切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

月読神社~西光寺~玄忠院 京都市西京区・・・古墳時代からの神社なのか?

2020-01-14 23:13:19 | 撮影


 この日は西京区の3ヶ所を回る。月読神社、西光寺、玄忠院。
 2箇所のお寺については無名に近く、これといったほどの資料は見つけられなかった。したがってごくわずかに知り得た情報と後は写真を並べておく。

 一箇所目の月読神社



 様々な意味で有名であり、また謎も多いと言われている神社の一つだ。阪急嵐山線松尾大社駅からすぐ目の前に松尾大社が構えている。ここから南へ数百m。10分もかからない。そこに月読神社がある。とはいってもここは松尾大社の境外摂社である。摂社と言いながらも単独の神社としても通用する大きな敷地を持ち、立派な拝殿と本殿、そして社務所まである。写真を見ればこれが摂社なんてとても思えないだろう。
 神社については様々な書物による資料、あるいはネット上の資料もたくさん出ている。ここでは京都市による駒札と神社発行のパンフレットによる文章を載せておく。ごく簡単な由緒については駒札の方を読めば、とにかく古い歴史のある神社だということが分かる。
 もう少し詳しく知ろうと思えば、神社発行のパンフレットの文章を読むと良いが、何分にも何の予備知識もなく読んでみてもよく分からない。もちろん私のようなド素人で単なる趣味でやってるような者にとってもわからないことだらけだ。様々な神の名前も含めて、あるいは神社名や祭神についてもわからないことだらけ。なにせあまりにも時代が古く、京都でも最も古い部類に属する神社なんだろうと思う。

 月読神社そのものは平安時代の「延喜式神明帳」に記載されており、遅くともこの時期には確実に存在していたということになる。しかしこの神社の起こりについては、日本書紀にその記述があるとのことだ。古事記や日本書紀が日本最初の日本の歴史を編纂したものであるということはよく知られているが、同時に当時の権力者である大王が日本という国の起こりについて、権力を有することを都合よく納得してもらうために、神話の作り話を込めたものであることは通説となっている。ただしどの辺りからかは知らないが、途中からその記述は史実を反映したものに移行して、盛られた話もおそらく随分あるだろうが、一定史的事実は述べられているような部分もあるんだろう。
 その記述の中でこの神社が、古墳時代に最初の祠が建てられたと言うように受け取れる。また下の文を読んでみると「憑神が憑依して」といったような表現があり、やはり神話的な要素がああちこちに散見されて、これがどういう風な史実を反映した話になるのか、というのが謎といえば謎だ。実在人物の何らかの精神的な不安定さが、こういう形で表現されたのか、あるいは全く後世の渡来人系の秦氏との関わりから、都合のいいように創作されたものなのか。その辺りは専門家が様々な研究の末に、いろんな意見が出されていると思うが、その辺りは「諸説あるが」という形でしか現段階では受け取らざるを得ない。
 この辺りのことは朝鮮半島、あるいは中国に何らかの記録が残っているのかどうかということも含めて、興味のあるところだ。

 第一、月読神というのがどういうところから起こったものなのか、ということも謎といえば謎だし、当時の人々の知識から言えば、太陽や月というものが具体的な大きさを保って、日々天上に現れ移動するものが、何らかの大きな福や災いをもたらす原因になりうるものとして崇められていたものであるというのは、十分に納得できるものだと考えられる。
 このような事情から、月読神社の実際の創建についてはかなり古いものの、つまり古墳時代であろうと考えられるものの、詳しいことはわからないというのが実際のところだ。古文献によるそれらしきものの登場は、奈良時代直前の「大宝」時代、701年に出てくる記録が最も古いものだと考えられている。日本書紀の記録からは随分後になるが、仮に日本書紀の顕宗3年というものが神社の発端だとしても、長い間神社と言う形態をなしてはいなかったのではないかとも思われる。時の流れに従って神社として整えられて、人々の信仰を集めるようになって記録にも残るようになったんだろう。
 同時に渡来系の秦氏との関係が強いとも言われ、朝鮮半島との関わりで、往来途中の壱岐を支配していた壱岐氏の役割も大きかったと考えられている。その後、秦氏が現在の出雲地方、あるいは大和から山城地方について大きな役割を果たすことになるということはよく知られている。
 日本書紀を元に考えれば1500年も昔の話になる。このような悠久な歴史を抱えながら今に至るこの神社の存在というのは、ある意味すごいことだと思うし、そのような思いを持って境内を歩いていると、あるいは撮影していると、なかなかの重みがあるものだなと改めて思わざるを得ない 。

月読神社



 『京都市指定史跡
月神社境內

 月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。
 文献によれば、顕宗三年(四八七)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒裸田の地に社を創建したとされ、斎衡三年(八五六)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。
 境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御舟社、聖徳太子社などから構成されています。
 月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます。
 平成五年四月一日 指定  京都市』
   (駒札より

『松尾大社 摂社
月 読 神 社
(平成五年四月 京都市文化財史跡指定)
【鎮座地】 松尾大社の大鳥居前を南に約四百メートルの所(西京区松室山添町十五番地)
【祭神】 月読尊。(古代から天文・暦数・ト占・航海の神として信仰された)
【鎮座の由来】
 日本書紀の顕宗天皇三年二月(四八七)の条に、阿閉臣事代という者が勅命を奉じて任那に派遣されろことになったが、月神が或る人に憑依して「我が祖高皇産霊、天地を熔造するの功に預かる。 宜しく民地を以って奉れ。我は月神なり。若し請に依り、我に奉らば、当に福慶おらむ」との託宣 があった。事代は都に還りこのことを奏上した。朝廷では月神の請をいれて山背国葛野郡の歌荒樔田の地を奉られた。そして月神の裔と称する壱岐の押見宿祢が神社を造営し、祠官として奉仕した。
これが月読神社の創祀である。
 その後押見宿祢の子孫は世襲祠官として永く神社に仕え、本貫地の壹岐(伊岐)を氏の名とした。この伊岐氏は、後に壱岐国の県主(島造)となった名族で、押見はその祖に当たる人である。壱岐は地理的に大陸に近い関係で壱岐氏は早くから中国の亀トの術を我が国に伝え、これを中央に伝播んした氏族の一つで、神祇官にあってト占の事に関与しト部氏を名乗っていた。
 ト占という聖職に携わるこの氏族が、その本貫地で自分等の祖神と仰ぐ「月神」に、氏族の安泰と繁栄を祈念すべく奉斎したのが、そもそも当月読神社の創始ではなかったろうか。
【流櫻田について】
 当初の鎮座地歌荒樔田については、現在も月読の地名が残っている桂川左岸に在ったとも、右岸の桂上野の辺とも言われているが定かではない。
 現在地に移ったのは、文徳天皇斉衝三年(八五六)で、度重なる桂川の氾濫を避けて安全地帯の松尾山麓を選ばれたものであろう。
 以後この地も、祠官の家名も松室と呼ばせるようになったと言われる。
【皇室のご崇敬】
 当社は鎮座以来皇室の崇敬篤く、貞観元年(八五九)に神階正二位を授けられ、次いで延喜六年 (九〇六)には正一位勲一等の極位に叙せられている。また延喜式の制では神名帳に「葛野坐月読、名神大、月次、新嘗」とあって、山城国の大社五十三社の中に列せられ、毎年神祇官から月次、新嘗の大祭に幣帛が奉られたのである。このように当社は、京都では最も古い歴史と高い格式をもっ た神社であった。
【秦氏との関係】
 葛野郡一帯は早くから、帰化族の秦氏の勢力圏であったから、当然当神社も松室氏も秦氏の厚い庇護を受け親密な関係にあった。このことは、当社の世襲祠官であった松室氏が、秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕していたことでも明らかである。
【信仰の変化】
 信仰も元来の天文・暦数・ト占・航海の神から転じて、疱瘡の神として崇められることもあり、近世以降はむしろ農耕の神として地元農民の崇敬を受けて今日に及んでいる。』
  (パンフレットより)
       


西光寺



 平安時代末期に創建された最福寺(谷ヶ堂)は、何度も兵火に遭い廃絶するが所蔵されていた観音像などが、この西光寺に移っている。境内にはかなり新しい横になって寝転んでいる釈迦涅槃像がある。
   


玄忠院



 本尊は阿弥陀如来立像。
   
コメント
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