(ブガブガ山の鋭い岩峰の上に立つ。戦争当時、この山頂には日本軍の監視硝があった。)
<前編(2月3日号)より続く>
山頂の岩に腰を下ろし、大岡昇平『レイテ戦記』の記述を思い出しながら、いつまでも周囲の山並を眺め続けた。
凄惨な戦争当時の記録から、もっと鬱蒼とした一帯かと思っていたのだが、予想外に低く、また開けた丘陵地帯が続いているのに驚く。当時も、レイテ中央山稜ほどの密林ではなかったようだ。何故、こんな明るく浅い地形の所で数万人もの日本兵が飢餓の中に死ななければならなかったのだろうかとたまらない思いがする。
はるか西に目をやると一面の海が午後の太陽に輝いている。
当時、レイテのほとんどの港が米軍に制圧され、この付近の海岸だけが、マニラからの日本の艦船が唯一着けるところだった。しかし、すぐに米軍の爆撃を受け、多くの艦船が沈んでしまった。海に飛び込んでなんとか上陸した兵士たちもいたが、武器や食料はほとんど陸揚げできなかったという。
ビリアバの少し北のサンイシドロの港には、今も、引き潮になれば、沈んだ日本の艦船が姿を現すそうだ。今回は時間がなくて行けなかったが、なんとか次回には訪ねたいところだ。
パラールさんにせかされ、腰をあげて下山にむかう。少し降りたところでふと気がついて頂上に戻り、小さな石を数個拾ってザックに入れた。
頂上の岩峰を少し下ると、両側が急峻な崖となった狭い谷間を抜ける。ところどころに鍾乳洞の穴が開いている。第1師団の司令部もブガブガ山麓の洞窟に置かれたというが、この辺りの洞窟も日本兵にとって格好の隠れ家になったに違いない。
付近には、掘り返されたところがあちこちにある。聞くと、今も地元の人たちが、日本兵が金を隠したと信じて掘り返しているという。
谷間を抜け、コゴン草の生えた斜面を下っていく。登りとはちがった道を降りたせいか、途中で道を失ってしまった。パラールさんの息子さんが、腰から鉈をはずして藪を切り開きながら降りていく。ふと気がつくと、私の腕に長い切り傷ができ血が流れている。鋭い木の葉で切ってしまったようだ。
なんとか元の道に戻り、後はのんびりと山道を下る。広い草原をたどりながら振り返ると、ブガブガの大きな山容が素晴らしい。何回も立ち止まっては山を振り返り続けた。
ブガブガの村に戻ってきたのは午後5時前。バランガイキャプテンのフェリックス(70歳)さん、山を案内してくれたパラールさん(71歳)らとラム酒を飲みながら村の話を聞いた。
戦争当時、この辺りは日本軍がいっぱいだったので、2人はビリアバの町に住んでいたそうだ。戦後になってやっとここにバランガイができたという。
ブガブガ山には、南のカタグバカンというバランガイの方が近いので、日本兵の慰霊碑などはそちらにあるそうだ。(帰途、このカタグバカンの村の慰霊碑も訪ねた。この辺りからのブガブガ山の姿は特に素晴らしい。) ブガブガには何もなく、あまり人も来ないので、なんとかツーリストが来るような村にしたいというのが2人の願いだという。
また、気になっていたブガブガという山名の意味も教えてもらった。村の人たちの話では、昔、山頂で2頭の蛇が火を吹きあったという言い伝えからこの名がついたという。ブガとは「吹く」という意味らしい。
当時、日本兵たちはカンキポット山と称したのだが、「カンキポット」とは、山頂から南へ降りた谷のあたりの地名だという。それを日本兵が山の名前と間違えて呼びだしたようだ。
そのうち、何事だろうと村の人たちも大勢集まってきた。「もういいから」と断ったのに、ラム酒の新しい瓶が開けられてしまった。
陽気な村の人々、そして明るいブガブガ周辺の眺め。戦争当時の凄惨な歴史とのあまりのギャップにとまどいが続く。この日は時間もなく、お年寄りたちからは、ほとんど当時の話を聞けなかったが、何回か通い続ければ、もう少し分かってくるだろうか。
ともかく次回にはもっと時間をかけてこの地域を歩いてみたい。