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コジキジゲン

君子豹変=クンシヒョウヘン=訓詞剽変

2018-05-11 20:28:40 | 古事記字源

 ・・・「君子豹変=クンシヒョウヘン=訓詞剽変」・・・?・・・「姉小路公知の豹変」・・・ナンで、「アネの公示の狡知」?・・・「巧遅は拙速に如(し)かず」・・・
 コウチ=狡智・巧知・巧緻
     高知・高地・高置・高値・・・高麗・高句麗からの帰化
     芸西・・・高知県安芸郡芸西村・本地域を構成する主な
          岩石群は、枕状溶岩・赤色チャート・多色凝灰岩
          剪断された泥岩からなり、これらの岩石群が
          ブロック状に入り混じって複雑な構造を呈し
          メランジュ(混在岩)帯と呼ばれている
          芸西(小惑星)=芸西(2571 Geisei)は
                 1981年10月23日
                 関勉が
                 高知県芸西村で発見した小惑星
     拘置
     河内・川内・荒地・鴻池
     耕地・好地・交地
     甲地・・・・・・・・・・・・甲府・甲斐・山梨
                      カイ=蝦夷
     幸地
     古内
     後置・構築・・・?
 ・・・高知県=土佐・・・
ーーーー↓↑ー
    土佐藩
 戦国時代末期は
 長宗我部氏・・・長曽我部・ 長曾我部とも
 ↓↑      本姓は秦氏
         家紋は「七つ酢漿草(かたばみ・片喰・鳩酢草)」
         長宗我部盛親は
         慶長十九年(1614年)~同慶長二十年(1615年)の
        「大坂の陣」で豊臣方に与し、豊臣方が敗れ
         盛親、盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた
         長宗我部国親の四男・親房が
        「島(島親益)」氏を名乗り、その子孫である
        「島親典」が土佐藩に下級藩士として仕えた
         再び長宗我部を名乗ったのは明治維新後・・・?
         ・・・「島大臣」は「蘇我蝦夷」だが・・・
         元親の三女で佐竹親直に嫁いだ
 ↓↑     「阿古姫」は大坂の陣で
         伊達政宗に捕えられ助命され二人の息子と共に
         仙台藩に仕えた・・・
         阿古姫は伊達家の侍女として中将と称し
         教養豊かで弁が立ったため政宗ので近侍を務めた
         息子二人も小姓とし
         二男の輪丸(賀江忠次郎)は
         のちに重臣
         四保柴田氏を継いで・・・四保?
         柴田朝意と名乗った・・・朝意?
         朝意は
         奉行職(家老に相当)を務めた
         寛文十一年(1671年)・・・寛文十一年
                    カンブン拾壹(壱)撚?
         伊達騒動の際に
         (寛文事件とも)
         酒井忠清邸で
        「原田宗輔(原田甲斐)・・・甲斐?
         元和五年・1619年
           ~
         寛文十一年三月二十七日
         1671年5月6日)」
         は
         江戸の
         酒井雅楽頭邸で
         行われた評定の席で
         上訴の主である
         伊達安芸(伊達宗重)・・・安芸?
         を斬り殺し
         柴田朝意・・・・・・・・・朝意?
 ↓↑      と斬り合って死亡」・・・・?
 が統治
 長宗我部盛親が
 慶長五年(1600年)
 「関ヶ原の戦い」
 でにおいて西軍に与して改易
 徳川に与した
 遠江掛川城主
 山内一豊が
 土佐国20万2600石を与えられ
 明治時代初頭まで
 山内氏が治めた
 ↓↑
 「一領具足(戦国時代,土佐国(高知県)
       長宗我部氏によって行われた農兵制度
       のちには土佐藩郷士の別名
       兵農未分離の地侍)」
  と呼ばれた長宗我部氏旧臣が、山内氏に馴染まず
  反乱を繰り返したため
  山内氏は
  藩内の要衝に
  重臣を配して反乱に備えた
  中村の山内康豊(2万石)
  佐川に深尾重良(1万石)
  宿毛に山内可氏(7000石)
  窪川に山内一吉(5000石)
  本山に山内一照(1300石)
  安芸に五藤為重(1100石)
  を配し
  藩政の中枢を
  山内家家臣(上士)で独占し
  長宗我部氏旧臣(郷士)との
  二重構造を幕末まで続けた
 ↓↑
 一豊は
 長宗我部氏(浦戸藩)の旧城である
 浦戸城に入城
 城下町には狭かく
 高知城と城下町の建設
 藩政が確立した
 二代・山内忠義の時代
 野中兼山を登用し
 新田開発、殖産興業に努めたが
 兼山は政敵の恨みを買って失脚
 ↓↑
 宝暦期(1751年~1764年)以降
 一揆、農民の他領への逃散
 九代・山内豊雍
 による質素倹約、藩政改革(天明の改革)
 十三代・山内豊熈は
 「おこぜ組」と呼ばれる
 馬淵嘉平
 の改革派を起用、藩政改革
 失敗した
 十五代豊信(容堂)が
 吉田東洋を起用し改革断行
 東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い
 武市瑞山の
 土佐勤王党によって暗殺
 後
 勤王党は
 容堂(豊信)の報復を受け
 瑞山の切腹や党員の処刑、弾圧解散
 東洋の門下より
 後藤象二郎
 板垣退助
 岩崎弥太郎
 らを
 郷士の
 坂本龍馬
 中岡慎太郎
 などが輩出
 坂本
 後藤を通じ
 容堂から
 十五代将軍・徳川慶喜へ献策され
 大政奉還
 (慶応三年十月十四日(1867年11月9 日)
 江戸幕府第十五代将軍
 徳川慶喜
 が政権返上を
 明治天皇に奏上
 翌十五日に天皇が奏上を勅許)
ーー↓↑ーー
 ヒョウヘン=豹変・氷片・平辺・病変・別府弁
       平編銅線(平編線・平編組線・TBC)⇔評編同撰?
    ↓↑
  朔 平 門 外 の変・・・・サク 平 文外の変?
 (さくへいもんがいのへん)
 文久三年五月二十日
 (1863年7月5日)
 尊王攘夷を唱える過激派公家
 姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が
 禁裏朔平門外の
 猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺
 猿ヶ辻の変
 ↓↑
 姉小路 公知(あねがこうじ きんとも)
 天保十年十二月五日(1840年1月9日)
 ~
 文久三年五月二十日(1863年7月5日)
 ↓↑
  姉小路公知の
  養子に
  姉小路公義
 (万里小路博房 男、次代)
 (までのこうじ ひろふさ
  文政七年六月二十五日(1824年7月21日)
  ~
  明治十七年(1884年)二月二十二日)
  江戸時代後期の公卿
  万里小路正房の子
  明治元年(1868年)
  従三位・権中納言に叙任
  後は
  京都裁判所総督
  宮内大輔
  皇太后宮大夫
  などを務め
  明治十七年(1884年)
  六十一歳で死去
  博房の死去から約5か月後の7月7日
  子の通房に伯爵が叙爵された
  妻は
  森長義の娘・貞子
  子に
  万里小路通房など
 ↓↑
 事件二日後の二十二日
 薩摩藩邸に潜伏していた
 土佐浪士の
 那須信吾が姉小路邸を訪れ
 遺棄された刀が
 薩摩藩士
 田中新兵衛のものであると証言
 これを受けて姉小路家は
 京都守護職・町奉行に対し
 田中を犯人として告訴
 二十六日
 武家伝奏
 坊城俊克
 三条実美
 の依頼により
 京都守護職の会津藩は
 東洞院蛸薬師の田中の寓居を急襲
 田中新兵衛
 仁礼源之丞
 下僕の太郎を逮捕
 坊城邸へ連行
 しかし会津藩は京都守護職の職掌上
 容疑者の逮捕までは行ったが
 薩摩藩との関係悪化を恐れ
 拘留・取調は拒否・・・
 ↓↑
 文久三年八月十八日
 1863年9月30日
 八月十八日の政変
 会津藩・薩摩藩
 を中心とした
 公武合体派が
 長州藩を主とする
 尊皇攘夷派と急進派公卿を
 京都から追放した事件
 文久の政変
 堺町門の変とも
 ↓↑
 文久三年(1863年)朝廷内において
 三条実美
 姉小路公知
 ら急進派が朝議を左右
 二月に
 国事参政と
 国事寄人の
 二職が設けられ
 急進派が登用され実権を握った
 学習院では
 草莽の者でも時事を建言できることとなり
 これに出仕する尊攘派の
 真木和泉(久留米藩士)
 久坂玄瑞(長州藩士)
 らが朝廷に影響力を持つ
 二月
 足利三代木像梟首事件
 三月から四月
 天皇の攘夷祈願のため
 賀茂・石清水行幸
 五月十日・・・5/10
 攘夷決行の日と
 参内した将軍
 徳川家茂に約束させた
 五月十日・・・5/10
 長州藩は
 下関海峡で
 アメリカ商船を砲撃し
 長州藩が欧米艦隊から報復攻撃
 将軍家茂も
 六月には京を離れ江戸に帰った
 長州藩の窮状を
 天皇による
攘夷親征の実行(大和行幸)が
 尊攘急進派によって企てられ
 天皇が大和国の
 神武天皇陵・春日大社に
 行幸して親征の軍議をなし
 次いで
 伊勢神宮に行幸するというものであった
 この行幸に関し
 真木らは討幕の実行まで視野に入れていた・・・
 ↓↑
 八月四日の朝議
 長州藩の攘夷砲撃に非協力的であった
 小倉藩の処分を幕府の頭越しに決定したが
 池田慶徳(鳥取藩主)らが強く反発
 池田らは
 大和行幸に反対するため参内し
 天皇への直接面会を要求し
 取り次いだ
 議奏らを驚愕させた
 ↓↑
 孝明天皇
 熱心な攘夷主義者ではあったものの
 急進派の横暴を快く思っておらず
 攘夷の実施についても
 幕府や諸藩が行うべきものと考えていた
 天皇は
 三条らを排除するため
 島津久光らに期待
 薩英戦争 薩英戦争
 ↓↑  (文久三年旧暦七月二日~四日
      1863年8月15日~17日)
      文久二年旧暦八月二十一日(1862年9月14日)
      武蔵国橘樹郡生麦村で発生した
      生麦事件の解決と補償を
      英国艦隊を背景に迫り
      攘夷実行の名目のもと
      兵制の近代化の実力で阻止しようとする
      薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突
 ↓↑   ↓↑
      生麦事件
      文久二年八月二十一日(1862年9月14日)
      武蔵国
      橘樹郡
      生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で
      薩摩藩主
      島津茂久(忠義)の父
      島津久光の行列に乱入した
      騎馬のイギリス人たちを
      供回りの藩士たちが
      殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件
      この事件の処理は政治問題となり
      薩英戦争(文久三年七月)が起こった
 ↓↑
 を背景に
 久光の上京は難航
 ↓↑
 大和行幸の詔
 八月十三日に発せられ
 前後して
 会津藩
 と
 薩摩藩を中心とした公武合体派は
 中川宮朝彦親王を擁して
 朝廷における
 尊攘派を一掃する計画を画策
 八月十五日
 松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと
 高崎正風(薩摩)
 秋月悌次郎(会津)が
 中川宮を訪れて計画を告げ
 翌十六日に
 中川宮が参内して天皇を説得
 翌十七日に
 天皇から
 中川宮に密命が下った
 ↓↑
 会津藩は兵1500名を動員
 薩摩藩兵は150名
 他に
 藩主稲葉正邦が京都所司代であった淀藩
 徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩
 ら諸藩が政変に協力
 ↓↑
 文久三年八月十八日午前一時頃
 中川宮
 松平容保
 近衛忠熙(前関白)
 二条斉敬(右大臣)
 近衛忠房父子
 らが参内
 早朝4時頃
 会津・薩摩・淀藩兵により
 御所九門の警備配置が完了
 在京の諸藩主にも参内を命じるとともに
 三条ら尊攘急進派公家に
 禁足と他人面会の禁止を命じ
 国事参政、国事寄人の二職が廃止
 八時過ぎから兵を率いた諸藩主が参内
 諸藩兵がさらに九門を固めた
 ↓↑
 朝議によって
 大和行幸の延期
 尊攘派公家
 長州藩主
 毛利敬親・定広父子の処罰等を決議
 長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ
 京都を追われる
 十九日
 長州藩兵千余人は失脚した
 三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧
 壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉
 の公家7人とともに
 妙法院から長州へと下った(七卿落ち)
 ↓↑
 変後、孝明天皇は
 「去十八日以後申出儀者真実之朕存意」
 としてこれまでの勅命を自ら否定
 ↓↑
 政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮
 十月
 島津久光が大兵を率いて入京
 松平慶永・山内豊信ら
 公武合体派大名がこれに続き
 翌文久四年一月にかけ
 久光・慶永・豊信・松平容保
 一橋慶喜・伊達宗城
 による参預会議が成立
 朝廷内で
 鷹司輔煕が関白を罷免
 親幕的な
 二条斉敬がこれに代わった
 長州藩は
 同年6月の
 池田屋事件をきっかけに
 京都へ出兵
 禁門の変(7月)で
 会津・薩摩らと戦火を交えた
ーー↓↑ーー
 豹変
 「易経」の
 「君子豹変す、
  小人は面を革(あらた)む」
 豹の斑文がくっきりしているように
 君子ははっきりと過ちを改める
 人の態度や性行ががらりと変わること
 よいほうへ変わるの意
 「易経革卦」
 「豹の毛が季節によって抜けかわり
  斑紋も美しくなること」
 から性質・主張などが急激に変化すること
 それまでの性質や状態とは
 大きな変化を見せる
 大きく変化する
 様変わりする
 一変する
 変わり果てる
 激しく変わる
 激変する
 激動の
 大きく様変わる
 激しく変動する
 変貌を遂げる
 劇的に変化する
 打って変わる
 がらりと変わる
 それまでの言動と逆のことを急に行うこと・・・言行不一致
 手の平(ひら)を翻す
ーーーーー
 ・・・???・・・

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