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コジキジゲン

未確認航行物体の1825年・・・1803年のデキゴト

2016-03-21 23:08:24 | 古事記字源

 ・・・1825年の「空飛ぶ円盤」のハナシだが・・・「兎園會(トエンカイ)1825年・文政八年」の時代の世界情勢はドウだったんだか?・・・「尾馬靡(オバマ)・Obama・奥巴馬(马)」」が1928年以来「88年ぶり」に「玖馬(キューバ)・玖瑪・久場」訪問で「嚇法拿(ハバナ・Havana)」に到着し、「人権問題」ですか・・・「社会主義体制の下で人権を巡る状況が改善されていない」として、「人権問題の改善を重視する姿勢」、キューバ東南部の「グァンタナモ米軍基地(Guantanamo Bay Naval Base)」でヤッタコトに口をツムんで、 どの面を提げて「人権問題」を云える立場にあるんだか・・・「革命(Revolución cubana)」以前のアメリカ資本の傀儡政権バティスタから奴隷解放(1969年)された「玖馬(キューバ)国民」、彼らが克ち取ってきた「人権」をドウするつもりなんだか・・・「虫歯」の原因である「甘いサトウ」をどうするつもりなんだか・・・ボクは「葉巻」は嫌いだけれど、「煙草」も「猪口令糖(チョコレート・貯古齢糖)」も大好きな「甘党」だけれど・・・問題は1825年の「空飛ぶ円盤」のハナシだった・・・それも、「Revolución」である・・・? 
 「レボリューション」の語源は「回転する」の意味を持つラテン語の「revolutio」で、ニコラウス・コペルニクスの科学革命で使用(ウイッキペデアより)・・・ 
ーーーーー
 易経
 『革卦』
 『湯武革命、順乎而應乎人』
 革命
 被支配階級が支配階級から
 国家権力を奪い取り、
 政治・経済などの
 社会構造を根本的に覆すこと
 物事が急激に発展・変革すること
 王朝が改まること
 革・・・かわ・あらためる・あらたまる・・・
     なめす=鞣す
        動物の生皮から不要なたんぱく質や
        脂肪を取り除き、薬品で処理して、
        耐久性・耐熱性・柔軟性をもたせる
        なめしがわ(鞣革)・レザー
       「韓・韜」などの
       「韋(なめし・そむく・イ)」の称意
        違反・違犯
 革・・・改革、革命、変革
     改めるという卦
     古いものを新しくする
     十分機会が熟してから行うことで、
     萬民の支持を受ける
ーーーーー
 1825年・・・「兎園會(トエンカイ)」開催
          文政八年
 干支は
 乙酉年
 日本(寛政暦)
 文政八年
 皇紀2485年
 中国
 清王朝は
 道光五年 
 朝鮮
 李氏朝鮮は
 純祖二十五年
ーーーーー
 出来ごと=できごと=出記語訳
 ↓↑
 デカブリストの乱(ロシアの青年将校の反乱)
 デカブリストの乱
(Decembrist revolt)
 1825年12月14日(グレゴリオ暦12月26日)
 ロシアの反乱事件
 デカブリスト
 武装蜂起の中心となった
 貴族の将校たちを指し、
 反乱が
 12月(ロシア語でデカーブリ、 Декабрь)
 に起こされたことから
 デカブリスト(十二月党員)の名で呼ばれた
 ロシア史上
 初のツァーリズム(皇帝専制)
 と
 農奴解放を要求した闘争
 ↓
 革命運動の起源は、
 アレクサンドル1世の治世
 17世紀末~18世紀初頭
 ロシアの貴族層は、
 ヨーロッパの啓蒙主義に影響を受けて
 自由主義的思潮に傾斜
 ↓↑
 1789年〜1799年
 フランス革命
 (Révolution française・French Revolution)
 ↓↑
 ナポレオン・ボナパルトの登場
 1805年
 アウステルリッツの戦い
 1806年
 フリートラントの戦い
 敗北以降、
 アレクサンドル1世は
 ナポレオンに対して協力者であった
 ↓↑
 自由主義の勃興、
 保守派の憤激
 ↓↑
 アレクサンドル1世は、
 ミハイル・スペランスキーを登用
 立憲制の導入を含む改革を試み
 スペランスキーは、
 内務省の組織化、
 聖職者教育の改革、
 政府による
 経済開発の体系化などの改革に関与
 1808年
 スペランスキーは
 国と地方に
 選挙制議会(ドゥーマ)の設置を中心とする
 立憲制導入を構想
 貴族・官僚層の反発を買い
 1812年
 ナポレオンとの戦争を前に
 アレクサンドル1世は、国内の統一で
 スペランスキーを顧問から解任追放
 ロシア戦役
 焦土作戦と
 冬将軍の到来によって
 ロシア軍が勝利
 以後、
 ライプツィヒの戦い、
 ワーテルローの戦いで
 ナポレオン失脚
 ロシア軍はパリまで進軍した
 ナポレオン戦争に従軍した
 貴族出身の青年将校たちは、
 滞在中、議会の
 討論会、自由主義的な大学の講義を聴講、
 政治的意見掲載の新聞を購読
 ヨーロッパ諸国の政治・社会制度に触れ、
 ロシアの後進を比較
 戦争に従軍している
 農民出身の多くの兵士に直接接し、
 彼らの境遇の劣悪さを感じ、
 国家社会の改革を意識
 自由主義的政治思想
 人権思想
 代議制
 立憲制
 などの影響を受けて帰国、
 ロシアの専制政治・官僚政治の
 改革を標榜した
 ↓↑
 秘密結社
 1816年
 サンクトペテルブルクで
 アレクサンドル・N・ムラヴィヨフ、
 イワン・D・ヤクーシキン
 ら
 6人の青年将校によって
 最初の秘密結社
 「救済同盟
 (Союз спасения)」
 後に
 「祖国の真正・忠誠な息子たちの会
 (Общество истинных
  и верных сынов Отечестваに改称)」
 が結成
 1818年
 「福祉同盟
 (Союз благоденствия)」
 が結成
 約200名が参加
 福祉同盟は、農奴解放、専制政治の廃止で一致したが
 立憲君主制と共和制を主張するものとに分かれていた
 武装蜂起の採用や蜂起の方法を巡っても相違
 1821年
 福祉同盟は意見相違と、
 当局のスパイを恐れ解散
 (当局の命令による解散説と、自主的な解散説あり)
 ウクライナ
 激派の
 パーヴェル・ペステリ大佐を中心に
 トゥリチンに本拠地を置く
 「福祉同盟」の南方支部が
 「南方結社(Южное общество)」が組織
 南方結社は、共和制に基づく憲法草案
 「ルースカヤ・プラウダ
 (Русская правда)」
 を起草
 専制政治の打破と
 一時的な独裁体制による
 共和国の樹立、農奴制の廃止と、
 国有地の土地改革、
 地方自治とユダヤ人以外の
 ロシア帝国に隷属する諸民族の独立を主張
 ペテルブルク
 穏健派の
 ニキータ・ムラヴィヨフ
 N.I.ツルゲーネフ
 によって
 「北方結社
(Северное общество)」
 が設立
 ムラヴィヨフは、
 スペイン1812年憲法
 アメリカ合衆国憲法に範を取り、
 立憲君主制・連邦制を基調とする
 憲法草案を起草
 教育・慈善事業、経済・司法改革
 などの課題について
 皇帝及び政府を助け、
 穏健な形でロシアに
 立憲制を導入することを目論んでいた
 ↓↑
 1815年
 皇帝アレクサンドル1世は、
 ポーランドに対して憲法を与え
 ポーランド立憲王国が成立
 議会の開院式に出席した
 アレクサンドルは、勅語の中で
 ロシア国内での憲法施行を準備していると言及
 これに期待
 (ポーランドに憲法を施行し、
  ロシアに未施行であることに反発も)
 アレクサンドルは、
 ウィーン体制に同調
 改革を捨て、反動
 秘密結社は、
 アレクサンドルの変節に
 穏健派である北方結社にも
 詩人の
 コンドラチイ・ルイレーエフ
 アレクサンドル・ベストゥージェフ
 ら共和制を志向する一派が加入することで
 急進化(北方秘密結社)
 ピョートル・カホフスキー、
 A.I.ヤクボーヴィチ
 が皇帝暗殺を計画
 1825年
 皇帝アレクサンドル1世が
 タガンログで崩御
 アレクサンドルには嗣子が無く、
 次弟の
 コンスタンチン大公が
 帝位継承であったが
 ポーランドの貴婦人
 ヨアンナ・グルジンスカ
 と秘密裏に貴賤結婚したため、
 帝位継承権を放棄
 アレクサンドル1世
 も生前、このことを認め、
 帝位は
 次の弟の
 ニコライ大公(ニコライ1世)
 に委譲決定
 だが、
 ニコライ大公が帝位継承者であることを知る者は
 アレクサンドル1世を始めごく少数で、
 肝心の
 ニコライ大公自身にも知らされてはいなかった。
 ↓↑
 帝位継承をめぐって
 コンスタンチン
 と
 ニコライ
 の間で相互に帝位を譲り合い、
 一時的に空位期間
 結社のメンバーは、
 ツァーリ政府に
 自分たちの情報が
 当局のスパイによって
 漏れているとの情報もあり、
 不十分な準備のまま
 クーデターを敢行
 1825年12月14日
 元老院広場において、
 新帝への宣誓式が挙行
 デカブリストは、3000人の兵士を率いて
 ペテルブルクの元老院広場で蜂起
 デカブリストは、
 コンスタンチンに忠誠を宣誓
 ニコライへの宣誓を拒否
 ニコライが登極した場合には、
 ニコライに迫って
 自由主義的な大臣を
 任命するように仕向ける予定であった
 デカブリスト
 はあらかじめ
 セルゲイ・トルベツコイ
 (Sergei Petrovich Troubetzkoy)
 を臨時指揮官に選んでいたが、
 当日、総指揮を執るはずの
 トルベツコイは姿を見せなかった。
 兵士たちは12月、厳寒の中、
 元老院広場に向かって行進を開始
 兵士達は上官の命に従い行軍し
 元老院広場に集結
 行軍中、兵士達は口々に
 「コンスタンチンと憲法
 (konstitiumir、Конституция)」
 とスローガンを叫んでいたが、
 憲法を
 「コンスタンチン大公妃」
 のことと誤解
 カホフスキーは
 レバシェフ将軍宛の手紙で
 創作であると示唆
 翌
 12月15日
 新帝ニコライ1世は
 自ら政府軍を率いて反乱の鎮圧
 ニコライは、
 流血の悲劇を避け
 デカブリストを投降させようとした
 勅使として兵卒の
 ミハイル・ミロラドヴィチ伯爵を派遣
 デカブリストの説得に当たらせたが、
 ミロラドヴィチ伯が狙撃され落命、
 政府軍の投入を支持した。
 デカブリストの反乱
 は一日で鎮圧
 ↓↑
 南方結社
 12月13日
 ペステリ大佐をはじめ指導者が次々と逮捕
 南部結社のメンバーが
 ペテルブルクでの
 武装蜂起の情報を得たのは乱後、
 2週間経ってからであった
 南部結社には、
 ロシア・ナショナリズム、
 スラブ民族の連邦国家創設を目指す
 「統一スラブ派」が参加
 ペステリ逮捕後は
 統一スラブ派が中心になって活動
 統一スラブ派は牢獄を襲撃し
 逮捕された指導者たちの何人かを解放
 そのうちの1人、
 セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストルは、
 12月29日
 チェルニゴフ連隊が武装蜂起したが、
 葡萄弾(散弾の一種)で武装した政府軍によって
 1826年1月3日鎮圧
 事件後、
 軍事法廷で関係者579名が裁判を受け
 首謀者とされた、
 ペステリ、カホフスキー、ルイレーエフ、
 ムラヴィヨフ=アポストル、
 ミハイル・ベストゥージェフ=リューミン
 の5人は絞首刑を宣告
 その他のデカブリストは、
 シベリア、極東、カザフなどに流刑を宣告
 これら流刑となった夫の後を追い、
 11人の妻が貴族身分を放棄して
 シベリアへ向かった
 デカブリストの指導者と交際があった
 アレクサンドル・プーシキン、
 アレクサンドル・グリボエードフ、
 アレクセイ・エルモーロフ
 (Aleksey Petrovich Yermolov)
 らは当局の監視を受けた
 ↓↑
 デカブリストの乱以降
 ヨーロッパでは、
 ギリシャ独立戦争、
 1830年
 フランス7月革命と連鎖
ーーーーー
 1825年
 ↓↑
 ボリビアがスペインから独立する。
 文政の異国船打払令。
 ブラジル独立を承認
 アルゼンチン・ブラジル戦争が起きる(-1828年)
 ジャワ戦争(ディポネゴロの乱)起こる(-1830年)
 ↓↑
 誕生
 1月16日カール・アブラハム・ピル、
     鉄道技術者(+ 1897年)
 1月18日エドワード・フランクランド、
     化学者(+ 1899年)
 2月8日ヘンリー・ウォルター・ベイツ、
     博物学者・昆虫学者・探検家(+ 1892年)
 4月11日フェルディナント・ラッサール、
     政治学者・社会主義者(+ 1864年)
 ↓↑
 4月23日(文政8年3月6日)
     松島剛蔵、
     甲子殉難十一烈士のひとり長州藩士(+ 1865年)
 ↓↑
 5月4日トマス・ヘンリー・ハクスリー、
     生物学者(+ 1895年)
 5月20日ジョージ・フィリップス・ボンド、
     天文学者(+ 1865年)
 6月7日ギュスターヴ・エミール・ボアソナード、
     法学者(+ 1910年)
 ↓↑
 6月12日(文政8年4月26日)
  郷純造、大蔵官僚・貴族院議員(+ 1910年)
 7月11日(文政8年5月26日)
  頼三樹三郎、儒学者(+ 1859年)
 8月16日(文政8年7月3日)
  松平武成、
     第3代浜田藩主(+ 1847年)
 ↓↑
 9月6日ジョヴァンニ・ファットーリ、画家・版画家(+ 1908年)
 ↓↑
 9月9日(文政8年7月27日)
  佐竹義堯、
     第12代秋田藩主(+ 1884年)
 ↓↑
 9月11日エドゥアルト・ハンスリック、
     クラシック音楽評論家(+ 1904年)
 9月12日カール・ドップラー、
    指揮者・作曲家・フルート奏者(+ 1900年)
 ↓↑
 9月19日(文政8年8月7日)
  松平忠恕、第4代小幡藩主(+ 1902年)
 ↓↑
 10月2日マーシャル・ジュウェル
  第29代および第31代オハイオ州知事
  第28代アメリカ合衆国郵政長官(+ 1883年)
 ↓↑
 10月9日(文政8年8月27日)
  松前昌広、
  蝦夷地松前藩第11代藩主(+1853年)
 10月17日(文政8年9月6日)
  伊達慶邦、
  第13代仙台藩主(+ 1874年)
 ↓↑
 10月25日ヨハン・シュトラウス2世、作曲家(+ 1899年)
 ↓↑
 10月25日(文政8年9月14日)
竹崎順子、教育家
 10月26日(文政8年9月15日)
  岩倉具視、
  明治維新の元勲(+ 1883年)
 ↓↑
 11月30日ウィリアム・アドルフ・ブグロー、画家(+ 1905年)
 12月2日ペドロ2世、ブラジル第二代皇帝(+1891年)
 ↓↑
 12月12日(文政8年11月3日)
  江馬天江、
      私塾立命館塾長・書家・漢詩人・医師(+ 1901年)
 12月26日(文政8年11月17日)
  渡会喬久、
      芝村藩家老(+ 1896年)
 ↓↑
 死去
 1月4日フェルディナンド1世、
     両シチリア王(* 1751年)
 1月8日イーライ・ホイットニー、
    発明家(* 1765年)
 ↓↑
 2月24日(文政8年1月7日)
  歌川豊国、
     浮世絵師(* 1769年)
ーーーーー
 1825年
 ↓↑
 異国船打払令
  ↓↑
 芸藩通志(げいはんつうし)
 頼杏坪、加藤株鷹、頼舜、黒川方桝
 津村聖山、吉田吉甫、正岡元翼によって著作
 編纂された安芸国広島藩の地誌で、
 文政8年(1825年)に完成
 ↓↑
 1663年
 広島藩の作成した地誌
 「芸備国郡志」を改訂し、
 内容を増補するために、
 1818年から再調査や資料の
 整理等の調査事業を開始して、
 最終的に
 1825年に完成
 全159巻。江戸時代以前の
 安芸国と備後半国(浅野氏の領国)
 の地理や文化、歴史を知る一級の資料
 主たる著者の
 頼杏坪は
 頼山陽の叔父
 ↓↑
 3月10日カール・モルワイデ、モルワイデ図法発案者(* 1774年)
 ↓↑
 4月9日(文政8年2月21日)
  雷電爲右エ門、江戸時代の大関(* 1767年)
 ↓↑
 4月16日ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、画家(* 1741年)
 5月7日アントニオ・サリエリ、
  作曲家(* 1750年)
 6月11日ダニエル・トンプキンズ、
  アメリカ合衆国副大統領(* 1774年)
 6月14日ピエール・シャルル・ランファン、
  建築家・都市計画家(* 1754年)
 ↓↑
 8月10日(文政8年6月26日)
  只野真葛、国学者・文筆家(* 1763年)
 ↓↑
 10月13日マクシミリアン1世、
  バイエルン王(* 1756年)
 11月14日ジャン・パウル、小説家(* 1763年)
 12月1日アレクサンドル1世、ロシア皇帝(* 1777年)
 12月29日ジャック=ルイ・ダヴィッド、画家(* 1748年)
ーーーーー
 ↓↑
年   (年号)
史実
1806年(文化3年) 芝の大火
1808年(文化5年) フェートン号事件
 ↓↑
1825年(文政8年) 異国船打払令
 ↓↑
1828年(文政11年)シーボルト事件
1829年(文政12年)江戸大火
1830年(天保元年)伊勢御蔭参り大流行
1837年(天保8年) 大塩平八郎の乱
1839年(天保10年)蛮社の獄
ーーーーー
 1825年
 文政八年
 ↓↑       ↓↑
 人物名     生年〜没年
当時の年齢
笠森 お仙 1751年〜1827年(宝暦元年〜文政10年)74才
鶴屋 南北 1755年〜1829年(宝暦5年〜文政12年)70才
大槻 玄沢 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年)68才
松平 定信 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年)67才
葛飾 北斎 1760年〜1849年(宝暦10年〜嘉永2年)65才
酒井 抱一 1761年〜1828年(宝暦11年〜文政11年)64才
十返舎 一九 1765年〜1839年(明和2年〜天保10年)60才
滝沢 馬琴 1767年〜1848年(明和4年〜嘉永元年)58才
雷電 為衛門 1767年〜1825年(明和4年〜文政8年)58才
佐藤 信淵 1769年〜1850年(明和6年〜嘉永3年)56才
近藤 重蔵 1771年〜1829年(明和8年〜文政12年)54才
徳川 家斉 1773年〜1841年(安永2年〜天保12年)52才
間宮 林蔵 1775年〜1844年(安永4年〜弘化元年)50才
柳亭 種彦 1783年〜1842年(天明3年〜天保13年)42才
為永 春水 1790年〜1843年(寛政2年〜天保14年)35才
徳川 家慶 1793年〜1853年(寛政5年〜嘉永6年)32才
遠山 金四郎 1793年〜1855年(寛政5年〜安政2年)32才
渡辺 崋山 1793年〜1841年(寛政5年〜天保12年)32才
水野 忠邦 1794年〜1851年(寛政6年〜嘉永4年)31才
千葉 周作 1794年〜1855年(寛政6年〜安政2年)31才
 ↓↑
Siebold Philipp Von
        1796年〜1866年(寛政8年〜慶応2年)29才
 ↓↑
歌川 広重 1797年〜1858年(寛政9年〜安政5年)28才
高島 秋帆 1798年〜1866年(寛政10年〜慶応2年)27才
男谷 精一郎 1798年〜1864年(寛政10年〜元治元年)27才
Harris Townsend 1804年〜1878年(文化元年〜明治11年)21才
緒方 洪庵 1810年〜1863年(文化7年〜文久3年)15才
井伊 直弼 1815年〜1860年(文化12年〜万延元年)10才
Hepburn J. 1815年〜1911年(文化12年〜明治44年)10才
河竹 黙阿弥 1816年〜1893年(文化13年〜明治26年)9才
安藤 信正 1819年〜1871年(文政2年〜明治4年)6才
阿部 正弘 1819年〜1857年(文政2年〜安政4年)6才
勝 海舟 1823年〜1899年(文政6年〜明治32年)2才
Boissonade G. E.1825年〜1910年(文政8年〜明治43年)0才
鼠小僧次郎吉 ????年〜1832年(??年〜天保3年)?才
 ↓↑
1798年(寛政10年)本居宣長、『古事記伝』を完成させる。
1800年(寛政12年)伊能忠敬、蝦夷地を測量する。
 ↓↑
1804年(文化元年)ロシア使節ニコライ・レザノフ、
         長崎に来航し通商を要求。
1807年(文化4年)箱館奉行を廃止し、松前奉行を置く。
1808年(文化5年)江戸湾(東京湾)沿岸の砲台修築を起工
         間宮林蔵が樺太を探検し
         間宮海峡(タタール海峡)を発見
         イギリスの軍艦フェートン号が
         長崎に来航して補給を強要、
         長崎奉行・松平康英が引責して自殺
         (フェートン号事件)
1811年(文化8年)ロシアの軍艦艦長
         ヴァーシリー・ゴローニン、
         国後島で捕らえられる
        (ゴローニン事件)
1825年(文政8年)異国船打払令
        (外国船打払令、異国船無二念打払令)
1828年(文政11年)オランダ商館付のドイツ人医師
         シーボルトに諜報の嫌疑がかけられ、
         連座した天文方
         高橋景保ら処罰される
         (シーボルト事件)
1833年(天保4年)~1839年(天保10年)
          天保の大飢饉
1834年(天保5年)水野忠邦、老中となる
1835年(天保6年)竹島事件
1837年(天保8年)大塩平八郎の乱
         生田万の乱
         アメリカ船モリソン号、
         漂民を伴い相模国浦賀に入港するも、
         打払令により撃退
         (モリソン号事件)
1839年(天保10年)蛮社の獄
         天保の改革
1842年(天保13年)天保薪水給与令
1844年(弘化元年)オランダ国王ヴィレム2世、
         親書を送り開国を勧告
1846年(弘化3年)アメリカ使節ジェームズ・ビッドル、
         相模国浦賀に来航し通商を要求
 ↓↑
1853年(嘉永6年)黒船来航
         マシュー・ペリー艦隊
         プチャーチン艦隊来航
1854年(嘉永7年/安政元年)日米和親条約
             安政東海地震、
             安政南海地震
             11月改元
1855年(安政2年)安政江戸地震
        (安政の大地震)
         日露和親条約調印。
1856年(安政3年)タウンゼント・ハリスが下田に着任
1857年(安政4)
1858年(安政5年)日米修好通商条約調印
1859年(安政6年)安政の大獄
1860年(安政7年/万延元年)桜田門外の変
             3月、改元
1861年(万延2年/文久元年)2月、改元
             ロシア軍艦対馬占領事件
1862年(文久2年)坂下門外の変
         寺田屋事件
         生麦事件
1863年(文久3年)薩英戦争
         八月十八日の政変
         生野の変
1864年(文久4年/元治元年)2月、改元
             水戸天狗党の乱
             池田屋事件
             禁門の変
             四国連合艦隊下関砲撃事件
             長州征討(長州征伐)
1864年(元治元年)第一次長州征討
1865年(元治2年/慶応元年)4月、改元
1865年(慶応元年)第二次長州征討
1866年(慶応2年)薩長同盟
1867年(慶応3年)大政奉還・王政復古
1868年(慶応4年/明治元年)9月、改元(1月1日に遡って適用)
1868年(慶応4年)戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い、
         上野戦争、北越戦争、
         会津戦争、箱館戦争
ーーーーー
 ・・・1825年・・・未確認航行(後項・公行)物体・・・「うつろフネとバンジョ」・・・

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