切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

琵琶琴元祖四宮大明神~光照寺 京都市山科区・・・意外な神社だった

2020-01-21 23:13:32 | 撮影
琵琶・琴元祖 四宮大明神



『琵琶ゆかりの地、四ノ宮 ~弦楽のふるさと~
 京都市山科区四ノ宮。京阪京津線山科駅の一つ東にある小さな駅周辺の町です。平安時代のはじめ、仁明天皇第四皇子であった人康親王(さねやすしんのう)は琵琶の名手でしたが、二十八歳の時に目を患われ、この四ノ宮に隠棲されました。目の見えない同じ境遇の法師たちに琵琶を教え、生業の道を拓かれたと伝わります。能に登場する「蝉丸」伝説のもととなった人物です。この親王のことは「源氏物語」に並ぶ平安時代の小説「伊勢物語」にも登場し、四ノ宮の屋敷に親友が訪れ、庭園が大好きな親王に庭石をプレゼントするシーンが描かれています。』

『人康親王宮内庁墓
 十禅寺の奥隣、JR 高架の脇にあり、明治時代に整備された宮内庁墓の一つ。こじんまりとした整った面持ちの墓です。明治以前は十禅寺の敷地だったことや、塚中央に立っ供養塔の時代からみて、十禅寺関係者の高僧の墓とみる方が妥当ですが、人康親王の墓として拝めば、弦楽器上達、眼病平癒、苦難障壁打破等々、いろんな願いが かなうことでしょう。』

『四宮大明神
 住宅街の細い路地の奥にあり、 琵琶・琴など弦楽器の始祖の神として人康親王が祀られた祠。江戸 時代には盲目の琵琶法師たちに祖と崇められ、この辺りで琵 琶を奏で盛大に経を唱える法要を行ったといいます。運命を 嘆いた親王が、悔しさに地面を足でこするとみるみる泉がわき出した、という「御足摺水(おあしずりのみず)」や、琵琶を弾くのに最適なソファのような庭石があります。』
 (四ノ宮めぐり パンフレットより)

 グーグルマップでこの長い名称の神社を見つけ興味を持った。名前だけを見るとかなり本格的な神社という感覚だ。この周辺の諸羽神社や十禅寺、徳林庵などはすでに訪れて写真撮影も終えている。しかしこの辺りを何度も訪れていながらこの神社の存在を全く知らなかった。地図で見る限り東海道本線にほとんど接しているような場所だ。とにかく行ってみることにした。
 現場には駐車場がないので、少し離れた道路沿いのコインパークに車を入れて歩いて訪れる。しかし神社らしきものが見当たらない。近辺を歩いていると極めて細い建物間の隙間にある路地とも呼べないほどの細い通りがあり、入り口の横に掲示物があった。多分これなのかと思って隙間を覗くと、ずっと奥になにやら祠らしきものが見えた。間違いない。ここだろう。
 人一人がやっと通れるような細い路地を奥まで入ってようやく四宮大明神に到着。
 地図通り背後には東海道本線が走っており、ひっきりなしに電車や貨物列車が往来し結構騒々しい状態だ。境内を左右見回してみる。奥行きはせいぜい10m。横幅は50mもないだろう。境内とはとても思えないでこぼこした土がむき出しの土地であり、こういう神社もあるのか、というのが正直なところだった。
 中央部にかなり小さな本殿が鎮座している。周りには所々に石物や何か謂われのあるような石が置かれている。一応神社らしくそこそこの大きさの樹木は何本か立っていた。正直なところ、この神社に参拝する人っていうのはいるんだろうか、との思い。とりあえずこの神社のすべてを写真に収めていく。狭いので短時間で撮影そのものは終わる。後は本殿や石物などの刻銘を見て回る。老眼ということもありコントラストも低いのでなかなか彫られた文字が読みにくい。まぁいつものことだが。
 それにしても由緒書きも何もない。ただ一つ助かったのは自由にお持ちくださいという小さな紙切れのパンフレットがあったことだ。裏表にこの神社も含めたこの辺り一帯の散策マップと様々な紹介が記載されていた。
 そこには「弦楽器のふるさと」といった表記があった。日本古来の弦楽器といえば必然的に琵琶や琴ということになる。パンフレットを読むとやはり琵琶法師の話だとか弦楽器にまつわる重要な地域であるようなことが書かれていた。ただ単にこの四宮大明神だけではなく、周辺の諸羽神社、十禅寺、徳林庵なども関わっているとのことだった。既に訪れていたそれらのお寺に対しては、全くそういった知識なしに写真を撮っていたので、我ながらやっぱりド素人に過ぎないと思わざるを得なかったと言うか、やっぱり情けないというところだ。
 このパンフレットだけでは、それらの関わりが詳しくは書かれていないので分からない部分も多いが、とにかく平安時代以降琵琶や琴に関わる重要な地域として、特に琵琶法師のように目に障害がある人たちが活躍できるようにとの思いで、このような祠が建てられたと言うことが納得できた。その後の変遷や近代化の波の中で、今現在の場所でしかも小さな祠だけになってしまってはいるものの、毎年の供養の時期には大勢の人が集まって祭事が行われていると言う。
 そういった意味では弦楽器に関わる人々、あるいは目に病を持っている人々にとってみれば極めて大事なよりどころの場ということになるものと思われる。

 神社そのものの創建は不明だが、関わりのある人康親王らは平安初期の人であり、この地域で過ごした人達だ。そして江戸時代になると関わりのある人達がこの地域で続いている琵琶の教えを乞うて多く訪れ、次第に一つの信仰として祀られるようになる。その結果、神社という形態を取ることとなり、祭神は人康親王(天世命)、琵琶法師(月世命)、稲荷大明神。ご利益としては、目の神、芸能上達、弦楽上達となっているようだ。
 人は外見だけで判断してはいけないと言うが、人だけではなく神社にもこの言葉は当てはまる。何の知識もなく神社の外見だけで判断すると、寂れて廃神社になる一歩手前なのかなんてことを意識してしまうが、歴史的な事情から今の姿があるだけのことであり、関わりのある、あるいは信仰のある人々にとってみれば、どのような外見であろうとも極めて大事な存在なのだということを改めて思い知らされた。神社にしろお寺にしろ、あちこち回って撮影して調べて、ブログの文にまとめてアップしているが、やはり自分自身の心の中での見方というものを改める必要がある。先入観だけでは決して判断してはいけない。そういった意味で一つの教訓を得た思いだった。
        


光照寺



 山科の音羽地区にある。この地にはかつて山科本願寺南殿があり、今現在はその跡だけが残っている。その一部の寺院として光照寺がある。
 戦国時代の応仁の乱直後に、蓮如上人によって山科本願寺が建立された。この光照寺には蓮如上人が長く隠居しており、その後焼き討ちにあって山科本願寺は消失する。後年その土地の一部に建立されたのが光照寺というわけだ。
 場所は地下鉄の東野駅から東へ向かって10分くらいだろうか。かなり立派な門構えであり、外からも境内の手入れされた立派な樹木がよく見える。開放された境内に入ると中心部は本堂の前にあって、石畳も敷かれており、よく整備されている。その横には古い墓の場所があり一面苔で覆われている。
 そして境内のほぼ真ん中にちょっとした小さな池と小山を模した庭園があり、中央に蓮如上人の銅像が立てられている。全体的に歴史的な古さというものはあまり感じないが、格式のある雰囲気を持った立派なお寺と言える。
 すぐ隣におそらくこのお寺が経営する幼稚園があり、さらにその隣に広大な山科本願寺跡が広がっている。ここは国の史跡に指定されている。すぐ近くには若宮八幡宮もあり、一緒に回るのもいいだろうと思える。

              
コメント
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