サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

子豚基金の子豚が運び込まれた! 

2008年03月20日 | Weblog
 ソルソゴンのバイオガス事業の養豚が、3月18日に再開されました。
 日本の皆さんから協力をいただいて、この日、6頭の子豚が豚小屋に入りました。それぞれの子豚には、寄付をいただいた方々が命名した名前がつけられています。また、それぞれ担当のお母さんたちが決まっています。
 豚がいなくなっていたので、バイオガスの発生は中断していましたが、これで、しばらくするとまたガスが発生しはじめるでしょう。
 そして、何よりも管理組合のお母さんたちの、収入増進に寄与することができればいいのですが。

 子豚基金は、継続して募集しています。フィリピン・サマールに自分の豚を飼いたい方は、ぜひ、御連絡ください。

 以下の写真は、18日に搬入された子豚と、飼育責任者のお母さんたちです。





















子豚基金にご協力いただいた皆さんへ---ソルソゴンの養豚事業が再開

2008年03月18日 | Weblog


 ソルソゴンのバイオガス事業での養豚を支えるため、日本の皆さんに子豚を購入していただいて、管理組合のお母さんらに育ててもらう子豚基金事業がやっとスタートしました。
 前回、12月にサマールに行った際に、基金を寄せていただいた子豚6頭分、そして、京都サマール友好協会から、すぐに妊娠可能な母親豚1頭分のお金を渡していました。今回、私は、12日にサマールを離れたのですが、18日に日本に帰るためにマニラ空港にいるとき、やっとベイビーさんから、子豚6頭を購入し、ソルソゴンの豚小屋に入れたという報せが入りました。ちょうど、フィリピンはホリーウィークに入ったので、それが開けた来週には、母親豚も搬入するとのことです。
 ちょうどこの日まで、JAPSAMの学生グループがサマールにいましたので、彼らが帰りしだい、その写真をアップできると思います。

 昨秋からご協力いただいておりながら、スタートが遅れて本当に申訳ありませんでした。後は、これらの子豚が元気に育ってくれることを祈るばかりです。

 ともかく、18日の夜、無事に京都に帰ってきました。
 今回は、後半、バナウェにも行きましたし、サマール滞在中も、エイシーちゃんの件でバタバタしたので、JAPSAM諸君の活動には十分ご一緒できませんでしたが、充実したワークだったようでほっとしています。

ロラズハウスの建物購入について話し合い

2008年03月17日 | ロラズハウス関連

(購入できないかと検討中の建物)

 ボントクを午後3時に出たバスは、17日の午前3時にやっとマニラに着きました。まだ、真っ暗なので、6時頃までバスの中で眠らせてもらい、ロラズハウスに向かいました。
 東京からSIさんが来られたので、ロラズハウスの建物購入について話し合うためです。

  今、検討している家を購入する方向で地主と交渉を始めようということになりました。

 


刺青の村

2008年03月16日 | フィリピン各地への旅


カリンガのティングラヤンの町では、ガイドに雇った男の家で夕食をご馳走になった。
 写真は彼のご両親。2人は、今、77歳。彼のお母さんも、見事な刺青をしていた。
 2人に戦争当時の話を聞かせてもらった。
 当時、日本軍が来るというので、村人たちは皆、山に逃げたという。日本軍は、谷の入口にテントをはってしばらくこの町に滞在していたらしい。村人には犠牲者はいなかったそうだが、豚などの家畜を全てとられてしまったという。



 今もお婆さんたちの多くは、刺青が残っている。結婚前に入れるという。



 男たちの刺青は、首狩をした勇者を称えるものという。
 この付近では、昔から村落間戦争がよくあり、首狩が行われていたらしい。(ボントクの博物館には、当時の首狩の写真が展示されている。)
 写真の男性はアヤットさん(88歳)。戦争当時、ゲリラとして日本軍と戦ったと胸をはった。


ボントクからチコ川の大渓谷を下り、カリンガへ

2008年03月15日 | フィリピン各地への旅


 バナウェから高原の道をジプニーで3時間。マウンティンプロビンスの中心地、ボントクの町(標高900m)に着いた。
 明日は、大崎正治さんの「フィリピン国ボントク村---村は『くに』である」の舞台、マリコン村を訪ねようと思ってジプニー乗り場などを確認していたが、宿で、フランシスというガイドに誘われ、彼の出身地・カリンガへ1泊で行くことにする。『地球の歩き方』には紹介されていないところなのが気にいった。




 15日、ドイツ人、オランダ人のカップルと一緒に、ボントクから、ジプニーの屋根にあがり、チコ川の大渓谷を下ってカリンガ州に向かう。この深い谷には、マルコス時代にダム計画が立てられ、人々は武器を持って政府軍と闘ったという。ダム計画は撤回され、今も、その記念碑が残っていた。

 ボントクから3時間、カリンガ州のティングラヤンの町に着いた。道路には一面にコーヒーが干されている長閑な町だ。
 宿に荷物を置いて、周辺の棚田の村を訪ねた。

明日から北部ルソンへの旅に

2008年03月12日 | Weblog

(エビーさん宅で。なんとか長生きして!)

  今日は、エビーさんに昼食によばれました。
 彼女は、私のカライマンのバイオガス事業のカウンターパート・CGSFの代表。敬虔なカソリック教徒です。UPを卒業されており、お金持ちなのですが、きわめて質素な生活を続けてこられました。バイオガス事業中は本当にお世話になった方です。フィエスタの時には、JAPSAMの学生らを自宅に呼んで御馳走してくれましたから、覚えておられる方も多いでしょう。

 そんな彼女が、なんと癌に! 去年、発見されたのですが、彼女は、手術を断って、自宅で静かに暮らしておられます。以前より少し痩せられましたが、思ったより元気なのでほっとしました。
 なんとか元気でいてほしい。それにしても、何故、サマールではこんなに病人が相次ぐのでしょうか?

 ところで、明日、マニラに飛び、夜行のバスで北部ルソンに行きます。目的地は、以前からなんとか行きたかったボントクのマリコン村。大崎正治さんの『村は「くに」である』で紹介された、棚田の村です。
 その後はマニラに戻り、日本から来られるSさんと一緒に、ロラズハウスの購入の話をすすめる予定です。

 従って、明日以降はインターネットは使えません。今回の「サマール便り」も今日でおしまいです。
 18日には帰国します。


アバカの民芸品作りに挑戦

2008年03月11日 | JAPSAMの活動

(ひたすらアバカの作品作りに集中するJAPSAMの学生ら)

 天候はすぐれないのですが、JAPSAMの学生らのワークキャンプは順調にすすんでいます。

 今日は、朝から、アバカ(マニラ麻)を使って、カバンなどの作品作り。
 JAPSAMの学生らの支援で完成したトレーニングセンターで、地域のお母さんたちの生計向上プログラムが始まっているのですが、アバカの作品作りもその一つです。
 カルバヨグの市場で売りに出したり、あるいは日本に運んで売ることを考えているのですが、今後のすすめ方を考えるためにも、まず自分たちも作品作りを経験しようということになったのです。

 マンツーマンで教えてもらい、1日頑張った結果、夕方、訪ねたときには、皆、自分たちが持って帰る作品ができて、大喜びでした。

 


元気になったエイシーちゃん(レイの娘)。しかし、なお、心配なことが

2008年03月10日 | Weblog

(元気になったエイシーちゃん。もう学校に通っている。)

  私が初めてサマールに来た1994年以来、世話になってきたレイの娘・エイシーちゃんの病気について、その後の経過を報告します。

 エイシーちゃんは、今、9歳。かわいい女の子ですが、小さいときから肺炎を繰り返してきたこともあってか、痩せています。
 この1月末、ちょうどJAPSAMのOBのH君が、サマールに来ているときに、エイシーちゃんは肺炎の急性症状のため、タクロバン(レイテ)の病院に行きました。そこで、肺炎との診断をうけ、今まで抗生物資を飲み続けてきました。

 しかし、治療代が高くつき、レイたちではどうしようもないので、現地の青年海外協力隊のSさんが、お金を立て替えてくださっていました。
 エイシーの世話をするために、レイはトライシクル運転手の仕事もほとんど休んできましたし、奥さんのウィルマさんも、すでに5月分までの給料(市役所の非常勤職員ですから、それこそ薄給ですが)を担保にお金を借りて生活費に充てるなど、生活も苦しくなっています。

 タクロバンの病院に通い続けることもできないので、この2月、カルバヨグの病院で受診したところ、結核といわれてしまいました。結核ということになると、兄弟への感染の心配もあるし、治療期間もきわめて長くなってしまいます。

 エイシーちゃんは、1ケ月以上も抗生物資を飲み続けたこともあってか、今では元気になって、学校にも通い始めています。レイが炊事を担当し、一生懸命に食べさせたこともあって、以前よりは、少しはふっくらとしてきました。
 しかし、今も、レントゲン写真では、肺に影が残っているそうです。

 タクロバンの病院とカルバヨグの病院の診断が異なっているため、どうすればよいか分かりません。今は、まだカルバヨグの病院で処方された結核の薬は服用しておらず、タクロバンの病院で処方されている抗生物資を飲み続けています。
 
 また
、今回、私が帰国するときにレントゲン写真や最近の検査結果などを持って帰り、私の友人の小児科医の判断を仰ぐこととなりました。
 日本の医者が、「これは結核ではない」と言ってくれればいいのですが。
 
また、2週間後に、また、タクロバンの病院の診断を受けます。そこで、「結核の心配はない。抗生物資の服用も、もう必要ない」と言われれば一件落着なのですが。
 逆に、「結核の疑いがやはりある」と言われれば、自体はきわめて深刻なことになります。

  ともかく、レイから、エイシーのためにカンパを寄せていただいた皆さんたちに、くれぐれもよろしくとの伝言を預かっています。「


JAPSAMの学生らも元気にワークを開始

2008年03月09日 | JAPSAMの活動

(JAPSAMの学生らが一歩外に出ると、どこでも大勢の子どもたちに囲まれる)

  今日も朝から雨が降り続いています。
 サマールでは、2月からもう1ケ月以上も雨が続き、ソルソゴンの村でも洪水のため、5日間も水が引かなかったそうです。ナナイさんの家でも、床上までの浸水が3回もあったとのことでした。
 
 それでも今日は、夕方になってやっと雨があがり、JAPSAMの学生らは、リチャードさんに連れられて村の散歩(地図づくりの下見)に出かけました。
 川ぞいのスクワッターエリアでは、大勢の子どもたちに囲まれて、もう大騒ぎです。村人たちも、雨があがって、皆、ほっとしたのか、笑いながら学生たちを迎えてくれました。
 私も、もう顔見知りも多いものですから、あちこちの家によって挨拶をかわさなければならず、忙しい散歩でした。

 

 


イメルダさんの赤ちゃん

2008年03月08日 | Weblog

(この1月に生まれたジム君と元気なイメルダさん)

 朝、10時頃、セブからの船で、学生グループ・JAPSAMの本隊が到着しました。全員で7名。そのうち3名が始めてのメンバーです。

  ソルソゴンに向かう前に、皆で、イメルダさんの家に行きました。部屋の真ん中には、この1月に生まれたばかりのジム君がすやすやと眠っていました。お父さんのジョナサンにそっくりのかわいい男の子です。
 私は、イメルダさんたちの結婚式の立会人でしたから、ジム君にとっては、ロロ(お爺さん)ということになります。

 イメルダさんが抱き上げてくれたのですが、よく寝ていたところを起こされて、ご機嫌斜めでした。

 イメルダさんも、髪を短くして、もうすっかり落ち着いた若奥さんという雰囲気でした。

  その後、カライマンのバイオガス事業地を案内してから、ソルソゴンに向かいました。


3ケ月ぶりのサマール

2008年03月07日 | Weblog

(すぐにソルソゴンに行き、リスリスさんの店で皆と再会)

 マニラからカルバヨグに行く飛行機が、突然、午後に時間変更されていたため、カルバヨグに着いたのは午後3時になっていました。
 シーサイドに荷物を置き、すぐにソルソゴンへ。

 いつものようにリスリスさんの店の前でビールを飲んでいると、いろんな人が次々に集まってきます。特に今回は、JAPSAMのMさんやKさんと一緒なので、私一人のときとは違って、若い人たちが大勢集まってきて、もう大騒ぎでした。

  夜は、協力隊のSさんと会って、この間、皆が心配していた、レイの娘・エイシーの病気の話を聞く。
 病気は肺炎なのか、結核なのか? どちらの病気にしても、途方もない治療費の工面をどうするのか? 解決策がわからない。
 


マニラでロラズハウスを訪問

2008年03月06日 | ロラズハウス関連

 JAPSAMのMさんと関空を発ち、午後、マニラに着きました。昨日も京都は雪だったのに、やはり、マニラは30度。震えていた毎日だったので、この暑さが嬉しくてなりません。
 クバオで、数日前にフィリピンに来て、バギオに行っていた、やはりJAPSAMのKさんと合流。3人で、元従軍「慰安婦」のロラズハウスに行きました。

 去年も京都に来たピラールさんとリッチーさんが私たちを待っていてくれました。今、日本で基金を集めて、新しくロラズハウスの建物を購入しようとしているのですが、もう1年以上も、なかなかいい物件が見つかりませんでした。
 今回、いい物件があるというので、私が下見に来たのです。
すぐに案内してもらいました。少し予算をオーバーしているのですが、まずまずの物件でした。すぐに、東京のSさんに連絡。Sさんも見に来るというので、私も、18日の帰国の前にまたここに来て、Sさんと一緒に話をすすめようということになりました。

 暗くなって、Mさん、Kさんと、エトガルの家へ。2人と同年代の娘さんが3人いるので、皆で話がはずんで楽しそうでした。

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 以下、購入したいと考えている建物の写真です。