、4人の子どもと一緒の写真ですから、1935年頃の写真で、きわめて貴重なものです。なんとか拝借することができたので、スキャンする予定です。

 お爺さんの名前は、ヤマモトツメタロウさん。1885年、和歌山県生まれ。1922年に、情報機関の一員としてフィリピンに来て、サマールのカトゥバロガンに駐在しました
。そして、1925年、北サマールの山中の村で、現地女性と結婚し、そこに住み始めて、奥さんと一緒にビジネスを始めました。
  その後、戦争が始まり、日本軍がサマールに来たときには、その案内役を務めたりしていましたが、1944年に、自殺してしまったそうです。
 残された家族は、やはり、日本軍族の家族として、ゲリラから追われ、大変な目にあったようです。長男は、逃げている途中に溺れて死んでしまいました。結局、全ての財産をゲリラに提供することと引き換えに、家族は助かったそうです。

  戦争の始まるずっと以前から、日本軍は、アジアの各地に、民間人を装った軍属を配置していたのです。その中には、ヤマモトさんと同じように、現地で結婚し、そのまま住み着いた人も多かったのかもしれません。

  いずれにしろ、彼は、サマールに住み着いた、最初の日本人にちがいありません。また、和歌山の彼の親戚を捜し出して、詳しい話を聞いてみたいものです。
  また、今も京都でご健在の、戦争当時、サマールにいた元陸軍第16師団のYさんにもお会いして、このような軍属のことについても調べてみたいと思っています。あるいは、Yさんもカトゥバロガンにおられましたから、写真を見せれば、ヤマモトさんのことを覚えておられるかもしれませんね。
 


あーあ、今年のフィエスタも終ってしまった

2008年09月09日 | Weblog

(イメルダさんの家に、昼食に招待される。ジムジム君も上機嫌)

 朝になってもハバガッドの強い南風が続いています。
 フィエスタも終って、町も静かになりました。まだ、広場の露店には、子どもたちが集まっていますが、国道の飾りつけは、いつのまにか外されています。

 Aさんは、今日からカライマンの調査開始。私は、部屋に閉じこもって、京都での裁判書類の作成に追われました。
  ところが、朝10時頃からまた停電。なかなか、仕事になりません。

 昼は、イメルダさんから昼食のご招待。
 私は、彼女とジョナタンの結婚式の立会人、いわゆるニノンです。2人の子ども、ジム君は、もう生後8ケ月。今が、かわいい盛りです。 
 
大好物のイカやビールなどを用意していただいたのですが、朝から下痢が始まっていて、あまり食べられないのが残念です。

 午後、市役所へ。トムノムさん、スーサンさんに会い、イーパオの京都サマール友好協会が運営するデイケアーセンターについての話し合い。次に来る予定の12月までの運営費を渡しました。

 夕刻は、ソルソゴンにJAPSAMの学生らの様子を見にいくつもりでしたが、下痢のため断念。部屋で静かにすごしました。夕食は、バナナとリンゴだけでビールもなし。さえないことです。

 


フィエスタの食べ歩きが終ると、突然の停電と嵐

2008年09月08日 | Weblog
 いよいよ今日がフィエスタ当日。
 昨日までの喧騒は一段落し、町の人々は早朝から教会に向かいます。
 そして、昼前からは、いよいよお楽しみの、食べ、飲み歩きです。


 (まずは、シーサイド(私の宿舎)の屋上に集まって、「さあ!食べまくるぞ!」と決意を固める学生ら)
 
 私も、JAPSAMの学生らと一緒に、まずエビーさんの家へ。
 エビーさんの家は、通常は、フィエスタの食事を用意しないのですが、今回は、私たちのために特別に準備してくださったのです。アメリカに行っていた長男のバルも帰ってきていて、久しぶりの握手。
 ただ、エビーさんが、寝ているとのことで、顔を出されなかったのが少し心配です。

 その後、サンタマルガリータの前町長・アレグリアさんの娘さんの家へ。ソルソゴンの連中も、大勢、集まっていました。JAPSAMの学生らは、初めてみるレチョン(豚の丸焼き)に興味深々なようで、何回もお代わり。



 そして、3軒目は、トムノムさん宅。またまたレチョンのご馳走です。


 (レチョンを切り分けてくれるトムノムさんと、待ちかねるJAPSAMの学生ら)

 今回は、私の体調が悪く(ビールを飲もうとすると咳き込むし、胃の不快感も続いています。)、学生諸君も、町を散歩したいというので、食べ、飲み歩きは、この3軒でおしまい。以前は、10軒をまわったことがありましたが、もうそんな元気もありません。
 こうして学生らは午後4時すぎにソルソゴンに戻りました。私は、しばらく昼寝。

 夕刻に起きて、さあ、裁判の書面作りだとパソコンに向かったとたん、なんと停電です。まるで、フィエスタの終るのを待っていたかのようです。
 ろうそくの光だけでは何をすることもできず、もう、寝るほかありません。

 ウトウトとしていると、夜の9時過ぎになって、突然、電気が点きました。ほっとして、起きだして、パソコンに向かいました。
 ところが、この頃から、強烈な嵐になってきました。ごうごうと風が唸り、眼下の海を見ると、真っ暗な沖合いから大きな白波が打ち寄せています。これは、きっと、この時期の季節風・ハバガッドに違いありません。

 町の人たちにとっても、フィエスタの楽しい余韻が、停電と突然の嵐で、吹き飛ばされてしまったに違いありません。


フィエスタもいよいよたけなわ、ストリートダンシング・コンペティション

2008年09月07日 | Weblog
 今日は、フィエスタの最大の行事、ストリートダンシングのコンペティションが行なわれました。
 カラフルな衣装の大勢の踊り手たちが、タクロバンやカトゥバロガンからもやってきて、テンポの早いリズムにあわせて踊るのですから、なかなかの見物です。













 町のあちこちでは、明日のフィエスタ当日にそなえて、豚のレチョン(丸焼き)づくりが続いています。


JAPSAMの活動始まる!

2008年09月06日 | JAPSAMの活動
 Aさんも昨夜、無事に着いて、一安心。
 JAPSAMのソルソゴンでの活動も、いよいよ今日からスタートです。


 (夜は、ダダイさんを先生に、ワライ語教室)

 私は、Aさんとカライマンのバイオガス事業地に行き、Aさんの調査活動への協力を依頼するために、ニーロらに挨拶。彼らはタンドワイ(ラム酒)の酒盛りの真っ最中。胃の具合がよくないのに、どうしても、お酒が続きます。


 (カライマンのバイオガス施設の前で)

JAPSAM、サマールに到着。一方、Aさんはどこ?

2008年09月05日 | JAPSAMの活動
 朝7時頃、Mさんから、JAPSAMが無事ソルソゴンに着いたという連絡が入る。マニラからのバスの旅も順調だったようだ。

 ところが、4日に一人でマニラに来たAさんは、今日のエイジアンスピリットで昼過ぎにカルバヨグに着くはずだったが、朝、レイから、「大変! 今日のフライトはキャンセルだ」という連絡が入る。
 Aさんは、今回は、携帯電話も持っていないので、こちらから連絡のしようがない。ただ、待つだけだ。彼女は、タガログもできるし、大丈夫だろう。(と、思うほかない。)

 昼過ぎにやっとAさんから電話が入る。マニラの空港で、やはりカルバヨグに行くという日本人とカルバヨグ出身の女性と会い、一緒にレイテのタクロバンに飛ぶという。恐らく、カルバヨグ着は夜の10時頃になるだろうが、ともかく、連れもいるようでほっとする。

 夕刻、ソルソゴンへ。JAPSAMのみんなと再会。夕食前に村を歩いているとパッキンに呼び掛けられ、彼の家の前でビールを飲む。すぐに、オポックやミヨがやってきて一緒に酒盛り。ミヨは、つい1週間前に子どもが生まれたとのことで、やはり嬉しそうだ。



 夕食後は、バランガイキャプテンが不在中のため、キャプテン代行のロレータさんのところにみんなで表敬訪問。学生たちを親切に迎えてくれた。



 Aさんは、夜の9時半頃に無事、シーサイドに着いた。これで一安心。

早朝のフライトでフィエスタのカルバヨグへ

2008年09月04日 | Weblog

(もうカルバヨグの町は、フィエスタ一色)

 昨夜は11時過ぎにベッドに入ったばかりなのに、午前2時半に起床。3時15分に、エトガルの家を出る。
 8月中旬から、カルバヨグにフィリピン航空の子会社(PALエクスプレス)の就航が始まり、エイジアンスピリットとあわせると、毎日のフライトとなったので便利だ。ただ、マニラ発は、午前5時50分と早くて大変。

 新しいターミナル3で、エヴィさんに会う。私の2ケ所目のバイオガス事業のカウンターパートの代表の方だが、突然、重度の癌だということが分かって心配している。ベイビーらと、治療にマニラに来ていたという。元気そうなので、ほっとする。

 カルバヨグの町は、もうフィエスタ一色。通りの上には、キラキラと輝く飾りがつけられ、あちこちに、ぎっしりと露店が並んでいる。教会前の広場には、メリーゴーランドや、トロッコなどもあった。
 7日のストリートダンシング、そして8日のフィエスタ当日まで、ぎっしりと催しも続き、もう、みんな仕事どころではないようだ。

 シーサイドの部屋に着くと、一面に広がる海の眺めにほっとする。前回、8月に来たときに、オーナーに、もう引き上げると伝えるつもりだったが、先手を打たれて家賃値下げに応じられたために、もう少し借り続けることとしたものだ。

 マニラのMさんからテキストが入る。JAPSAMの学生らは、昼前のバスで、マニラからサマールに向かった。順調にいって18時間だが、私は、以前、30時間もかかったことがある。それでも、若い学生らには、いい体験だろう。
 明日の午前中にはカルバヨグに着くだろう。また、明日の飛行機では、Aさんも修士論文の調査のためにやってくる。また、賑やかな毎日になるだろう。

 午後は、部屋にこもり、タウンミーティング訴訟のための書面づくりに追われる。最終準備書面の提出まで、もう時間がなく、今回のサマール滞在中にメドを立てなければならない。

(注:この写真は昨年のフィエスタのときのものです。)


学生らとの交流会、6人のロラたちが集まってくれた

2008年09月03日 | Weblog
 朝、食事が終ったとたん、隣の部屋では、ビデオケが始まり、ロラたちが踊っている。いい朝の運動だとのこと。
 ロラズハウスでは、歌と踊りが途切れることがない。

 午前中、JAPSAMの学生らは、マニラ市内見学。木アポからインタムロスのほうを散策するという。
 私は、クバオでPALの事務所に行った後、サントーランのエトガルの家に行く。この家も久しぶりだ。荷物を置いて、すぐにロラズハウスに戻る。

 ロラズハウスには、マニラの学生らが10数人来ていて、リッチーさんやロラと話し合っている。また、中の一室では、ロラ・バージニアさんと、ロラ・ピラールさんが、ガブリエラの担当者から針治療を受け、気持ちよさそうに横になっている。



 私は、リッチーさんと、この家の購入に関して、ロラズ基金とリラの覚書について話し合い。やはり、9月12日の午後に、東京からSさんも来てもらって、覚書の調印式をしようということになる。リッチーさんは、記者会見等もやりたいとのこと。 私も、12日には、サマールから戻ってくるので、是非、同席したい。

 午後、JAPSAMの学生らも戻ってきたので、リッチーさんや6人のロラたちとの交流会。澤田さんも来てくれた。
 リッチーさんが、リラの活動の歴史や、現在の課題等について、いつもの熱弁。学生らからは、国民基金の問題等についての質問も出され、議論は一気に白熱。リッチーさんだけではなく、ロラ・バージニアさんや、ロラ・ピラールさんらも、「まだ、何も解決していない」と熱を込めて話された。




 その後、ナルシサさんが、自らの体験を涙ながらに証言してくれる。昨秋にも聞いたばかりだが、やはり、その都度、新しい事実などが加わっているようだ。
 最後に、JAPSAMのMさんが、タガログ語で、泣きながら、ロラたちにお礼の言葉。ロラたちも、うなづきながら、嬉しそうに聞いてくれた。

 日本軍によるあまりにひどい性犯罪の事実。若い学生たちは、どのように感じてくれただろうかと心配だったが、一人の学生が、次のように語ってくれたので、ほっとした。
 「ああ、ロラたちから直接こんな話を聞かせてもらうのも、あるいはこの数年が最後かもしれないと思うと、自分は、すごい歴史の現場に立ち会っているのだと身が震えるようでした。」

 遅い夕食の後、私はエトガルの家に行く。ピラールさんから、「これから、せっかく乾杯をしようと思っていたのに」と、残るように言われるが、今日は仕方がない。

 夜、10時頃にエトガルの家に着く。ちょうど、明日、エレンの誕生日だとのこと。明日は、早朝の発なので、少しだけお祝いのお金を置いておく。

JAPSAMの学生諸君とマニラへ。ロラズハウスに宿泊

2008年09月02日 | Weblog

(夜は、ソルソゴンのジュン、パキート、ジョナサン、リンゴ、ジェイムスらとクバオで食事)  

 JAPSAMの学生ら10人とマニラへ。 
 ソルソゴン出身のジュン、パキート、ジョナサン、リンゴ、ジェイムスらが、ジプニーを手配して迎えに来てくれる。もう何年も前から、JAPSAMの活動に協力してくれ、いつも私のバイオガス施設に集まっていた若者たちだ。 
 陽気な彼らとの毎日は、本当に楽しかったが、今では、もうみんなマニラに出てきて、学校に通ったり仕事をはじめている。寂しいことだが、仕方がない。

 ロラズハウスには、ピラールさんやナルシサさんら、5人のロラが集まって会議中。私たちは、荷物だけ置かせてもらって、クバオへ。 市場を見学し、中の広い食堂で、みんなで夕食。昔のソルソゴンでの毎日が思い出されて懐かしい。

 新しいロラズハウスは、広くて、私たち11人が泊まっても、まだまだゆったりしている。ロラたちも、今日は、みんなそのまま泊まりこんでいる。以前のロラズハウスでは考えられなかったことだ。
 ロラズ基金の活動もいろんな問題が続いて大変だったが、ロラたちが、この新しい家を本当に喜んでくれているのを見るとやはり嬉しい。