切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

紅葉撮り 24 梨木神社 京都市上京区・・・紅葉期には華やかな神社になる

2018-12-31 22:56:16 | 撮影



『梨木神社

御祭神
贈右大臣正一位 三條 実萬公
内大臣正ㄧ住大勲住公爵 三條 実美公

 当社は明治十八年十月、三條実萬バを御祭神として旧梨木町の今の地に創建、別格官幣社に列せられ、大正四年の大正天皇即位式にあたり、実萬公の御子実美公が第二座御祭神として合祀されるにいたりました。
 両公は、学間・文芸の神様として崇敬を集めており、境内にはそのご神徳にふさわしく、江戸後期の国学者で雨月物語の著者である上田秋成翁や、日本最初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の歌碑が建立されています。
 当社境内は、九世紀後半に栄えた藤原良房の娘明子(あきらけいこ・清和天皇の御母染殿皇后)の里 御所の趾で、手水舎には宮中御用の染所で用いられたといわれる染井の井戸があります。染井は、京都三名水の醒ヶ井(さめがい)、県井(あがたい)、染 井(そめい)のうち現存する唯一の名水で、甘くまろやかな味が茶の湯にも向くといわれています。
 また、当社は萩の宮と称されるほど、京都の萩の名所として知られており、参拝者の目を潤す憩いの場所となっています。
 (パンフレットより)



『梨木神社
 当社は、明治十八年(一八八五)に創建された旧別格官幣社で、明治維新の功労者三條実萬公・実美公父子を祀り、三條家の旧邸が、梨木町にあったことにちなんで名付けられた。
 実萬公は、文化九年(一八一二)以来四十七年間、光格、仁孝、孝明の三代の天皇に仕え、皇室の中興に尽くしたため、幕府と対立し、その圧迫により一乗寺に幽居したが、翌年の安政六年(一八五九)に逝去し、「忠成公」の諡号を賜った。実美公は、幕末期に尊王攘夷運動の先頭に立ち、明治維新後は太政大臣に任ぜられたが、明治二十四年(一八九一)に逝去し、正一位を贈られ、大正四年(一九一五)に父を祀る当社に合祀された。
 旧茶室は、京都御所春興殿(賢所)の神饌殿を改装したもので、境内手水舎の井戸「染井」の
水は京の三名水の一つとして有名である。
 また、当社は萩の名所として知られ、毎年九月の中旬から下旬に催される「萩まつり」の頃は、多くの参詣者でにぎわう。
 京都市 (駒札より)

    

 清浄華院、廬山寺の向かい側にある。京都御所に隣接。
 梨木神社は上の説明書きのように、明治時代に創建された神社で、明治維新との関わりでこの地に設けられた。したがってまだ百数十年の短い歴史だ。しかしお寺の密集地帯の横に位置し御所もあるということもあって、その便利さから訪れる人が多い。しかも萩の名所でもあり、恋愛運の御利益もあると言う。そういった意味からも結構人気のある神社だ。
 紅葉については名所と言う位置づけにはなっていないが、第一鳥居から長い参道を進むと境内に拝殿、本殿が見えてくる。その周りは多くの赤く色づいた紅葉で賑わっている。決して数が多いわけではないが、神社の紅葉というのは比較的少ない方で、しかも本殿のすぐ近くを取り巻くようにあるのは今まであまり見たことない。
 お寺とはまた違った、神社の本殿の周りの紅葉ということで、本来静かな雰囲気の神社がずいぶん華やかに見える。十分訪れて見る価値はあるし、また萩の季節には少し落ち着いた雰囲気の境内が見られるだろう。

     

 なお説明書きにあるように、上田秋成、湯川秀樹の歌碑が設置されている。
 ついでの話だが、上田秋成の代表作である「雨月物語」は、日本独自の無常観や死生観を表しており、極めて印象的な作品となっている。映画化された作品も鑑賞したことがあるが、映像による訴求力はなかなかのもので、今でもほとんどの場面を覚えている。江戸時代のものではあるが、日本古典文学の傑作の一つでもあり、是非読まれることをおすすめしたい。
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紅葉撮り 23 廬山寺 京都市上京区・・・紫式部の邸宅跡 見事な紅葉

2018-12-29 23:10:31 | 撮影


『【沿革】
大本山廬山寺(廬山天台講寺)
 廬山寺は天台圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺という。
天慶年間(九三八)、比叡山第十八世座主元三大師良源(慈恵大師)が京都の北、船岡山南麓に開いた與願金剛院に始まる。
 寛元三年(一二四五)法然上人に帰依した住心房覚瑜上人が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ヵ寺を兼務した明導照源上人(一三六八)によって廬山寺が與願佥剛院に統合される。この時以来寺名を廬山寺から廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となる。
 その後、応仁の兵火に遭い、又元亀二年の信長の比叡山焼き打ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅命を受け、天正元年( 一五七三)現在地・紫式部邸宅址に移転する。
 当地は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(八七七~九三三)から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であった。
 それは鴨川の酉側の堤防の西に接して営まれていたため「堤邸」と呼ばれ、それに因んで兼輔は、「堤中納言」の名で知られていた。紫式部は百年ほど前に兼輔が建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたといわれ、この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ・大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したのである。
 現在の本堂は、宝水五年( 一七〇八)、天明八年(一七八八)相ついでの焼失後、寛政六年( 一七九四)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の御下賜でもって改装されたものである。明治維新までは御黒戸四箇院と云って、宮中の仏事を司る寺院が四ヶ寺(廬山寺、二尊院、般舟院、遣迎院)あり、その中の一つであった。
 明治五年九月、太政官布告を以って紀本山延暦寺に附属する。昭和二十三年(一九四八)圓淨宗として元の四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり、今日に至る。

【寺宝】
・阿弥陀三尊仏(国指定重要文化財、平安・鎌倉時代)
・元三大師像(鎌倉時代)
・如意輪観音半伽像(国指定重要文化財、鎌倉時代)
・後伏見天皇御願文(国指定重要文化財、鎌倉時代)
・正親町天皇女房奉書(国指定重要文化財、室町時代)
・慈恵大師遺告状(国宝、平安時代)
・慈恵大師二十六ヶ条起請文(国指定重要文化財、平安時代)
・選擇集(国指定重要文化財、鎌倉時代)
・普賢十羅殺女像(国指定重要文化財、平安時代)
・後醍醐天皇像(桃山時代)
・後陽成天皇像(桃山時代)
・降摩面(鎌倉時代)  他多数
  (パンフレットより)

 

『廬山寺
 日本廬山と号する圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺という。天慶元年(九三八)、慈恵大師良源(元三大師)が船岡山南麓に開いた奥願金剛院に始まる。寛元三年(一二四五)、法然上人に帰依した住心房覚瑜が出雲路に廬山寺を開き、この二ヵ寺を兼務した廬山寺第三世明導照源上人(一三三九~一三六八)によって廬山寺を與願金剛院に統合し、円、浄土、戒、密の四宗兼学寺院となった。
 その後、応仁の兵火に遭い、天正元年(一五七三)、当地に移った。現在の堂宇は、一七八八年の「天明の大火」による炎山以後のものである。
 当地は紫式部の邸宅跡で源氏物語執筆の地と伝天られ、本堂前の「源氏の庭」には「紫式部邸宅址」の石碑が立っている。
 本堂には、恵心僧都の作と伝えられる阿弥陀三尊等が安置されている。そのほか、国宝の慈恵大師自筆遺告状、また、重要文化戝として、鎌倉時代の如意輪観音半跏像、後伏見天皇及び正親町天皇の宸翰、法然上人選択集などを蔵し、境内には、光格天皇父の閑院宮典仁親王(慶光天皇)陵などがある。
 良源が修行の邪魔をする悪鬼を退散させたという故事に由来する二月三日の節分会は「鬼の法楽」の名で知られ、悪疫退散を祈願する行事が行われる。
 京都市  (駒札より)

 

 前回紹介した清浄華院の南隣に廬山寺がある。
 去年の7月にこのお寺をブログで紹介している。したがって廬山寺そのものについては、上記の説明書きや駒札の内容を参照してください。

      

 こちらは特に紅葉の名所というわけではないが、色々ネット上で調べたりしていると、思いの外見事な紅葉が広がっていると言うことで、この周辺のお寺や神社とともに一気に撮影して回ることにした。
 境内には車で入ることができる。なるべく邪魔にならないように塀に沿って端っこに駐めた。予想以上に人が来ていた。紅葉が目当てなのか、紫式部の関係なのかはわからないが、いずれにしろかなり知られたお寺で、特に女性に人気があるようだ。境内に広がる紅葉もなかなか見事で、本堂などの横に回ってもずっと紅葉が続く。更に裏側に回っても真っ赤な色が続く。一通り外側を撮った後、堂内に入る。
 部屋からは綺麗に整備された広い庭園が目に入る。こちらにも もみじの木が配置され、 海の島を模した小さな岩山の緑とうまくマッチして、非常に見栄えのする庭園だ。これだけのものを撮影できると非常に満足感が高い。

         

 廬山寺には国宝と国の重要文化財が多数あって、特別公開の時には是非とも見てみたいものだ。しかし東京や京都の国立博物館に寄託されているものもあって、残念ながら見ることができないものがある。
  紫式部については、このお寺以外にも由縁のある所が多々あって、宇治市にもある。何しろ「源氏物語ミュージアム」があるほどだ。そういった意味では京都においては、清少納言や小野小町ゆかりのお寺があちこちにある。この廬山寺は源氏物語を執筆した彼女の邸宅跡ということだ。

  

 非常に由緒のあるお寺でもあり、紅葉以外のシーズンでも十分に見所がある。

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紅葉撮り 22 清浄華院 京都市上京区・・・外見はあっさり

2018-12-27 22:26:58 | 撮影



『清浄華院
 浄土宗八総大本山の一つ。 浄華院ともいう。貞観二(八六〇)年清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建した禁裏内道場に始まる。後に後白河・高倉・後鳥羽の三天皇から帰依を得た法然上人が、この道場を賜り浄土宗寺院に改めたとされる。室町時代には皇室や公家・将軍家の帰依を得、浄土宗の筆頭寺院としての地位を築いたが、応仁の乱により一時荒廃、天正年間に現在地へ移転した。その後も皇室の帰依を受け、境内墓地には東山天皇母君敬法門院の他、皇子・皇女の墓が多数営まれている。
 幕末には御所警備を担当した合津藩・薩摩藩・徳島藩・熊本藩の宿所の一つとなり、会津藩主で京都守護職となった松平容保が半年間過ごしている。山科言継、姉小路公知などの著名人の墓も多い。寺宝として普悦筆「阿弥陀三尊像」(国宝)や「泣不動撮起」絵巻(重文)がある。
 大殿には法然上人像を安置、 また境内の不動堂には「泣不動縁起」に由来する泣不動尊像を安置する。
 京都市   (駒札より)



 上京区の清浄華院へ行く。
 ちょうど御所と河原町通の間に挟まれた細長い地域にある。この地域には北の方から含めて多くの寺院が並び、梨木神社もすぐ向かい側にある。河原町通りは幹線道路の一つだが、緑の木々にこの地域が覆われて、車の騒音などはあまり聞こえてこない。全体としてとても落ち着いたいい場所だと言える。
 清浄華院の沿革については上の駒札の通りだ。知る人ぞ知るお寺ということだが、自分は全く知らなかった。平安時代の創建と言うから、もう1000年も経っていることになる。元々は隣の御所内に学問修行のような位置づけであったが、後に法然上人との関わりの中で浄土宗のお寺となった。

   

 境内の広さは標準的なものだが、車の駐車場を兼ねているので、お寺としての趣はあまり感じられない。境内を囲むように建てられている堂宇は、何れも新しく古いものでも明治の再建と言う。そういった意味では、外から何の知識もなく見ていると、さほどお寺という感覚にはならず、ちょっと見てすぐ出て行くような雰囲気だ。
 しかし上記の如く、長い歴史と由緒を持っており、国宝や重要文化財も多く有する。公開時期にしか見られないとは思うが、是非ともそれらを見てみたいと思っている。国宝の「阿弥陀三尊像」は京都国立博物館に寄託されているので、ここでは見られない。大方丈に安置されている「阿弥陀如来坐像」は文化財指定は受けていないが、恵心僧都の作と伝えられている。証拠があるのかどうかは分からない。
 ちなみに恵心僧都は宇治市も含めて、京都のあちこちの寺院に名前が登場している。当時はかなり活躍したんだろう。この名前を資料などで見るたびに、「往生要集」と後年この書物に基づいて描かれた、多くの絵師たちによる凄まじい人間の現実世界での姿が頭を過ぎる。昨年の奈良国立博物館での恵心僧都の展示は改めて衝撃的なものだった、と今でも鮮明に脳裏に残っている。

   
(他HPより)

 紅葉の方は真っ赤に色づいてなかなか見事ではあるが、残念ながら数が少なく、車の駐車場でもあって、どうにもこうにも撮影しててもうまい具合にいかない。お寺の経営の面からも信徒の数がどんどん減少している中で、駐車場経営をしているお寺は非常に多い。一部のお寺では境内全体を駐車場にしてしまっているところもある。背に腹は代えられないというところは理解はできるものの、このあたり何とかならないものかと思ったりもする。というわけで撮影枚数も非常に少なくなってしまった。
 でも非常に由緒のあるお寺でもあり、特に寺宝の公開時には訪れてみたいお寺だと思う。

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紅葉撮り 21 養源寺 京都市東山区・・・「血天井」の説明のリアルさ 紅葉も実に見事

2018-12-25 23:12:23 | 撮影



『養源院
 元天台宗(現在は浄土真宗遣迎院派)の寺院で、豊臣秀吉の側室淀殿が父の浅井長政の菩提を弔うため、文禄三年(一五九四)成伯法印(長政の従弟)を開山として建立された。ほどなく焼失したが、元和七年(一六二一)淀殿の妹で徳川秀忠夫人お江(崇源院)が血天井等伏見城の遺構を用いて再建された。
 後水尾天皇の中宮東福門院(秀忠の五女)がお江の七回忌の年に秀忠が亡くなったので、両親の大きな位牌を造り、兄家光が亡くなった時にも位牌を安置し以後徳川(歴代)将軍の位牌所となる。
 客殿(本堂)・護摩堂・鐘楼堂・中門は国の重要文化財。客殿は重厚な玄関と上段の間を備えた豪壮な方丈建築であり、堂内を飾る障壁画のうち俵屋宗達筆の「松図」襖絵「唐獅子・白象・浪に麒麟図」杉戸絵は国の重要文化財に指定されている優品である。
 京都市  (駒札より)



『養源院略由緒
 豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に秀吉に願って養源院を建立し長政の従弟で叡山の僧であった成伯法印を開山とし、長政の院号を以って寺号としたのは文禄三年五月(一五九四)である。其後程なく火災にあい焼失。元和七年(一六二一)徳川秀忠が夫人崇源院殿の願により伏見城の遺構を用いて再建したのが今の本堂である。以来徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。
血天井、此の本堂の左右と正面の三方の廊下の天井は伏見城落城の時、鳥居元忠以下の将士が城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を天井として其の霊を弔ったもので世に「血天井」と称して名高い。
宗達襖杉戸絵、此の本堂の襖(十二面)杉戸(八面)の絵は俵屋宗達の筆で、自刃した将士の英霊を慰める為に「お念仏、御回向」にちなんだ絵を画いたもので、杉戸には象や獅子や麒麟等の珍しい行動を画いて居り其の表現が奇抜で新鮮美に溢れ、又曲線美の効果が素晴らしい。
狩野山楽の襖絵、玄関の左の方に太閤秀吉の学問所とした牡丹の間がある。狩野山楽が牡丹の折枝を散らした図案的な襖絵を描いている。
鶯張廊下、本堂の廊下は総て左甚五郎の造ったうぐいす張りで静かに歩くとよい音がする。
 (パンフレットより)



 今回紹介するのは東山区の養源院
 有名な三十三間堂の東側にある。ここを最初に訪れたのは2年余り前。たまたまテレビの番組で「血天井」のことが紹介されたのがきっかけで、その翌日早速訪ねた。
 すると門の前から参道、境内、本堂内は観光客でいっぱい。御住職の奥さんや事務の方が必死になって対応していた。「やっぱりこんなにたくさん来るのは、昨日のテレビのせいやね。」などとおっしゃっていた。やはりテレビの影響というのはものすごいもんだ、と改めて感心したのを覚えている。
 拝観料を支払って内部に入って、説明係の案内の中、例の「血天井」を拝見。今回のブログの写真は11月下旬のものだが、この血天井の写真だけは、2年余り前に撮影したものを載せている。
 天井板の全体が赤っぽく、さらにあちこちに黒ずんだ様々な影のようなものが見える。これらは全て切腹し自害した約400名余りの武士たちの、あがき苦しむ時に、血がついた手のひらや足跡、また流れ出た血が固まったものと言われている。何ともリアリティがあって、ある意味よくこういうものを弔うためとはいえども、利用したものだと思う。
 この養源院を含めて京都には3箇所ほど、血天井のお寺がある。実はそちらの方にも行っているのだが、その時点では血天井のことは全く知らずに、完全に見逃してしまっていた。いつかまた改めて行こうと思っている。



 さて本題の紅葉の方だが、昨年も紅葉撮りに来ている。山門から長めの参道を歩いて正面の本堂に至る。その参道沿いの紅葉がずらっと密集しており、実に見事。大勢の人達が立ち止まりポーズをとって写真を撮り合っていた。
 境内そのものには紅葉はわずかだが、その入り口に鐘楼があり、その近辺に大きな紅葉の木がある。これらを見ながら写真を撮るだけでも非常に満足感は高い。今回は近くの他の寺院も撮影したので、時間の都合で内部には入らなかった。

     

 このお寺の紹介を駒札などでするのは多分初めてだと思う。記載されているように、歴史的には江戸時代が始まる寸前の創建で割と新しい方になるが、本堂や各建物は当時からのもので、ほとんどが国の重要文化財に指定されている。
 本堂内も血天井だけではなく、俵屋宗達の見事な襖絵が見られる。そういう意味では全体に見所のある、由緒あるお寺だと言える。特に紅葉シーズンでなくても、緑いっぱいの参道を歩いて、本堂内を見るのも値打ちがある。

     

 この辺りに来る観光客は、個人であれバスツアーの団体であれ、大半が三十三間堂の方に行くので、こちらの方はどうしても少なめということになる。
 確かに三十三間堂はその圧倒的な迫力で、訪れた人の心を捉えてしまう。今年は千体の仏像の一部が国宝だったが、この度全ての仏像が国宝指定となった。さらに価値が上がったという感じだ。
 まあしかし、このような超有名な所ばかりではなく、すぐそばに見所のある養源院のようなお寺もあるので、是非とも訪ねてほしいと思う。

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2人の殺人犯に控訴する資格はあるのか。

2018-12-23 23:41:48 | 社会


先日ブログに書いた東名高速危険煽り運転殺人事件の石橋犯人が、懲役18年の判決を受けた後、弁護団は上級審に控訴をすると発表した。
一方、先日死刑判決が下された2015年の、寝屋川市男女中学1年生の子供が2人殺された事件について、犯人の山田はやはり上級審に控訴した。

この2つの事件で犠牲になった4人の方々の冥福を祈りつつ、犯人に対する激しい憤りを覚える。残された遺族は、自分のような離れたところにいる第三者とは比較にならないほどの苦しさと悔しさで、一生頭から離れないことになるだろう。
そのことに思いを馳せつつ、自分の今の想いを短い文章で述べておきたい。

● 東名高速危険煽り運転殺人事件


以前のブログで裁判員裁判の判決として、危険運転致死罪が適用され、懲役18年の実刑が言い渡された。正直なところ求刑の23年に対して、なぜ5年も減刑されているのか全く理由がわからない。
どこかに情状酌量の余地があったのか、それとも犠牲者側に何か落ち度でもあったのか。日本の裁判ではほとんど100%と言ってもいいほど、求刑に対して判決は幾分か減刑された形で判決が言い渡される。
明らかな情状酌量な要素があれば周囲の納得も可能だろうが、少なくとも今回の事件について、メディアの報道を読んだり見たりする限り、情状酌量の余地など一切ないとしか思えない。弁護団は報道を見る限り危険運転致死罪の1場面1場面を切り取って法の適用ができないと主張したようだ。つまり法律を厳密に解釈すれば、「運転し」の部分は確かに当てはまらないことになるが、裁判員たちは1場面だけを切り出すのではなく、全体の流れの中で危険運転と言うことを主張し、裁判官もそれを取り入れて判決に至ったわけだ。
こうして懲役18年が言い渡された。ところが2〜3日経って弁護団が判決に不服を申し立て、高等裁判所への控訴を決めた。

● 大阪府寝屋川市、中学1年生男女2名殺人事件


3年前の2015年、大阪府寝屋川市の京阪電鉄寝屋川市駅近くで、2人でいた中学1年生に45歳の山田と言う男が関わり、その日のうちにこの2名を殺害すると言う極めて痛ましい事件を起こした。
女子は比較的近くで見つかったが、男子のほうはなかなか発見されず、最終的に南河内の柏原市の道路脇で、埋められているのが発見される。
ちなみに柏原市と言うのは、自分が幼い頃生活していた街だ。逮捕された山田被告はずっと黙秘を続けて、認否も何もせず年月だけが過ぎ去っていく。長い長い精神鑑定が終わり、ようやく責任能力ありとの判断が下され、起訴され予想通り2名を殺害したと言うことで、死刑が言い渡された。
死刑制度が存続している日本においては、複数の殺人については基本的に死刑の判決が下される。1名ならば基本的には懲役刑で、状況によっては死刑もたまにあるようだ。
ところが弁護側は即日抗告。被告側の主張する殺人とは違うと主張している。

● 上級審への控訴は確かに権利として認められているが、非常に違和感を覚える。


この両者が控訴すると言うのはある程度予想はしていた。悪人と言うのは本当に反省するような人とは違って、何が何でも自分さえ助かれば良いと言う、手前勝手な考え方に日常的に支配されている。
両者とも一応表面的には「謝罪」をしているが、どう考えても上辺の形式的な、罪を軽くしてもらおうと言う魂胆が透けて見えるものでしかないと思われた。本当に自分のしたことが悪かったと思うならば、控訴せずに判決をそのまま受け入れて、自分自身の力で更生しようと思うはずだ。
しかしこのような連中は何が何でも、少しでも助かりたい一心で控訴すると言うことになるんだろう。そのような気持ちのあり方に反省のかけらさえ感じることができない。裁判所が控訴棄却をするのかどうか専門的なことはわからないが、一般的に見れば、このまま高等裁判所で裁判が続くと言うことになるんだろう。こんなあくどい奴らを守るようなシステム自体が、はっきりっておかしいと思う。
まぁしかし冤罪の可能性などのことを考えると、この裁判における三審制と言うのは必要と言わざるを得ないのだろう。事件の内容によっては一審で確定と言うのがあってもいいような気がするが。


● 弁護団の弁護内容と言うのは、かなりの部分、無理矢理と言う「捏造理由」になってはいないのか。

裁判の法廷での検察側と弁護側のやりとりについて、その一部がメディアで報じられている。東名高速の事件については以前に記したので省略。
しかし一方、大阪寝屋川の事件については弁護団の主張にかなり激しい違和感だけではなく、怒りさえ感じる。この弁護団は国選かどうかは知らない。あまりにも被告側の証言に基づくものかどうかもわからないが、とにかく無理矢理の作り話であるとしか思えない主張だ。
男の子は突然死んだ。女の子はそれで驚いて大きな声を出し、山田被告がパニックになって声を押さえようとしたら、首に手がかかって死んでいた。したがって2人とも殺意に基づくものではないと言うのだ。
誰が聞いても信用できないような理由を法廷で出してきたのだ。自分自身も長い教員生活の中で中学生ではあったが、ある日突然ぽっくり死ぬとか、急激な体調変化で救急搬送するとか、そんな事はなかった。授業中に頭を打ったり、部活で少し激しめの運動をしたために熱中症気味になり救急搬送と言う事は経験している。
ところが小学校高学年の子は当日の朝元気に家を出ている。そんな若い子が突然死なんてほぼありえない。本当にそうならば救急車を呼べばいいのだ。更に女の子については、たまたま首に手がかかったと言い訳しているが、体全身に多くの刺し傷の跡があったと言う。
こんな嘘八百をなぜ弁護団は殺意を持って殺害したのではない、と言う主張ができるのか。弁護士と言うのは一体どのような姿勢で様々な事件に臨んでいるのか。いくら被告が殺意を認めないにしても、主張に無理がある場合には弁護士が説得をして、殺意を認めさせ、別のところで情状酌量を主張すべきではないのか。こんな子供だましの法廷でのやりとりを聞かされると、司法自体が信用できなくなる。

● 「刑事裁判」と言うのは一体誰のための裁判なのか。


以前から日本の裁判制度の中で、被告や犯人の方が「人権が守られる」と言う大きな矛盾があって、逆に犠牲者の方がほったらかしにされていると言う事態が続いていた。
判決の中でたとえ賠償金額が示されても、犠牲者のほうにその賠償金がきちんと支払われている例は極めて少ないと言う。要するに守られている犯人の方が知らん顔して反省もせずに、のうのうと生きていると言う実態があるわけだ。
こんな司法のあり方だから、日本では自ら訴訟を起こすと言う形になかなかなれない。刑事裁判の場合には否応なく進められるが、裁判が終わった後の実態は、総じて犠牲者側が不利で辛い思いをするケースが非常に多い。
また判決内容もどう考えても軽いとしか言いようがない。以前にも言ったが、アメリカのように個々の罪について積算方式で、懲役年数を出していったらどうか。特に死刑制度がないようなところでは実質上、終身刑にあたるような判決がアメリカでは当たり前のように出されている。あるいは損害賠償請求においても莫大な金額が言い渡されることが多い。
罪に対して罰則が重ければ、それで犯罪が減ると言うわけではないんだろうが、一般市民の感覚としてはどうにも納得できないことが多すぎる。
裁判員裁判制度がなぜ始まったのか。そのことをもっと反映させるためにも、法制度の中身の改定も必要なのではないか。弁護士は弁護士で、雇われようが国選であろうが、あまりにもむちゃぶりを公言するようなやり方では、裁判制度そのものに対する信用失意を招きかねない。
実際今回の大阪寝屋川市の殺人事件では、弁護側の主張に大いに不信感持ったし、失望もした。
法廷では「真実」を明らかにするものでは無いのか。それは表面的な客観的事実だけではなく、被告や周辺人物の心の中身においても同様のことが言えるはずだ。特に原告側においては、その真実を知るのが大きな期待となっている。

● 上級審は一審の判決を重視せよ。

高等裁判所は、裁判員裁判ではない専門の裁判官が審理を行う。今までのケースを見るとどういうわけか、この高裁の結果は一審よりも判決が軽くなるケースが多いように思われる。
今回のケースは一審ですら刑が軽いと思わざるを得ないのに、まさか更に軽減されるような事はないだろうとは思うが、そんなことになれば、さらに司法の信用は失意するだろう。悪人が世にはばかる事態を絶対に許してはならないのだ。
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