サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

レイテ島の日本軍壊滅の地・ブガブガ山登頂記(後編)

2007年02月07日 | サマールと戦争

(ブガブガ山の鋭い岩峰の上に立つ。戦争当時、この山頂には日本軍の監視硝があった。)

<前編(2月3日号)より続く>

 山頂の岩に腰を下ろし、大岡昇平『レイテ戦記』の記述を思い出しながら、いつまでも周囲の山並を眺め続けた。

 凄惨な戦争当時の記録から、もっと鬱蒼とした一帯かと思っていたのだが、予想外に低く、また開けた丘陵地帯が続いているのに驚く。当時も、レイテ中央山稜ほどの密林ではなかったようだ。何故、こんな明るく浅い地形の所で数万人もの日本兵が飢餓の中に死ななければならなかったのだろうかとたまらない思いがする。

 はるか西に目をやると一面の海が午後の太陽に輝いている。
 当時、レイテのほとんどの港が米軍に制圧され、この付近の海岸だけが、マニラからの日本の艦船が唯一着けるところだった。しかし、すぐに米軍の爆撃を受け、多くの艦船が沈んでしまった。海に飛び込んでなんとか上陸した兵士たちもいたが、武器や食料はほとんど陸揚げできなかったという。
 ビリアバの少し北のサンイシドロの港には、今も、引き潮になれば、沈んだ日本の艦船が姿を現すそうだ。今回は時間がなくて行けなかったが、なんとか次回には訪ねたいところだ。

 パラールさんにせかされ、腰をあげて下山にむかう。少し降りたところでふと気がついて頂上に戻り、小さな石を数個拾ってザックに入れた。
 頂上の岩峰を少し下ると、両側が急峻な崖となった狭い谷間を抜ける。ところどころに鍾乳洞の穴が開いている。第1師団の司令部もブガブガ山麓の洞窟に置かれたというが、この辺りの洞窟も日本兵にとって格好の隠れ家になったに違いない。
 付近には、掘り返されたところがあちこちにある。聞くと、今も地元の人たちが、日本兵が金を隠したと信じて掘り返しているという。

 谷間を抜け、コゴン草の生えた斜面を下っていく。登りとはちがった道を降りたせいか、途中で道を失ってしまった。パラールさんの息子さんが、腰から鉈をはずして藪を切り開きながら降りていく。ふと気がつくと、私の腕に長い切り傷ができ血が流れている。鋭い木の葉で切ってしまったようだ。
 なんとか元の道に戻り、後はのんびりと山道を下る。広い草原をたどりながら振り返ると、ブガブガの大きな山容が素晴らしい。何回も立ち止まっては山を振り返り続けた。

 ブガブガの村に戻ってきたのは午後5時前。バランガイキャプテンのフェリックス(70歳)さん、山を案内してくれたパラールさん(71歳)らとラム酒を飲みながら村の話を聞いた。
 戦争当時、この辺りは日本軍がいっぱいだったので、2人はビリアバの町に住んでいたそうだ。戦後になってやっとここにバランガイができたという。
 ブガブガ山には、南のカタグバカンというバランガイの方が近いので、日本兵の慰霊碑などはそちらにあるそうだ
。(帰途、このカタグバカンの村の慰霊碑も訪ねた。この辺りからのブガブガ山の姿は特に素晴らしい。) ブガブガには何もなく、あまり人も来ないので、なんとかツーリストが来るような村にしたいというのが2人の願いだという。
 また、気になっていたブガブガという山名の意味も教えてもらった。村の人たちの話では、昔、山頂で2頭の蛇が火を吹きあったという言い伝えからこの名がついたという。ブガとは「吹く」という意味らしい。
 当時、日本兵たちはカンキポット山と称したのだが、「カンキポット」とは、山頂から南へ降りた谷のあたりの地名だという。それを日本兵が山の名前と間違えて呼びだしたようだ。

 そのうち、何事だろうと村の人たちも大勢集まってきた。「もういいから」と断ったのに、ラム酒の新しい瓶が開けられてしまった。
 陽気な村の人々、そして明るいブガブガ周辺の眺め。戦争当時の凄惨な歴史とのあまりのギャップにとまどいが続く。この日は時間もなく、お年寄りたちからは、ほとんど当時の話を聞けなかったが、何回か通い続ければ、もう少し分かってくるだろうか。
 ともかく次回にはもっと時間をかけてこの地域を歩いてみたい。

 


レイテ島の日本軍壊滅の地・ブガブガ山登頂記(前編)

2007年02月03日 | サマールと戦争

(ブガブガ山の岩峰を仰ぎながら登り始める)

 
 レイテの中心地、タクロバンからバスで約2時間、ビリアバの町に入ると、さとうきび畑の向こうに切り立った山が見えた。地元の男に尋ねると、やはりそれがブガブガ山だった。標高は359mにすぎないのだが、周辺のなだらかな丘陵の中では、鋭い岩峰が目立つ飛びぬけて高い山だ。

 2月3日、ビリアバの町に着いた私たちは、翌4日、このブガブガ山に向かった。

 ビリアバの中心地で、オートバイをチャーター。運転手以外に3人が乗るいわゆる「ハバルハバル」で約20分、麓のブガブガというバランガイに着いた。正面にはブガブガ山の岩峰
が圧倒的にせまっている。この辺りには、戦争当時、日本軍の第1師団司令部が置かれていたはずだ。

 バランガイキャプテンのフェリックスさんを訪ね、山に登りたいと頼んだ。彼は、「もう午後の1時半、登りに2時間はかかるから戻ってくるのはもう夕方になってしまう」と少し躊躇される。以前にも、降りてこられなくなって山で一晩すごした人たちがいるという。
 しかし、せっかく来たのだからともかく午後3時半までは登って、ダメならそこで下山することにする。フィリックスさんは、バランガイタノッド(村の警察官)のパラールさん親子2人をガイドとしてつけてくれた。

 さっそく山に向う。ココヤシの林はすぐに終わり、広葉樹の森林が続く。時々、急な地形に道が消え、パラールさんたちが別れて道を探した。フィリピンでは比較的涼しい1月とはいえ、急な登りに息が切れ、汗が流れる。
 サマールから一緒に来たレイは、もう最初の30分の登りでダウンし、あきらめて一人、下山してしまった。しかし、私にとってこの山は長く思い続けていた山、なんとしても登らなければならないと道を急ぐ。

 最後に草つきの急斜面を登るとそこが頂上だった。狭い岩峰に立つと、もう360度さえぎるものはない。急峻なレイテ中央山稜とは違い、明るい丘陵が遥かかなたまで続いている。風が強く、パラールさんが「気をつけて!」と叫ぶ。

 レイテ西北部にそびえるブガブガ山。第2次大戦末期、米軍に追われた日本兵たちが、レイテ各地からそれこそ飢餓の彷徨を続けてこの山を目指した。このするどい岩峰は、遠くからもよく目立ったにちがいない。兵士たちは、「あそこまでたどりつけば」という一念だけで、鬱蒼とした密林を這うようにしてすすんだのだろう。

 当時、日本兵たちはこの山をカンキポット山と称し、さらにそれを言いかえて「歓喜峰」と呼んでいた。大岡昇平は『レイテ戦記』で、この山のことを次のように記している。
 「山そのものはいかにも歓喜峰の名にふさわしい山容を持っていた。頂上の東側と西側は比高70mの、そぎとったような岩壁になっていて、紫藍の岩壁が朝焼け夕焼けに赤く染まった。付近の低山の間に屹立して、遠くからもよく見えた。原隊を追及する敗兵は、あそこまで行けば友軍がいると勇気づけられ、そり立つ岩の頂上を見つめながら足を運んだ。」

 1944年12月末、「軍ハナシ得ル限リノ戦力ヲ歓喜山周辺ノ地区ニ集結シ、自活自戦永久継戦ノ態勢ヲ確立スルト共ニ爾後ノ反撃作戦ヲ準備セントス」という命令が出された。「自活自戦永久継戦」とはなんという冷酷な命令だろう。兵士たちは、補給も断たれ、棄てられたのである。
 すでに戦争の大勢は決していた。山をさまよう日本兵たちにはもう反抗の力も残っていなかった。米軍も敢えて山に攻め入らなかったが、日本兵たちの多くは、飢餓に苦しみそのまま死んでいった。
 大岡昇平は当時の様子を、「ビリアバの町のフィリピン人の間に、カンキポット北方の谷間にあった若い兵士の死体に、臀と股の肉がなかったという記憶が残っている。」「戦後山から出て来た者は一人もいなかった。」などと記している。

 この周辺だけでも約1万人、日米の激戦地だったレイテ中央部のレモン峠からこの山にいたる一帯では、3万人もの日本兵たちが死んだという。
 当時、レイテ島に投入された日本軍の総兵力は8万4千人。しかし、生還者はわずか2,500人にすぎなかった。京都の第16師団が最も多く1万8千人が投入されたが、生還者は、戦後、サマール島で降伏した150人を入れても、わずか580名という
。(『レイテ戦記』)
 戦争末期、すでに「棄兵の師団」(『防人の詩』)と化した第16師団は、最期に、師団長牧野中将以下、約200名がレイテ中央山陵を越えてブガブガ山を目指したことが分かっている。しかし、彼らがブガブガ山にたどりついたという記録はない。

 「ああ、この付近で、レイテの日本軍は壊滅したのだ。」と思いながらいつまでも頂上の岩に腰を下ろして周辺の山を眺め続けた。

 

 

<後編(2月7日号)に続く>


明日からレイテ島の戦跡まわり

2007年02月02日 | Weblog

 今回のカルバヨグでの生活も今日が最終日。
 明日の早朝から、レイテ島北西部のビリヤバという町を訪ねます。

 大戦当時、最大の激戦地だったレイテ島では、10万人以上の日本兵が死にました。米軍やゲリラなどに追われ山中を彷徨した日本兵たちが最後に集結しようとしたのが、ビリヤバの東にあるカンギポット山(現地名ブガブガ山)でした。リモン峠からこのブガブガ山にかけて3万人以上の日本兵が死んだと言われています。戦死というよりは、飢餓地獄に陥って凄惨な最後を迎えた兵士たちがほとんどだったようです。
 (私がこだわり続けている京都の陸軍第16師団も、レイテとサマールで壊滅しました。この2つの島に派遣された16師団の1万9千人の兵士のうち生還者はわずか580名といいます。)

 ソルソゴンの村でその話をしていると、なんと親しくしているオポックの奥さんのテスさんがこのビリヤバの出身だというのです。今も彼女の両親や親戚たちが暮らしているそうです。
 昨秋から何度もビリヤバに行こうとしたのですが、いつも急用ができたりして行けませんでした。今回、やっと時間がとれました。明日から、レイ、オポックと3人でビリヤバの町にでかけ、地域のお年寄りから戦争当時の話を聞いた後、ブカブカ山にも登ってくるつもりです。
 また、ビリヤバの少し北の町、サン・イシドロには、今も引き潮時には、海に沈んだ日本の艦船のマストが見えるそうですので、そこにも足を延ばす予定です。

 ビリヤバで2泊、タクロバンで1泊した後、そのまま6日にマニラを経由して日本に帰ります。
 タクロバンで泊まるのは、やはりあのホテルアレハンドロ。2005年12月26日の「チョイさんのサマール便り」(http://kyoto-samar.hp.infoseek.co.jp/newpage162.htm
でも報告した「戦地のピアニスト」のホテルです。オーナーのアレックスさんとの再会が楽しみです。

 


サマール州立大学からバイオガス設置の協力依頼

2007年02月01日 | Weblog

(サマール州立大学の教員・学生らがバイオガス施設の見学に)

 今日は、午前、午後ともバイオガス施設の見学者の対応で追われました。

 午前中は、中部サマールのSan Jorge にあるサマール州立農業林業大学(Samar State College of Agriculture and Forestry)の教員や学生らが15人ほどソルソゴンにやってきました。
 皆、燃え上がるバイオガスの炎には興味深々です。引率の教員、Lelayさんによると、農業大学なのでカラバオや豚、鶏などを飼っているとのこと。なんとかこのようなバイオガスを設置したいと見学に来たそうです。
 「技術的なサポートはしますよ」と伝えると大喜びで、すぐに大学を見にきてほしいとのことでした。私は今回はもう帰ってしまうので、次に3月に戻って来たときに一度、大学を見にいきますと約束しました。
 その後、カライマンの施設も見てもらいました。
 バイオガス施設だけなら10万円もあれば設置できるので、なんとか協力したいと考えています。サマール各地にバイオガスを普及させたいものです。

 午後は、飼料会社のスタッフが、自宅で豚を飼っている人たちを集めた養豚 事業の講習会がソルソゴンのトレーニングセンターで行われ、私も参加しました。