・・・「君子豹変=クンシヒョウヘン=訓詞剽変」・・・?・・・「姉小路公知の豹変」・・・ナンで、「アネの公示の狡知」?・・・「巧遅は拙速に如(し)かず」・・・
コウチ=狡智・巧知・巧緻
高知・高地・高置・高値・・・高麗・高句麗からの帰化
芸西・・・高知県安芸郡芸西村・本地域を構成する主な
岩石群は、枕状溶岩・赤色チャート・多色凝灰岩
剪断された泥岩からなり、これらの岩石群が
ブロック状に入り混じって複雑な構造を呈し
メランジュ(混在岩)帯と呼ばれている
芸西(小惑星)=芸西(2571 Geisei)は
1981年10月23日
関勉が
高知県芸西村で発見した小惑星
拘置
河内・川内・荒地・鴻池
耕地・好地・交地
甲地・・・・・・・・・・・・甲府・甲斐・山梨
カイ=蝦夷
幸地
古内
後置・構築・・・?
・・・高知県=土佐・・・
ーーーー↓↑ー
土佐藩
戦国時代末期は
長宗我部氏・・・長曽我部・ 長曾我部とも
↓↑ 本姓は秦氏
家紋は「七つ酢漿草(かたばみ・片喰・鳩酢草)」
長宗我部盛親は
慶長十九年(1614年)~同慶長二十年(1615年)の
「大坂の陣」で豊臣方に与し、豊臣方が敗れ
盛親、盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた
長宗我部国親の四男・親房が
「島(島親益)」氏を名乗り、その子孫である
「島親典」が土佐藩に下級藩士として仕えた
再び長宗我部を名乗ったのは明治維新後・・・?
・・・「島大臣」は「蘇我蝦夷」だが・・・
元親の三女で佐竹親直に嫁いだ
↓↑ 「阿古姫」は大坂の陣で
伊達政宗に捕えられ助命され二人の息子と共に
仙台藩に仕えた・・・
阿古姫は伊達家の侍女として中将と称し
教養豊かで弁が立ったため政宗ので近侍を務めた
息子二人も小姓とし
二男の輪丸(賀江忠次郎)は
のちに重臣
四保柴田氏を継いで・・・四保?
柴田朝意と名乗った・・・朝意?
朝意は
奉行職(家老に相当)を務めた
寛文十一年(1671年)・・・寛文十一年
カンブン拾壹(壱)撚?
伊達騒動の際に
(寛文事件とも)
酒井忠清邸で
「原田宗輔(原田甲斐)・・・甲斐?
元和五年・1619年
~
寛文十一年三月二十七日
1671年5月6日)」
は
江戸の
酒井雅楽頭邸で
行われた評定の席で
上訴の主である
伊達安芸(伊達宗重)・・・安芸?
を斬り殺し
柴田朝意・・・・・・・・・朝意?
↓↑ と斬り合って死亡」・・・・?
が統治
長宗我部盛親が
慶長五年(1600年)
「関ヶ原の戦い」
でにおいて西軍に与して改易
徳川に与した
遠江掛川城主
山内一豊が
土佐国20万2600石を与えられ
明治時代初頭まで
山内氏が治めた
↓↑
「一領具足(戦国時代,土佐国(高知県)
長宗我部氏によって行われた農兵制度
のちには土佐藩郷士の別名
兵農未分離の地侍)」
と呼ばれた長宗我部氏旧臣が、山内氏に馴染まず
反乱を繰り返したため
山内氏は
藩内の要衝に
重臣を配して反乱に備えた
中村の山内康豊(2万石)
佐川に深尾重良(1万石)
宿毛に山内可氏(7000石)
窪川に山内一吉(5000石)
本山に山内一照(1300石)
安芸に五藤為重(1100石)
を配し
藩政の中枢を
山内家家臣(上士)で独占し
長宗我部氏旧臣(郷士)との
二重構造を幕末まで続けた
↓↑
一豊は
長宗我部氏(浦戸藩)の旧城である
浦戸城に入城
城下町には狭かく
高知城と城下町の建設
藩政が確立した
二代・山内忠義の時代
野中兼山を登用し
新田開発、殖産興業に努めたが
兼山は政敵の恨みを買って失脚
↓↑
宝暦期(1751年~1764年)以降
一揆、農民の他領への逃散
九代・山内豊雍
による質素倹約、藩政改革(天明の改革)
十三代・山内豊熈は
「おこぜ組」と呼ばれる
馬淵嘉平
の改革派を起用、藩政改革
失敗した
十五代豊信(容堂)が
吉田東洋を起用し改革断行
東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い
武市瑞山の
土佐勤王党によって暗殺
後
勤王党は
容堂(豊信)の報復を受け
瑞山の切腹や党員の処刑、弾圧解散
東洋の門下より
後藤象二郎
板垣退助
岩崎弥太郎
らを
郷士の
坂本龍馬
中岡慎太郎
などが輩出
坂本
後藤を通じ
容堂から
十五代将軍・徳川慶喜へ献策され
大政奉還
(慶応三年十月十四日(1867年11月9 日)
江戸幕府第十五代将軍
徳川慶喜
が政権返上を
明治天皇に奏上
翌十五日に天皇が奏上を勅許)
ーー↓↑ーー
ヒョウヘン=豹変・氷片・平辺・病変・別府弁
平編銅線(平編線・平編組線・TBC)⇔評編同撰?
↓↑
朔 平 門 外 の変・・・・サク 平 文外の変?
(さくへいもんがいのへん)
文久三年五月二十日
(1863年7月5日)
尊王攘夷を唱える過激派公家
姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が
禁裏朔平門外の
猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺
猿ヶ辻の変
↓↑
姉小路 公知(あねがこうじ きんとも)
天保十年十二月五日(1840年1月9日)
~
文久三年五月二十日(1863年7月5日)
↓↑
姉小路公知の
養子に
姉小路公義
(万里小路博房 男、次代)
(までのこうじ ひろふさ
文政七年六月二十五日(1824年7月21日)
~
明治十七年(1884年)二月二十二日)
江戸時代後期の公卿
万里小路正房の子
明治元年(1868年)
従三位・権中納言に叙任
後は
京都裁判所総督
宮内大輔
皇太后宮大夫
などを務め
明治十七年(1884年)
六十一歳で死去
博房の死去から約5か月後の7月7日
子の通房に伯爵が叙爵された
妻は
森長義の娘・貞子
子に
万里小路通房など
↓↑
事件二日後の二十二日
薩摩藩邸に潜伏していた
土佐浪士の
那須信吾が姉小路邸を訪れ
遺棄された刀が
薩摩藩士
田中新兵衛のものであると証言
これを受けて姉小路家は
京都守護職・町奉行に対し
田中を犯人として告訴
二十六日
武家伝奏
坊城俊克
三条実美
の依頼により
京都守護職の会津藩は
東洞院蛸薬師の田中の寓居を急襲
田中新兵衛
仁礼源之丞
下僕の太郎を逮捕
坊城邸へ連行
しかし会津藩は京都守護職の職掌上
容疑者の逮捕までは行ったが
薩摩藩との関係悪化を恐れ
拘留・取調は拒否・・・
↓↑
文久三年八月十八日
1863年9月30日
八月十八日の政変
会津藩・薩摩藩
を中心とした
公武合体派が
長州藩を主とする
尊皇攘夷派と急進派公卿を
京都から追放した事件
文久の政変
堺町門の変とも
↓↑
文久三年(1863年)朝廷内において
三条実美
姉小路公知
ら急進派が朝議を左右
二月に
国事参政と
国事寄人の
二職が設けられ
急進派が登用され実権を握った
学習院では
草莽の者でも時事を建言できることとなり
これに出仕する尊攘派の
真木和泉(久留米藩士)
久坂玄瑞(長州藩士)
らが朝廷に影響力を持つ
二月
足利三代木像梟首事件
三月から四月
天皇の攘夷祈願のため
賀茂・石清水行幸
五月十日・・・5/10
攘夷決行の日と
参内した将軍
徳川家茂に約束させた
五月十日・・・5/10
長州藩は
下関海峡で
アメリカ商船を砲撃し
長州藩が欧米艦隊から報復攻撃
将軍家茂も
六月には京を離れ江戸に帰った
長州藩の窮状を
天皇による
攘夷親征の実行(大和行幸)が
尊攘急進派によって企てられ
天皇が大和国の
神武天皇陵・春日大社に
行幸して親征の軍議をなし
次いで
伊勢神宮に行幸するというものであった
この行幸に関し
真木らは討幕の実行まで視野に入れていた・・・
↓↑
八月四日の朝議
長州藩の攘夷砲撃に非協力的であった
小倉藩の処分を幕府の頭越しに決定したが
池田慶徳(鳥取藩主)らが強く反発
池田らは
大和行幸に反対するため参内し
天皇への直接面会を要求し
取り次いだ
議奏らを驚愕させた
↓↑
孝明天皇
熱心な攘夷主義者ではあったものの
急進派の横暴を快く思っておらず
攘夷の実施についても
幕府や諸藩が行うべきものと考えていた
天皇は
三条らを排除するため
島津久光らに期待
薩英戦争 薩英戦争
↓↑ (文久三年旧暦七月二日~四日
1863年8月15日~17日)
文久二年旧暦八月二十一日(1862年9月14日)
武蔵国橘樹郡生麦村で発生した
生麦事件の解決と補償を
英国艦隊を背景に迫り
攘夷実行の名目のもと
兵制の近代化の実力で阻止しようとする
薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突
↓↑ ↓↑
生麦事件
文久二年八月二十一日(1862年9月14日)
武蔵国
橘樹郡
生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で
薩摩藩主
島津茂久(忠義)の父
島津久光の行列に乱入した
騎馬のイギリス人たちを
供回りの藩士たちが
殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件
この事件の処理は政治問題となり
薩英戦争(文久三年七月)が起こった
↓↑
を背景に
久光の上京は難航
↓↑
大和行幸の詔
八月十三日に発せられ
前後して
会津藩
と
薩摩藩を中心とした公武合体派は
中川宮朝彦親王を擁して
朝廷における
尊攘派を一掃する計画を画策
八月十五日
松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと
高崎正風(薩摩)
秋月悌次郎(会津)が
中川宮を訪れて計画を告げ
翌十六日に
中川宮が参内して天皇を説得
翌十七日に
天皇から
中川宮に密命が下った
↓↑
会津藩は兵1500名を動員
薩摩藩兵は150名
他に
藩主稲葉正邦が京都所司代であった淀藩
徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩
ら諸藩が政変に協力
↓↑
文久三年八月十八日午前一時頃
中川宮
松平容保
近衛忠熙(前関白)
二条斉敬(右大臣)
近衛忠房父子
らが参内
早朝4時頃
会津・薩摩・淀藩兵により
御所九門の警備配置が完了
在京の諸藩主にも参内を命じるとともに
三条ら尊攘急進派公家に
禁足と他人面会の禁止を命じ
国事参政、国事寄人の二職が廃止
八時過ぎから兵を率いた諸藩主が参内
諸藩兵がさらに九門を固めた
↓↑
朝議によって
大和行幸の延期
尊攘派公家
長州藩主
毛利敬親・定広父子の処罰等を決議
長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ
京都を追われる
十九日
長州藩兵千余人は失脚した
三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧
壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉
の公家7人とともに
妙法院から長州へと下った(七卿落ち)
↓↑
変後、孝明天皇は
「去十八日以後申出儀者真実之朕存意」
としてこれまでの勅命を自ら否定
↓↑
政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮
十月
島津久光が大兵を率いて入京
松平慶永・山内豊信ら
公武合体派大名がこれに続き
翌文久四年一月にかけ
久光・慶永・豊信・松平容保
一橋慶喜・伊達宗城
による参預会議が成立
朝廷内で
鷹司輔煕が関白を罷免
親幕的な
二条斉敬がこれに代わった
長州藩は
同年6月の
池田屋事件をきっかけに
京都へ出兵
禁門の変(7月)で
会津・薩摩らと戦火を交えた
ーー↓↑ーー
豹変
「易経」の
「君子豹変す、
小人は面を革(あらた)む」
豹の斑文がくっきりしているように
君子ははっきりと過ちを改める
人の態度や性行ががらりと変わること
よいほうへ変わるの意
「易経革卦」
「豹の毛が季節によって抜けかわり
斑紋も美しくなること」
から性質・主張などが急激に変化すること
それまでの性質や状態とは
大きな変化を見せる
大きく変化する
様変わりする
一変する
変わり果てる
激しく変わる
激変する
激動の
大きく様変わる
激しく変動する
変貌を遂げる
劇的に変化する
打って変わる
がらりと変わる
それまでの言動と逆のことを急に行うこと・・・言行不一致
手の平(ひら)を翻す
ーーーーー
・・・???・・・
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