境内の撮影をしたが特にこれといった特徴はなく、ごく普通の典型的なお寺というところ。浄土宗のお寺だが、色々調べても全く情報がなく、由緒等はわからずじまい。というわけで写真だけ掲載しておく。
島左近の墓
この隋念寺の門の向かい側に小さな扉があって空いていた。傍らに「島左近の墓」とあった。
どこかで聞いた名前。その扉から墓地をを眺めていると、中にいたおじいさんが手招きして、こちらへおいでという風に誘ってきた。そして手で方向を示してそちらの方に行きなさい、という合図を送ってくれた。要するに島左近の墓をお参りに来た人だと思ったようだ。逆に言えばこのお墓を求めて少なからず人がやって来るらしい。墓地の周りはコンクリートの壁で囲まれており、普段は外からは見えない。狭い入口から内部の様子を伺うだけだが出入りは自由だ。
手で示された方向に歩いて行くと、花が飾られた古い比較的大きな墓石が目に入った。墓石には「島左近」と彫られており、今でもはっきりと読める。先ほどのおじいさんがやってきて、色々話してくれた。謂わばこの墓地の墓守のような仕事をしているようだ。墓地そのものはすぐ近くの立本寺のものだ。立本寺は以前に撮影してブログにも確かアップしているはず。島左近の墓があるなどというのは全く知らなかった。
帰宅してから改めて島左近という人物について調べてみた。同時にこの島左近の墓というのが本物かどうかも含めて、いろんな情報を集めてみた。
島左近については、関ヶ原の戦いで勇猛果敢に戦い、自軍の先頭に立って敵を恐怖に陥れたほどの武将として知られている。
本名は島清興と言う。彼の出生については諸説あってよくわかっていないらしいが、有力なのは大和の国(奈良県)の平群という地である。元々島左近の先祖は、代々平群の地で暮らし、一部の者が奈良興福寺の僧にもなっているということから、島左近の出生が大和の国であろうということで概ね認められているようだ。
彼自身の生育過程については特に記録がなくよく分かっていない。しかし豊臣家の先行きを案ずる石田三成によって見出され、彼の今で言う参謀のような役職に就いたとされる。有名な言葉として「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」というもので、石田三成が相当な有力者を部下につけたと称えられた言葉だ。ちなみに佐和山の城というのは、現在の滋賀県彦根市にある山城で、関ヶ原の戦いで徳川軍に攻撃され最終的には落城となった城だ。
三成によって見出された左近は朝鮮出兵にも参加しており、その後天下統一のために江戸から大軍を送り込んできた徳川軍との激しい戦いが始まることになる。その中心が西暦で言う1600年の関ヶ原の戦いだ。
豊臣・三成の軍勢は各所の戦いにおいて敗走する場面が目立ち、次第に戦意が衰えていく。当時の軍勢は今で言う専門の軍人というわけではなく、大きな戦いの時には配下の農山村から集められた農民などが多く、専門家の武将というのはいわば少数にすぎない。従って普段から武器を持って戦うという訓練もさほど受けていないような軍勢でしかないわけだ。当然各地の戦いにおいて敗走すると、次第に意識は下がり恐怖の方が先に立つ。そんな時に島左近は先頭に立って、自分たちの軍勢を鼓舞して、自ら命をかけて強烈な戦いを見せつけた。その勢いに豊臣軍石田軍ともにその勇猛果敢さに励まされる形で、必死になって戦いを続ける。逆に徳川軍においては、まるで鬼の如く先陣を切って戦いを挑んでくる島左近に対して、恐怖を抱かせるほどの大きな存在であった。こうして島左近の名は敵味方と共に大いに知られるようになったということになる。
そしてこの戦いの中で、徳川軍の砲兵隊の一斉射撃による弾丸を受けて重傷を負う。後年関ヶ原の戦いを描いた絵図には、この場面が描かれており、銃弾を受けた島左近が家来たちに支えられて引き下がるところが描かれているという。
そしてこの後、島左近はこの地で命絶えた、というのがひとつの説として残された。ところがこれはあくまで一つの説であって、島左近はこの後、馬に乗って姿を消していった。その先どうなったかは分からないという説もあり、ここから島左近に関する伝説のようなものがあちこちで起こるようになった。
結果として島左近の墓というのは、ここ立本寺の墓地だけでなく、大阪や奈良なども含めて数箇所に存在する。一体どれが本当なのかよくわかっていないが、この立本寺の島左近の墓がかなり有力であると言う説の背後には、立本寺に残されている過去帳に島左近の名前と亡くなった日付が記されていることだ。それによると戦いの後、戦場を逃れ最終的に島左近は立本寺に入り、そこで生活し、僧となって30年余りを過ごし、この地で亡くなったという記録が残されている。そして立本寺の墓地にお墓が立てられた。
そのお墓の裏には「寛永九年六月二十六日没」と刻まれている。西暦で1632年のことだ。さらに立本寺には過去帳の記録だけではなく、島左近の位牌も存在していると言う。そういったことから、関ヶ原の戦いで亡くなったのではなく、命からがら逃れる事が出来て、その後は武将として活躍することなく豊臣家滅亡を知り、京都の立本寺の中でひっそりと暮して亡くなった、というあたりがおそらく史実なんだろうと思われている。
あくまでもここが有力であると言うことであって、他の島左近の墓を標榜しているところについては全て嘘なのかと言われると、その辺はわからない。おそらく歴史研究者たちの様々な角度からの分析によって、生まれ亡くなった地というものが、それぞれ大和の国、京都の立本寺が最有力だと見られると捉えておいた方がいいんだろうと思う。
墓石自体は確かにかなり古く、所々墓石の表面がはがれたりもしている。しかし亡くなった当時にこの墓石が立てられたとすれば約400年近く経っていることになる。それにしては彫られた文字がかなりくっきりと読める。というのもどうなんだろうかという疑問もある。本来ならもっと風化していても不思議ではないかなとも思える。いろんなお寺で江戸時代の墓石というのをたくさん見てきたが、大体が江戸時代中期から後半のものが多かった。確かに彫られた文字が割とよく残っていて読めるものもあれば、風化によって文字が崩れているようなものもあり様々だ。石の種類によってこの辺り違ってくるんだろうとは思う。まぁいずれにしろ、関ヶ原の合戦の中でこのような敵味方にも知られるほどの有名な武将がいたという、歴史的事実そのものはあったんだろうと考えるべきだろう。