切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 京都市長選挙・理性的な反撃 》

2020-01-31 23:08:00 | 社会

 先日ブログで紹介した京都市長選挙における選挙戦の中で、現職の自民公明が中心となっている「未来の京都をつくる会」が、京都新聞に全面広告を打った件について、昨日30日に共産党とれいわ新選組が中心となった、いわば野党側の候補の支持団体である「つなぐ京都2020」が同じ京都新聞に、やはり全面広告を掲載した。

 同じように京都市街地をバックにした薄い写真に、スローガン的な文章が添えられている。そこには「大切な京都だからすべての市民の声を聴く市長にYES」とあった。
 その下には「これが私たちの思いです」として、この京都をどのようにしていきたいかと言う政策的な内容が短く記載され、そしてさらにその下に、推薦者の顔写真と名前が掲載されている。支持母体の共産党の委員長と、れいわ新選組代表の顔写真もあったが、後は大学の教授やジャーナリスト、狂言師、法然院貫主など、一般的にはあまりなじみのないような人たちが多い。
 そして何よりも大切な事は、相手の陣営を貶めるような、あるいは差別するような、排他的な表現は一切ないと言うことだ。純粋に候補者の政策や思いを前面に出して、市民全体に訴えかけている。この点が現職市長である門川氏との決定的な差だ。
 挑戦するのは福山氏であり、職業は弁護士。やはり相手陣営の愚劣で差別的な排他的な、それこそ「独善的な」言い方ではなく、極めて冷静で理性的な新聞広告であったと言える。





 それは国会の場においても、共産党はいまひとつ伸びていないが、山本太郎氏のれいわ新選組が初の国政選挙でもあるにもかかわらず、多くの当選者を出し、一躍旋風を撒き起こしていることも関連しているだろう。そして国会審議の場でも、共産党とともに理性的で論理的な追求を続けている。
 それに対して与党陣営の薄汚さは、例えば先日の審議の場で夫婦別姓の問題について、「だったら結婚しなくていい」といった人権無視の、それこそ排他的なヤジが飛ばされたところにも、国会議員としての劣化が顕著だ。おそらく水田水脈氏だと言われているが、これすら知らぬ顔で、自民公明は何も明かそうとしない。最近は何でもかんでも知らぬ存ぜぬ、隠す、嘘つく、改ざんする、などと言うことが当たり前になってしまって、日本のトップである国会の場でさえ、民主主義の根幹である人権を貶めるようなことが、平然と行われているこの実態。正しく地方選である今回の京都市長選挙においても、そのまま与党側と野党側の姿勢の違い、人権感覚の違いが端的に表れていると言える。
 どちらが勝利しても、当選側のための政治をするのではなく、落選側も含めた全員のための政治をするのが憲法が保障している民主主義の原則なのだ、安倍総理自らが政治の私物化をしているマネなのか、現職の京都市長である門川氏が自分たちに有利な政治をしていると言うことがいろんな場面で聞かれる。このような不公平で理不尽で人権無視の政治は、それこそ市民の力で辞めさせ、全市民にとって公正な政治がなされることが、大いに求められると言うことなのだ。
 とは言うものの、自民公明の奴らの利益誘導の一方的な政治にはうんざりするし、奴らは今後もそういったことを続けるだろう。日本の政治は国も地方もぐちゃぐちゃだ。ほんとに恥ずかしい。

 ところで今回、両陣営とも新聞全面広告と言う形をとったが、かなりの費用がかかっていると思う。こういう方法と言うのは一体どうなんだろうか。
 選挙戦におけるアピールの仕方の問題。昔はいわゆるビラまき合戦というのがあって、これが各地域で市民達による大きな批判の的になっていた。そのこともあってかどうか、ビラについては法定ビラと言う形で大きく制限され、今やSNSを使った選挙戦が盛んになっているようだ。こうなってくるとこれはこれで別の意味で、金のある陣営が有利となる事は間違いない。
 小選挙区制だと言うことが国政では大きな問題だが、地方の選挙においても、選挙戦のあり方そのもの、あるいは候補者が一同に会して意見を戦わせる、といった場面なんかも必要では無いのか。かつてあった候補者の政策演説会と言うのも今は規制されて行われていない。
 これらも自民党などの保守勢力による選挙の簡略化で、国民の、あるいは市民や町民達の選挙に対する関心を弱めていくための方策であったんだろう、と言わざるを得ない。何しろいわゆる先進国の中では、投票率はずば抜けて低いと言うこの事実が、日本と言う国のいい加減さを世界に晒すことになっているのだ。
コメント
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