切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《切れ爺いさんの食道癌闘病記》 No.45 ・・・最終検査の結果   2024.5.31

2024-05-31 22:52:20 | 闘病記


 2週間前に日赤で胃カメラを飲み、その際検体検査のために癌患部の一部を取って詳しく分析してもらった結果が、今日伝えられる。朝一番ということで起きた時間が少し遅く、車では間に合わないので、 JR で行くことにした。通勤通学時間帯に電車に乗るのはずいぶん 久しぶりだ。中は女子高生で満員。どうやら女性専用車両に乗ったみたいだ。でも男性も結構たくさん乗っている。皆さん誰しもがスマホを取り出していろんなものを見ている。

 わずか14分で東福寺駅に到着。歩いて5分。日赤に到着。今日は採血もなく診察のみということになる。やはり拠点病院であるだけに朝一番からかなり大勢の人が各待合室に待機している。そのうちあちこちの診察室から患者の呼び出しが始まった。私の診察室からも名前が呼ばれたが、一番は隣に座っていた人だった。まだだいぶ若い。しばらくして出てきた後 2番目に名前が呼ばれた。

 いつものようにノックして診察室に入る。主治医の先生は明るい表情で、早速説明を始めた。検体検査の結果は極めて良好。何も問題なし。改めて手術部位の写真、胃の内部の写真などを見て非常に綺麗な状態ということで、今回を持って完全に食道癌は卒業、ということになった。同じ場所に再発するという可能性はほとんどゼロに近いということで、何ら心配することはないとも伝えられた。さすがにほっとした。入院手術からちょうど6年半。それこそあっという間の年月だった。我ながら運が良かったのかどうか、あるいはちょうど腹腔鏡手術のプロフェッショナルの先生に手術してもらえたのが良かったのか。どれもこれもがいい形で終えることができて一安心というところだった。

 ただし、去年発症した胃潰瘍については、胃の内部は綺麗になっているものの今後しばらくは診察・処方薬を続行するのがいいということだった。無論、日赤は拠点病院なので今お世話になっている自宅近くのクリニックで続行するということになる。また判断はそちらの方のクリニックで行うという形になる。このクリニックの先生は、日赤で手術を受けた先生のいわば指導医となる方で、お互いによく知り合う間柄だという。そういった意味ではこれも運が良かったのかどうか。やはりともにいい先生に巡り合ったものだと言える。

 なお 一般的には癌が寛解した人も、以降1年または2年おきに患部を調べるために胃カメラ検査を行うというのが通例のようだ。自宅近くのクリニックで胃カメラを行っているのかどうかわからないので、とりあえず1年後の5月に日赤にて胃カメラの予約を入れた。もし近くのクリニックで胃カメラ検査可能であれば、日赤の方を解約してこちらの方で検査を行ってもらうことになる。食道癌が 寛解したとは言っても、そのすぐ近くの胃の方はどうなるのかわからない。現時点で綺麗な状態であってもやはり癌細胞は体を巡っている。そういった点で癌の経験者は油断してはならないということになるわけだ。以前にもブログで書いたことがあるが、現役時代、同僚の癌になる可能性のある先生が毎年検査を受けていたのだが、あまりもの忙しさにある年、検査を飛ばしてしまった。翌年検査を受けた結果、なんとすでに手遅れの状態になっていたということがあった。余命宣告を受け、その先生は若くして亡くなってしまった。

 そういったことから決して気を緩めることはできないわけだ。私もそこそこの年齢であり 同世代の人にも亡くなっていく人が増えてきている。なったらなったで仕方がないと諦めもつくかもしれないが、できればまだやり遂げたいことがいくつかあるので、何とかあと10年くらいは生きていきたいものだと思う。



 そしてもう一つの課題が迫りつつある。「前立腺癌」の可能性が限りなく高まってきていることだ。この癌による死亡率は比較的低い方で、早い処置によって助かるケースも非常に高いが、実際この癌で亡くなる人は間違いなくいる。確か歌手の西城秀樹氏がそうだった。 私よりも若い。こちらの方は自宅近くの中核病院で泌尿器科にかかっている。癌の指標を表す数値が標準を大きく突破していて、癌になる可能性は高まる一方だ。一応しばらく様子を見るということになっているが、これが正常値に戻るという可能性はおそらくないだろうと思う。いずれ手術ということになる可能性がかなり高いと自分では思っている。この癌は手術において「ダ・ヴィンチ」というロボット手術が今主流になりつつあるようで、このロボットを実際に使っている病院もかなり増えてきている。もしその時がやってきたらやってきたで、自分なりに一種の諦観を持ちつつ臨もうかと思っているところだ。


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福田寺・・・西九条の方     京都市南区     2024.5.10 訪問

2024-05-30 22:40:15 | 撮影
  

 福田寺は東寺の東側にある。浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来となる。東寺があまりにも目立つために、また観光客もそちらの方へ流れるためにこの福田寺はほとんど知られていないと言ってもいいようだ。

 このお寺の情報を求めて、手持ちの京都案内本や様々な資料、そしてインターネットでも調べてみたが、確かに南区の福田寺は数多く紹介されている。ところがそのほとんどすべてと言っていいほど「久世」にある福田寺だ。そちらの方は鎌倉時代の創建で、龍神など様々な文化財を有しており、歴史とともにかなり名のある寺で場所がら、大勢の観光客が簡単に訪れることができないような場所にあるものの、その重要性から多くのことが紹介されている。

  

  同じ京都市南区にありながら、こうも違うのかと思うほかなかった。やはり一般的な浄土宗のお寺というのは、法然による浄土宗の創設以来、誰もが親しみやすい南無阿弥陀仏の唱和により念仏できると言う、その手軽さが全国的に広まり、あちこちに地域のお寺として数多くが 創建されている。おそらくその多くは安土桃山時代あたりに、あるいは江戸時代初期に創建されたものが多いと思われる。

 門前に到着すると、閉門という状態で境内に入れないのかと思ったところ、横の車用門が開いており、そちらからお邪魔する。境内は思いのほか 広く、また本堂の建物もかなり 堂々たるものでそれ相応の由緒も あるような感じがした。

  

 本堂の扉は完全に閉められていたが、柱の上部には見事な彫刻があり、結構手が込んでいる。また鐘楼があって中に吊るされた梵鐘は、彫物が比較的はっきり見えてさほど時は経っていないように思えた。そういった点から全体を見ると、石造物なども風化具合からやはり、比較的新しいんだろうと思える。おそらく江戸時代初期くらいの創建ではないかと思われた。

    

 門前に「安産地蔵尊」と彫られた石柱があり、境内にはその地蔵堂の中に地蔵尊が立っていた。このように細部を見ているとそこそこ見どころもあり、単なる浄土宗の地域に根ざしたお寺だけで片付けることはできないと思える。境内も整理がよく行き届いていた。

 
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無量院・・・地域の寺     京都市西京区   2024.5.5 訪問

2024-05-29 22:31:50 | 撮影
  

『向陽山無量院

享和三年、華頂の宮十七回忌のおり、御尊牌安置に依り、十六弁裏菊花紋章付の提灯を許可される。薬医門を新築、ここに紋章があり、御紋付きの提灯が門にかかげてあった時は、大名が駕籠より降りて頭を下げ て通られ、高緑の大名は駕籠の中で頭を下げ 通られたと言うことです。参勤交代の大名行列でお共が大勢の時は当寺院が脇本陣をつとめたことは有名です。立派な薬医門をくぐると、瓦製の西行法師立像があります。 これは当寺院の檀信徒の瓦師が心を込めて焼き寄進したという逸話が残っています。』
  (駒札より)

  

 無量院は亀岡へ抜ける国道9号線樫原盆山交差点から東南に数百mのところにあるが、付近の道はかなり複雑でなかなか見つけるのは難しい。近くまで来ると周囲は田畑になっており、お寺特有の建物が目立つようになりその時点ですぐに見つけられた。

 外側から見てもかなり立派な本堂が目立つお寺であり、周りを漆喰塀で囲まれている。門前には 駒札が立っており少しだが由緒がわかる。それによると1803年の創建というからもう幕末に近い頃だ。 比較的新しいお寺となる。

  

 浄土宗西山派のお寺。 境内が非常に立派で大きな木が多数 あり、なかなか見応えがある。そのうちの1本は「区民誇りの木」として指定されている。また境内の一角にはかなり古そうな石造物があり、きちんと並べられていた。山門はいわゆる「薬医門」と言って、 鎌倉時代から作られ始めた建築様式の名前だ。 時代の古いものはその都道府県の指定文化財になっているケースもある。

 
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西王寺・・・御土居     京都市中京区      2024.5.3 訪問

2024-05-28 22:41:06 | 撮影


 JR 円町駅の北方、数100m のところにある。臨済宗永源寺派のお寺であり、創建等の由緒についてはよくわかっていない。臨済宗ということでかなり長い歴史を持つものと考えられる。
 お寺に着くと山門は柵がしまっていたものの、横の通用口が開いていて境内に入る。思った以上に広い境内で全体的にスッキリしている。非常に綺麗に整備されており緑も多すぎず 少なすぎ、ちょうどいい具合だ。石地像が立っていた。

 

 このお寺には幕府の命により、「御土居」の垣結を命じられていた。御土居そのものは、 安土桃山時代に豊臣秀吉が戦乱で荒れ果てた京都を改造する際、中心地を守るために造らせた防御用の盛土で造成された、一種の壁みたいなものだ。西王寺はその御土居の西の端に当たる現在の天神川近くに御土居が設けられ、その整備や維持管理をになっていた。

  

 無論、外敵を防ぐための目的の他に不法侵入者が勝手に入り込んだりしないような目的もあった。朝廷を中心に周囲約22km にわたって造成され、その内側を「洛中」 外側を「 洛外」と呼んだ。そして 7カ所の正式な出入り口を設けて、それが今現在も地名として一部残されている。「烏丸口」「鞍馬口」「丹波口」などというのがその例であり、 今も ごく普通に使われている。京都市民でもよほど興味のある人以外に、この地名の由来を知っている人はほとんどいないだろうと思われる。

 江戸時代に入り天下泰平の世の中になると、御土居の役割は半ば 不要となり、一部の川沿いの御土居が堤防の役割を果たしている場所以外は、ほとんど取り壊されることになった。今現在ではかつて御土居のあった場所に、部分的にその名残があって「史跡」に指定されている。

    
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正一位武氏稲荷大明神・・・地域の稲荷信仰     京都市下京区    2024.5.2 訪問

2024-05-26 21:27:23 | 撮影


 「正一位武氏稲荷大明神」は五条大宮の西南に位置する。周囲には寺院が非常に密集しており、この神社もそうした中の一つに紛れ込んだ感じになっている。名前はかなり壮大なものだが実際に現場についてみると、家屋が密集した中の一角に小さな土地が用意され、そこに赤い小さめの鳥居が 1基立っていて、奥に小さな祠がある。そういう意味では神社そのものがかなり小ぶりのものだが、内部はしっかりと整理されており、よく手入れもされていて大事に扱われているのがよくわかる。

 名前に「正一位」とあるが、神社の階級においてはもちろん最上位のものとなる。このような地域の小さな神社に正一位とはいくらなんでもと思うかもしれない。この神社は稲荷大明神というがごとく、祭神は「稲荷大明神」となる。そしてその総本社は伏見稲荷大社である。つまり伏見稲荷大社の祭神を勧請してあちこちに創建された小さな神社にも、総本社の伏見稲荷大社の階級を名乗っても良いということになって、正一位を名乗っている。元々 律令制時代のもとではこういうことはなかったのだが、神社というのは年数が経てば経つほど、神社の価値が上がると考えられ階級も最終的には正一位になるとの考えがあり、特に鎌倉時代初期、後鳥羽天皇が伏見稲荷大社を訪れた際、ここから勧請された各地の稲荷社には 正一位を名乗っても良いという命を下したという。そういったところからここの神社も堂々と正一位という神社としての格が最上級であることを名乗っているわけだ。

 

 このように考えると各地にある稲荷社は、伏見稲荷大社から祭神を勧請することによって自動的に、正一位の神社となることになった。今や全国において稲荷大明神や稲荷社は約 3万から4万社あると言われている。中には敢えて正一位を名乗っていないところも数多いが、少なくとも正一位武氏稲荷大明神は神社の周りに掲げられているのぼり旗にも正一位が織り込まれている。

 元々の稲荷信仰というのは「狐」像に関わるイメージが強いが、これは平安の昔から人々が懸命に育て収穫した作物を食べるネズミを駆除してくれる存在として、キツネが信仰の対象という風になったと考えられている。諸説あるので必ずしもこれが正しいかは分からない。「稲荷」という最初の記録は、「山城国風土記」の逸文に、「伊奈利」という神が渡来人の秦氏により祀られていたと記されており、日本においてはこれが農業の米作りなどを重視する風潮から、「稲荷」となったのではないかと考えられる。平安時代以降は秦氏の勢力が強まり、同時に稲荷信仰も広まっていくことになる。

 

  戦乱の後の平和な江戸時代になると、各地に人口の多い都市が出現し、多くの人々が密集して家を建て住むようになると、やはり地域の守護神が必要だという思いから、ご利益の多い稲荷社を建てようという話になる。こうして今で言う町内会ごとに小さな祠と鳥居が建てられ、稲荷大明神を勧請し稲荷社が数多く建てられたということになる。それは同時に人々の信仰の対象であるだけでなく、庶民の思いが神社に対する志ということで何か贈り物をという思いが募り、裕福な者は鳥居を寄進する風習が明治になってから強まったらしい。これがいわゆる千本鳥居の由来となったものだ。今ではかつての五穀豊穣の内容に限らず、 家内安全や祈願成就、そして商売繁盛などにもご利益が広がり、新たな土地開発で多くの人が住む地域ができると稲荷社が建てられるという具合になった。そういった意味では総本社の 伏見稲荷大社だけではなく、全国から大変な信仰を集める一大信仰の代表的な神社ということになる。

 

 「武氏」の名についてはよくわからないが、この地域に該当する名前の人たちが神社創建 に当たっての功績をなしたということではないかと考えられる。


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