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コジキジゲン

「210=弐百壱拾・弐百壹拾・弐百壱足」、「220=弐百弐拾・弐百弐足・弐百念」

2016-09-02 21:03:27 | 古事記字源

 ・・・恐るべき経験知か、科学的認識か・・・「二百十日(にひゃくとおか)・9月1日頃(2016年は8月31日)・立春から数えて210日目・台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまう・厄日とか荒れ日」、「二百二十日(にひゃくはつか)・9月11日、閏年なら9月10日」・・・「二百二十日、二百十日は、江戸時代、徳川幕府の暦編纂係であった渋川春海が暦に記載したことが始まり」・・・「渋川春海」・・・過去的な歴史記録の統計学的な計算結果だったろうなッ・・・
 本日は曇天で時折陽射し、カエルが鳴く蒸し暑い日・・・ミニトマトの収穫五六個ほど、胡瓜(きゅうり)は茎枝に小さな黄色い花を咲かせているが本体の実は見当たらず・・・毎年、庭に生えている紫蘇(シソ)の葉を食べたコトはなかったが、今回は試食のつもりで採種してみた。小さい頃は青菜類、三つ葉、芹、韮などの匂いが嫌いだったが、何時の頃からなのか「漢方薬臭い香り」が好きになっていた・・・ブログ記事で調べたら「ボケ」にも効くらしいとあったが・・・それに「紫蘇を食べたら十年生きる」とあったけれど、寿命よりも十年延長なのか、十年間の命なのか・・・台風、地震、噴火、落雷、洪水、土砂崩壊、猛暑、厳寒、疫病、自然災害はヒトのイノチの体力的強弱、老若男女の寿命にはお構いなしである・・・この日常生活で生きているコト自体が奇蹟である・・・
 だが、「ヤフー知恵袋」には「世界人口生死数は、出生数=1日に20万人、死亡数=1日に15万人」で、「日本での推計は、2007年度で出生数は109万人、死亡数は110万6千人。これを元に計算すると1秒あたりの出生数、死亡数はそれぞれ0.0479人、0.0486人。20.9秒に一人誕生、20.6秒に一人死亡」らしい・・・死に方は様々ではあろうが・・・日常性は「秒単位」である・・・
  ↓↑
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 シソ(紫蘇・Perilla frutescens var. crispa)
 シソ科シソ属の植物
 エゴマ(荏胡麻・frutescens)は
 シソ科の一年草で
 シソ(青紫蘇)とは同種の変種
 地方名にジュウネン(十年)、
 食べると十年長生きできる・・・
 古名、漢名は、荏(え)
 をこれと
 同属異種の植物(ocymoides)と分離したが、
 現在の遺伝子学研究で
 同種「ペリラ・フルテスケンス(Perilla frutescens)」
 の変種とそれらの総称
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 「後漢の末期
  洛陽の若者が
  蟹(かに・カイ・蠏)・・・蟹・・・可児・甲斐
  の食べすぎで
  食中毒を起こし
  華佗(人名)が・・・「佗」=ほか・になう・わび
  ↓↑            わびる・わびしい
                わび・タ・タイ
                ほか・になう・背負う
                佗負
                ひっそりと暮らす
                みだす
  ↓↑            佗髪
  紫の葉を用いて
  薬草を煎じ、服飲させ
  若者は回復
 「紫」の「蘇る」薬とし
 「紫蘇」と呼ぶようになった」・・・蘇我蝦夷?
  ↓↑
 チリメンジソ(縮緬紫蘇)
 マダラジソ(斑紫蘇)
 アカジソ(Makino・赤紫蘇)・・・Makino=マキノ
                     眞記之
                     巻記之
 アオジソ(Makino・青紫蘇)
 カタメンジソ(片面紫蘇)
 チリメンアオジソ(縮緬青紫蘇)
 西日本の一部では「青蘇(セイソ)」とも
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 カロテン、ビタミンB、カルシウム
 食物繊維、カリウム
 などの栄養素を含む
 紫蘇特有の
 ペリルアルデヒド・・・ペリル-アル-デ-ヒド?
 は、
 臭覚神経を刺激して胃液の分泌を促し
 健胃作用や食中毒の予防に効果
 防腐効果は、5~10%の食塩との併用で得られる
 漢方医学
 赤紫蘇の葉を
 「蘇葉(そよう)」
 「紫蘇葉(しそよう)」・・・・始祖の葉(用・要・楊)
 といい、
 理気薬(気の停滞改善、精神安定)として
 神秘湯、半夏厚朴湯、香蘇散などに配合
 また熟した果実を
 「蘇子(そし)」といい、
 咳、喘息、便秘などの治療に用いる
 葉と実には
 ルテオリン(フラボノイド・酵素)
 という成分を含み
 アレルギー疾患に有用
 別名
 「野良荏(のらえ)」・・・荏=え・やわらか・ジン・ニン
 は紫蘇の古名
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 ・・・「荏弱(ジンジャク)=やわらかで弱い」・・・
 ・・・「荏苒(ジンゼン)=何もしないで、月日がいたずらに過ぎていく・物事がはかどらずのびのびになっていくようす」・・・
 ・・・「苒苒・荏苒」は擬態語・・・ゼンゼン=しっとりと草のおい しげるさま・柔らかく、しなやかなさま・ジンゼン=時間がじわじわと経過するさま」
 ・・・「艸(くさ・ソウ)→くさか夢、無理」+「冉(危うし・あやうい・ゼン・ネン)」・・・「日下の務(ム・武)、無理、危うし」・・・
 元治元年七月十九日(1864年8月20日)
 蛤御門の変・・・
 禁門の変
 元治の変(ゲンジのヘン)・・・「ゲンジ」の「ヘン」である
 元治-甲子の変
 とも・・・
 会(會)津藩排除の長州藩の「久坂玄瑞」と、「新撰組、西郷隆盛」の激戦地・・・
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 ・・・「紫蘇(シソ)」ばかりを食べていては生きては行けないのは当然で、アタリマエだが・・・喰っていく、喰わせて行くって・・・親は大変である・・・
 以下は付録・・・ウイッキペデアからの参照添付・・・
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 渋川 春海(しぶかわ はるみ・しぶかわ しゅんかい)
 寛永十六年閏十一月三日(1639年12月27日)
  ~
 正徳五年十月六日(1715年11月1日)
 天文暦学者・囲碁棋士・神道家
 幼名は
 六蔵
 諱は
 都翁(つつち)
 字は
 春海、順正
 通称は
 助左衛門
 号は
 新蘆・・・・・新しい蘆(あし・芦・葦・葭・足・尼子)?
 霊社号は
 土守霊社
 貞享暦の作成者
 姓は
 安井・・・・安易
 から
 保井・・・・補遺・本意・宝飯
       ほいと(こじき(物ごい)
       ほいど(ほいと)= 祝人(ほぎ人)が転訛?
       ほいと=陪堂=乞食=乞児
 渋川・・・「渋=澀=澁」=しぶ・しぶい・しぶる
              ジュウ・ジフ
              なめらかに進まない
              渋滞・晦渋・難渋
              にがにがしい
              渋面・苦渋
              渋柿・渋茶
              渋紙
 と改姓
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 江戸幕府碁方の安井家
 一世-安井算哲の長子として
 京都四条室町に生まれた
 慶安五年(1652年)
 13歳
 父の死によって
 二世-安井算哲となる
 安井家は一世算哲の養子
 算知が継ぎ
 算哲は
 保井姓を名乗った
 万治二年(1659年)・・・万の治の二ネン
 21歳
 幕府の御城碁に初出仕
 本因坊
 道悦に黒番4目勝ちした
 延宝六年(1678年)
 本因坊道策が碁所に任じられ、
 先の手合、上手並み(七段)とされた
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 数学・暦法を
 池田昌意(まさおき)に、
 天文暦学を
 岡野井玄貞・松田順承に、
 和漢の書、垂加神道を
 山崎闇斎に、
 土御門神道を
 土御門泰福
 に学んだ
 当時は
 貞観四年(862年)に
 唐よりもたらされた
 宣明暦を用いていたため、
 誤差が生じており
 21歳(1659年)
 中国の
 授時暦に基づいて
 中国や四国の
 各地の緯度・経度を計測
 方法として、
 昼間は一本の木の柱を立てて太陽の陰影を、
 夜間には北極星に対する仰角を測定
 その結果を元にして
 授時暦改暦を願い出た
 延宝三年(1675年)
 春海が授時暦に基づいて算出した
 日食予報が失敗
 申請は却下
 宣明暦は、月食・日食の予報が
 天の運行に
 二日も遅れていた
 1670年(寛文十年)
 32歳
 天体を日夜観測し、
 新暦の作成に励む
 失敗の原因が
 中国と日本では
 里差(経度差)があり、
 「地方時(時差)」
 や
 「近日点異動」
 に気づき
 授時暦に通じていた
 朱子学者の
 中村惕斎の協力を得、
 自己の観測データを元にして
 授時暦を日本向けに改良し
 大和暦を作成
 春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、
 京都所司代
 稲葉正往の家臣であった
 谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、
 春海の暦法を非難して
 授時暦を一部修正しただけの
 大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう
 春海は「地方時」の存在を主張し
 中国の暦をそのまま採用しても
 日本には適合しないと主張
 春海は暦道の最高責任者でもあった
 泰福を説得して
 大和暦の採用に同意させ、
 3度目の上表によって
 大和暦は朝廷により採用されて
 貞享暦となった
 惕斎のような協力者を得られたこと
 碁や神道を通じた
 徳川光圀
 泰福
 ら有力者とのつながり、
 観測の積み重ねに裏打ちされた
 暦学理論によって、
 改暦の実現を可能にした・・・
 貞享元年十二月一日(1685年1月5日)
 初代幕府
 天文方に250石をもって任ぜられ、
 碁方は辞した
 以降、天文方は世襲・・・
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 囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめ
 太極(北極星)の発想から
 初手は天元(碁盤中央)であるべきと判断
 寛文十年十月十七日(1670年11月29日)
 御城碁で
 本因坊-道策との対局において
 初手天元を打ち
 「これでもし負けたら一生天元には打たない」
 といったが
 対局は9目の負けに終わった・・・
 ↓↑
 貞享三年(1686年)
 京都より家族とともに
 江戸麻布に移住み
 元禄二年(1689年)
 本所に
 天文台の建設が認められ
 1690年
 52歳
 地球儀(直径25センチメートル)を造った
 1697年
 直径33センチメートルの地球儀を造った
 元禄五年(1692年)
 武士身分が認められ
 蓄髪して
 助左衛門と名乗り
 元禄十五年(1702年)
 渋川に改姓
 先祖が
 河内国
 渋川郡を領していたが、
 播磨国
 安井郷に変わり、
 再び
 渋川の旧領に還ったため
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 元禄十六年(1703年)
 天文台は駿河台に移転
 著書に天文暦学において
 『日本長暦』『三暦考』
 『貞享暦書』『天文瓊統』
 神道においては
 『瓊矛拾遺』がある
 地球儀、
 天球儀・渾天儀・百刻環(赤道型日時計)
 などの天文機器を作成
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 嫡男である
 昔尹・・・・・・・昔(むかし)の尹(監督・長官)
 に天文方の地位を譲ったが、
 正徳五年(1715年)
 昔尹が子供のないまま急死し
 春海も死去
 渋川家と天文方は
 春海の弟
 知哲の
 次男
 敬尹が継承
 法号は
 本虚院透雲紹徹居士・・・本の虚の院、透雲、紹徹、居士
 明治四十年(1907年)
 改暦の功績によって
 従四位が贈位
ーーーーー
 ・・・なぜ、「渋い川」の「春の海」なんだろう・・・

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