切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

随念寺・島左近の墓 京都市上京区・・・歴史的著名人の墓

2020-02-29 22:31:31 | 撮影
 上京区にある隋念寺へ行く。
 境内の撮影をしたが特にこれといった特徴はなく、ごく普通の典型的なお寺というところ。浄土宗のお寺だが、色々調べても全く情報がなく、由緒等はわからずじまい。というわけで写真だけ掲載しておく。
   


島左近の墓

 この隋念寺の門の向かい側に小さな扉があって空いていた。傍らに「島左近の墓」とあった。
 どこかで聞いた名前。その扉から墓地をを眺めていると、中にいたおじいさんが手招きして、こちらへおいでという風に誘ってきた。そして手で方向を示してそちらの方に行きなさい、という合図を送ってくれた。要するに島左近の墓をお参りに来た人だと思ったようだ。逆に言えばこのお墓を求めて少なからず人がやって来るらしい。墓地の周りはコンクリートの壁で囲まれており、普段は外からは見えない。狭い入口から内部の様子を伺うだけだが出入りは自由だ。
 手で示された方向に歩いて行くと、花が飾られた古い比較的大きな墓石が目に入った。墓石には「島左近」と彫られており、今でもはっきりと読める。先ほどのおじいさんがやってきて、色々話してくれた。謂わばこの墓地の墓守のような仕事をしているようだ。墓地そのものはすぐ近くの立本寺のものだ。立本寺は以前に撮影してブログにも確かアップしているはず。島左近の墓があるなどというのは全く知らなかった。
 帰宅してから改めて島左近という人物について調べてみた。同時にこの島左近の墓というのが本物かどうかも含めて、いろんな情報を集めてみた。
 

 島左近については、関ヶ原の戦いで勇猛果敢に戦い、自軍の先頭に立って敵を恐怖に陥れたほどの武将として知られている。
 本名は島清興と言う。彼の出生については諸説あってよくわかっていないらしいが、有力なのは大和の国(奈良県)の平群という地である。元々島左近の先祖は、代々平群の地で暮らし、一部の者が奈良興福寺の僧にもなっているということから、島左近の出生が大和の国であろうということで概ね認められているようだ。
 彼自身の生育過程については特に記録がなくよく分かっていない。しかし豊臣家の先行きを案ずる石田三成によって見出され、彼の今で言う参謀のような役職に就いたとされる。有名な言葉として「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」というもので、石田三成が相当な有力者を部下につけたと称えられた言葉だ。ちなみに佐和山の城というのは、現在の滋賀県彦根市にある山城で、関ヶ原の戦いで徳川軍に攻撃され最終的には落城となった城だ。
 三成によって見出された左近は朝鮮出兵にも参加しており、その後天下統一のために江戸から大軍を送り込んできた徳川軍との激しい戦いが始まることになる。その中心が西暦で言う1600年の関ヶ原の戦いだ。
 豊臣・三成の軍勢は各所の戦いにおいて敗走する場面が目立ち、次第に戦意が衰えていく。当時の軍勢は今で言う専門の軍人というわけではなく、大きな戦いの時には配下の農山村から集められた農民などが多く、専門家の武将というのはいわば少数にすぎない。従って普段から武器を持って戦うという訓練もさほど受けていないような軍勢でしかないわけだ。当然各地の戦いにおいて敗走すると、次第に意識は下がり恐怖の方が先に立つ。そんな時に島左近は先頭に立って、自分たちの軍勢を鼓舞して、自ら命をかけて強烈な戦いを見せつけた。その勢いに豊臣軍石田軍ともにその勇猛果敢さに励まされる形で、必死になって戦いを続ける。逆に徳川軍においては、まるで鬼の如く先陣を切って戦いを挑んでくる島左近に対して、恐怖を抱かせるほどの大きな存在であった。こうして島左近の名は敵味方と共に大いに知られるようになったということになる。
 そしてこの戦いの中で、徳川軍の砲兵隊の一斉射撃による弾丸を受けて重傷を負う。後年関ヶ原の戦いを描いた絵図には、この場面が描かれており、銃弾を受けた島左近が家来たちに支えられて引き下がるところが描かれているという。
 そしてこの後、島左近はこの地で命絶えた、というのがひとつの説として残された。ところがこれはあくまで一つの説であって、島左近はこの後、馬に乗って姿を消していった。その先どうなったかは分からないという説もあり、ここから島左近に関する伝説のようなものがあちこちで起こるようになった。
 結果として島左近の墓というのは、ここ立本寺の墓地だけでなく、大阪や奈良なども含めて数箇所に存在する。一体どれが本当なのかよくわかっていないが、この立本寺の島左近の墓がかなり有力であると言う説の背後には、立本寺に残されている過去帳に島左近の名前と亡くなった日付が記されていることだ。それによると戦いの後、戦場を逃れ最終的に島左近は立本寺に入り、そこで生活し、僧となって30年余りを過ごし、この地で亡くなったという記録が残されている。そして立本寺の墓地にお墓が立てられた。
 そのお墓の裏には「寛永九年六月二十六日没」と刻まれている。西暦で1632年のことだ。さらに立本寺には過去帳の記録だけではなく、島左近の位牌も存在していると言う。そういったことから、関ヶ原の戦いで亡くなったのではなく、命からがら逃れる事が出来て、その後は武将として活躍することなく豊臣家滅亡を知り、京都の立本寺の中でひっそりと暮して亡くなった、というあたりがおそらく史実なんだろうと思われている。
 あくまでもここが有力であると言うことであって、他の島左近の墓を標榜しているところについては全て嘘なのかと言われると、その辺はわからない。おそらく歴史研究者たちの様々な角度からの分析によって、生まれ亡くなった地というものが、それぞれ大和の国、京都の立本寺が最有力だと見られると捉えておいた方がいいんだろうと思う。

 墓石自体は確かにかなり古く、所々墓石の表面がはがれたりもしている。しかし亡くなった当時にこの墓石が立てられたとすれば約400年近く経っていることになる。それにしては彫られた文字がかなりくっきりと読める。というのもどうなんだろうかという疑問もある。本来ならもっと風化していても不思議ではないかなとも思える。いろんなお寺で江戸時代の墓石というのをたくさん見てきたが、大体が江戸時代中期から後半のものが多かった。確かに彫られた文字が割とよく残っていて読めるものもあれば、風化によって文字が崩れているようなものもあり様々だ。石の種類によってこの辺り違ってくるんだろうとは思う。まぁいずれにしろ、関ヶ原の合戦の中でこのような敵味方にも知られるほどの有名な武将がいたという、歴史的事実そのものはあったんだろうと考えるべきだろう。

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2020年の梅 長岡天満宮・・・ちょっと早かったようだ

2020-02-28 22:57:43 | 撮影
 

 長岡天満宮へ行く。
 今までに何度訪れたことか。梅だけではなく、桜、キリシマツツジ、紅葉などなど一年を通して様々な姿を披露してくれる。敷地も広くゆったりできる場所で、しかも境内の前には広い池が広がっている。市民にとっても憩いの場となる。
 もちろん今回は梅を撮影に行った。でもよく思い出してみれば、去年かおととしか忘れたが、長岡天満宮の梅についてはこのブログでも紹介していたはずだ。まぁそれはそれとして、今年の梅は改めて見ていただこうと思って掲載することにした。多分同じような場所の同じような色の梅を撮っているので、1年か2年前のものとさほど変わりはないと思う。違っているのは撮影に使ったカメラとレンズだけだ。とはいうものの、どんなカメラで撮影しても縮小してブログにアップするので、見た目にはカメラやレンズの違いなどというのはまず分からないだろうと思う。一応自分自身の趣味の一つとして、カメラで寺院や神社を撮影するというのがあり、自己満足のために、全てネットオークションなどで手に入れた中古の少し古めのカメラばかりだが、発売された当時には話題となったフルサイズ機なんかも使っている。従ってブログは別として、撮影した画像は家の中で24型モニターで細かなところも見て悦に入っているというのが実態だ。

    

 長岡天満宮そのものについても既に紹介済みなので、簡単にまとめておく。
 もともとこの地は平安時代の菅原道真のを所有地であったとされている。後日、道真が謀によって左遷されることになり、この地を去ることに名残惜しさから「見返り天神」とも呼ばれたりする。大宰府に左遷された後で亡くなるが、付き添いで行った者が道真自作の仏像をこちらへ持ち帰り、それを祀ったことがこの天満宮の始まりとされているらしい。ただ具体的な創建年度ははっきりしないようだ。
 ずっと後になって一度廃れるが、近年になって整備が進み、今現在ではかなり有名な大きい規模の天満宮として知られるようになり、毎日多くの人々が参拝に訪れる。本殿は元平安神宮にあったものを移築したもので、京都府の指定有形文化財になっている。また真っ赤なキリシマツツジは長岡京市指定の天然記念物としてよく知られており、大勢の人が見物に訪れる。通年、見所満載なので行く価値も十分にあろうかと思う。


                             
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大乗院 京都市山科区・・・善通寺派

2020-02-27 22:42:15 | 撮影


 大乗院へ撮影に行った。
 ほとんど無名の大乗院へ敢えて行ったのは、たまたま京都府のホームページに掲載されていた「京都府登録暫定文化財」に、大乗院の本堂が指定されていたことを見つけたからだ。
 大乗院へは何度も訪れている。というか、大乗院そのものが、有名な「随心院」のすぐ横に位置するからだ。随心院の駐車場に止めて、いわばが裏側から随心院の前庭に入る形になる。その途中に大乗院の山門がある。ここを通過するときに時々境内に入って写真を撮ったりしていた。というのも随心院が小野小町や梅林で有名なのだが、大乗院にも狭い境内ながらも、梅の時期には綺麗な色の花を咲かせる。そういったものを撮影して随心院へ向かっていた。このような時に私自身と同様に、大乗院の境内に入って参拝したり境内を撮影したりという人を今まで一人も見たことがない。車で来た人はほぼ全員が大乗院を見向きもせずに通過してしまう。

 その大乗院だが、色々調べても情報が皆無という状態。何の特徴もない無名の寺なのかと思わざるを得なかったが、とりあえず「真言宗善通寺派」ということだけがわかった。その辺りから少し探ってみることにした。
 真言宗善通寺派が名称として確立したのは実は1972年と言う。元々は平安時代の初期に曼荼羅寺が創建されたことに始まる。このお寺は後に今現在の、随心院となる。ここが大いに隆盛し、独自に宗派を名乗り、その後様々な変遷を経て、最終的には善通寺派という呼称で落ち着いたということのようだ。
 善通寺というのはもちろん、全国的に有名な寺院であり、四国香川県にある。
 平安時代初期に弘法大師(空海)の父によって創建された。その後弘法大師が中心となり、お寺の名称も父の名前を採って善通寺と名付けられた。弘法大師は後年、高野山そして東寺の創建にも関わる。これらの場は何も弘法大師を祀っており、弘法大師三大霊場と呼ばれるようになる。こうして弘法大師によるお寺の創建が相次ぎ、最終的には真言宗の一流派として善通寺が総本山となり、さらに大本山として、地元香川県の弥谷寺、佐賀県の吉祥寺、そして京都の随心院の三箇所が定められた。さらにこれらの大本山のもとには、小寺として同じ流派の多くのお寺が創建される。その大半は香川県に集中しているが、大本山である隨心院も小寺を有しており、それがここの大乗院だ。
 したがって大乗院も境内には弘法大師の石像彫刻が立てられている。なるほどこれで話が合うわけだ。以前から弘法大師の石像がなぜ境内にあるのかわからなかったが、そういう理由があったというわけだ。
 今現在では大乗院そのものはほとんど知られてはいないものの、随心院のすぐ横に位置していて、同じ流派の謂わば親子関係みたいな形で存在している。随心院の方はかつてこの地域に勢力を持っていた小野氏一族との関わりから、小野小町が暮らしたことでも有名になっており、小町が使っていた井戸というのも残されている。随心院には何度も拝観しているので、この間は梅林だけしか入っていないが、紅葉の時期にでも改めて内部に入ってみようかと思っている。大乗院も同様にじっくり見てみたいものだと思う。

      
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《強権独裁政治によって、またもや日本の三権分立は、さらにいっそう崩壊していく・・・検事長定年延長問題をめぐって》

2020-02-25 23:11:00 | 社会

 いったいこの安倍晋三と言う男はどんな精神構造をしているのかもはや一国の首相の位置につけておく事は、国際的にもただ単なる恥さらしにとどまらず、日本と言う国及び様々な交易のある国に対しても、「害悪」でしかない存在になり果てている。

 いまだに収束の気配が見えない「総理と桜を見る会」問題があるにもかかわらず、今度はまたもや誰がどう考えてもありえない、三権分立崩しを平然と行った。

 ニュースでも取り上げられているように「検事長の定年延長問題」のことだ。具体的には検察庁法の条文によって検事の定年は63歳とされている。一方トップである検事総長については65歳だ。

 ところが安倍内閣は突然、東京高等検察庁の黒川検事長がまもなく定年になるにあたって、突然定年を夏まで延長すると言うことに「解釈する」とした、と発表。普通に聞けばこれが何を意味するのかは、一般的にはほとんどわからない。しかしこの東京高検の黒川検事長と言うのは安倍晋三の仲良しだ、と言われている。このままいけば、黒川検事長は63歳になって定年となってしまう。が、定年を少し延長することによって、現在のトップである検事総長が、その間に65歳となって定年となる。すると次の検事総長が、この黒川東京検事長が昇格し、日本の検察庁のトップとなり、さらに2年間定年が延長されることになる。少し詳しくわかっていれば、これが一体何を意味するのかすぐにわかることだ。





 検察庁と言うのは三権分立においては、行政権に属する。ところが学校の社会科の勉強でも全員が習ったように、検察は警察と同じように、逮捕特権を用いることができ、被疑者を裁判にかけることができる、と言う権利を有している。

 そして裁判所において被疑者の容疑を立憲する形で追求する立場に立つ。そういった意味では、三権分立における司法権の一部を担うことにもなる。そういう特殊な立場にあるのが検察だ。

 当然その特権によって検察官と言うのは、不偏不党全国民に対して絶対的に不平等なことがあってはならない。まして政治との関わりにおいては、なんら遠慮も配慮もする必要がなく、事件性があれば徹底的に追求し、場合によっては政治家をも逮捕特権を行使することさえ可能なのだ。ところが東京高検の黒川検事長と言うのは、安倍総理大臣と仲良しだと言う。

 このこと自体が既に歪んでいるのだ。安倍総理は定年問題の解釈を強引に勝手に変えることによって、黒川検事長を日本のトップである検事総長に昇格させ、安倍内閣に不利な政治的な案件、それが犯罪的な内容を含んでいる場合には特に、仲良しの検事総長に命じて、捜査をやめさせることだって可能になるわけだ。

 このところ全国の検察はほとんど話題になっていない。何年か前に大阪で起きた事件について、大阪高検が失態を晒したと言うことになっていて、そのトラウマから検察の動きが、この間ずっと見られなくなってしまっているような状況になっている。本来ならば森本加計問題についても大阪高検がもっと厳しく追及し、政治家との関わりなども明らかにすべきだが、ろくに捜査もやっていない。

 こんな状況の中で安倍政権は、検察の力が弱まっていることをいいことに、やりたい放題。国民を欺き馬鹿にして、全て自分たちの好き勝手に強権政治をやっているわけだ。司法が立法の番人としての役割を果たしえなくなっている今、またもやこうして検察の人事に介入して、自分の応援団を検事総長に据える。こうなれば安倍内閣は、どんな法律違反を犯しても捜査ストップ命令を出して、何の追求も受けないことが可能になる。

 テレビの刑事ものドラマでもよく見られる場面だ。突然上層部からの命令によって捜査が打ち切りになる。こんな場面が、これから国民の目の届かないところでどんどん行われていくことになるだろう。

 以前からこのブログでも、日本の三権分立はもはや崩壊している、と言うことを訴えてきたが、まさしくその通りになっている。三権の中で国民に信頼されている権力はあるんだろうか。三権の中で国民のために一生懸命努力をしている権力っていうのはあるんだろうか。かろうじて立法府の一部の議員たちが該当するだけなのかもしれない。だからこそ桜問題もいまだに追求され続けている。

 一部国民の中には、「まだそんなくだらないことをやってるのか。もっと大切な問題があるだろう。」と偉そうに言う奴がいるが、こういう奴は、自分たち自身が政権によってコケにされていることが全く理解できていない阿呆としか言いようのない奴らだ。一般国民が必死になって働いて得た所得から、多くの血税を取られ、それを使って政権の奴らは無駄な遊びに使い放題使っているわけだ。これでも怒らない国民と言うのは文字通り、腑抜けとしか言いようがない。

 ところで先日のニュースで、全国検察長会議が東京で開かれ、その中で静岡の検察長の発言が注目された。要するに「これを認めれば検察の信頼はなくなる」と言うものだ。まともな検察官であれば、これほどの事態に対して極めて強い危機感を持っていると言うことの表れだ。国民からの信頼をなくせば、検察の役割と言うのは、国民への取り締まり、弾圧と言うことにしかならない。まさにそれを安倍内閣はやろうとしているのだ。

 野党が検察庁法の解釈の矛盾を追求していると、官庁の当事者である森法務大臣は最終的に、何と信じがたいことに、「言い間違いでした」と言って、矛盾をすり抜けようとした。まさに日本の政治はもう終わっている。

 官邸政治が強化され、内閣に人事局が作られ、好き勝手な官僚人事が強行され、各官庁のエリートと呼ばれるような連中も恐れをなして、安倍政権にものが言えないし、犯罪的な内容であっても安倍内閣を支えなければならない立場になる。ほんとに真面目な官僚であるならば耐えられないはずだ。その結果森本加計問題では1人の官僚が自殺している。安倍晋三や公明党の連中にとってみれば、1人の官僚が勝手に自殺しただけの話で、後は知らん顔だ。黒い闇に隠れたまさに暗黒政治。同時にそれは冷血とさえ言えるような、国民を無視した自分たちの功名心を満足させるような身勝手な政治であり、国民の血税を使って政治を私物化していることそのものになるのだ。

 最新の内閣支持率調査では、安倍内閣支持が不支持を下回ったと言う結果が出ている。こんなこともっととっくの昔に起こっているべきはずのことだ。これだけのことをやらかしてやっとこさ、不支持の方が多くなったのだ。野党はどんな問題があっても、これらの件を徹底的に追求し、安倍の自民公明による政治の愚劣さを明らかにし、叩き潰さなければならない。その上で選挙において、こういった点を徹底的に訴え、現政権をつぶしていく必要がある。

 でも国民たちは次のように言う。「では自民公明に代わる政権運営能力のある勢力はいるのか。いないからどうしても自民公明に投票せざるを得ない。」これはただ単なる一般国民の「逃避」の言い訳にしか過ぎない。かつての民主党の体たらくによって、代わりの政党への不信感がばらまかれたことがあったが、いずれにしろ、もっともっと新たな勢力に挑戦させたら良いのだ。小さめの政党はたくさんあるが、お互いの足引っ張りなどやってる場合では無い。もし政権が取れるならば基本的なところで同意を得て、細かな点の違いは話し合いを通して譲り合うと言う精神が大切だろう。もちろんその際の基準は、「国民にとって大切で必要な政治」となるはずだ。そのためには様々な方法で、国民が声を上げ政治の場で戦っている野党を具体的に応援するということが必要となる。知らん顔している奴がいる限り不可能だろう。残念ながらそーゆー奴は多い。それでも事態は一刻を争うところまで来ている。批判の声を上げて戦いに挑むしかないのだ。



  つい先程のニュースで、本日森法務大臣が法解釈の決済は、文書でなくても口頭で決済できるが場合がある、と報道陣にのたまわった。

 何でもかんでも不都合が生じれば、その矛盾に対して後から都合の良い内容にすり替えてしまう。要するに嘘の上塗りを繰り返していると言う状態が、今の内閣及び全政権の愚鈍さを表す姿そのものなのだ。


(画像は他HPより) 

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2020年の梅 清涼寺 京都市右京区・・・広大な境内に僅かな梅の花が

2020-02-23 22:49:54 | 撮影
 

『清凉寺(嵯峨釈迦堂)
 五大山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。
 この地には、一説では『源氏物語』の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融の山荘、棲霞観があり、融の没後、棲霞寺としたのが当寺の始まりである。天慶八年(九四五)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。
 その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国した奝然上人が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清凉寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算が清凉寺を建立して 像を安置した。
 昭和二十八年(一九五三)、背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五賊六腑はとが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。
 本堂は元禄十四年(一七〇一)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅像(重要文化財)等、多数の文化財が祀られている。
 このほか、境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇、檀林皇后の墓などがある。
 京都市』 (駒札より)

  

清涼寺は以前このブログでも取り上げている。梅について書くのは初めて。
 嵐山の中心部から少し北の方にある。堂々たる仁王門を持つ格式のあるお寺だ。こちらには何度も訪れており、清涼寺自体を撮影することなく駐車場として利用するケースも多い。時間無制限で700円。天龍寺が同じく時間無制限で1000円なので、300円分少し遠いというわけだ。
 今回は清涼寺だけで、他は回らない。駐車場から入ると仁王門をくぐらずに横から入ることになるので、一旦仁王門の外に出て、仁王門の撮影からスタートする。
 迫力のある仁王像も金網越しに撮る。境内に入ると非常に広大な敷地が広がり、正面にこれも巨大な本堂が控えている。すぐ西側には多宝塔があり、さらにその奥に鐘楼が建っている。その他にも東側にいくつかの伽藍が控えている。その一つに霊宝館があり、主な寺宝はこの中に収められている。
 清凉寺は多くの国宝と重要文化財を有しており、公開日には霊宝館を訪れて拝見することができる。一度だけ入ったことがあり、そうそうたる仏像に圧倒された記憶がある。境内や本堂を見るだけなら自由に出入りできるが、もちろんここはは有料だ。しかしそれだけの値打ちは十二分にある。訪れた際には是非清涼寺の宝物を見ておくべきだ。

 さて、梅の方は広大な敷地の割には正直なところ非常に少ない。主に多宝塔のあたり、そして東側のちょっとした庭園の周辺というあたりになる。白、桃色等、 決して大きくはない梅の木が綺麗な花を咲かせていた。春になれば同じような場所に桜が満開となる。少ない梅ではあるものの、バックに本堂を入れて撮る、アップで撮る。するとなかなかいい絵になる。この日は見事な青空でもあり、花の色と本堂などの建物、そして青空。これらがうまくマッチして、見ているだけでも思わず気を取られてしまう。このようなお寺の建物を入れて撮影できるというのも、日本ならではのことだと思う。
 もちろん清涼寺はどちらかといえば観光寺院の部類に入るが、あまりにも広いのでそこそこ人が来ていてもたいして気にならない。それに嵐山を訪れる観光客の大半はこの清涼寺まで来る人は少ない。ほとんどが天龍寺とその周辺や西側にある常寂光寺、二尊院などの方へ行ってしまうケースが多い。
 しかし、ここに国宝の中でも極めて貴重だと言われる「木造釈迦如来立像」がある。これは10世紀頃に中国の北宋時代に作られたもので、日本や中国の仏像とは違った特徴を持っており、おそらく古代インドから東南アジアに伝わっていく過程での特徴に共通しているものだと言われており、その経緯からもかなり珍しいものだ。
 日本の仏像といえば、定朝、運慶や快慶といった名前が連想されるが、それらとは全く異なる経緯のある仏像であり、そういった目で見ると、また仏像の面白さも感じ取れるのではないかと思う。あいにく公開日ではなかったので、梅撮影だけで終わってしまったが、4月にはまた桜を撮影しに来るので、機会があれば久しぶりにこれらの仏像と対面したいと思っている。

                    
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